保守主義の哲学‐‐‐中学生レベルの作文内容しかない、鳩山由紀夫首相の「施政方針演説」(その2)


 鳩山由紀夫首相 「施政方針演説」のバーク保守主義(哲学)による徹底検証(その2)


 () 施政方針演説のキーワード地方主権について

 鳩山由紀夫は「また国と地方の関係を上下関係ではなく対等なものとするため、国と地方との協議の場を新たな法律によって設置します」と言う。

 そして私は、これに賛同する日本国民の非常に多いことには驚くばかりである

 第一にこのような国は世界に一国もないすべての国がその強度の差こそあれ中央集権国家である。国と地方の上下関係がなければ、国家の意思決定ができないのであるから当然のことである。

 国と地方に上下関係がなければ、例えば、外交や軍事の「国家としての意思決定」はどこがするのか。

 国と地方の協議の場設を設けても議論が紛糾した場合、上位の国が議論をまとめるしかなかろう。ここで多数決を持ち出すようであればすでにそれは統一された日本国ではなく主権を持つ各地方都道府県の連合体である。

 例えば、米国は、独立当時13邦からなる連合体であった。13邦各々が独立した主権を持っていたが、外国との外交国防通商等の利益を考慮すれば邦連合では不十分であるとして、建国の父らが、米国憲法を制定し、13邦を州に格下げして主権を排除した上に、強力な権限を持つ連邦政府(=中央政府)を13州の上に乗せてつくったのである。よって米国には各州に「州主権」など無い。強力な中央集権国家である。

 よく「道州制」という言葉を聞くが、アメリカの連邦制を何か勘違いしているようである。米国の各州は法律を定めることができる(米国憲法第四条第一節)が、米国では連邦政府が担う権限各州が担う権限をきちんと米国憲法で澄み分け(米国憲法第一条第八節から第十節)した上で各州が担う権限についてのみ法律を定めうるのである。つまり、各州の法律といえども連邦政府の権限を侵すような法律は立法できない(第四条第一節)。

 だから、普天間基地移設問題などは、国家の分担する権限(=国防問題)であって、地方の沖縄県や宜野湾市が意見を言うことはできても、最終的な国防方針の決定権は国の権限であり、この決定に地方は一切口をはさむ権限はないのである。

 しかも、この問題は、過去の自民党政権時に日本国と米国の国家間で合意された契約であるから、鳩山政権(=国)自体も今さら米国の了承なしに契約変更することなどできないのである。政権交代とそれ以前の国家間の契約済み案件の履行は全く別次元の問題である。現に米国も共和党から民主党に政権交代したが、共和党米国と自民党日本国との合意は、民主党米国が引き継いで履行しているではないか。

 さらに、現在、日本国政府は宜野湾市の代替地を5月末までに決定すると躍起になっているが、日本国政府は米国との間で移転先の変更契約もありうるという米国の内諾でもとって行動しているのであろうか?

 マスコミに出てくる情報では、米国は一貫して過去の合意(=ロード・マップの履行を求めている

 さて、この状況で、もし日本政府が、日本国内部だけで、宜野湾市の代替地を勝手に決定できたとして、5月に米国に提示して協議すれば、米国が「はいわかりました。それで行きましょう」と言うのであろうか?

 私には、政府がやっている代替地探しは手順が間違っているし無駄な努力をしているとしか思えないのだが、私だけであろうか?

 このように、鳩山政権国防方針と指導力の欠如によって、国の権限が強いはずの現在でさえ、国(=日本国政府)と地方(=沖縄県)の意見が乖離して混沌とし、結論も出せないでいる現況下の施政方針演説で、「よくもまあ、地方に主権を与えるというような現実離れの馬鹿げたことが平然と言えるものだ」と唖然としてしまう。

 第二に憲法改正を伴わない地方主権など絵空事にすぎないなぜなら法律立法権は国会にしか存在しない」からである。

 憲法第四十一条「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である

 憲法第九十二条「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める

 憲法第九十四条「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。

 つまり、憲法第四十一条で「立法権は国会(=国)にのみ存在」し、憲法第八章 地方自治の第九十二条から第九十五条まではすべて、「法律の定めるところにより」あるいは「法律の範囲内で」と規定されているから、憲法学的にも国と地方の権限(権力)の本質的な対等などあり得ない憲法学上国が上位で地方が下位である

