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保守主義の哲学---「昭和の日」に考える「普天間基地移設問題」の迷走の行方

―――エドマンドバーク保守主義哲学)―――

2010年(平成22年)429日(昭和の日)

真正の日本国民米国国民に捧げる

英米との友好と同盟の絶対は、昭和天皇の遺訓である

 鳩山由紀夫政権は責任を持って普天間基地移設問題」を速やかに穏健に解決せよ

 To the President Barack Obama and citizens of the United States of America, from the Edmund -Burke Conservatives in Japan.

 Please be very, very patient of the relocation of the U.S. Marine Corps Air Station from Futenma to Nago in Okinawa prefecture.

――――――――――――――――――――――――

 読者の皆さんへ。

 2010年(平成22年)429日(昭和の日)にあたり、と言いながら、ブログアップが430日にずれ込んでしまった、申し訳ないことである。

 この理由は、私(=ブログ作成者)が、「ジェンダーとジェンダー・フリー思想」を粉砕するために、ジェンダー思想の根源にあると私が直観した、フロイトの「精神分析学」、フーコーの「ポストモダン思想」、デリダの「脱構築思想」、マルクス主義の「階級闘争(支配・被支配)→フェミニズム」、ルソーの『人間不平等起源論』の4つの思想を徹底的に解剖する作業をしているため、時間的余裕がなかったからである。

 これらの各思想の論理的誤謬・矛盾の概略は私の頭の中ですでに整理できてきたので、もう少し詳細な検討をすることで、強烈なインパクトで「ジェンダーとジェンダー・フリー」を根底から転倒させることができるのではないか、と推論している。読者の皆さんにブログ上で公開できるような理論構成には、もう少し時間を戴きたい所存である。

 さて、話を戻して、おそらく、原点の「ロードマップ合意」への帰着しか解決の糸口がもはやないであろう「普天間基地移設問題」について考えるとき、日本国民が決して忘れてはならないことがある。

 それは、「英米との友好と同盟の絶対昭和天皇遺訓である」ということである。

 地政学的な二大ハートランドであるロシア中共から日本の絶対的安全保障を確保するためには、強固な日米同盟日本国独自の防衛力のさらなる増強であり、いずれか一方でも欠けることは許されない。前者を放棄して、後者のみで(日本国が独自に核兵器を保有したと仮定しても)日本国の単独防衛が可能と考えるのは軍事的素人の見解である。それが不可能なことはマッキンダースパイクマン地政学がはるか過去に証明済みである

 今回のブログ内容は、日米の友好と同盟の発展を祈って、「昭和の日」にちなんで、数例の「昭和天皇の遺訓」と「日本国の桜花ソメイヨシノ)の米国への贈呈に対して、米国から日本国へ返礼として贈呈された花水木(ハナミズキ※1)」の写真を掲載する。

 (※1 御存知の方も多いであろうが、米国のジャーナリストで紀行作家でもあるER・シッドモアは、欧米で好まれる真っ赤なバラではなく、日本の桜花の美しさに魅了された女性である。このシッドモアの提案によって、1910〈=桜の若木2,000本→害虫が付いており、すべて焼却〉と1912〈=桜の若木3,000本〉に、日本国の当時の東京市長であった、尾崎行雄が米国へ桜花(ソメイヨシノ)を贈呈し、ワシントンD.C.を流れるポトマック河畔へ移植された返礼として、米国から日本へ送られたのが「花水木ハナミズキ)」である。つまり、桜花と花水木は日米親善・日米友好の象徴である。)

 昭和天皇の御遺訓から、日本国と英国及び米国(特に今回は米国に重点)との友好と同盟の絶対的重要性を汲み取って頂きたいし、また、美しい桜花花水木ハナミズキの写真(→写真は素人の私が撮ったものなので、美しいかどうかは、読者の皆さんの感性にお任せする・・・)を眺めて日米親善の心日米友好の心を再確認し大切に保持しようではないか、というのが今回のブログの趣旨である。

