保守主義の哲学---新渡戸稲造『武士道』・與謝野晶子に学ぶ--‐道徳論(9)


―――日本国民の道徳の再興へ向けて―――

 エドマンド・バーク保守主義哲学)―――真正の自由―――「道徳ある自由」・「美徳ある自由

 新渡戸稲造―――『武士道

 與謝野晶子―――「幸福になる女性の道徳」(中川八洋與謝野晶子に学ぶ 幸福になる女性とジェンダーの拒絶』)

 から学ぶ

 ―――日本国再生の手懸りとしての道徳論(9)與謝野晶子という女性(其の4)―――


 (4) 晶子の品性教育

 「晶子の思想のなかには、・・・ひとつだけあまり感心できないことがある。それは(しつけ)軽視、もしくは躾の重視の弱さという問題である。晶子は次のような主張をしている。

 『一体行儀作法と云ふものが是非高等女学校で五箇年百五十時間以上も大切な娘盛りの時間を割いて教えねばならぬ程の学課であるなら、中学生其他の男子の学生に対しても同様の教育を学校で授くべき筈である。・・・男は其方の教育を少しも受けて居ないから凡て無作法かと云ふと決して然うで無い、一人前の男は皆其れ相応に行儀作法を心得て居ます。

 ・・・之は作法などと云ふ教育をわざわざ女学校で施さなくても好い証拠である』(『定本 與謝野晶子全集』第十四巻、講談社、396397

 当時の日本は世界一の躾超大国であったから、学校の躾教育がなくても日本の水準に比肩できる国など世界に一か国としてなかった

 その特殊な余裕において晶子はこの躾問題を論じている。だが、世代が代わり学校の躾の軽視や無視は必ず家庭の躾の放任を惹起せしめそれを加速していくから二世代も経ればそんな日本もまた瞬時に野蛮国へと転落し躾不在という深刻な事態が発生する

 現に1990年代に入るや、その様相は、かつての日本を知る世界が驚くほどのレベルとなった。1980年代に入ってすぐからの、日本における学校と家庭での躾の完全放棄が、1990年代にその『成果』を全開したのである。

 子供の躾教育―――『言葉遣い』、『立居振舞い』『生活習慣』―――単に表面的なものに止まるものではないその子供の品格の形成ひいては倫理道徳性の成長とも関わってくる。晶子はその教育論で、次のように“父性を重視しておきながら“父性の重要性が、とりわけ子供の倫理規範や社会規範を体得させることにあるのを理解していなかったようである。

 『子女の養育にも教育にも父母双方が公平にその親たる愛と勤労とを尽くすのが正当です父は主として屋外に働くもので母は専ら家庭の労務に当たらねばならないと云ふことを主張する男子があるなら、・・・それは父性の退化父性の頽廃です』(『定本 與謝野晶子全集』第十七巻、講談社、473

 『母のみが愛をもつて育てると云ふ風では子供は父の人間性に触れずに仕舞ひます』(『定本 與謝野晶子全集』第十七巻、講談社、476

 この晶子の“父性の下での子供教育”については、2004年の夏、アテネ・オリンピックで銅メダルをとった女子レスリングの浜口京子選手とその父親アニマル浜口)との涙と笑いの感動を共にした父娘関係において、なんとなくであったが、再認識された。

 戦後の左翼イデオロギー隆盛のなかで、父親の教育が『家父長主義と罵られ日本が忘れていた父性教育”をこれほど鮮烈に思い出させてくれた浜口父娘は、オリンピックの銅メダル以上の、かけがえのない素晴らしいものを日本人にプレゼントしたことになる

 参考までに、米国について言えば、倫理道徳教育は、主にキリスト教会が担うが、それを父親が補完する習慣が今も根強く残っている家庭における父性による道徳教育”である。アメリカには、アニマル浜口がたくさんいると思えばよい。このため父親の子供への家庭での道徳教育用教科書米国ではよく売れる

 例えばレーガン大統領1981年~1989年)の下での初代教育長官であったW・ベネットが、引退後に編集した大著『美徳読本』は1993年に売り出され、すぐに四百万部を超えた。

