保守主義の哲学---「人権」についての考察(第2弾)---21世紀日本国へ・バーク保守哲学による人権批判論(その4)


「人権(=人間の権利)」についての考察(第二弾)

法と自由と道徳(義務)の関係

道徳義務)と権利権利行使の自由の関係

に関するバーク保守主義哲学および英米系憲法学的考察について(その4


 21世紀の日本国及び日本国民の「人権呪縛」「人権金縛り」から身を守る理論的武装としてのバーク保守哲学その4

 次に、英国憲法文書について調べてみると、

 (イ)マグナ・カルタ1215年)

 「第六十三条 このように、朕は、イングランドの教会が自由であること、ならびに朕の王国内の国民が前記の自由権利及び許容のすべてを、正しく平和に、自由かつ平穏に、かつ完全に彼ら自身のためおよびその相続人のために朕と朕の相続人から、いかなる点についてもまたいかなる所においても、永久に保有保持すること欲しかつ確かに申し付ける」(宮沢俊義ら編『人権宣言集』、岩波文庫、1987年、5354頁)

 →英国民の「自由と権利」は世襲相続自由と権利」であるということ。

 (ロ)権利の請願1628年)

 「(三)また『イングランドの自由の大憲章』とよばれる法律(=マグナ・カルタ)によって、自由人は、その同輩の合法的裁判によるか、国法によるのでなければ、逮捕監禁され、その自由保有地自由、もしくは自由な慣習を奪われ、法外放置もしくは追放を受け、またはその他いかなる方法によっても侵害されることはない、と定めている」(宮沢俊義ら編『人権宣言集』、岩波文庫、1987年、58頁)

 「(四)また、エドワード三世治世第二十八年に、国会によって、いかなる身分または地位にあるをとわず、何人も、法の正当な手続きによって答弁の機会を与えられることなしに、その土地もしくは保有地から外に逐われ、逮捕監禁され、相続権を否認され、または死にいたらしめられることはない、と宣言され、規定された」(宮沢俊義ら編『人権宣言集』、岩波文庫、1987年、58頁)

 (ハ)権利の章典1689年)

 「僧俗の貴族及び庶民は、・・・まず第一に、(かれらの祖先が同様な場合に行ったようにかれらの古来の自由と権利を擁護し、主張するため、次のように宣言した」(宮沢俊義ら編『人権宣言集』、岩波文庫、1987年、81頁)

 「〔六〕前記宣言中に、主張され要求されている権利及び自由は、その一つ一つが全部、我が国の国民の真正で古来から伝えられ疑う余地のない権利及び自由であり、そのように評価され、承認され、判断され、思惟され、理解されなければならない」(宮沢俊義ら編『人権宣言集』、岩波文庫、1987年、85頁)

 以上の英米系憲法の条文を考察すれば、第十三条の「幸福追求に対する国民の権利」とは、生命自由を享受するための手段としての私有財産権(私的所有権)とその相続権程度しか示唆していないと解釈するのが妥当であるのに、これらに解釈には全く触れず、この条項を「新しい人権を引き出す根拠」などと解釈するのは、暴論にすぎるであろう。

 このことは、日本の憲法学者が英米系憲法学をさっぱり理解していないという無知の証左であるか、知りながら私有財産権やその相続権に触れたくないという私的所有の禁止」のマルクス主義的傾向が極めて強いことの証左であろう。実体は憲法学者の9割が後者であると聞いている。

 なお、「自己決定権」と「児童の権利に関する条約」について少し触れておく。

 「児童の権利に関する条約(=通称:子供の権利条約)」は、1994社会党党首マルクス主義者村山政権下で批准された。この条約の悪用は日本の教育にとって破壊的な力を持っていると言われている

 1998年春、「日の丸」と「君が代」に反対して卒業式/入学式をボイコットし、校長に“反乱”した埼玉県立所沢高校の生徒たちが、「子供の権利条約」の第十二条の「意見表明権」侵害で条約違反行為だとして、日弁連に「人権救済」の申し立てをすると喧伝していた(『朝日新聞(夕刊)』199849日付)。

 背後に、マルクス主義の「赤い教師」と「赤い弁護士」と「赤い親」が動いているのであろうが、かつてのプロレタリアートきどりの生徒による「学校占領」を煽動するのに「子供の権利条約は都合のよい葵の御紋となった。

 また、19973月末の、京都府立桂高校で実際におきた、制服導入派の校長に“反乱”する「制服反対」の生徒たちの、卒業式での校長非難のシュプレヒコール、それは、「学校の主人公は生徒です」であった。そして、愚かにも、この同年10月、ジュネーブで開かれた「国連子供の権利委員会」にこの桂高校の生徒六名が制服の着用ルール校則は人権侵害だと訴えた(『朝日新聞』19971010日付)。

 ところがジュネーブではどうやらさんざん馬鹿扱いを受けたらしい。私に言わせれば、「彼らは、真正の馬鹿」だから当たり前の結果である。

 以上の例を見るまでもないが、「人権(=人間の権利)」と、これから派生した「子供児童の権利」という魔語は凶暴に日本国を支配している。

 日本国および日本国民は、「人権に思考を麻痺して、「人権を恐れる余りに常識も責任も放棄している。とくに「人権教」に侵された日本国の学校教育現場はアナーキーを日々色濃くしている

