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保守主義の哲学---「人権」についての考察(第2弾)---日本国憲法「第三章 国民の権利及び義務」(その1)


「人権(=人間の権利)」についての考察(第二弾)

 日本国憲法第三章 国民の権利と義務」に関する

 バーク保守主義哲学および英米系憲法学的考察について(その1


 「保守主義の哲学シリーズ」では、ここ数回にわたって、現代日本国民が呪縛され金縛りにあっている人権(=人間の権利)」について、徹底的に考察し、いかにすれば、日本国民を「人権」の呪縛と金縛りから少しでも解き放つことに貢献できるかと試行錯誤しながら、解決の糸口をつかむために努力している。

 前回の第一弾は、「人権の起源である「フランス人権宣言」が文明国であったフランス国民の権利を擁護・保護するものではなく、全く逆に「テロルの経典」であったことをルソーの『社会契約論』を引用しながら、逐条解説することによって論理的に解き明かしたつもりである)。

 第二弾は、日本国憲法の「第三章 国民の権利と義務」に関する考察を行うこととする。

 これは一例を挙げれば、平成11813日に公布され、同日より施行された「国旗国歌法国旗及び国歌に関する法律)」に基づいて、学校行事で国旗の掲揚や国歌(君が代)の斉唱を学校側が生徒側に促すこと、義務づけることを、『憲法第「三章国民の権利及び義務」における憲法第十九条「思想および良心の自由」違反だ』として、ボイコットする反日の生徒やその両親及び、一部の教師の主張と行動に真正の論理があるのか否か」「その主張と行動をどう考えるべきか」をバーク保守主義哲学)及び英米系憲法学の観点で理論的に探究してみるためである。

 ただし、今回は「第三章 国民の権利及び義務」に入る前段階として、(Ⅰ)“法の支配”・“立憲主義”の解説、(Ⅱ)第一条「象徴天皇制と国民主権」の解説と本来のあり方(Ⅲ)第九条「平和主義」の偽善と欺瞞について解説することとする。

 エドマンド・バーク保守主義哲学)を「是」と考えるか「非」と考えるかは読者の皆さんの判断に委ねるとしても、読むだけの価値ある重厚な内容を準備したつもりである。興味ある方は、ぜひ読んで頂きたい次第である。

(Ⅰ)法の支配”・“立憲主義”についての誤解と誤謬

 “法の支配”について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、次のように解説している。

 『大日本帝国憲法のとる狭い意味の法治主義に対置する概念。「法の支配」とは、「人の支配」(つまり権力者の恣意的判断)を排して、理性の法が支配するという概念で、英米系法学の憲法の基本的原理を取り入れたものである

 この「」は、自由な主体たる人間の共存を可能ならしめる上で必要とされる「」とされ、国民の意思を反映した法すなわち日本国憲法である。そこで、憲法に基づいて権力が行使されたか否かを審査する裁判所がなければならず、制度的には、裁判所に違憲立法審査権を与え、憲法の番人としての司法の優位が確立し、「法の支配」が守られる様に担保している。』(引用ここまで

 しかし、英米系憲法学からすれば、この「法の支配」に関する解説は、特に前半2/3程度は、甚だしい誤謬にすぎる

 第一に、この解釈文自体の中に、自己矛盾がある。

 つまり、『「法の支配」とは、「人の支配」(つまり権力者の恣意的判断)を排して、理性の法が支配するという概念で、英米系法学の憲法の基本的原理を取り入れたものである

 の箇所であるが、人間の理性の法が支配することが、英米系法学でいう「人の支配」のことそのものである。

 このように、「理性の法の支配」などは、形容矛盾も甚だしい妄語である。

 「理性の法の支配」とは、ハイエク(ノーベル経済学賞受賞・政治哲学者)が名づけた、「デカルト的設計主義的合理主義」という、デカルトに由来する「人間理性の数学的完全性」を妄想し、神をも畏れぬ人間理性への狂信による「人の支配のことである