 父性について先に述べたような見識を持つ晶子ではあるのに、どういうわけか、子供の立居振舞い行儀作法)と言葉遣い躾教育についてはその価値を認めようとはしない。・・・

 なお、(実はもともと晶子は躾の厳しい老舗商家のいとはん(=お嬢さん)”であったから母である晶子がごく普通に振舞うだけで子供たちはまねをするからとりたてて意識してしなくても一般家庭の平均以上にはなる。つまり、与謝野家には、晶子が持参した躾の財産があり、それによって、あえて躾に頭と時間を投入するには及ばなかったとも言いえるのである

  晶子の“品性”教育

 “品性教育”と言ってもピンとこないほど、現在の日本ではあまりにもなじみのないものになったが、品性教育といえば世界的なベスト・セラーがある。衆知のとおり、あのサミュエル・スマイルズの代表作『品性論Character』(1871年)である。

 晶子の品性教育とは、次のようなものであった。自尊心self-respect)は、“品性教育における要”の一つであり、スマイルズも重視した

 『子供たちに自尊心を養はすために〈自分は上品な立派な人間になるのだといふことを教へその上品な人間といふのは正直にものを云ふこと、・・・清潔にすること、・・・学問が良くできて世界の上の万事の筋路が明確(はっきり)と解ること、・・・と云ひ聞かせます』(『定本 與謝野晶子全集』第十四巻、講談社、131137

 ○ 晶子の“生活習慣”教育

 “生活習慣”は、米国の・・・ベンジャミン・フランクリンが最も重視し、その『自伝』は、この具体的内容をよく後世に伝えている。・・・

 晶子は、長男に施した生活習慣の躾”について、その一部であろうが、次のように書いている。

 『私の宅では、十歳になる長男の光が午前四時半から五時の間に・・・女中達や書生を起します。・・・七時には弁当を持って学校へ出て参ります』(『定本 與謝野晶子全集』第十四巻、講談社、131137

 『依頼心僥倖(ぎょうこう:幸運を待つこと)人任せにするずるい心などを起させないようにと思ひまして、・・・自分の衣服は自分で出し入れし自分の蒲団は自分で始末する、・・・自分の寝衣は自分で着替へる』(『定本 與謝野晶子全集』第十四巻、講談社、131137

 『間食をさせません。菓子とか果物とかを必ず食後に直ぐ与へます』(『定本 與謝野晶子全集』第十四巻、講談社、131137)・・・

 なお、依頼心僥倖心完全に否定する思考に育てるのは、“品性教育の一つである。とりわけ、依頼心が払拭された、self-relianceという自立の精神を、スマイルズは重視した僥倖心は、依頼心が腐敗したその派生態である。晶子が僥倖心否定に気を配ったのは親として正しいスマイルズの『品性論』から一部を抜粋しておく。

 『品性は財産である人間の所有するものの中で最も高貴である周りの人々から広く好意と尊敬を得るための不動産である

S.Smiles,CHARACTER,Harper&Brothers,P.18,P.22.

 『最高の品性は努力なくしては造られない品性を身につけたいのであれば自己を絶えず反省し絶えず自己を鍛錬し克己に努めるしかない』(同)

 また、スマイルズは『自助論』(1866年)の最終章(第十三章)でも、品性について言及している。

 『紳士とはその自尊心の故に際立った特別な人とみなされるのである。紳士自分の品性を磨くに他人の眼を意識するのではなく自ら自分をそうせしめる。・・・紳士は自分を尊敬しているが同じ原理に従って他人をも尊敬する』(S.Smiles,SELF-HELP,IEA Health and Welfare UnitP.244.