 1998130日、栃木県黒磯北中学校の一年生の少年(十三歳)が、英語の腰塚佳代子教諭をバタフライナイフで刺し殺したが、ナイフ所持の生徒が急増したのに、「人権の名においてこの所持の検査ができなったために、おこるべくしておきた事件であった。

 ここで、バーク保守主義者の私の意見を率直に述べておく。

 上記で述べた、(3)日本国民の「権利と義務の関係」の諸原則を当てはめるならば、

 ① 成人については、文明国家である日本国民に自然社会の自然人の権利である「人権など適用できない

 →適用できるのは憲法に保障・擁護された「国民の権利」のみであり、第十三条の幸福追求に対する国民の権利」とは、上述のとおり、自由主義国家の英米系憲法学の解釈では本来生命自由を享受するための手段としての「私有財産権(私的所有権)と相続権程度の意味しかない

 よってこの条文から様々に作り出された新しい権利の羅列は、憲法上の国民の権利」であると言いきることは、司法(裁判所)にしかできないし、裁判所とて判決に困惑する。

 裁判所は、判決に困惑する場合は無難な道を選ぶから、具体的に憲法に規定されていない新しい権利の主張は違憲であると判決する可能性が高い(つまり、新しい権利は、憲法上の「国民の権利」として認めにくい、ということである)ということを知っておくことが重要である

 ②結論を先に言えば、未成年の児童は子供の権利を行使する自由を所有しない

 なぜなら、

 (原則1憲法(=日本国法によって保証・擁護された国民の権利の所有」及び「その権利を行使する自由の所有の原則

 (原則2)“真正の自由(=道徳と一体の自由)”に依拠しない国民の権利の行使は違憲行為であり正当な権利行使ではない

 (原則3権利行使と結果義務の自己完結の原則

 (原則4)「国民の権利の所有及びその権利を行使する自由の所有の峻別の原則

 から、

 ①「人権」については、日本国は立憲主義国であるから(原則1)から自明。

 ②「子供の権利」については、(原則2)により、成人であっても、道徳(=行為の結果に対する義務)が伴わない自由による国民の権利行使は違憲であり正当な権利行使ではない。

 いわんや、子供児童は明らかに結果に対する義務を自己に背負えないから子供の権利を所有していても、行使する自由は所有できない

 簡単に言えば、結果責任をとれない子供(児童)の権利行使の自由など、文明社会(国家)では行使できないという「当たり前の一言」に尽きる。

 子供児童)の幼稚かつ無責任かつ無知の極み権利主張に対してはすべてこの論理で却下できる

 ただし、私は、子供(児童)でも、その年齢に相応した自己責任を負えるだろう程度の正当な主張まで、何にもかも、すべて却下せよと言っているわけではない。

 では、全54条からなる「児童の権利に関する条約」の第十二条の「意見表明権」を児童や保護者等が根拠として、振り回せばどうするか。

 この場合は、「児童の権利に関する条約5条で簡単に反論できる。「児童の権利に関する条約」は第六条から子供の権利が列挙される。そして5条までに適用に関するルールが示されている。


 児童の権利に関する条約

 第12

 1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。

 2 このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。

 第5

 締約国は児童がこの条約において認められる権利を行使するに当たり父母若しくは場合により地方の慣習により定められている大家族若しくは共同体の構成員法定保護者又は児童について法的に責任を有する他の者がその児童の発達しつつある能力に適合する方法で適当な指示及び指導を与える責任権利及び義務を尊重する

→私の解説:私はこの第五条の意味が理解できない、あるいは読んでいない日本人があまりに多いことに驚く。そしてこの条約の第十二条意見表明権のみを取り出して、この「児童の権利に関する条約、「児童がこの条約において認められる権利当然、第十二条の意見表明権を含むを行使すること」つまり、「児童がこの条約において認められる権利を行使すること無条件に尊重するものであると誤解・曲解する、小学生レベルの読解力の馬鹿な成人がきわめて多い

 だが、この第五条では、明確に、「児童の権利行使においては児童の能力に応じて父母・地方の慣習による大家族や共同体(=血縁による親戚や地縁による村などの中間組織)の構成員、法定保護者又は児童について法的に責任を有する他の者適当な指示及び指導を児童に与える責任権利及び義務を尊重すること」と規定している。

 つまり、簡潔に言えば、「児童はこの条約で認められる権利を自由に行使できのではない」つまり「児童がこの条約で認められる権利を行使する場合はその児童の責任ある保護者の権利と義務において適切な指示と指導をする必要がある」と条件を附しているのである。

 そして責任ある保護者としては、「父母、慣習による大家族や共同体の構成員、法定保護者、児童について法的に責任を有する他のもの」と規定しているため、学校内において、児童に法的責任を有するものとは、校長や教諭であろう。

 つまり、能力に見合った、正当な子供(児童)の権利主張は認めてあげればよいが、自身の責任能力を超えた傲慢不遜な子供(児童)意見表明権などは、子供の責任能力を述べた第5条で説明すれば簡単に却下できる。正論で突き詰めれば、「人権」や「子供の権利」などに大袈裟にびくびくする必要など全くないのである。

 私がこのブログで示している、自由主義社会の“法の支配”・“立憲主義”における、「憲法と自由と道徳義務と権利と権利行使の関係」をしっかり押さえれば、「人権」や「子供の権利」に論理的に反論できるであろう。


 保守主義の哲学---「人権」についての考察(第2弾)---21世紀日本国へ・バーク保守哲学による人権批判論(その5)へ続く


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