――――――――――――――――――――――――

 対英米開戦直前の動き

 ――― 大東亜戦争(対英米戦争)開戦前後19417月~12月)年表(ここから)―――

 【主たる歴史の流れ】

 1941723 日本・仏印間に南部仏印進駐細目の話合い成立

 →コミュニスト近衛文麿は、77の関東軍特種演習(関東軍が独断で対ソ戦=北進を準備、~8月)を懸念し、陸軍の南進を方向づける策略を企てる。(陸軍南進=対英米戦の決意)

 1941725 米が在米対日資産を凍結

 →米国が日本南進準備に反応。

 1941727日 蘭印が在蘭印日本資産を凍結

 →蘭領インドネシアが日本南進準備に即座に反応

 1941728 日本軍、フランス領インドシナ南部進駐南部仏印進駐)。

 1941年8月 1日 米、石油の対日輸出全面禁止を発表

 →72581頃までにおける一連の対日措置を、アメリカ (America)、英国 (Britain) 、オランダ (Dutch) と、対戦国であった中華民国 (China) の頭文字を並べABCD包囲網、ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDラインとも呼ぶのは皆さん御存知であろう。

 →日本は石油の約8アメリカから輸入していたため、このうちのアメリカの石油輸出全面禁止が深刻となり、日本国内での石油貯蓄分も平時で3年弱戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。

 1941812 大西洋憲章発表(英米)。

 1941818 豊田外相が日米首脳会談を要請。

 19419月 3 日米首脳会談の要請を米国が拒否

 19419月 6御前会議にて「帝国国策遂行要領」(対英米開戦準備)を決定。

 1941928 日本軍、西貢(サイゴン)に上陸。

 19411016 第三次近衛文麿内閣 総辞職。

 19411018 東條英機が内閣総理大臣となり、東條内閣を組閣。

 →この時、近衛東條も、時局収拾(=己らの失政の尻拭い)のためという名目で皇族内閣の成立を望み、陸軍大将の東久邇宮稔彦王を次期首相候補として挙げた。

 稔彦王は現役の軍人であり、軍部への言い訳も立つという考えもあってのことである。

 しかし、木戸幸一内大臣が「皇族の指導によって政治・軍事指導が行われたとして、万が一にも失政があった場合、国民の恨みが皇族に向くのは好ましくないとして反対したため、東條が組閣することになった。

 194111月 5 御前会議にて「帝国国策遂行要領」を変更決定(対英米戦争決定)。

 19411123 南雲機動艦隊択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)に集結

 →南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊。

 19411126 ハル国務長官日本側乙案を拒否し中国撤兵要求を提議。

 →いわゆる「ハル・ノート」、野村来栖両全権大使ワシントン時間19411126受領海軍軍令部総長 永野修身、連合艦隊司令長官 山本五十六の命令で南雲空母機動部隊は、米国務長官ハルが野村駐米大使にハル・ノートを提示する前(=ワシントン時間19411125、野村/来栖両全権大使がハル・ノートを受領する「23時間前」:ただし先頭の艦を基準にすれば「25時間前」、事故もあって七隻の巨大艦隊のしんがり艦が単冠湾を出るまでに2時間を要した)既にハワイへ向けて出港していた

 →米国のコーデル・ハル国務長官1126日「ハル・ノート」は、日本側にとって「最後通牒」と受け止めても仕方がない内容であるのは事実だが、417日に駐アメリカ大使野村吉三郎とアメリカ国務長官コーデル・ハルの会談で提案された日米諒解案」の内容は日本側に受容できるものであった。強硬派の陸軍でさえ歓迎した

 この極めて重要な、対米開戦を回避できたかもしれない、“最後の平和交渉”であった「日米諒解案」を完全拒絶し、米国との外交交渉の途を閉ざしてしまった反英米親ソ」のコミュニスト近衛文麿首相と「超反英米親独親ソ」の松岡洋右外相の両名の犯した罪は非常に重い

 19411127 大本営政府連絡会議が「ハル・ノートは日本に対する最後通牒である」と結論

 →結論も何も、南雲空母機動部隊は既にハワイに向けて単冠湾を出航してしまっているのだが・・・。

 194112月 1御前会議対米英蘭開戦の件)。

 194112月 8 日本軍のマレー半島上陸および真珠湾攻撃パールハーバー奇)で「対英米戦争」が開戦する。日本、対米英蘭に宣戦布告。

 ――― 大東亜戦争(対英米戦争)開戦前後19417月~12月)年表ここまで)―――


 