  ○ 幸田文の伝える「父性の躾」

 「女流文学者の幸田文1904年に生まれ、1990年に没したので、晶子1878年~1942年)より一世代ほど時代がわれわれのほうに近い。幸田文の父は、・・・小説家の幸田露伴1867年~1947年)である。晶子と同時代の人である。

 幸田文の作品には、父親がなすべき子供への躾がほのぼのと書かれていて、1980年代に入って突然消滅したかつて日本の文化であった躾の一端を蘇らせてくれる。・・・

 『・・・持つてきたおみやげをおばあさんの前へ正しく差しだし畳へ手をつかへうちから教わつてきた口上をしゃべる。それがむづかしい。両立(りょうだて)の挨拶といふので、挨拶のなかでも一番むづかしい部類に入るのださうである』(『幸田文全集』第二巻、岩波書店、137

 『口上』の一節であるが、当時の日本では、畳と手の関係における動作の手順の型までいかに厳しく立居振舞いの躾がなされていたのかがよくわかる。実際には畳における手の基本的動きとその順序だけでなく畳の上でしとやかで美しい膝回しができるまで何度も練習させ完全に習得させたのである。

 さらにこの文は続いて、口上のところが回想されているが、小学生低学年であれ敬語が正確に使えるように躾されていたことがわかる。しかも敬語を使用する際に相手によりその軽重の差をつけること当時の日本の子供たちはできたのである。

 『私から云ふと祖母はむろん目上であり父もまた目上であるが、父は祖母には目下であるから敬語の使用に軽重をつけなくてはならない。・・・おばあさんの前へすわつたら四苦八苦である。そのうへ小声でくしやくしゃ云ふのは厳禁であつたから、馬鹿声を出してうろ覚えの口上をめつたやたらに長々と言上する』(『幸田文全集』第二巻、岩波書店、137

 日本では、子供に口上の使いをさせることによって、十歳くらいまでに、大人と同等のレベルの言語表現の基本を身につけさせていた。それは、主に父の代理であるから父親の言葉を真似ていたし、相手は当然に大人であり、しかも口上を述べている間、この相手が威儀を正して正座して聞いていたのである。自ずと高度な言葉遣いを完全な立居振舞いとともに体得していくことになる

 イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、1585年の著『日欧文化比較』で、この世界に誇る日本の躾文化を記録している。前の引用が『立居振舞』について、後のが『口上』についてである。

 『われわれ(ヨーロッパ)の子供はその立居振舞に落ちつきがなく優雅を重んじない日本の子供はその点非常に完全で全く称讃に値する』(『大航海時代叢書』第Ⅺ巻、岩波書店、538539

 『ヨーロッパの子供は青年になってもなお使者になることはできない日本の子供は十歳でもそれを果たす判断と思慮において五十歳にもみられる』(同)

 敬語に関しては、共産主義者が戦後、『平等という狂気のイデオロギーの実践運動の一つとして、その廃止をキャンペーンしたことによって、今では日本からほとんど消えかかっている。が、敬語の機能は二つある

 第一が相手を敬うという人間尊重の心言葉の優雅さで表現する文明性である

 ・・・ 第二の敬語の働きは敬語を使う自分自身の品性を磨くもので品性・品格ある人格を形成するのに欠かせない。山田孝雄博士の『敬語の研究』によると、次のように書かれている。

 『われらの国語に存する(=我々の日本語の中に存在しており)実に吾人の国語の存する(=かつ、実際に我々が言葉を使うときに必要になる)敬語は単に他人に対して敬意をあらわすに止まらずそれと同時に自己の品格を維持するをも目的とするものなり。・・・』

 幸田露伴は、生活習慣の躾では大変に熱心な父親であった。その思い出を語る幸田文の、『こんなこと』に収録されている『あとみよそわか』などは、そのほんの一端にしかすぎないだろう。

 『掃いたり拭いたりのしかたを私は父から習った。・・・はつきりと本格的に掃除の稽古についたのは十四歳女学校一年の夏休みである。・・・〈いいかおれがやって見せるから見てゐなさい。〉(はたきの)房のさきは的確に障子の桟にふれて、軽快なリズミカルな音をたてた。・・・襖にははたきを絶対にかけるなと教へられた』(『幸田文全集』第一巻、岩波書店、112117

 『箒も自分でして見せてくれた持ちやう使いやう畳の目・縁動作の遅速息つくひまの無い細やかさであつた』(同)

