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保守主義の哲学シリーズⅢ-2‐‐‐「保守主義の父」エドマンド・バーク(その2:第1章)


(バーク保守主義:その2)

第1章 “自由”と“道徳”と“武士道”の関係

 

 序章で、私はバーク/ハミルトン保守主義においては、真の“自由”とは、“道徳を伴う自由”“自由と道徳は1枚のコインの裏表で切り離せないもの”説明した。

 これについて、バーク保守主義の本論に入る前に少し論及したいことがある。

 今では遠い昔のように思えるが、藤原正彦 お茶の水大学理学部教授の『国家の品格』(新潮新書、2005年)がベストセラーになった。

 例えば、その著書の第二章で、彼は次のように述べている。

 藤原正彦 教授は言う、

『人を殺してはいけないのは、「駄目だから駄目」ということに尽きます。このように、もっとも明らかのように見えることですら、論理的には説明できないのです。会津藩の教え江戸時代、会津藩に日新館という藩校がありました。白虎隊も教えを受けていた藩校なのですが、ここに入る前の子弟に対して「什の掟(什は、会津藩における藩士の子弟を教育する組織のこと)」というものがありました。そこにはこう書いてあります。

 一つ、年長者の言うことに背いてはなりませぬ

 二つ、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ

 三つ、虚言を言うことはなりませぬ

 四つ、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ

 五つ、弱いものをいじめてはなりませぬ

 六つ、戸外で物を食べてはなりませぬ

 七つ、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

 武士道精神に深く帰依している私には非常に納得できるものです。七つ目を除いて。

 そして、これら七カ条の後は、こんな文句で結ばれています。

 ならぬことはならぬものです

 要するにこれは「問答無用」「いけないことはいけない」と言っている。これが最も重要です。

 すべてを論理で説明しようとすることは出来ない。だからこそ、「ならぬことはならぬものです」と価値観を押し付けたのです。

 重要なことは押しつけよ本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押し付けないといけません。・・・初めに何かの基準を与えないと、子供としては動きがとれないのです。』(『国家の品格』p47~p49)

 私は、以上の藤原正彦教授の意見に概ね賛同する。

 ただ、一言だけ付け加えさせてもらえば、第二章に限っての彼の論理では、親や先生が子供に押し付ける「ならぬこと」や「本当に重要なこと」とは、いったい「何なのか」が、漠然としていて親にも先生にも解らない

 しかし彼は、論理で説明できないから「問答無用」で押しつけよと言っている。後の第四章、五章でそれが、情緒武士道精神である、と展開されていくのだが、もしそうであったとしてもなぜ、それらが「問答無用で押し付ける重要なこと」と断定できるのかがやはり解らない

 押し付けられる子供は、自身の行為を「自己決定する知識も能力も未熟であるから、それを身につけるまでは「親や先生に教育される(押し付けられる義務しかない」が、教育する側の親や先生が子供に「押し付けるべきならぬこと本当に重要なこととは、何なのか、」が解らないとか「情緒武士道精神問答無用で押し付けるべき、重要なことだとは思えない」ようでは、話にならないのは自明であろう。

 であるから、私はこの部分をバーク保守主義の“法=コモン・ローの支配”と“世襲(相続)の原理”をもって、少し長くなるが、明確に補完したいと思う。

 まず、日本国の“法=コモン・ロー”は、これまで何度も述べてきたように、英国エドワード・コーク卿の定義を援用すれば、次のように定義できる。

 「聖徳太子の『十七条憲法』にまで古く遡る、『大宝律令/養老律令』・『御成敗式目(貞永式目)』・『公事方御定書』・『武家諸法度』・『禁中並公家諸法度』・『五箇条の御誓文』・『大日本帝国憲法(明治憲法)』・『教育ニ関スル勅語(教育勅語)』等諸制定法

 古事記』・『日本書紀』・『五箇条の御誓文』などの古代からの勅命公文書

 古代からの神道儀式(=天皇祭祀)・孔子の『論語』などの四書五経(=儒教聖賢の経書)・最澄と空海に始まり鎌倉仏教にて開花する古代からの広範で深淵な『仏教典群(=仏教聖賢の経文)などの宗教的経書