 昭和天皇の御言葉(=御遺訓)

 ―――黒田勝弘 畑好秀 編『昭和天皇語録』、講談社学術文庫より抜粋(ここから)―――

 ①1941731 永野修身 帝国海軍軍令部総長「大勝はおろか勝利もおぼつかない

 『(昭和天皇は、)然らば、両国(=日・米)戦争となりたる場合、其結果は如何と云ふに、提出したる書面には勝つと説明ありたる故、自分も勝つとは信ずるが而(しか)し日本海海戦の如き大勝は困難なるべしと御下問になりたるに、永野(帝国海軍軍令部総長)は日本海海戦の如きの大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束(おぼつか)なしと奉答せり。(昭和天皇は)斯くてはつまり捨てばちの戦争をするとのことにて誠に危険なりとのご感想にて、真に恐懼(きょうく:おそれ、かしこまること)に堪へざる次第なり』(『木戸幸一日記』()895896頁)

 ②194185 昭和天皇の御言葉「陸軍は、・・・どうもほんとうのことを自分にいわないで困る」

 『(昭和天皇)軍部は、統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印進駐にあたって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山(帝国陸軍参謀本部総長)は、なんら各国に影響するところはない。作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を下し、国際関係は杉山の話と反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦作戦とばかり言ってどうもほんとうのことを自分にいわないで困る』(『東久邇(ひがしくに)日記』74頁)

 ③194195日御前会議前日 昭和天皇の御言葉「(明日の議題)帝国国策遂行要領は、何だか戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける

 『御前会議前日、余(=近衛文麿総理)は参内して(明日の御前会議の)議題帝国国策遂行要領を内奏した処(ところ)、陛下には「之を見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げてゐる。何だか戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける。此(この)点に就いて明日の御前会議で統帥部の両総長に質問したいと思ふが・・・」と仰せられた。・・・

 (近衛は、昭和天皇が明日の御前会議でいきなり両総長に質問されれば、両総長の返答次第で戦争遂行の決定済み方針が覆り兼ねないと案じたのであろう←私(=ブログ作成者)の推論である)

 「・・・今直ちに両総長を御召になりましては如何」と奏上せしに、「直ちに呼べ。尚総理大臣も陪席せよ」とのお言葉であつた。両総長は直ちに参内拝謁し、余(=近衛)も陪席した。・・・陛下は杉山参謀総長に対し、「日米事起こらば、陸軍としては幾許(いくばく)の期間に片付ける確信ありや」と仰せられ、(杉山参謀)総長は、「南洋方面だけは三ヶ月位にて片付けるつもりであります」と奉答した。

 陛下はさらに(杉山参謀)総長に向はせられ、「汝は支那事変勃発(1937815日)当時の陸相なり。其時(そのとき)陸相として『事変は一ヶ月位にて片付く』と申せしことを記憶す。

 然るに四ヶ年の長きにわたり未だ片付かんではないか」と仰せられて、(杉山参謀)総長は恐懼(きょうく=おそれかしこまる)して、支那は奥地が開けて居り予定通り作戦し得ざりし事情をくどくどと弁明申し上げた処、陛下は励声一番(=大声を張り上げて)、総長に対せられ「支那の奥地が広いと言ふなら太平洋はなほ広いではないか如何なる確信あつて三ヶ月と申すか」と仰せられ、(杉山参謀)総長は、唯頭を垂れて答ふるを得ず・・・』(『失われし政治――近衛文麿公の手記』120121頁)

 ④194195日御前会議前日 昭和天皇の御言葉「外交を戦争準備に先行せしめよ」@『(③と同じ席上)