 露伴や晶子が行なっていた家庭での生活習慣の躾は、かなりの部分は社会マナーとも繋がっているから、今日の日本で見られる仰天する光景―――たとえば電車の中でものを食べる化粧をする床にあぐらをかいて座り込むなど―――は、1960年代までの日本では万が一にも無かったレベルの差はあれ日本には露伴的お父さん』、『晶子的お母さんが過半を占めていたのである

 この意味で、三大躾教育―――言葉遣い立居振舞い生活習慣・生活ノウハウ―――のうち、生活習慣・生活ノウハウ教育だけでも早急に復活すれば、品位とマナーを欠如した昨今の日本の動物化した子供たち』が国中から一掃されることは間違いない。ほんの二世代前の日本はそうだったのだから

―――中川八洋與謝野晶子に学ぶ 幸福になる女性とジェンダーの拒絶』より部分引用(一部要約)、ここまで―――

―――最後にブログ作者から一言―――

 最後まで読んで頂いた、読者の皆さん、御苦労さまでした。ご感想はいかがであろうか。何か感じるもの、考えることがあっただろうか。

 冒頭で述べたとおり、私は、上記の『武士道』や「與謝野晶子の生き方」などの“道徳観”をそっくりそのまま、21世紀日本国にすっぽりと覆うように適用せよ、などということを言っているのではない。

 我々の祖先それも我々の世代から僅か二三世代前の祖先たちは上記のような道徳観を持って生きていたという確たる事実が存在することまず確認しよう、と言っているのである。

 そして、上記のような厳しい道徳規範の日本社会においてもその世代の日本国民はその道徳規範を遵守して生き抜くことができたのである

 そうであれば道徳規範がほぼ皆無の状態である現在の日本国において、第一に我々現在世代の日本国民がすべきことは過去の祖先の叡智の集積の中から、“21世紀の日本国の道徳規範を早急に再構築しその道徳規範の支配する社会国家の下で規範を遵守して生き抜くことができる、“肝の練れた日本国民を育てるために道徳教育」、「躾教育」+「公民教育を重点的に強化することではないだろうか

 読者の皆さんが、真正の日本国民であるならば、道徳規範の「緩みきった」、或は「存在しないと言っても過言ではない」、現在の日本社会(日本国)―――多くの日本国民が、道徳の意味が解らない説明できない解っても道徳の義務を果たす方法がわからない最悪の場合道徳つまり自己に義務を課すことが、面倒臭い・うざい・したくない、また、他者に対して道徳を教育しようにも道徳教育の教科書がない道徳を知らないから教育できない最悪の場合そもそも道徳など教育したくないなどという、道徳的頽廃極度進行した現在日本国―――で「人権」だの「人権擁護」だの「人権侵害」だのと「権利ばかりを高らかに主張する市民子供も含む)」が、いかに幼稚で愚かな人間であるか、が解るであろう。

 なぜなら、「権利と義務道徳が常に一対(=コインの裏表で自己完結すること」は自明の原理であるから、「道徳義務の何たるかが解らない人間に道徳義務を伴う真正の権利の何たるか」が理解できるわけがないからである。

 逆に言えば、道徳を弁えずになされる権利の主張とは、それはすでに権利の主張」ではなく、単なる個人のわがまま・自分勝手傲慢の主張」にすぎない。

 例えば、「道徳を伴わない偽りの自由の権利主張や権利行使、「道徳を伴わない自己決定権、「道徳が解らない子供の意見表明権などはすべて「似非権利」である。

 兎にも角にも、早急に日本国政府文科省が、あるいは文科省が無能でできないのであれば、代わりに真正の保守主義団体等、どこでもよいが真正の道徳教育の教科書』を1冊でも作成し日本国民の前に提示すべきである。

 そして、それと併行して、各学校各家庭においても独自に「道徳とは何か」、「躾とは何か」を学ぶ努力をして子供への「道徳教育」、「躾教育」をもっと、もっと徹底すべきである

 それが、21世紀の最初の四半世紀における日本国及び日本国民に与えられた緊急的な最重要課題の一つである


保守主義の哲学---新渡戸稲造『武士道』・與謝野晶子に学ぶ--‐道徳論 終了


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