 万葉集』・『古今和歌集』/『新古今和歌集』などの勅撰和歌集紫式部源氏物語』・清少納言枕草子』・吉田兼好徒然草』・鴨長明方丈記』などの文学作品より培われてきた情緒(=男性的な「ますらをぶり」・女性的な「たをやめぶり」・心情的な「もののあはれ」・知性的な「をかし」・乱世の「無常観/末法思想」)

 江戸時代の私塾/藩校での儒学・朱子学(佐藤一斎の『言志四録』等)・国学などの学問教書(=立志開運忠誠奉公の思想)は、日本国コモン・ローの壮大な本体である

 日本国には、二千年の歴史を通して、この壮大なコモン・ロー本体の中を脈々と流れる、国家の統治手段として自然的に成長・発展した神仏儒習合の思想(精神)があり、そこから、理性的傾向の道徳観が形成された。

 そして同時に、この神仏儒習合の思想(精神)日本古来の自然との共生思想(精神)が合流して、「もののあはれ」・「をかし」・「無常観」など、ある種の感情(心情)理性混合的な道徳観自然的に成長・発展した

 つまり、日本国(日本文明)とは、理性と感情の二つの混合道徳観基盤として、武家・公家の混合統治制度混合文化自然的に成長・発展してきた独特の趣向がある国家(文明)なのである。

 そして、このような理性と感情の混合的道徳観の中から、男性的なますらをぶり」の和歌文学情緒武士道精神が発展し、女性的なたをやめぶり」の和歌文学情緒清楚で美しい大和撫子の感性が発展したのである(※1、※2)

 さらに、コークを援用すれば、以下のような原理が“正統な保守主義”の基本原理となる。

日本国のコモン・ローこそが日本国民の世襲(相続)の権利である。それは世襲の権利であるから、日本国民にとって最善の生得権である。なぜなら、それによって、国民の財産、土地、妻、子供、身体、生命、名誉及び評判が、危害と悪から保護されるからである。

日本国のコモン・ローは、日本国民が求めることのできる最も確かな安全域であり、また最も弱き国民を保護する最強の要塞である

日本国の慣習はもう一つの日本国の“法”である

合理的な(=私有財産・生命/安全・自由/道徳を擁護する)慣習は、日本国の“法”と同様、遵守されねばならない

いかなるものも、日本国の“法”の適正な手続きによらずしては、・・・・その自由保有土地、生計、自由、自由な慣習、すなわち、自由に生まれたことによる生得の権利によってそのものに属する特権と自由と自由な慣習は、奪われたり処分されたりしない

日本国民の持っている、最高の相続財産は日本国の“法”である

ゆえに、二千年の歴史を誇る光輝な日本国の祖先が絶やすことなく護り、連綿と子孫に世襲(相続)してきた万世一系の天皇及び皇室の身体と地位は、日本国の時効の国体(最高の相続財産=宝物)であり、日本国の“法の中の法=最高の法”である。それ故に、どの時代の日本国民であれ祖先が護ってきた天皇及び皇室の存在を子孫へ世襲(相続)することは、祖先及び子孫に対する義務である。

日本国古代からの、すばらしき日本国の“法”は、日本国民が持つ生得権で、最も古くからある最高の財産である

そして、重要なことは、コモン・ローとは過去に踏み留まることだけを意味しない。これらのコモン・ローの中から慎重に注意深く“発見された”、上記の定義を逸脱しない範囲での“新しい法”もまた、“コモン・ローの一部”となって加わって、時代とともに漸進できるのである

 要約すれば、日本国の“法”とは、

「日本国の過去二千年間のすべての祖先たちが、叡智を積み重ね、子孫へ世襲(相続)してきた、諸制定法・勅命公文書・宗教的経書・文学作品・学問教育などにより、培われた理性と感情の混合道徳観及び日本国の慣習のうち、日本国民の私有財産・生命/安全・自由/道徳(=正義・名誉)を擁護するものとして、各時代を通して取捨選択されながら現在まで世襲(相続)されてきたもの(=つまり、封建遺制的なもの)の神聖な総体」とでも言うべきものである。