 真の“法の支配”とは、1617世紀の英国の法曹家エドワード・コーク1215年のマグナ・カルタなど過去四百年に遡る中世封建時代の法的遺産を「現在」と「未来」の英国の“自由の砦”とするために掘り起こし磨き再生させた普遍的な憲法原理のことを意味する。

 コークは、国王ジェームス一世が「法は理性に基づいている自分も裁判官と同じように理性をもっているから裁判をすることができる」と発言したとき、「陛下は英国の国法(=コモン・ローを隅々まで知ってはおられない(=法とは英国のある時代のある特定の英国民の理性によるものではなく、英国の過去の祖先から世襲相続した叡智の集積の中にある普遍的な原理のことである)。訴訟は理性で決定されるべきではない(=英国法に基づいて決定すべきである)」と叛逆罪覚悟で奉答した。

 国王ジェームス一世はこれに激怒したが、とっさにコークは「国王は神と法の下にあるべきである」(『コーク判例集126365頁)述べ、国王大権も法の支配により制限されるべきでものある、と言ってその場を切り抜けたのである。

 エドワード・コークによれば、“国法憲法”とは次のように要約される。

 ①マグナ・カルタ森林憲章、・・・の諸制定法、古くに遡るその他の制定法。および、民事訴訟における起訴開始令状刑事訴訟における正確な起訴状(=過去の裁判の判例など)・・・は、英国の最も一般的で古い法であるコモン・ロー(=憲法)の本体である」(『コーク判例集8』、まえがき)

 (イ)「コモン・ローこそが権利である。それは臣民にとって最善の生得権である。なぜなら、それによって、臣民の財産、土地、妻、子供、身体、生命、名誉および評判が危害と悪から保護される」(『英国法提要』第Ⅱ巻、56頁)

 (ロ)コモン・ローは、人間が求めることのできる最も確かな安全域であり、また、最も弱き人々を保護する最強の要塞である」

 (ハ)「国会の制定法が(コモン・ローの物差しで示す)一般の正義と条理に反しているか、矛盾しているか、もしくは執行が不可能である場合、コモン・ローはこの制定法を抑制し、無効と判決する」(『コーク判例集8』118a頁)

 (ニ)「いかなるものも、法の適正な手続きによらずしては、・・・その自由保有土地、生計、自由、自由な慣習、すなわち自由に生まれたことによる生得の権利によってそのものに属する特権と自由と自由な慣習は、奪われたり処分されたりしない」(『英国法提要』第Ⅱ巻、4546頁、36プラス頁)

 (ホ)「英国古来のすばらしき法は、国王の臣民がもつ生得権で、最も古くからある最高の相続財産である」(『コーク判例集5』、まえがき)

 ②慣習はもう一つのである」(『コーク判例集4』、111頁、38頁)

(イ)「個々の国に特有のそして是認されている慣習は、最も拘束力のある確実なコモン・ローである」(『コーク判例集5』、まえがき)

 この法諺を基準とすれば、古来の慣習伝統制度で、過去の祖先からの世襲相続により現在まで継承されてきたものに抵触する「法律」は立法してはならないということになる。

 つまり現在ある慣習伝統制度も成文化された“成文憲法”に規定されていないとはいえ、“法=国法=憲法”であるから尊重せよ、という意味である。

 例えば、極左のマルキストである大沢真理 東京大学教授らの暗躍によって導入された「男女共同参画基本法」(19996月)は、悪魔のカルト宗教というべき「男性から男性性の解体女性から女性性の解体」を目指す、第三期フェミニズムの「ジェンダー・フリー(→日本の過激な女性マルキストらがつくった日本語である)」を法制化したものである。

 その第四条では、「社会における制度又は慣行男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものにする」とあるが、「男女の社会における活動の選択」を日本国民は単なる「社会における男女の法の下の平等と思い込んでいるが、全くの誤解である。

 この法律は、上記の「第三期フェミニズム」として法制化されたのであるから、第四条真意男女の社会における活動の選択」=「ジェンダー・フリー社会の選択」のことである。

 つまり、この第四条は、日本国第三期フェミニストの希望である「ジェンダー・フリー社会に改造するのに障害になる、日本国の制度・慣習・伝統などは破壊しても良いと定めている条文である。そして法律の第十四条でそれを地方の自治体へ強制しており、完全な中央命令型(集権型)の反日・国家解体法である。

