保守主義の哲学---「人権(=人間の権利)」についての考察(第1弾)---テロルの経典「フランス人権宣言」(その2)


 1789826日のフランス人権宣言は、「フランス国民の権利侵害の宣言文書」であり、「フランス革命という人類史上初の全体主義体制の宣言文書」である。

日本初?テロルの経典「フランス人権宣言」の真正の逐条解説。

(その2)


 第1条(自由・権利の平等)(←各条文の翻訳と各条文の題目名は、樋口陽一・吉田善明編『改定版 解説世界憲法集』によるが、題目名はほとんど虚偽である

 人は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する社会的差別は共同の利益に基づくものでなければ設けられない

 →私の解説:この第一条は「全体主義(=完全平等主義の条文であり人間の自由」と「権利抑圧・弾圧する宣言文である

 断じて、人間の自由権利を擁護する条文と読んではならない。以下にそれを詳しく解説するが、とりあえず第一条の前半部のみの解釈から始める。

 第一条前半部「人は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する。」について。

 「人は」の「人」とは「地球上のすべての人」のことであり、フランス国民のことではない。 

 宮沢俊義ほか編『人権宣言集』では、次のように解説している。

 「フランス人権宣言は、時間的空間的に限定された諸原理を明言するものではなく人間社会に共通の普遍的原理を承認するものである。・・・すなわち、そこに掲げられる権利は、単純に1789年のフランス王国にあるフランス人のみに関するものでなく人の本性から派出する自然権として、人は人である限りその帰属をうける」(宮沢俊義ら編『人権宣言集』、岩波文庫、1987年、129頁)

 だが、本当に1789年のフランス人権宣言の人権が全時代全世界の人間の普遍的原理なのだろうか?

 出鱈目にも程度があるだろう。私に言わせれば、このような考えは、狂人の発想であり、単なる妄想でしかない。

 現実を見ればすぐ解るではないか

 例えば、①エチオピア国民・②北朝鮮人民・③日本国民・④英国民・⑤米国民・⑥中国人民・⑦新ロシア国民・⑧旧ソ連人民・⑨インド国民・⑩アフガニスタン国民等が、皆同じ「平等な権利を持って生まれてきて、「平等な権利を持って生活し一生を終えているだろうか?@すべての国民が「平等に自由」であるか?自由の度合いなどは、国家によって天と地くらいの相違があるではないか。

 なぜか?

 答えは簡単なことであり、すべての国で国法(憲法)・法律・歴史・慣習・言語・風土・宗教などの一切が異なるからである。

 さらに、すべての国で国民の自由権利」とそれを擁護する国法”・“憲法”の有無強弱、次世代への世襲相続の原理の強弱が異なるからである。

 つまり、フランス人権宣言の第一条にあるような全世界・全時代の人類に普遍的な「人権などは元来、「概念としても想像できないし永遠に実体としても存在し得ない虚無の権利」である。

 「概念としても想像できないというのは、例えば読者の皆さんが、上記の①~⑩の国々の歴史・慣習・言語・風土・宗教を思い浮かべながら、10カ国のすべての国民に平等な自由平等な権利を想像できるであろうか

 ここでいう「平等な自由平等な権利」は決して、上記の10カ国のうちのどの国の国法(憲法)・法律・歴史・慣習・言語・風土・宗教などの一切に抵触してはならない。さて読者の皆さんは、まず世界十カ国の国法(憲法)・法律・歴史・慣習・言語・風土・宗教などの一切を調べることから始めなければならないがそんなことができるであろうか。ましてや世界約195カ国についてなど調べようもないであろう。

 申し訳ないが、私にはそのような能力がないため、不可能である。私には、日本と英国と米国の3カ国の自由と権利についてでも、普遍的なものなど想像できない。なぜなら3カ国とも憲法も歴史も宗教も・・・何もかもが違うからである。

 しかしそうであるからこそ国連や同盟国間などで外交や軍事や通商や環境等々について関係各国が自国の主張と妥協をしながら国家間で異なる自由や権利を調整して妥協的な自由妥協的な権利の行使のルール」を形成するために、「条約」や「協定を締結したり、「共同宣言共同声明」を発表したりして妥結するのではないのか。

