保守主義の哲学---「人権(=人間の権利)」についての考察(第1弾)---テロルの経典「フランス人権宣言」(その4)


 1789826日のフランス人権宣言は、「フランス国民の権利侵害の宣言文書」であり、「フランス革命という人類史上初の全体主義体制の宣言文書」である。

日本初?テロルの経典「フランス人権宣言」の真正の逐条解説。

(その4)


 →私の解説にもどる。

 「法律は、一般意思の表明である。すべての市民はみずからまたはその代表者によってその形成に参与する権利をもつ。法律は、保護を与える場合にも、処罰を加える場合にも、すべての者に対して同一でなければならない。すべての市民は、法律の前に平等であるから、その能力にしたがって、かつ、その徳行と才能以外の差別なしに、等しく、すべての位階、地位および公職に就くことができる」について。

 まず、上記のルソーの『社会契約論』の解説から、「一般意志」は「立法者にしかわからないから「法律案を作成」するのは、あくまで、「立法者」である。

 第6条に「立法者」なる言葉など出てこないではないか、と言われるかもしれないが、「一般意志」なる用語がルソーの『社会契約論』の用語であることおよび、フランス人権宣言の前文で「こうして、国民議会は、最高存在の前に、かつ、その(=最高存在の)庇護のもとに、人および市民の以下の諸権利を承認し、宣言する」とあることから、「最高存在」が「立法者」のことである。フランス革命ではカトリックその他の宗教は潰滅させられたから、「最高存在」はイエス・キリストのような宗教上の神(GOD)を意味することはあり得ない。

 歴史事実に則して言えば、179468日にパリその他フランス全国で「最高存在(=理性神人間の理性と崇めるカルト宗教)」の祭典が行われている。

 また、「すべての市民はみずからまたはその代表者によってその形成に参与する権利をもつ」も、「その作成に」ではなく「その形成に」となっている。

 なぜなら、「法律案」を作成するのは、あくまで「立法者」であり、市民または代表者は、作成された「法律案」を「踏み絵」を踏まされるごとく、賛成票を投じるだけの意味である。これが、「法律の形成への参加」である。

 法律による保護も処罰も「すべての者に対して同一」とは、成人・未成年などの年齢差なども考慮しないことか?

 「すべての市民は、法律の前に平等」は英米系法学の“法の下の平等”の概念がさっぱり解っていないか恣意的に無視している。“”と“憲法によってのみその下(前)の平等が擁護されるのであって、上位の“”と“憲法”という砦のない「法律の前の平等」などは「法律を人為的に自由に立法したり改正したり廃棄したりすれば、「その前の平等など簡単に消え去ってしまう全く意味の無い条文である。「徳行と才能」であるが、国王・僧侶・貴族・人民など合計約50万人を殺戮した革命者らに正常な認識上の「徳行」などあるわけがないから、ここでの「徳行」とは革命に如何に貢献したかという革命貢献度」くらいに捉えるのが正しいであろう。

 第7条(適法手続きと身体の安全)

 何人も、法律が定めた場合でかつ法律が定めた形式によらなければ訴追され逮捕されまたは拘禁されない。恣意的な命令を要請し、発令し、執行し、または執行させた者は、処罰されなければならない。ただし、法律によって召喚され、または逮捕されたすべての市民は、直ちに服従しなければならない。その者は、抵抗によって有罪となる。

 →私の解説:この条文も、立法行為法律“法”と“憲法”によって制限されなければまったく無意味の条文である。国民議会(=政府権力)の都合の良いように法律を立法したり、改正したりすれば、国民議会(=政府権力)は何でもできる、ということである。

 まさに何でもありの暴力革命(テロル)のための条文と言える

 歴史事実に則して言えば、この「人権宣言」が1789826日に宣言された後に、あらゆる人々が法律によらず、勝手に処罰され殺された事実が証明している。

 1792810日、革命側の完全武装した軍隊による国王の居城(チュイルリー宮)への乱入は、約一千名の近衛兵をことごとく虐殺し、ルイ十六世の王室全員をタンプル塔に幽閉した。しかし、一切の手続きはされていない。どんな法律にも基づかない逮捕・監禁であった。