 つまり、地方が執行しようとする行為に対して国が反発してNoの法律を制定すれば地方は何の権限権力も持たないし何もできないのであるこれで如何にして国と地方の対等が成し得るというのか

 「国と地方の権限(権力)の対等が憲法上可能か」などの設問は、中学三年生の公民の教科書レベルの憲法に関する知識があれば誰でも答えが出せる問題である。外国人地方参政権付与問題でもそうであるが、日本国の政治家・裁判官・学識者・地方首長や地方議会議員は、たった百三カ条の自国の憲法を正確に読みとる能力もないらしい。困ったものである。

 ただし、憲法改正手続きを踏んで、憲法改正するのであれば憲法学上不可能でないことは言うまでもない。

 第三に日本国は少なくとも、聖徳太子十七条憲法制定604年)と冠位十二階の制定603年)により、7世紀には中央集権国家を確立している607年には遣隋使の小野妹子に有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の書簡を隨の煬帝へ持参させている。また、681年には天武天皇が飛鳥浄御原令を制定し律令国家の思想を開示。701年の大宝律令の制定で、現在の官僚制度にもつながる律令体制の官制が構築された

 以後、現代までの各時代の節目は以下のとおりであるが、

 710年の平城京遷都(奈良時代・元明天皇~)、794平安京遷都(平安時代・桓武天皇~)、996年~藤原道長の摂関政治(京都)、1086年~白川上皇の院政(京都)、1156年保元の乱、1159年平治の乱、1167年~平清盛(平家)の政治(兵庫県)、1192年~鎌倉幕府(鎌倉時代・源頼朝~北条氏)、1334年~1336建武の中興後醍醐天皇楠木正成ら)、1336年~室町幕府足利尊氏・北朝・京都~)、1467年応仁の乱~戦国時代~1590豊臣秀吉天下統一(大阪)、1603年~江戸幕府徳川家康・江戸~)、1867大政奉還徳川慶喜)、戊辰戦争、1868明治維新近代的中央集権国家の建設開始)、1889大日本帝国憲法発布1937年支那事変勃発1941年~1945大東亜戦争開戦1946日本国憲法公布1951サンフランシスコ講和条約締結日米安全保障条約締結~現在

 日本国の歴史は、応仁の乱~戦国時代などの例外を除いて、どの時代も完全とは言えないまでも疑うことなく中央集権型国家であった

 施政方針演説の「今日の中央集権的な体質は、明治の富国強兵の国是のもとに導入され、戦時体制の中で盤石に強化され、戦後の復興と高度成長期において因習化されたものです」とは「嘘ではないが偽」である。

 近代型(西欧型)立憲国家としての中央集権国家の体質の始まりは、確かに明治維新以降であるが、日本国の歴史に地方と中央が対等の権力を持って併存した時代などほとんど皆無である。日本国は集権度合い統治者の武家/公家の違い」という程度の差こそあれ、聖徳太子の時代頃から一貫して中央集権国家である

 この事実は、日本国の中央集権制は、一つの“日本国法”とも言えるものである。“法の支配”が崩れる時、国家が乱れるのは、大東亜戦争の悲惨な経験が証明済みである(=対英米戦争は、日本国法の中の国法である昭和天皇の強い反対の聖慮を、嘲り笑うように無視して、政府高官と帝国陸海軍将官が開戦決定した戦争である)。

 日本国の中央集権制という制度が「日本国法」であるなら、バーク保守主義者の私としては“”の無視は許容範囲内を超えるため、「中央と地方の関係が上下関係ではなく対等なものとする」などという妄言は決して支持できない。鳩山由紀夫の日本国の歴史や法を全く知らない無知・蒙昧さには驚くばかりである

 第四に、日本国民は、「中央と地方の関係が上下関係ではなく対等なもの」となったら、地方に何のメリットがあるか答えられるのであろうか。

 地方の知事は大臣や国会議員より優秀で、地方議会は国会よりも優秀で、地方公務員は国家公務員より優秀で、地方が中央政府の拘束から自由になればなるほど(=中央政府から地方へ権限を委譲すればするほど)、地方は経済的にも精神的にも大繁栄するような政策が展開できるのであろうか

 突然、地方にそのような智恵が湧き出てくるのであろうか。

 また、地方主権が実行されれば教育・医療・年金などあらゆるサービスにおいて地方間格差が必ず出てくることになるが、これまで全国一律という「平等主義」に慣れてきた日本国民に果たしてその心構えはできているのであろうか。よく考えて頂きたい。

