保守主義の哲学---D・ヒューム、E・バークの“憲法”とJ・ロックの「原始契約」について(2/2)

 ---D・ヒューム、E・バークの憲法とJ・ロックの「原始契約」について(1/2)の続き---


 
―――ヒューム『人性論』「原始契約について」、中公クラシック、211238頁から部分抜粋(つづき)―――


 
道徳的義務の第二の種類は、原初的な自然本能によって支えられるようなものではなくて、完全に義務意識から行われるものである。


 それは、われわれが人間社会にとって必要なことを考慮し、もしそれらの義務が無視されたら社会を維持することができなくなると考えるからにほかならない。


 正義すなわち他人の財産の尊重とか誠実すなわち約束の履行とかが義務となり、人類にとって権威あるものとなるのはこのような場合である。


 なぜなら、だれでも他人より自分がかわいいことは明白で、各人はできるだけ多くのものを獲得しようと努めるものだが、このような自然の傾向を抑制できるものは、各人のそのようなわがままが有害な結果をもたらすことを、またそれによって社会の全面的な解体さえも引き起こされかねまいことを教える、あの反省と経験


 (→ヒュームの用いる「反省」や「経験」の意味は『人性論』第一篇第一部第二節、第二編第一部第一節、第三篇など参照のこと)


 以外にはないからである。


 したがって、この第二の種類の場合には、人間の生まれつきの傾向ないし本能は、その後の判断や観察によって制御されているのである。


 ところで、忠誠という政治的ないし市民的義務についても正義や誠実などの普通の義務について言われたことがそっくりそのまま当てはまる


 もしわれわれを導くものが原初的な本能だけであるとすれば、われわれは放埒な自由(=放縦の自由)にふけったり、他人を支配することを望んだりするのが落ちだろう。


 したがって、こういう根強い欲望を犠牲にしてまで、平和と社会秩序とのために尽くすようわれわれを仕向けるものがあるとすれば、それは反省以外にはない。


 実際、ほんの僅かばかりの経験と観察からだけでも、社会は統治者の権威なしにはおそらく維持されえないだろうこと、さらにまたこの権威も、もしもそれに対して厳格な服従が捧げられないならば、たちまち地に落ちてしまうに違いないだろうことは、十分理解されることである。


 以上のような、一般的でもあり、また明白でもある利益に対する考慮が、いっさいの忠誠の、また忠誠に付随する道徳的義務の、源泉である。


 右のように、忠誠も誠実も明らかに同じ基礎のうえに立ち、どちらも人間社会の明白な利益と必要とのために人類によって守られているように見える。


 とすれば、統治者に対する忠誠つまり服従の義務を、誠実つまり約束尊重の義務によって基礎づけたり(=論理的に説明しようとしたり)、さらにまた各人を政府に従属させるものは各人の同意であるなどと想定したりする必要は、いったいどこにあると言うのだろう


 これに対して、われわれが君主に服従しなければならないのは、あらかじめわれわれが、暗黙の中に、そのような約束を与えているからだ、と答えられるだろう。


 だが、なぜわれわれは約束を守らねばならないのだろう


 これに対しても、もしも人々が契約(=誠実の義務)を尊重(=遵守)しなかったならば、現に莫大な利益をもたらしている、あの人類間の商業取引(=経済上、商取引上の契約・誠実)がなんの保証も得られなくなるからだ、と主張されるに違いない。


 だが、そのように言われうるとすれば、そこからまた、もしも強者が弱者を、無法者が公正者を侵害することを防ぐ法律や統治者や裁判官(に対する忠誠の義務)が存在しなかったならば、人間は社会生活を、少なくとも文明的な社会生活を送ることはできないだろうという事(=甚大な不利益)も等しい権利を持って(=全く同様に)言われうるはずである。


 忠誠の義務誠実の義務とは全く同等な力と権威を持つものであるから、一方を他方に還元(→誠実の義務誠実の義務で、論理的に説明しようとすること、逆もまた然り)してみたところでなんの得るところもない


 両義務を確立するものは社会の一般的利益と必要とであり、それで十分である。


 政府に服従しなければならない(=忠誠の義務の)理由を問われた場合、私だったら、なんのためらいもなくそうしなければ社会が存続できないからだ、と答える。


 この答えは、明快で全人類にとってわかりやすいものである。


 ところが諸君の答えは、われわれは約束を守らねばならないから(=誠実の義務から)だ、である。


 だが、そんな答えは、哲学的な理論に習熟した人ででもない限り、誰にも理解されないし、また歓迎されもしない。


 そのうえ、なぜわれわれは約束を守らねばならないのか?と反問されれば、たちまち諸君は返答に窮してしまうだろう。


 …だがそれにしても、忠誠はだれに捧げられるべきなのか


 われわれの合法的な君主はだれなのか?


 この問題は、多くの場合、なによりもむずかしい問題であり、無数の論争の種になりがちである。


 けれども、われわれの現在の君主こそそうだ、彼は多年にわたってわれわれを支配してきた(かつ我々の祖先も黙諾して服従してきた)、あの連綿たる王家の直系の相続人なのだ


 (→日本国の皇統とは、初代神武天皇に起源し、二千年以上の歴史と伝統を誇る、世界比類の、万世一系・男系男子の皇統なのだ)


 と答えられるほどに人々が幸福である場合には、彼らのこの答えは、どんなに反駁されてもびくともしない


 かりに歴史家たちがこの王家の起源を最も古い時代にまでさかのぼり、この王家もその最初の権威を、よくあるように、やはり権力の奪取と暴力から得ていることを暴露したとしてもどうにもならないのである。


 個人的な正義つまり他人の財産に手を出さないということが、ひとつの極めて基本的な徳であることは確かである。


 けれども、われわれが理性的な立場に立つときには、土地とか家屋などの耐久財の所有については、それらが人手から人手へ渡っていく入手経路を綿密に調べてみると、そのどこかで詐欺や不正の臭いのしないものはひとつもないことが知られるだろう。


 だが、そのような厳密なせんさくは、人間社会の必要から、私生活においても公生活においても、許されないことである。

 なぜならもしわれわれが、可能な限りあらゆる観点から、ありとあらゆるあげ足取りの論理規則を駆使して、せんさく吟味する似非哲学の跳梁を許すならば、たとえどんな徳、どんな道義的義務であっても、たちどころに欠陥をさらさないようなものはないからである。


 
―――ヒューム『人性論』「原始契約について」、中公クラシック、211238頁から部分抜粋(ここまで)―――


 
(3) エドマンド・バークの思想


 “現在の”英国王の統治権の起源(根拠)=《
【王制成立時の「原始契約」(=民衆の同意)】+【(コモン・ロー+成文憲法=英国憲法)】 》に基づく“王位の世襲継承法”の承認(黙諾)に基づくものとする。


 ゆえに、エドマンド・バークによれば、世襲継承したある英国王が「原始契約」を破棄すれば、英国民は「原始契約」破棄の責を問うこともありうるが、そのような場合でさえ、英国民は英国の新しい王位を自らの選択(選挙)によって自由に決定することはできず、かならず“コモン・ロー”及び“成文憲法”から成る英国憲法の“王位継承法”に従う義務がある(=王統を変更できる権利など無い)とするのである。


 なぜなら、“現在の”英国王位(王統)は、英国王制が成立して以来現在まで、英国王と英国民との両者の間で承認され世襲継承されてきた“英国憲法の支配”において法的根拠と効力を有するのであって、「原始契約」によってのみ根拠と効力を有するのではないから、「原始契約」が破棄されても、英国憲法が破棄されたわけではなく、現在の英国民には“英国王位(=王統)の世襲継承法を遵守する義務”が残存するからである。


 エドマンド・バーク曰く、


 「ジェームズ一世に発するブランズヴィクの血統(=王統)への王位継承が、我々の近隣諸国のどの王制よりも、むしろ我が国の王制を合法化することになるのはどうしてでしょう。


 確かにどの王朝の創始者でも、何らかの時点で、統治を求めた人々によって選ばれたことに間違いありません。


 選択の対象こそ多かれ少なかれ限られてはいたものの、ヨーロッパのすべての王国は遥か昔(=「原始契約」時)は選挙制であった、とする考え方には充分根拠があります。


 しかし、千年前の王が其処此処でどうであろうと、またイングランドなりフランスなりを現に治めている王朝の始まり方がどうであろうと、今日この時代、英国の国王は、英国法に従う、確固たる王位継承法に基づいて国王なのです。


 そして、英国王は、統治権についての法的な契約諸条項を遵守する限り〔実際には遵守されているのですが〕、個人としても集団としても、自分達の間では、国王選出の投票権など一票たりとも持っていない革命協会の選択(の教義)は一切無視して


 ――しかしながら、もし機が熟して彼らの主張が影響力を持つようにでもなれば、すぐに彼らは自分達を選挙人団に仕立て上げるだろうことを疑う余地はありません――


 王位を保持するのです」(バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、
21頁、英語原文に基づき、一部〔=ブログ作成者〕が更訂した。Edmund Burke, “Reflections on the revolution in France”, Dover publications, Inc, pp.12-13.に対応


 「英国議会の両院は、かつてのエリザベス女王の法令から採用された極めて厳粛な誓約を含む一節を続けて置きました。


 それは、世襲の王位継承を擁護してこれまでなされた――また、将来にもなされ得る――最も厳粛な誓約であり、この革命協会によって彼らに帰させられた原理に対する及ぶ限り最も厳粛な否認でもありました。


 曰く、「聖俗の貴族および庶民は、上記全国民の名に於いて、我等自身並びに我等の相続人及び未来永劫子々孫々に至るまで最も謙虚かつ誠実に(世襲の王位継承に)従います。


 また、英国民は上記両陛下、及びここに明記され収められた王位の限定を、全力を挙げて護持する旨を誠実に約束します」云々。


 我々が名誉革命によって我々の国王を選挙する権利を獲得したなどというのは、全く真実からかけ離れています。


 仮に革命以前に我々そのような権利を所有していたとしても、英国民はその(権利の章典の制定)時点で、自らと自らの子々孫々すべてに対して未来永劫、極めて厳粛にそれを否認し放棄したのです」(バーク『フランス革命の省察』、
27頁:既に〔=ブログ作成者〕が邦訳済み)


 「これら革命協会の紳士諸君は、自分達の(主張する)ホイッグ原理(=ジョン・ロック的な王位の「原始契約」説)について好きなだけ自己満足すればよいでしょう。


 しかし、私は(権利の章典を起草した)サマーズ卿以上に良きホイッグと思われたくは決してありません。


 名誉革命の諸原理をもたらした人々以上にそれら諸原理をよく理解したいとも思いません。


 また、あの不滅の法(=コモン・ローとしての王位の世襲継承の法)の言葉と精神を我々の国法と魂のなかに、洞察力にと富む文体によって刻み込んだ人々すらも知らない何らかの玄義を、権利の章典の中に読み込みたいとも思いません」(バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、
27頁、英語原文に基づき、〔=ブログ作成者〕が更訂した。Edmund Burke, “Reflections on the revolution in France”, Dover publications, Inc, pp.17-18.に対応


 「例えば、上院は下院を解散する権限を(コモン・ローとして)道徳上持ってはいません。


 否それどころか、上院は自らを解散せしめることすらできませんし、たとえ望んでも、英王国立法部内での役割を放棄することもできません。


 国王は、彼自身として退位しようとしても、王制の国王としては退位するなど不可能です。


 同じほど強い理由、否一層強い理由から、下院は自ら分け担っている権限を放棄することはできません。


 (文明)社会の約束や契約(原文:
the engagement and pact of society


 
――それらは通常、憲法(原文:the constitution)と呼ばれています――


 が、そうした(王国行政部や立法部の権限に対する)侵犯やそうした放棄を禁じているのです。国家(=政府)が(国家を構成する)個々の社会組織(→「中間組織」という)との間で信義を保持する義務を負っているのと同じく、国家を構成する諸部分(=中間組織)は、自分達(中間組織)相互の間で、また自分達(=中間組織)との約束の下に何らかの重大な利益を得ている人々(=個人)との間で、公的信義を保持する義務があります。


 さもなければ、(信義を保持する義務を伴う)権限と(義務を伴わない)権力はたちどころに混同され、法は残らず、(その時)支配を揮っている強制力の恣意のみが残るでしょう。


 この原理に則って、王位継承は昔も今も変わりなく、法による世襲継承でした。


 ただ、古き王統においては(不文の)コモン・ローによる継承であったのに対して、新しい王統においてはコモン・ローの原理に従って働く制定法(成文法典)による継承となりましたが、それによって(王位継承法の)実質が何らかの変更を受けたのではなく、(王位継承の)様式が規定され、かつ(王位継承権を有する)人物が明記されただけです。


 コモン・ローと制定法というこれら二種の法は、二つながら同じ強制力を有し、等しい権威に由来しているのであって、国家についての共通の同意と(英国王と英国民との間の王制の)最初の合意(原文:
the common agreement and original compact )――「国家全体の共通の約束」――から発生し、またそのようなものとして、同意事項が遵守され、かつ英国王と英国民が同一の(王制という)政体を継承していく限り、等しく両者を拘束するのです」(バーク『フランス革命の省察』、28頁:既に〔=ブログ作成者〕が邦訳済み)


 
※ 引用文中の(  )内は〔=ブログ作成者〕の補足説明である。


 →〔=ブログ作成者〕の解説


 要するに、ジョン・ロックの思想は、“世襲の原理”、“臣民の義務”という概念が完全欠落した謬論である。

 逆に言えば、ジョン・ロックの思想は、「統治者の義務」と「臣民の権利(主権)」のみを強調し過ぎた偏向思想であり、一枚のコインの裏側のみを見て、表裏一体の一枚のコイン全体を見ない誤謬の「統治論」である。


 エドマンド・バークの


 「今日この時代、英国の国王は、英国法に従う、確固たる王位継承法に基づいて国王なのです」


 「世襲の王位継承を擁護してこれまでなされた――また、将来にもなされ得る――最も厳粛な誓約」


 「(文明)社会の約束や契約(原文:
the engagement and pact of society――それらは通常、憲法(原文:the constitution)と呼ばれています――が、・・・を禁じている)」


 「公的信義を保持する義務」


 といった、“世襲の原理”つまり“世襲の王位継承法”や“世襲による英国民の自由や諸権利”の概念が全く存在せず、


 過去の祖先―現在の国民――未来の子孫へと繋がる世襲による“法”と“法の下の自由と諸権利”という歴史的連続性の概念が全く存在しないが、そのような現実社会は歴史上存在しない。


 歴史上のすべての時代に於いて「主権」は「現在生存する我々のみ」にあり、「過去の祖先らが連綿と築き世襲してきた国法や伝統や慣習など、我々が好き勝手に変革できる」とする誤った思想である。


 そもそも、現在の自分は何故この現世に存在しているのかを素直に問うてみれば、父母(の時代)在り、祖父母(の時代)在り、曾祖母(の時代)在り、・・・そしてこれら古来の祖先からの歴史的連続的な社会(国家)が存在し、それらを世襲継承してこなければ、万が一にも〔=ブログ作成者〕や読者の皆さんを含めた、我々現在世代の日本国社会や日本国民自体が存在し得なかったのであるから、


 我々は、もう少し、祖先への尊崇の念と子孫への思いやりと責任感への自覚を問い直すべき時であろう。


 ゆえに、「過去の祖先らが連綿と築き世襲してきた国法(国憲)など、主権者である現在世代が好き勝手に変革できる」などという、ルソーやマルクスやウェッブ夫妻らのフェビアン協会に起源するあらゆる共産主義や社会民主主義や国家社会主義あるいはポストモダン思想などの革新・革命・伝統/慣習破壊思想などは、


 すなわち「自己の生を全面否定/破壊する思想」であり、「自己の生の価値を喪失/棄却させる思想」であり、


 そのような思想からは、“真に善き生”を全うしようという意識・意欲は決して生まれえないでろうと〔=ブログ作成者〕は考えるが、読者の皆さんや多くの日本国民はどのように思われるだろうか?


【平成
23730日掲載】


エドマンド
バーク保守主義者(神戸発)  

  
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