 179292日~96日、法務大臣ダントンの了承のもと革命派コミューンの暴民(=人民)は一千四百人の「王党派」を惨殺した。

 これらの虐殺・惨殺をして、人権宣言の第八条をもって「罪刑法定主義(=いかなる行為が犯罪となるかそれにいかなる刑罰が科せられるかは規定の法律によってのみ課せられる)」によって刑罰は免除される、と説かれる東北大学の憲法学者がおられるが、おそらく精神が病んでおられるのであろう

 ならば、私は全く逆に、権宣言の第八条は、フランス革命のテロルを正当化するために書かれた条文と言えるのではないかとお尋ねしたい。人権宣言の第八条規定しておいて、議会が犯罪を取り締まる法律を一つも制定しなければその間に犯した犯罪はすべて無罪ということでよいのか。

 このような、恐るべき暴言を吐く、気狂い的な人間が大学教授とは信じがたい現実である。

 また、「恣意的な命令を要請し、発令し、執行し、または執行させた者は、処罰されなければならない」は国民に強制力を持つ命令は、「立法者」が作成し、「国民議会」が無条件に賛成した「法律」のみである、と「法律絶対主義」の再確認である。

 第8条(罪刑法定主義)

 法律は、厳格かつ明白に必要な刑罰でなければ定めてはならない。何人も、犯行に先立って設定され、公布され、かつ、適法に適用された法律によらなければ処罰されない

 →私の解説:このフランス人権宣言以後、国王・僧侶・貴族・人民など合計約50万人の反革命派が殺戮された歴史事実をみれば、この第八条は、テロル行為に対する加罰逃れのために、恣意的に設けられた条文であると考えるのが道理に合うであろう。

 第9条(無罪の推定

 何人も、有罪と宣告されるまでは無罪と推定される。ゆえに、逮捕が不可欠と判断された場合でも、その身柄の確保にとって不必要に厳しい強制は、すべて、法律によって厳重に抑止されなければならない。

 →私の解説:フランス人権宣言の「人権は、反革命派のためではなく、サン=キュロット(=フランス革命の主な担い手であった都市の手工業者小商店主などの民衆のこと)のためにのみ創られている」(シャーマ『フランス革命の主役たち』下巻、中央公論社、92頁)という指摘があるとおり、完全に、テロリスト側を擁護する条文である。

 第10条(意見の自由)

 何人も、その意見の表明が法律によって定められた公の株序を乱さない限り、たとえ宗教上のものであっても、その意見について不安を持たないようにされなければならない。

 →私の解説:この条文も、立法行為法律“法”と“憲法”によって制限されなければまったく無意味の条文である。政府権力(=国会)が、法律によって「公の秩序」を都合の良いように定められるのであるから、意見の自由など全くないと言ってよい。

 第11条(表現の自由)

 思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである。したがって、すべての市民は、法律によって定められた場合にその自由の濫用について責任を負うほかは、自由に、話し、書き、印刷することができる。

 →私の解説:この条文も、立法行為法律“法”と“憲法”によって制限されなければまったく無意味の条文である

 第12条(公の武力)

 人および市民の権利の保障は、公の武力を必要とする。したがって、この武力はすべての者の利益のために設けられるのであり、それが委託される老の特定の利益のために設けられるのではない

 →私の解説:この条文ほど危険な条文はない。「人および市民の権利の保障は、公の武力を必要とする」など言語道断で、これこそ前近代的思想である。

 国民の権利の擁護と保証は、“法の支配”・“立憲主義の確立によって、行うべきものであり、公の武力を用いるなど極めて危険で前近代的発想である。

 そして、武力を制御(=コントロール)するために、後半部の「したがって、この武力はすべての者の利益のために設けられるのであり、それが委託される老の特定の利益のために設けられるのではない」としているが、第八条の罪刑法定主義を装ったテロル擁護条文国民議会による法律制定の不作為が両立すれば、武力は制限なく行使される

 実際に、この第12には「公の武力の行使」に対して制限をかけるための「法律の定めによって・・・」という条件文すらない

 その結果が、国王・僧侶・貴族・人民など合計50万人反革命派が殺戮された歴史事実である

 このように、フランス人権宣言テロル実行のための「テロル擁護の経典であったことはその条文と、その下で行われた悲惨な歴史事実が明確に示している。

 ところが、日本国の学界・教育界だけは、「テロルの経典」であるフランス人権宣言を美化し高く肯定した教育をしている

 これは、真の狂気であり、日本の文部省・学界・教育者は、日本国で第三次フランス革命」(→第二次は言わずもがな、ロシア革命である)でも起こしたくてしょうがないのであろうか、と疑ってしまうのは、私だけであろうか。

 第13条(租税の分担)

 公の武力の維持および行政の支出のために、共同の租税が不可欠である。共同の租税はすべての市民の間でその能力に応じて平等に分担されなければならない。

 →私の解説:「共同の租税」とは、ルソーの『社会契約論』第三編 第八章 課税原則 「(負担した租税の)すべてが共同の利益のために利用される租税」(ルソー『社会契約論』、光文社古典新訳文庫、2008年、160頁)のことを意味した用語だと思われる。

 また、不可思議なのは、「すべての市民の間でその能力に応じて平等に分担」についての「その能力に応じて平等に」の形容矛盾の表現の意味である。

 この第13条の租税の分担の条項には、第12条と同様に「法律の定めによって」とか「法律の定めるところにより」の条件文が無い。

 「国民の租税能力の程度に応じて、国民議会の分担要求枠に従って」くらいの意味なのであろうか。

 いずれにしても、第12条と第13条は、革命側にとって必要な公の武力」と「財源(=租税)」については、法律を作らずに国民議会(=政治権力)が命令できるように、「法律の定めによってなどの条件を保留していることは事実である。

 第14条(租税に関与する市民の権利)

 すべての市民はみずからまたはその代表者によって、公の租税の必要性を確認し、それを自由に承認し、その使途を追跡し、かつその数額、基礎、取立て、および期間を決定する権利をもつ。

 →私の解説租税は市民自ら、またはその代表者が、数量、基礎、取立て、および期間を決定する権利を持つ?

 正常な自由主義社会においては、市民自らが自己の租税の数量等を決定して、自ら納税するとは、おかしな話であるが、ルソーの社会契約の共同体なら、おかしくはない。

 ルソーの共同体では、諸個人は、自己の自由・財産・権利のすべてを共同体に譲渡するから、個人の権利は共同体が握っている。だから、共同体の決定は自己の決定と同義になるからである。

 第15条(行政の報告を求める権利

 社会は、すべての官吏に対して、その行政について報告を求める権利をもつ。

 →私の解説:「社会(=共同体)は・・・」となっているから、国民議会(=共同体)は、すべての官吏が人民の「社会契約」に基づいて、国民議会(=共同体の定めた法律を適正に施行しているかをチェックする権利をもつ、という意味であろう。

 第16条(権利の保障と権力分立)

 権利の保障が確保されず権力の分立が定められていないすべての社会は憲法をもたない(=もつものでない:『人権宣言集』岩波文庫、133頁)。

 →私の解説:恐るべき、論理の転倒である。権利の保証権力の分立を確実かつ普遍なものにするために、最高法規である憲法(国体)を構築し憲法によって下位の法律国民の権利権力の分立侵害するのを抑制・防御するのである。

 「フランス革命」と「米国の独立及び建国」が全く異質なものであるのはこの点に凝縮されているといって過言ではない。

 つまり、フランスの革命屋ら」は“法の支配”・“立憲主義”がさっぱり理解できず憲法を廃止して、新憲法も制定せず国家はアナーキーとなった

 米国の建国の父ら13邦がアナーキーとなるのを怖れ、“法の支配”・“立憲主義の重要性を十分理解して、“準コモン・ロー”ともいえる“米国憲法”を制定した。

 第17条(所有の不可侵、正当かつ事前の補償)

 所有は、神聖かつ不可侵の権利であり、何人も、適法に確認された公の必要が明白にそれを要求する場合で、かつ、正当かつ事前の補償のもとでなければ、それを奪われない

 →私の解説:ここで、ルソーの『社会契約論』を再度、引用する。

「国家の内部では、社会契約すべての権利の基礎となるために、国家(=社会契約を遵守する主体としての共同体は社会契約のおかげですべての成員の財産を自由に処理することができるのだが、外国に対しては自国の個人からひきついだ、最初に占有した者の権利(=占有権)に基づく権利しか主張できないからである。最初に所有していた者の権利(=先占権)は、最強者(=国家=共同体)の権利よりも現実的なものではあるが、これは(=占有権は)所有権が確立するまでは真の権利となることはない

 人は誰も、自分に必要なものを手に入れる自然な権利をもっている。しかし(契約社会である共同体においては)人が(共同体の持ち物である)ある財産を自分のものとして所有する積極的な行為をなした瞬間に(それ以外の自然な権利を喪失して、共同体の)他のいかなるものも入手できなくなる

 自分の分け前が決まったのだから、それで満足すべきなのであり、共同体にたいしてはもはやいかなる過分な所有の権利をもたないのである。

 先占権は、自然状態では極めて弱いものだったが、すべての文明人がこれを尊重するのはそのためである。先占権においてわれわれが尊重するのは他人に属するものであるよりは自分に属さないものなのである」(ルソー『社会契約論』、光文社古典新訳文庫、2008年、52頁)

 この部分は、『社会契約論』第9章 土地の支配権 社会契約と所有権 に関する引用であるが、要するに社会契約の国家(共同体)では自分に先占権のある物土地以外のすべての物について所有する積極的な行為は許されないということである。

 つまり社会契約をした時点で個人は自分に先占権がある所有物以外のいかなる物も追加的に所有することを禁止する、ということである。

 以上を踏まえた上で、この第17条を解釈すれば、「所有は、神聖かつ不可侵の権利である」から「個人が自分に先占権がある所有物以外のいかなる物も追加的に所有することを禁止する

 しかし、適法に確認され、=国家=共同体、ある所有を必要なものとして要求して、かつ正当な事前の補償をする場合についてのみは、個人が拒もうと国家共同体はその所有を強制収用できる」と言う意味である。

 簡単に言えば、個人が所有を蓄積するのは認めないが、国家が個人に要求し、事前の補償をするときは、その個人は自分の所有をその意思に関係なく国家に収用されるということである。

 そしてこの「適法」も法律を“”と“憲法”の拘束なしに自由に制定できるならばすべての行為が適法となる

 また、この第17条は、上記の『社会契約論』の「国家の内部では、社会契約すべての権利の基礎となるために、国家(=社会契約を遵守する主体としての共同体)は社会契約のおかげですべての成員の財産を自由に処理することができる」に基づいている。


まとめ

 以上考察してきたように、「フランス人権宣言は、18世紀哲学の要約である」とか「時間的空間的に限定された諸原理を明言するものではなく人間社会に共通の普遍的原理を承認するものである」とか「人の本性から派出する自然権として人は人であるかぎりその帰属を受ける」とか「恒常的に存在するかぎりその帰属を受ける」などの美辞麗句はすべて、虚偽・虚構でありそのように日本国民に教育することは日本国民をテロルへと煽動する一種の犯罪である

 先にも述べたが、その国民が、文明社会の高級な権利」である「国民の権利」をもつ国家NPにおいて、自然社会の「野蛮で低級な権利」である「人権(=人間の権利)」を「権利侵害の基準」に据えてしまえば、「高級で複雑な権利」の行使は国民の間ありとあらゆる形の権利の衝突」や「権利の闘争」「権利侵害の訴訟が生じるのは必然であり、文明社会(国家)NPはアナーキズム化するということである。

 これを文明国フランスで画策し、実行したのが「フランス革命」であり、「低級で野蛮な権利」を「権利侵害の基準」として示したのが、テロルの経典である「フランス人権宣言」である。

 であるから、正確には「フランス人権宣言はルソーの社会契約論に洗脳された理信教の信者(=ルソー主義者)らが、カトリック他すべての既存宗教の破壊を行い理信教の「新・宗教国家を創造するためのテロル行為を無罪化するためのテロル開始の宣言文書経典)、テロルによる人権侵害の容認文書に過ぎずフランス国民約50万人を無差別に殺戮した(=最も悲惨な形でのフランス国民の権利の侵害と消滅をおこなったフランス革命を擁護した悪魔の経典であった」というのが正しい認識である。

 実際に歴史の事実がそれを鮮明に証明している

 なお、「エドマンド・バーク保守主義(哲学)」と「フランス革命の悲惨な真実」をさらに詳しく学びたい読者は、中川八洋 筑波大学名誉教授 著(『正統の憲法 バークの哲学』、中公叢書2001)が非常に詳しい。このブログも若干部分、中川八洋先生の『正統の憲法 バークの哲学』から引用させて頂いている。

 また、この著作は、ルソーの思想フランス革命の真実の他、明治憲法思想日本国憲法思想英国憲法思想米国憲法思想などが詳細に解説してあり、1冊の中に極めて有益で豊富な叡智を含んでいる。読む価値が極めて高い名著である、と私は思う。


「人権」第一弾END

 次回は、人権第二弾目として、日本国憲法第三章の「国民の権利」についての考察を紹介する予定である。


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