 ゆえに、この日本国の“法”自体が『国家の品格』の第二章で藤原正彦教授が言うところの、子供に問答無用で押し付けるべきならぬこと」や「本当に重要なこと」なのである。

 そして、なぜ押し付けるべきか」といえば、日本国の“法”とは祖先が護り、子孫に連綿と世襲(相続)してきた最高の相続財産だからである。逆に、この日本国の最高の相続財産を破壊するような、外国産の浅薄で、重厚な歴史にも依存せず、祖先に崇敬の念も抱かないような、謬説や妄論(社会主義思想や共産主義思想)は子供には決して押し付けてはならないのである。

 私が、『国家の品格』第二章を支持するのは、子供に「押し付けるもの」として第四章・第五章で藤原正彦教授が日本国の“法”である「情緒」や「武士道」としているからである。

 これで、少しは納得していただけただろうか。

 しかし、この『国家の品格』の最大の欠陥は、第三章である。

 この章はバーク保守主義から言えば、全体としてすべて謬論・妄説の章であり、小学生レベルの思考である

 第一に

 藤原正彦 教授は言う

『・・・これ(=論理だけでは人間社会の問題の解決は図れないこと)は欧米人にはなかなか理解できないようです。産業革命以降の文明の発展はめざましく、その根底にはすべて論理や合理への信頼がありましたから。私に言わせれば、・・・欧米人は論理とか近代的合理精神を過信してしまったのです。本来、科学技術の領域のみで有効な論理や合理精神を、広く人間社会に適用してしまったのです。』(『国家の品格』p65

 ここは、注意深く熟読しないならば、一見、その通りだと思ってしまう。

 しかし、論理合理について語る場合に、日本(広く言えばアジア)と対置して欧米一括りにまとめてしまうのは、日本人の為す、大きな誤謬の対置観である。

 欧米には、思想上、二つの大きな流れがある

 第一は、欧州大陸のフランスの合理論・啓蒙哲学・社会主義(デカルト/ルソー/バブーフ等)とその系譜上にあるドイツのドイツ観念論(ヘーゲル)・唯物論(フォイエルバッハ)・観念論と唯物論を統合して創造された共産主義(マルクス/エンゲルス)の思想流である

 第二は、イギリス経験論の系譜上にあるエドワード・コーク/ブラック・ストーンのコモン・ロー哲学やバーク保守哲学やヒュームの人間哲学、そこからアメリカ大陸へ移植され、準コモン・ローとしての米国憲法として大成されたハミルトンを代表とする米国保守哲学の思想流である

 そして前者は、自然的に成長し発展した文明社会を一旦破壊し、再度、人間理性(合理)で造り直そうとした。フランス革命やロシア革命やナチ・ドイツがその代表例である

 逆に後者は、自然的に成長し発展した文明社会には祖先の深淵な叡智が集積されており、これらの過去の遺産を極力壊さないように子孫に世襲(相続)しようとした。

 英国の立憲君主制や貴族制が現在でも存在し、米国憲法も幾度か修正条項が加えられてはいるが、制定当初の憲法思想の骨格は微塵も揺らぐことなく、今日まで世襲(相続)されているのはこのためである

 この二大思想流の対立こそが、近代・現代の世界の混乱や戦争の大きな原因の一つであるから、西洋を「欧米」と一括りにして、日本と対置させるのは歴史や哲学を全く理解していない暴論である

 この欧米の二つの思想系統、欧州大陸の仏独系英米系の思想/哲学の相違は極めて重要なので、読者の皆さんもよく覚えておいてほしい。

 第二に、この無知による暴論の極みは、藤原正彦教授の「自由」と「道徳に関する思考に端的に表現される。

 藤原正彦 教授は言う、

『この「自由」という名の化け物のおかげで、日本古来の道徳や、・・・伝統的な形というものが、傷つけられてしまいました

 人間にはそもそも自由がありません。それは当たり前のことです。生まれ落ちた瞬間から人間に自由はない

 あんなに厚い六法全書があり、法律が網の目のように・・・道徳とか倫理とかいうものまであります。・・・我々の行動や言論は全面的に規制されているのです。

 欧米が創り上げた「フィクション」(としての「自由」)

 どうしても必要な自由は、権力を批判する自由だけです。それ以外の自由は、この言葉もろとも廃棄してよい、廃棄した方が人類の幸福にとってよい、とさえ私には思えます。・・・ジョン・ロックの・・・考えよりはホッブスの方が本質を衝いている。』(『国家の品格』p66~p68)。

 冒頭でも述べたが、バーク保守主義では真の“自由”とは“法の下の自由”であり“法に擁護された自由”であるから“法を遵守する義務=道徳・正義・名誉を伴った自由”である。

 つまり、“道徳と1枚のコインの裏表となった自由”、“道徳を伴う自由”のことであり、“自由と道徳は切り離せない一体のもの”である。

 だから、バーク保守主義の目指す自由主義国家(社会)においては真の自由”が“道徳を傷つけることなどしない

 そのようなことをすれば、真の自由”はJ・S・ミルの“道徳を伴わない偽りの自由」へ転落するか真の自由”を自滅させるからである。

 だから、「自由が道徳を傷つけた」というのは藤原教授が真の“自由”の何たるかを全く理解していない証左である。

 実態は、自由主義社会であるが故に「自由に社会に入り込んで来る平等」、「平等主義」が“道徳”を傷つけ、破壊するのである。

 「平等主義」特に「共産主義」、「マルクス・レーニン主義」の本質とは、「無神論」「唯物論」「無道徳」「歴史(過去)の棄却」「階級闘争論」等の非人間的な凶悪なドグマ(教義)であるが、そのドグマを「平等」「平等主義」「貧者の富者に対する階級闘争」という甘味な呪文でオブラートしているので、一度吸引すると、決してそこから抜け出せない覚せい剤のような宗教性を持つ。

 そして、これらが自由主義社会に入り込むとそのドグマどおりにその社会の“道徳”・“倫理”・“宗教”を傷つけ破壊していくのである。

 その結果、真の“自由”=“道徳を伴う自由”は、まずJ・S・ミルの「偽りの自由」となり、遂には消滅する。

 このJ・S・ミルの「偽りの自由」が跋扈する社会状況をみると、「自由」が“道徳”を傷つけているように見えるのである。

 この「偽りの自由」が跋扈する社会が現代の日本社会の本質である

 戦後、「人権教育」ばかりして「道徳教育」をおざなりにしてきた当然の帰結である。

 この状況が、今後、進行してさらに悪化すれば、「偽りの自由」さえ消滅して、「平等」、「平等主義」だけが残る「共産主義社会」が誕生するのである。

 また、「法律や道徳や倫理で規制されているから、そもそも人間には自由などない」と言うのは、暴論中の暴論である。

 “自由”は“法”によって擁護されて棲息できるのであるから、逆に“自由”が“法”を遵守する義務があるのは当たり前のことである

 この“法”の一部である法律等があるからといって「日本国民に自由がない」などとどうして結論出来るのか。

 現に藤原正彦という人間は法律や道徳や倫理で規制されているこの日本国で“自由”に『国家の品格』という著書を出版し、“自由”に持論(=暴論)を展開し、“自由”に金儲けしているではないか

 私に言わせれば、“自由”に限って言えば、こんな馬鹿げた暴論こそ「不道徳」の極みであり、正しい“自由”の損傷幇助である

「平等」もフィクション

 ・・・私は平等というのは、欧米のひねりだした耳当たりの良い美辞にすぎないと思っております。

 近代的な平等の概念は、恐らく王や貴族など支配者に対抗するための概念としてでっち上げられたのではないかと考えます。

 だからこそ、平等を真っ先に謳ったアメリカ独立宣言では正当化のために神が必要だったのです。

 ・・・もちろん差別ほど醜悪で恥ずべきものはありません。この差別に対して「平等」という対立軸を立て、力でねじ伏せようというのが、闘争好きな欧米人の流儀なのです。

 ・・・「平等」の旗手アメリカこそは、企業経営者の平均年収が約十三億円で一般労働者のそれが、約三百万円(2004年)の国なのです。・・・自由と平等はその存在すらフィクションである、ということです。』(『国家の品格』p88~p92

 これらの言説については、第一に平等」が「耳当たりの良い美辞にすぎない」のはそのとおりであるが、その背後に潜む「共産主義」、「マルクス・レーニン主義」、「ルソーの啓蒙哲学」の本質的な悪魔性を知って言っているのだろうか。

 私にはそうは思えない。なぜなら、その後の「差別に対して平等という対立軸を立てて」などの言説は小学校低学年レベルの思考だからである。

「差別」と「不平等」の違いも判断できない人間が自由や平等について語るのは止めておくべきである。

 そして「平等を真っ先に謳ったアメリカ独立宣言」も何も知らない誤謬

 1776年のアメリカ独立宣言の

We hold these Truths to be self-evident, that all Men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty, and the pursuit of Happiness(我々は自明の真理として、すべての人は平等につくられ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命自由および幸福の追求が含まれることを信ずる)』

 であるが、ここでの「すべての人は平等につくられ」は当時、独立戦争中のアメリカ植民地の英国民英国本土の英国民との間の「権利の平等」を正当化するレトリックにすぎない

 フランス人権宣言が立脚する、自然法論に厳格に従う全人類の人間としての平等を意味していない。

 平等(equalに与えられる天賦の権利とは、「生命、自由、および幸福追求」の三つのみであって「平等(equality」は含まれていない。

 現に1788年の米国憲法には「平等」という二文字は全く無い

 米国憲法に「平等」の二文字が入ったのは、「法の下の平等」を意味する「法律の平等なる保護」という語句のある修正第十四条(1868年)

 しかも「法の下の平等」は、“自由の擁護”のためのものであって、1789年フランス革命から生まれた「人間の平等」と米国憲法の「法の下の平等」は異質で対極的な思想である。

 全人類の人間としての「平等を最初に謳ったのは米国ではなく1789年の「フランス人権宣言」である。

 以上、藤原正彦 お茶の水大学理学部教授の『国家の品格』(新潮新書、2005年)の第三章について辛辣な批判をしたが、これは、“自由と道徳の関係”について誤謬を正したのであり、「武士道」を批判しているわけではない

 「武士道」精神は上述の通り、主として儒学を基礎とした武士の道徳精神として優れたものであり、日本国の“法”の一部であるのは間違いないしかしそれは、バーク保守主義では、“自由”と1枚のコインの裏表である“道徳”の側を“美徳”へと昇華させるためのものであり、それによって“道徳ある自由”が“美徳ある自由”に高められるのである。

 つまり、“自由”と“道徳”と“武士道(美徳)”はバーク保守主義の論理において、充分すぎるほど、共存できるのであり、決して背反するものではない。

(※1)

 少し余談になるが、上記のように、少なくとも日本国では、男性的なもの女性的なもの区別は、制度面においても文化面においても、日本独特の理性と感情の混合的道徳観の中から自然的に成長し・発展したものであって、現代のフェミニストが唱えるように強制的に制度によって男性が女性を差別してきたというのは、あまりにも日本国の文明について無知であり虚妄であり貧しい知性による謬論である。

 もし、過去に日本の統治者が強制的に男性・女性の差別的制度をつくった例があったとしても、それは両性の本質的な不平等(理性道徳と感情道徳の多寡)に従って制度化したものであり、男性が女性を強制的に屈服させるためにつくったものではない

 男性が女性を制度によって差別してきたなどという謬論を“主義”にしているからフェミニストらは、短絡的に、古い制度や文化などの伝統を破壊すれば、男性・女性が平等になるなどという転倒的な妄説に陥るのである。