 答は完全なるNoである

 地方の首長や議会や公務員に、地方独自の政策を次々と展開し、財政を健全化させ、経済を繁栄させ、精神的豊かさが増す能力がある、などと考えるのは、「能天気主義」というよりただの「馬鹿」である。

 地方の自治体にそのような智力・能力など皆無であると考えておく方がまだ賢者である

 例えば、「千葉県市川市議会は、永住外国人の地方参政権付与に反対する意見書の採択を求めた陳情を20日、本会議で棄却した。出席議員36人のうち、賛成に回った議員はゼロ。付与反対を表明していた自民と民主の4人は退出、票決には加わらなかった。議案は19日の総務委員会で採択されていた。」(2010.1.27 民団新聞)のを見ても一目瞭然であろう。裏で民団支部の説得工作があったようであるが、市議会議員などこの程度の私利私欲でしか動かない阿呆の集団でしかない

 以下、地方分権推進一括法成立の背景日本の地方の財政の状況を記しておくので、「地方主権なるもの」が正当な主張であるのか、読者の皆さんはもう一度、良く考えて頂きたい


● 地方分権(主権)推進の愚行(➡日本随一のバーク保守主義者・政治哲学者 中川八洋 筑波大学名誉教授 著国民の憲法改正』、ビジネス社2004年より部分抜粋

 「地方分権」については、1995519日に「地方分権推進法」が成立した。同年73日に、七人地方分権推進委員会が発足した。委員会メンバーの半分は「極左中の極左」、残り半分は「リベラル左翼)」であった。保守系は一人もいない

 (なお、英語の「リベラル」とは直訳すれば「自由主義」という意味であるが、米国では「左翼的自由主義者」あるいは“保守”に対する蔑視の意味を込めて「左翼」と呼ぶ。)

 七名の委員のうち、前者の半分「極左中の極左」は①樋口恵子(古色蒼然たるマルクス・レーニン主義者、評論家)②長州一二(共産党系共産主義者、元神奈川県知事)③西尾勝(三派全学連出身、東京大学教授)、後者の半分④~⑦の「左翼」は諸井虔その他である。

 この時、日本解体への牽引車が、汽笛を鳴らして出発したのである。“国家”がわかる人材は一人もいない。むろん愛国者も一人もいない。

 「地方分権」―――「経済が上向く」、「バブル景気の復活」、・・・と信じる妄想

 「地方分権」とは、ポスト・バブルとポスト冷戦の二つが同時に発生した1991年以降、自我喪失的に茫然となっていた、日本人をタイムリーに襲って成功した革命である。

 1986年から1991年にかけてのバブル経済は、日本人に“労せずして一攫千金”を体験させたから、株の大暴落、地価の大暴落に直面した1991年からのバブル崩壊後の日本人は、今度も“労せずして一攫千金”としての制度改革信仰が広がっていた。

 政府が政治制度を少しいじるだけで、頭も使わず汗もかかずに、あのバブル経済がもう一度簡単に蘇ってくる―――これを「制度改革信仰」という―――が国中に蔓延したのである。そして、この政治制度をやたらにいじくり回すことが日本では「政治改革」と呼ばれ、日本再生の特効薬だとの“神話”が定着した。

 その結果、「政治改革ヒステリー」が伝染病となって日本を覆ったのである。

 この「政治改革ヒステリー」の一つとして正当化された「地方分権」は、「地方分権すれば、経済が回復する」という真っ赤な嘘で粉飾された。この嘘は、経済評論家(という名の経済素人)、経済専門出版社、政府(経済企画庁・・・・)から一斉に噴出し国中に流された。

 日本の政治家はエリートとしての意識も教養も欠いているので、一も二もなくこの「地方分権」という毛鉤の嘘宣伝に喰らいついた。

 この時、経済評論家の大前研一の著『平成維新』(1989年)が、この「地方分権」フィーバーの経典(バイブル)の一つとなった。この著が直接的に主張しているわけではないが、道州制など「地方分権」にするとバブル経済が再来する!かのような錯覚をふくらますムードが、主にこの本で醸成された。『平成維新』の英語タイトルは「Zero-based  Organization  and  Constitution」であるように、この著は“いったん日本を完全に壊してみよう”という提案である。大前のもともとの仮題も「日本政府解体論」であった。