 ちなみに、第三期フェミニズムのイデオローグの一人であるE・バダンテール(仏)は、男性も妊娠・出産する時代が来ると幻想する狂人女性である。そして“理想の人間”として両性具有(=アンドロジナス)を夢想している。ここまでくると、もはや精神的に正常ではない。

 しかし、日本国の「ジェンダー・フリー教育」が千葉市男女共同参画課発行の『ハーモニーちば』第31号(1999年)に描かれているように雌雄同体の「カタツムリ・でんでんむし」を“理想の人間”としているのは、第三期フェミニズムを正しく狂信しているからである。

 読者の皆さんも、自分の住む都道府県・市町村などの男女共同参画課小・中・高等学校などへ行くことがあれば、貼ってあるポスター月刊広報などを良く観察して頂きたい。「カタツムリ・でんでんむし」のロゴが見つかれば、その行政機関は「ジェンダー・フリーウィルスを確実に読者の皆さんの住む都市にまき散らしているということの証拠である。

 次の標語を覚えてください。「見逃すなジェンダー・フリーはカタツムリ

 第二に、『この「」は、自由な主体たる人間の共存を可能ならしめる上で必要とされる「」とされ、国民の意思を反映した法すなわち日本国憲法である』については、何が言いたいのか良く解らない。

 しかし英米系の憲法学保守哲学から言えば、上記のエドワード・コークの定義から分かるように、『ある国の国法とは、「国民の生命/安全私有財産自由/道徳・(名誉/評判)」を擁護し、最も弱き人々を保護する最強の要塞である、「古来の諸制定法の一群と民事および刑事裁判の判例の集積であるコモン・ロー本体(=憲法)とその国古来の慣習伝統制度の総体のこと』と定義できる。

 これらの“国法”のうち国体の根幹部分のみを成文化した(→GHQ欽定憲法であるから、そうとは言い難いところがあるが・・・)ものが「日本国憲法」である。

 また、コークが国会の制定法が(コモン・ローの物差しで示す一般の正義と条理反しているか矛盾しているか、もしくは執行が不可能である場合コモン・ローはこの制定法を抑制し、無効と判決する」と述べているとおり、日本国憲法は、国の最高法規であって、憲法の条規に反する法律命令、・・・その効力を有しない(=憲法第九十八条)と規定されている。また、最高裁判所が違憲立法審査の権限を持つ(憲法第八十一条)のである。

 以上が、“法の支配”または“立憲主義”の説明であるが、“”あるいは“国法”を理解するのは、なかなか難しいし、うまく説明するのも苦労するのであるが、私の説明で、漠然とでも理解頂けたならば、幸いである。

 なお、英国ではマグナ・カルタ・森林憲章・権利の請願・権利の章典・王位継承法などが過去の制定法として存在するが、それでは、日本国法とは、何かと問われれば、私は以下のように回答する。

 ①古来の世襲(相続)の原理による万世一系天皇(皇室)は“日本国法の中の日本国法”である。なぜなら、日本国過去二千六百年以上にわたる祖先および統治者が、途切れることなく守護してきた「ルール(rule」だからである。

 ②日本国の起源を示す『古事記』、『日本書紀』の日本神話から生じた「神道」、古代中国・朝鮮から伝来した道徳規範である「儒学」、仏の法を説く「仏教」の神仏儒習合の法理は、日本国民の精神の形」としての“日本国法”・“コモン・ロー”である。

 ③ 上記②のコモン・ローの法理を祖先が成文化した「制定法」の一群のうち、世襲(相続)の原理による歴史の取捨選択を受けてもなお、現代にまで遺り、「真正の自由を擁護する諸原理