 しかし、上述したように現実は全く逆さまで男性・女性が生物学的に不平等なのは言うまでもなく、男性・女性は、理性と感情の混合道徳において、本質的に不平等に出来ている(相対的に理性と感情の感性的な強弱がある)から、その感性の不平等に沿う形で男性的文化・制度や女性的文化・制度が派生的に分岐して自然成長し発展してきたのである

 であるから、このように自然成長し、発展してきた制度を安易に破壊することは、「両性を本質的に平等にするのではなく、「両性の本質を平等に破壊する」ことになるのである。男性が男性らしく、女性が女性らしく、“法の下の平等”に基づいて生きる社会は活力的である

 が、男性が女性らしく、女性が男性らしく「平等」に生きる社会、つまり両性の本質を破壊された中性的人間だけの社会が活力的でありえようか

 そのような社会に読者の皆さんは住んでみたいですか

 やはり、男性が男性らしくあり、女性が女性らしくあって、互いに異性のもつ魅力を意識し合い、関心を惹き合う社会に住みたいであろう

 日本国憲法第二十四条第二項「・・・個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して・・・」の「両性の本質的平等」とはこの両性の率直な感性両性の生物学的な不平等否定しているのである。出鱈目の条文である。

 ちなみに第二十四条第一項婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し・・・」とは、野生動物などの交尾は、完全に両性(雄雌)の合意のみで決定される。

 オスはメスの気を引こうと様々な求愛行動をとり、メスに選ばれた合意されたオスのみが交尾を許される

 まさしく両性の合意のみである。NHKの番組「ダーウィンが来た!」などでよく見かける光景であろう。

 しかし、人間(以下、日本国民を指す)の場合はどうか?

 極端な例。ある男性Aがある女性B8年間付き合い、口頭でいずれは結婚しようと約束していた。が、ある日突然、男性A女性C大恋愛に落ち女性Bを捨てて、女性Cと結婚してしまった

 男性A女性Cは大恋愛という「両性の合意のみに基づいて(男性Aは女性Bやその家族に対する道徳的義務を無視しているが)」女性Cと結婚したので憲法上、何ら問題はない。

 しかし、この事例をして、男性Aが人間として、道徳的に正しい結婚をした、と考える人はまずいないだろう。

 また、この男性Aは、先に述べた、J.S・ミル誤った「自由」からさえも完全に逸脱している。

 ミルの間違った「自由」でさえ、「他人に迷惑をかけない限り・・・」という条件付きだからである。

 他にも、実際に「本人同士は合意しているに、両親や兄弟などの反対で婚姻が難航するケースも多いのが現実であり、“盲目の愛による両性の合意”が親兄弟/親戚との離縁問題まで発展することもある。

 要するに人間の婚姻には、その社会的条件において、極めて様々なケースがあるのが実態であり、それを憲法で「婚姻は、両性の合意のみによって成立」などと規定すること自体が間違いであるし、第二十四条は、日本国の“法の下の自由/道徳”に基づいた正しい憲法原理ではない。

 「婚姻の在り方」などは憲法に明記すべき“憲法原理”ではないのである。また、この第二十四条を外国人が見ればどう思うだろうか。

 きっと、「日本人の社会とは、婚姻を憲法の条文で“両性の合意のみ”と規定する以前までは(憲法制定以前まで)は両性の合意による結婚でない、レイプ(略奪)婚などが横行していた社会だったのだろう。だからこんなことまで憲法で規定しないといけないのか」と誤解するだろう。

(※2)

 1905年の日露戦争以降の憲法・法律等は『日本国憲法』・『教育基本法』を含め、バーク保守主義においては“日本国固有の法”に基づく原理であるとは全く考えないが、正当な手続きを踏んだ(とされている)「成文制定法」である。

 従って現行憲法が、“日本国固有の法に基づいた憲法原理に則した憲法に一刻も早く“改正・回帰”される事を願うが、バーク保守主義が、法の支配”“立憲主義”の原理原則を支柱とする以上、その時が来るまでは、現行憲法を遵守する義務があると考える

 よって、ここでの日本国のコモン・ローには決して含まれない

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(バーク保守主義 次回その3へ続く)



 
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