 さて第一条で最も重要な点第一条の後半部の社会的差別は共同の利益に基づくものでなければ設けられない全体主義(=完全平等主義の条文であることである

 この後半部によって、前半の「平等な自由」「平等な権利」は「完全平等」の四文字に置き換わってしまう。まさしく、ルソー主義の詐欺的な転倒語法である

 なぜなら、後半部を要約すれば、「各個人の自由や権利の社会的差別(=差別的な行使自由な行使共同の利益(=全体の利益全人民の利益に反するものは認めない」となるからである。

 つまり、第一条は、「全体主義(=完全平等主義)」の宣言条文であって、すべての人民が全く同じ(=平等な自由と権利しか持ってはならない、「全体の利益に反するような個人的利益追求のために個人が他者より大なる自由や権利を行使することは認めない、と言っているのである。

 この時点で、もはや「フランス人権宣言その美名とは全く逆の自由と権利を弾圧する全体主義宣言という化けの皮を現しているのである

 なお、共同とは、この場合、「一つの全体(塊)としての人民(市民)」を表す。(←ルソーの『社会契約論』の「共同体」の定義による)

 2条(政治的結合の目的と権利の種類)

 すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利保全にある。これらの諸権利とは、自由所有安全および圧制への抵抗である

 →私の解説:素直に読めば、「政治権力の目的は、人の自由、所有、安全、(圧制への抵抗)を保全することである」という意味である。

 つまり、この条文は、人の諸権利は各時代の各時期の政治権力(=人)が保全するものとしている。

 バーク保守主義では、文明社会の国民の権利(=例えば英国民の権利)は、その国英国においてその国(英国)”と”憲法によって擁護されると考えるという大きな相違がある。

 そしてこの条文も極めて不自然な点が2点ある

 第一に、不自然なのは「人の諸権利を政治権力が保全する」という「保全」である。「擁護するとは言っていないのである。つまり、第一条の全体主義の意図から訳し直せば、「全体主義による政治権力が人の諸権利を完全平等の状態に常に保つ」という意味になる。

 第二に、人の諸権利の中に「人の圧制への抵抗」が入っていることである。

 つまり、「政治権力の目的は、(人の圧制への抵抗を保存する」ということは、人民の圧制への抵抗権が圧制をする政治権力に簒奪されてしまっている状態を言う。

 元来圧制への抵抗権は、政治権力の外部に独立して存在していなければ意味がないのであって、圧制への抵抗権が圧制を行う政治権力に保存されてしまえば事実上人民に抵抗権はないということ」である。第二条も、ルソー主義の詐欺的な転倒語法であることがわかるであろう

 第3条(国民主権)

 すべての主権の淵源は、本質的に国民にある。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない

 →私の解説:ここでは、「国民」と「団体・個人」の意味の使い分けが注意点である。ここで述べられている「国民」とは、「一つの全体としての国民」、つまり全体主義の国民」である。ルソーの『社会契約論』では、「集合体としての人民」とされている。

 そして、「団体・個人」とは、独立した個々の団体・個人の意味である。

 すると第三条は、「すべての主権の発生源は本質的に一つの全体としての国民にあり個々の団体や個人には一つの全体としての国民が認めない限り、権威または個人の権利個人の主権は認めない」ということである。

 つまり、フランス人権宣言の「国民主権」とは「個人の集合体である一つの塊としての国民に主権がある」と言っているのであって、「個々の個人の自由な権利(=個人の主権)の行使は、全体主義的塊である国民の総意がない限り認めない」というものである。

 日本国民は、この「国民主権」を国民個人の権利として、日本国憲法の前文及び第一条に採り入れているが、国民主権を世界で初めて唱えたこのフランス人権宣言での「国民主権」の原義は、以上のようなものであることは知っておかねばならない。