 具体的な「制定法」とは、聖徳太子の『十七条憲法』・藤原不比等らの『大宝律令(=刑法および民法)』のち『養老律令』・北条泰時らの『御成敗式目(貞永式目)』・江戸幕府による『武家諸法度』・『禁中並公家諸法度』・徳川吉宗の『公事方御定書』・明治天皇の『五箇条の御誓文』・伊藤博文井上毅金子堅太郎伊藤巳代治の起草による『大日本帝国憲法(明治憲法)』・『教育ニ関スル勅語(教育勅語)』・『日本国憲法』などを指す。

 ただし、『日本国憲法』はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)欽定憲法」であり、日本国の憲法(=the Constitution、国体・国柄)とは言い難い条文が多々あるので。扱いに注意を要する。

 ④ 祖先より、世襲(相続)の原理により子孫に継承された慣習伝統制度。「日本国の伝統・慣習・制度は“日本国法”の一部」である。伝統には、文化的遺産のみでなく精神的遺産孔子の『論語』や佐藤一斎の『言志四録』や新渡戸稲造の『武士道』に通ずる日本国民固有の精神など)も含む。

 以上の①から④が日本国の法(=Law”であり、日本国の“法(=Law)”の核心部を明文化した成文法が“憲法(=the Constitution”である。

 第三に、“法の支配”が『大日本帝国憲法のとる狭い意味の法治主義に対置する概念』などは全くの虚偽・虚構である。

 大日本帝国憲法明治憲法)こそが、日本国の真の日本国法”=“日本国の国体を成文化した真正の憲法である。憲法の条文に若干の不備があり、統帥権干犯問題天皇機関説事件大東亜戦争(特に対英米戦争)に突入してしまったことなどにおいて軍の暴走を止められなかったという難点があったのは事実である。

 しかし、昭和天皇は、“立憲君主を貫徹された偉大な大帝であった

 立憲君主を貫徹された昭和天皇を逆に悪用したのが帝国政府や帝国陸海軍であり、純度100%のコミュニストである近衛文麿総理が帝国議会を欺いて成立させた国家総動員法とその後の統制経済体制のための省令の乱発大政翼賛会の設立こそが、明治憲法を無視した政府による“無憲法”の「法治主義」の典型なのあって、大日本国帝国憲法自体をして天皇という人による支配」=「狭い意味の法治主義」などとは憲法も真の歴史も全く知らない阿呆の戯言である。

 “明治憲法体制は真正の法の支配であり、“立憲主義であった。現在の日本国憲法の「前文」と大日本帝国憲法の「上諭」を読み比べてみよ。それを読みくらべただけでも、日本国2600年以上の歴史を知るものであれば、どちらが日本国の国法であるか一目瞭然である

 それでも解らないならば、中川八洋 筑波大学名誉教授 著(『正統の憲法 バークの哲学』、中公叢書、2001年)、(『山本五十六の大罪』弓立社、2008年)、黒田勝弘 畑義英編(『昭和天皇語録』、講談社学術文庫、2004年)、(『昭和天皇独白録』、文春文庫、2006年→ただし、217頁以降のくだらない推論座談会は読む必要が無いし価値もない。)

 (なお、“法の支配”についての詳しい説明は、中川八洋 筑波大学名誉教授 著『保守主義の哲学』、PHP研究所、第二章第二節を参照してもらいたい)

 (また、上記の「男女共同参画基本法」および「第一次から第三次フェミニズム等」についての詳細な説明は、中川八洋/渡辺昇一 共著教育を救う保守の哲学』、徳間書店、第Ⅱ部第一章を参照してもらいたい。※この著作は私の個人的意見だが「五ツ星」の教育救済論である。

 私が尊敬する保守主義の二大巨頭の共著であるが、さすがに内容が濃い。この一冊で、巷のくだらぬ、的外れの教育論の著作何冊、何十冊分の価値があるであろうか・・・。

 時間的・金銭的に余裕のある方は是非読んで頂きたい。自分の子供の学校教育現場で、どのようなことが起こっているのか、これから起ころうとしているのかを見抜く叡智が頂けるであろう。)


「人権(=人間の権利)」についての考察(第二弾)

 日本国憲法第三章 国民の権利と義務」に関するバーク保守主義哲学および英米系憲法学的考察について(その2)へ続く。


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テーマ : エドマンド・バーク保守主義
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