 (御上)成るべく平和的に外交をやれ 外交と戦争準備は平行せしめずに外交を先行せしめよ

 ・・・

 (御上)上陸作戦はそんなに楽々できると思うか

 (総長)楽とは思ひませぬが陸海軍共常時訓練して居りますので先ず出来ると思います

 (御上)九州の上陸演習には船が非常に沈んだがあーなればどうか

 (総長)あれは敵の飛行機が撃滅せられる前に船団の航行を始めたからであつて、あーはならぬと思ひます

 (御上)天候の障碍(しょうがい)はどうするか

 (総長)障碍を排除してやらねばなりませぬ

 (御上)予定通り出来ると思ふか お前の大臣の時に蒋介石はすぐ参る(=降参する)と云うたが未だやれぬではないか

  ・・・

 (御上絶対に勝てるか大声にて

 (総長)絶対とは申し兼ねます 而し勝てる算のあることだけは申し上げられます必ず勝つとは申しあげ兼ねます・・・

 (御上ああ分かつた大声にて

 (総長決して私共は好んで戦争をする気ではありません 平和的に力を尽くし愈々(いよいよ)の時は戦争をやる考えであります』(『杉山メモ』(上)310311頁)

 ⑤194196日御前会議 昭和天皇の御言葉「(明治天皇御製)四方(よも)の海 みなはらからと 思ふ世に なと波風の たちさわぐらむ

 対英米戦争にむけての「帝国国策遂行要領」が正式に決まった御前会議の席上、昭和天皇は開戦に傾斜しがちな軍首脳に対し、明治天皇の御製四方の海」を拝誦し、改めて外交による問題解決開戦回避を強調された

 『陛下はこの席上、懐中から明治天皇の御製 よもの海みなはらからと思ふ世になと波風のたちさわくらむ と記した紙片を取出して、声高らかにお詠みになった。そして「余は常にこの御製を拝誦して、明治天皇の平和愛好のご精神を紹述せんと努めてをるものである」と、特につけ加へられたのである』(『陛下の“人間”宣言88頁』)

 ⑥19411013 昭和天皇の御言葉「日独伊三国同盟・・・も平和の為めと云ふことが忘れられ、如何にも英米に対抗するかの如く国民が考へて居るのは誠に面白くない」

 『昨今の状況にては日米交渉の成立は漸次望み薄くなりたる様に思はるる処、万一開戦となるが如き場合には、今度は宣戦の詔勅を発することとなるべし。

 其の場合、今迄の詔書について見るに、(国際)聯盟脱退の際にも特に文武恪循(かくじゅん:謹んで守り従うこと)と世界平和と云ふことに就いて述べたのであるが、国民はどうも此点を等閑視して居る様に思はれる。

 又、日独伊三国同盟の際の詔書に就いても平和の為めと云ふことが忘れられ、如何にも英米に対抗するかの如く国民が考へて居るのは誠に面白くないと思ふ。就いては今度宣戦の詔書を出す場合には、是非近衛と木戸も参加してもらつて、篤(とく)と自分の気持ちを述べて、之を取り入れて貰ひたいと思ふ』

 『・・・又、戦争終結の場合の手段を初めより充分考究し置くの要あるべく、それにはローマ法皇庁との使臣の交換等親善関係につき方策を樹(た)つるの要あるべし』(『木戸幸一日記』(下)914頁)

 ⑦1941112大本営政府連絡会議の報告を受けて) 昭和天皇の御言葉「何とか極力日米交渉の打開を計つてもらいたい

 『陛下は総てを聴き終られ、沈痛な面持で御考へであつたが、最後に陛下は「日米交渉依る時局打開の途を極力尽くすも而も達し得ずとなれば、日本は止むを得ず米英との開戦を決意しなければならぬのかね」と深き御憂慮の御言葉を漏らされて、更に「事態謂ふ如くであれば、作戦準備を更に進むるは止むを得なからうが、何とか極力日米交渉の打開を計って貰ひたい」との御言葉であった』(『東京裁判』――特輯(とくしゅう)・東条尋問録92頁)

 ⑧194111月~12 昭和天皇の御言葉「戦争開始前には予告せよ

 『ブラナン弁護人:あなたは、天皇が戦争開始前には予告せよといつたと口供書で書いてゐる。天皇の御言葉を聞いたわけか。

 東条:その通り、そのことに関しては私および参謀総長、軍令部総長に対して、天皇は常にご注意してゐた私はそれを連絡会議の構成員には明確に知らせてあつた』(『東京裁判』――特輯・東条尋問録171頁)

 ⑨1971927 昭和天皇の御言葉。訪欧途中の中継地アンカレジにてニクソン米大統領の出迎えの挨拶を受けての答辞。

 『大統領閣下、同令婦人ならびに各位

 ただいまの、ニクソン大統領閣下の懇篤なる歓迎のおことばに対し、深く感謝申し上げます。

 このたび欧州七カ国訪問の途次、当地に立ち寄ることとなりましたところ、国務御多端の折りであるにかかわらず、ニクソン大統領閣下が令婦人を伴われ、親しくわたくしどもを迎えるため、遠路はるばる当地まで出向かれたことは、同大統領のわたくしどもおよび日本に対する並々ならぬご厚意とご関心の現われとして、わたくしの深く感銘するところであります

 戦後歴代の大統領ならびに米国政府および市民わが国の復興および建設に対し物心両面において多大の援助を与えられたことは、日本国民とともにわたくしの忘れ得ないところであります。

 この機会に心からの謝意を表明する次第であります。

 過去四半世紀の間に培われてきた日米両国の親善友好関係が両国官民相互の間の緊密なる接触と協力により今後ますます強化されるであろうことはわたくしの信じて疑わないところであります

 ここに重ねて大統領閣下のご厚意を感謝するとともに、米国の繁栄を祈るものであります』(「共同通信」1971/9/27

 ⑩昭和天皇 訪欧中 英国ロンドン入りの夜のバッキンガム宮殿で開かれたエリザベス女王主催の晩さん会での御言葉

 『(エリザベス女王のあいさつに対する)答辞に立たれた天皇陛下は「貴国を訪問できたよろこびは言葉に尽くせないものがあります。空港に着陸以来貴国民の心の暖かさを身にしみて感じております

 それは五十年前私に示された豊かな温情とまったく変りがありません。当時私はジョージ五世からいただいた慈父のようなお言葉(=立憲君主のあり方についてを胸中深くおさめた次第です」と若き日の思い出を述べ、「今後さらに両国が協力して世界平和の維持と人類福祉の増進のために努力したいと願っている」と結ばれた』(「朝日新聞」1971/10/16

 ―――黒田勝弘 畑好秀 編『昭和天皇語録』、講談社学術文庫より抜粋(ここまで)―――

 桜花と花水木(ハナミズキ):日米親善・日米友好の象徴

ブログ用貼り付け 英米との永続的な友好は昭和天皇の遺訓である_image001.jpg

 花名:花水木 ブログ用貼り付け 英米との永続的な友好は昭和天皇の遺訓である_image003 →→ブログ用貼り付け 英米との永続的な友好は昭和天皇の遺訓である_image006

 撮影者:私(ブログ作成者)

 撮影場所:日本国

ブログ用貼り付け 英米との永続的な友好は昭和天皇の遺訓である_image007.jpg

 花名:ハナミズキ(白)ブログ用貼り付け 英米との永続的な友好は昭和天皇の遺訓である_image003→→ブログ用貼り付け 英米との永続的な友好は昭和天皇の遺訓である_image006

 撮影者:私(ブログ作成者)

 撮影場所:日本国

ブログ用貼り付け 英米との永続的な友好は昭和天皇の遺訓である_image011.jpg

 花名:桜花 ブログ用貼り付け 英米との永続的な友好は昭和天皇の遺訓である_image006→→ブログ用貼り付け 英米との永続的な友好は昭和天皇の遺訓である_image003

 撮影者:私(ブログ作成者)

 撮影場所:日本国

ブログ用貼り付け 英米との永続的な友好は昭和天皇の遺訓である_image013.jpg

 花名:ソメイヨシノ ブログ用貼り付け 英米との永続的な友好は昭和天皇の遺訓である_image006→→ブログ用貼り付け 英米との永続的な友好は昭和天皇の遺訓である_image003

 撮影者:私(ブログ作成者)

 撮影場所:日本国


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