 このことからしても、フランス人権宣言を「権利の聖典」のごとく崇めている人間中学生レベルの読解力しかない人間か、読解力があってその真意を知りながら全体主義を憧憬してやまない狂人かのいずれかであることがわかるであろう。そして、フランス人権宣言を崇める日本人とは、多くの場合、後者の社会主義者共産主義者らそれらのシンパである。

 第4条(自由の定義・権利行使の限界)

 自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない

 →私の解説:第4条の「自由」の定義は、英国のマルクスと言われるJS・ミルの『自由論』の「偽りの自由と全く同一である。

 バーク保守主義の“真正の自由”とは“道徳と1枚のコインの裏表である自由”であり、自由と道徳は一体で切り離せない

 この「切り離せない自由と道徳」の「道徳」のみを、あたかも切り離せるがごとく虚偽を唱えるのが、このフランス人権宣言の「偽りの自由」であり、JS・ミルの「偽りの自由」である。

 また、個人の自由も諸権利も、それを行使するためには、その行使を擁護する保証とその行使の結果に対する個人の責任及び義務が、必ず存在しなければ文明社会は成立しないのは自明の原理であろう

 例えば、日本国で、個人Aが権利A1(ここでは、仮に地方参政権とする)を行使しようとする。個人Aが、この権利A1行使できる保証は、日本国憲法第十五条と第九十三条第二項による権利A1の擁護があるからである。とすれば、逆に日本国憲法第十五条第九十三条第二項は、個人B、個人C、個人D、・・・にも同様に権利B1、権利C1、権利D1、・・・を擁護しているのであるから、個人Aは日本国憲法を遵守する責任と義務が生じ、他人BCD、・・・の権利行使を妨害することは決してできない

 このように、個人の自由や諸権利は、“”と“憲法に擁護され逆に個人がその”と“憲法を遵守する義務を果たす道徳心を持って初めて行使が可能となるのである

 なお、“法”と“憲法”の違いは、私のブログを連続的に読んで頂いている方には解っていただけるだろうが、極めて簡潔に言えば“”には“憲法には明記されていない「伝統」や「慣習を含む。

 伝統や慣習には、憲法には明文化されていないが、日本国民が過去の祖先が守り世襲してきた、伝統的精神や道徳規範が含まれており、これらも日本国民の自由や権利行使を擁護し保証する強力な準憲法のごとき存在である

 つまり、日本国民は伝統や慣習も遵守する責任と義務をもつということである

 軽々に、「古き粗大ゴミ」として、伝統や慣習を「放擲・棄却」するのではなく、“古き価値ある骨董品”として伝統慣習を「尊重・重宝して大切に保守せよ、いうことである。

 これが、バーク保守主義の「道徳と一体の自由(=自由の権利)」さらに言えば「道徳/義務と一体の国民の権利」(=これは、私の造語)である。

 これは、文明社会の根本原則であり、この原則によって各個人間の権利の行使による摩擦や衝突が回避されるのである。

 したがって、自由や国民の権利の行使における諸個人間の摩擦や衝突を回避する方法は、“”や“憲法”を遵守する義務を個人に課すこと、つまり個人の道徳観を高める教育をすることに尽きる。それだけで必要十分である

 いわゆる、「人権擁護法案」や「人権侵害救済法案」などによって生じるのは、「人権擁護」や「人権救済」ではなく、その名とは全く逆の国民の自由と権利の行使の抑圧や弾圧」である。このような法案は、ある種のイデオロギーを持つ特定の市民(または地球市民)」や「市民団体」等に意図的な権利侵害の申し立てを乱発させることによって、他人との権利衝突を起こしたくない善良な一般国民の自由や権利の行使までも萎縮させる形式をとった「究極の極悪法であり、「超人権侵害法案」にすぎない。

 もし、このような法案が立法されれば、日本国民は憲法第三章に規定された国民の権利すら行使するのが困難になる。

 すべての日本国民が公の場で他人に対し何も言えない何もできない政治資金問題などの政治家不正についても一切批判できないそのような暗黒社会へと転落するであろう。これらの法案は、極めて危険で、社会主義イデオロギーの権化のような法案である。