 橋本徹 大阪府知事の「大阪をいったんぶっ壊して、白紙状態に戻して、新しい大阪をつくり直そう」なる発言も同様の趣旨である。

 大前は言う

 「古いアバラ屋を部分的に修繕しても近代建築にはなり得ない。こわれた床にタイルを敷けばその重みで土台まで歪んでしまう、といったところが関の山である。このような家は一回壊してしまい、景色がすっきり見えてきたときに、もう一度はじめから新しいものをつくる方がよほど効率的だし、良いものができる」(大前研一『平成維新』、講談社、1989年、383頁)

 「破壊を恐れる人もいるが、わが国の今日の繁栄は、戦後、アンシャン・レジューム旧体制の徹底否定と破壊があったからこそ敷くことができた」(大前研一『平成維新』、講談社、1989年、383頁)

 大前研一は、破壊主義ヴァンダリズムであり、フーコーポスト・モダン思想系のアナーキスト反国家・反政府主義者)である。

 日本の戦後と戦前は、天皇はむろん国民も連続しているそして戦前の教育を受けたものによって戦後の日本の経済的繁栄は築かれた

 しかし、大前は戦前と戦後で日本人の総入れ替えがあったと妄想している。アナーキストらしく政治に対して盲目性が強いのだろうか。あるいは、日本解体を煽動する反日運動化だからであろうか。次のように「憲法も無視せよ!」とまで絶叫して、徹底的に日本という国家をバラバラに大手術しようとする。国家の連続性を切断したいのである。

 大前は言う

 「国家運営の理念としての憲法まで、今までのものに捉われずにゼロベースで見直すのである」(大前研一『平成維新』、講談社、1989年、55頁)

 そして、日本国を「地球」に、日本国民を「人類」にしたいと、自らが日本国民になりきれず無国籍のディアスポラ(地球放浪者)であることを白状している。

 大前は言う

 「私には、<君が代は千代に八千代に・・・・>、と歌う気になれない。・・・・我が地球は、とか、我が人類は、ということならもっと好感がもてる

 また、日本新党の結成に当たって、大前研一と密接な関係にあった細川護煕もまた、この「反日」の「地方分権」の煽動では共犯者であった。しかも細川は、「地方反乱」とまで言ってのけているから、日本を国と地方の「内戦・革命運動」的秩序破壊に至らしめることを考えていたようだ。戦国時代でもないのに、なぜ地方が反乱する必要があるのか。地方分権すれば何のメリットがあるのか。全く理解不能である。

 あげくの果てに、能力もないのに小沢一郎の画策で内閣総理大臣になって、すぐに職責に耐えかねて政権を投げ出した。それが、細川護煕である。このような人物の唱える「地方分権」に国民が納得する論理があるわけがない。「地方分権」を唱える場合、その必要性の論理をきちんと説明すべきである。

 ・・・そもそも現代の社会において、国民の生活を直撃する社会・経済問題は、金融をはじめ、鳥(豚)インフルエンザや狂牛病の問題、食品の安全問題、食糧・資源問題、環境問題、大規模災害対策であれ、すべて国レベルにおいて一括して解決するしかない

 “くらし”の根幹は、水道ゴミ警察治安)や消防などを除けば、「地方」にはその権限は存在しえない。

 世界がどんどん狭くなっている以上、地方の行政を逆に独自に存在させることの方が、行政コストを巨大につりあげる。“地方行政を極力簡素にし、残りの大部分は国が責任をもって行政すること”こそ、国民のための二十一世紀の正しい行政と言える。“地方の大リストラ”+“国の責任行政”、これこそが今日本がとるべき経済再生の近道である。

 この意味で、財源や権限の地方への移譲の方が時代と世界各国の現実に逆行している

 そもそも、国と都道府県と市町村の行政の関係は、もっと一体化すべき二重、三重行政を一元化して無駄を省くべき)であって、それなくして行政の効率化は進まないし、行政のコストの削減も望むべくもない

 民間の子会社は親会社との関係において決して平等でないのと同じく(=親会社が権限や財源を子会社に譲るということなどあり得ないし、親会社が許さないのが常識だろう)、地方が国との関係において上下関係である方が正常である

 それ以外の統治機構などいかなる国家にも存在しない。地方分権推進委員会は、「国と地方が対等の権限と財源をもつ」という、常軌を逸した国が世界百九十三カ国の中に一カ国でも存在するなら、その国名を挙げ国民に分かりやすく説明する説明責任があるのではないか

 ・・・日本における、神話というより事実を転倒させた巨大な嘘は、「3割自治」などという言葉があるように、地方がもっと財源をもってよい、地方がもっと自主的に課税し自主的に支出を決定してもよい、という世界のいずこにも存在しない狂気の地方行政論”において顕著である。

 道楽息子を、親は無限に甘やかして欲しいだけ“小遣い”を与えるべきだという、その家族の解体を狙った悪魔の囁きの国家版が、日本の「地方行政論」の正体である。

 以上のことは、「地方自治」の母国である英国を参考にすればすぐわかる。

 英国は日本と違って地方税というものは一つしかなかった。伝統的に地方が自主財源を持つことは可能な限り制限されたからである。この地方税を「レイト(Rate)」といい、土地・建物等に対する課税であった。日本で言う、固定資産税、家屋税に当たる。

 サッチャー首相は、税制改革を行い、「地方税のサービス料金化」と「税制の中央集権化」を行い、今日の英国には地方税というものは、「カウンシルタックス(財産税的な自治体税のこと)」と「レイト(非住居用資産にかかるレイト)」の“二種類しかないしかもそれらは中央政府の監督下にある

 しかし、日本の地方税は、直接税のみでも次のごとく、何十もある。

 「都道府県民税、事業税、特別所得税、自動車税、鉱区税、狩猟者税、狩猟免許税、市町村民税、固定資産税、自転車荷車税、鉱産税、特別土地保有税、目的税(自動車取得税、軽油取引税、入湯税を除く。)、国税付加税、特別地税、地租、家屋税、営業税、段別税、電柱税、漁業権税、軌道税、電話加入権税、電話税、雑種税(一部)、段別割、個別割、家屋割、扇風機税、屠蓄税、犬税、使用人税、舟税、自転車税、荷車税、金庫税」

 日本の地方の課税自主権は世界の常識において天文学的に無制限である

 日本の地方は、“世界一の道楽息子”である。(中川八洋 筑波大学名誉教授 著『国民の憲法改正』、ビジネス社、237249頁)

引用ここまで

 これだけの地方自主財源を持ち、それでも足らずの財源を国からの地方交付税で補い、さらに、事業補助金制度で国から多額の事業補助金を受けているにも関わらず、多額の借金を抱えるに至り、財政再建対策に懸命になるあまり、住民への必要な公共サービスを削減しているというのが現在の“地方の実態”である。

 「地方分権」で地方に権限や財源を移譲したからといって、地方は健全な財政運営を執行できる能力があるのだろうか。現状をみる限り、“全く無い”どころか、“ますます借金を膨らませるだろう”としか予見できない。

以下、再度引用

 日本が第一にすべきは、地方の自主財政を徹底的にリストラすることである。次に、国の管轄下におくことである。例えば、都道府県民税@や市町村民税は廃止して所得税に一本化するのは当然であろう。

 英国では、「地方」の歳入に占める自主財源率はほぼ15%以下である。日本流に言えば、「1.5割自治」である。つまり、歳入の85は中央政府からの助成金である。そして歳出のベースで見ると、19934年度で、地方の歳出国全体(「地方中央」)の歳出の28.7である。

 一方、日本は、歳入における地方の自主財源率は、地方分権推進委員会が(1995年の)発足時に参照したであろう1993年度の決算ベースで見ると、37.8である。「約4割自治」である。地方の自主財源率は英国の2倍以上もある

 さらに歳出ベースで見ると、「地方」の歳出は国全体(「地方」+「中央」)の歳出の何と65.6に当たる。

 家計に例えると、道楽息子の小遣いが所得の3分の2におよび親は残りの3分の1でやり繰りしている信じがたい家族それが日本の真実である。フランスの地方は、英国よりもっと自主財源が貧弱である。州の財政的独立性の強い米国ですら、多少英国よりましな程度である。(中川八洋 筑波大学名誉教授 著『国民の憲法改正』、ビジネス社、237249頁)

引用ここまで

 ちなみに、日本国及び読者の皆さんの住む地方自治体の借金時計は以下のホームページで、リアルタイムで見ることができる。興味ある方は自分の住む都道府県の借金状況を一度調べてみると良いであろう。

 国の借金時計現在の日本国の借金

 地方の借金時計現在の地方自治体の借金

 このような、「地方分権」を発展させた「地方主権」とはまさに「痴呆主権という狂愚政策である。鳩山由紀夫 施政方針演説(2)_image001.jpg


 鳩山由紀夫首相 「施政方針演説」のバーク保守主義(哲学)による徹底検証(その3)へ続く


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