 このように考えれば、鳩山由紀夫民主党今この時期に人権侵害救済法案」を成立させようとしている意図はまる見えであろう。

 「民主党」は正直に「社会党」とか「民主集中党」とか「国家社会主義日本労働者党」と名称を変えるべきである。

 少なくとも、民主党が成立させようとしている「在日外国人への地方参政権付与」、「選択的夫婦別姓親子別姓制度」「人権侵害救済法の制度は、すべて暴力を使わずに国民騙しの立法による上からの社会主義革命・共産主義革命」への第一段階の目的達成法案(=アナーキズム化法案)である。

 日本国民はこれらの、「目隠し的・社会主義革命三大法案」の危険性を早急に認識し法案の成立を阻止せねば、「後悔先に立たずの大変な事態になるであろう

 話を第四条に戻して、第四条後半部の「したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない」であるが、簡潔にまとめると、「各人の諸権利の行使の限界は法律によってのみ定めうる。その限界とは、社会のすべての他者が自分のもつ諸権利同一の諸権利を享受できる範囲の限界のことである。」

 つまり、第四条の前半部の自由における「他人を害しない」の条件および、個人の諸権利を行使できる限界である「社会のすべての他者が同一の諸権利を享受できる範囲」は、国民議会(=国家権力)による人為的な法律で定めるというのである。

 簡単に言えば、個人が何と言おうと個人の自由と諸権利の行使は国民議会(=国家権力)が人為的に定める法律の範囲内に制限されるということである。

 もっと言えば、国民議会(=国家権力)が人為的な立法によっていくらでも国民の自由と諸権利の範囲を狭め究極的には自由ゼロ権利ゼロにできるということである。

 国民議会の後継である、国民公会(=非合法組織)が、“”と“憲法”――正義や道徳――に背反するあらゆる決定法律を制定して、国民虐殺のシステムをつくっていった。

 この「無“法”」と「不正義」と「悖徳」を正当化していく根拠となったのが、ルソーの『社会契約論』であった。

 ルソーは、「法律の神格化法律=一般意志を感知できるのは立法者のみ)」、すなわち「法律の神聖不可侵」とそれに伴う「法律の無審議の原則(=立法機関とは、人民立法者絶対服従しているかを踏み絵〈=法案への賛否の確認する場所」を新・宗教国家(理神教国家)の教理として主張していた。

 国民公会は上位の“憲法”に従わなければならないという“立憲主義”に一瞥すらせず、自分たちの決定で国民をギロチンで無限に殺戮すらできると信じたのは、次のように述べるルソーの悪魔の如き「法律の神格化」の教理に基づいていたからであった。

 「人民集会で一つの法律が提案されたときに、人民に求められているのは、厳密に言えばそれを承認するか、拒絶するかということではない。その法律が人民の意志である一般意志に合致しているかどうかがとわれている(=立法者の作成した法律は絶対であるので、人民が承認するか拒絶するかというレベルのものではない人民が立法者に服従しているかどうかが問われているのである」(ルソー『社会契約論』、光文社古典新訳文庫、2008年、214頁)

 このルソーの言説では、議会に提出された法律案は審議するのではなく人民が同意するだけで法律になる

 法律は「立法者」が「一般意志」を体現して文字にした神聖なもの、法律は「神(=立法者)の声」として奉戴し崇拝するもの、とルソーが定義するからである。

 また、人民(またはその代表者)とは、「個別意志が一般意志に一致している」か、否かの踏み絵を踏まされているだけだから、法律案を審議することは許されない、とルソーが定義しているからである。

 つまり、20世紀のヒトラーナチス・ドイツの「法治主義」、ケルゼンの「人定法主義法実証主義)」の原型はこの条文にあり、「全体主義の必要条件を規定しているのである。


 保守主義の哲学---「人権(=人間の権利)」についての考察(第1弾)---テロルの経典「フランス人権宣言」(その3)へ続く。


スポンサーサイト

テーマ : エドマンド・バーク保守主義
ジャンル : 政治・経済

コメント

Secret

プロフィール

バーク保守主義(広報部)

Author:バーク保守主義(広報部)
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード