保守主義の哲学---「人権」についての考察(第2弾)---21世紀日本国へ・バーク保守哲学による人権批判論(その5)


「人権(=人間の権利)」についての考察(第二弾)

法と自由と道徳(義務)の関係

道徳義務)と権利権利行使の自由の関係

に関するバーク保守主義哲学および英米系憲法学的考察について(その5


 21世紀の日本国及び日本国民の「人権呪縛」「人権金縛り」から身を守る理論的武装としてのバーク保守哲学その5

 第十三条の解説の最後に、「自己決定権」の嚆矢であるJ・S・ミルの『自由論』から彼の言説を拾って、一蹴しておく

 「いかなる人の行為でも、そのひとが社会に対して責を負わねばならぬ唯一の部分は他人に関係する部分である。単に彼自身だけに関する部分においては、彼の独立は、当然絶対的である」(J・S・ミル『自由論』、岩波文庫、1999年、25頁)

 「自由の名に値する唯一の自由は、われわれが他人の幸福を奪い取ろうとせず、また、幸福を得ようとする他人の努力を阻害しようとしないかぎり、われわれは自分自身の幸福を自分自身の方法において追求する自由である」(J・S・ミル『自由論』、岩波文庫、1999年、30頁)

 「個性が自己を主張することが望ましいのである。己れ自身の性格ではなくて、他人の伝統や慣習が行為を規律するものとなっているところでは、人間の幸福の主要なる構成要素の一つが欠けているし、また実に個人と社会との進歩の最も重要な構成要素が欠けているのである」(J・S・ミル『自由論』、岩波文庫、1999年、115頁)

 「それらの慣習が慣習として妥当なものであり、また、彼に適合するものであるとしても、単に慣習であるが故に慣習に従うということは、人間自身の天賦である資質のいかなるものをも自己の裡に育成したり発展させたりはしないのである。知覚、判断、・・・さらに進んで道徳的選択に至る人間的諸機能は、自ら選択を行うことによってのみ練磨されるのである」(J・S・ミル『自由論』、岩波文庫、1999年、118頁)

 「各人の個性の成長するに比例して、彼は彼自身にとって一層価値あるものとなり、したがってまた他人にとっても一層価値あるものとなりうるのである」(J・S・ミル『自由論』、岩波文庫、1999年、127頁)

 「慣習に膝を屈することを拒否するということだけでも、そのこと自体が一つの貢献なのである」(J・S・ミル『自由論』、岩波文庫、1999年、135頁)

 「慣習の圧制は、至るところで人間の進歩に対する不断の障碍物となっている」(J・S・ミル『自由論』、岩波文庫、1999年、142頁)

 以上のJ・S・ミルの「自由論」と「自己決定論」などは、私が上述したバーク保守主義哲学によれば一蹴できる

 つまり、J・S・ミルの「自由論」と「自己決定論」の虚構および誤謬は次の二つの論理ですべて論駁できる

 ① 真正の自由は“英国法によって擁護されているのであるから、迷惑をかけてはいけない義務責任の対象は、「他人ではなく英国法である。そして“英国法は伝統や慣習も含む。また、“英国法は他人の自由も擁護しているから、“英国法に義務を果たせば決して「他人」に迷惑をかけることはない

 ②“英国法”に含まれる伝統や慣習は道徳(=自己に課す義務を内在しており、道徳とは権利ではなく義務であるから、選択肢は一つしかない道徳とは古今東西の人類の不易の原理である。道徳は権利ではないから、“英国法保障・擁護されない(=道徳を伴わない似非自由による自己決定権(=選択する権利など存在し得ない

 つまり、“英国法の一部である伝統や慣習を無視した自己決定権など、単なる「自己中心的な人間(いわゆる自己中)」とか「似非・唯我独尊主義」をカモフラージュした代名詞に過ぎない。

 以前、私は、このブログ内で、ベンサムの『憲法典』について、その矛盾を洗い出して、ベンサムの『憲法典』は「憲法」のない全体主義の『憲法典』であると説明したが、J・S・ミルもベンサムの弟子らしく、ミルの『自由論』は「自由」の解らない、「憲法」の解らない似非『自由論』である。

 第十四条  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 ○2  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

 ○3  栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

 →私の解説バーク保守主義(=真正自由主義)では平等権は認めないが、唯一“法の下の平等”は擁護する。なぜか。英米系憲法学で言う、「法の下の平等」とは、「日本国民の自由と権利と権利行使の自由は日本国法(=憲法によって平等に擁護される」という自由の規定だからである。

 第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

 ○2  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

 ○3  公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

 ○4  すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

 →私の解説:この条文は、現在最も世間を騒がせている条文であると言ってよい。(→私のブログ「在日外国人地方参政権付与問題」を参照のこと)

 第十九条  思想及び良心の自由はこれを侵してはならない

 →私の解説:私には、この条文が論理的に成立するのか非常に疑問である。

 私の論理では、上述の

 (原則4)「国民の権利の所有及びその権利を行使する自由の所有の峻別の原則

 日本国民は、上記の(原則1)に基づき、憲法(=日本国法によって保証・擁護された国民の権利を常時自己の中に所有しており、以下の場合を除くいかなることがあっても「国民の権利そのものが消失することはあり得ない

 (イ)日本国民Jが憲法(=日本国法)と合憲の法律・政令・条例などの法規範の遵守義務を放棄した場合

 (ロ)日本国民Jが国籍を放棄し、日本国民でなくなった場合@(ハ)日本国民Jが生命を失った場合

 (ニ)日本国民Jが権利行使に対する結果責任(義務)能力が無い場合(未成年者など)

 (ホ)日本国が憲法(=日本国法)による支配・立憲主義を放棄した場合

 (ヘ)他国の侵略等の理由で、日本国が国家主権を失った場合

 つまり、我々が「権利侵害」と定義することができるものは、「国民の権利そのものへの侵害ではなく(=国民の権利そのものは観念であり、上記(イ)~(ヘ)の場合を除いて観念は消失し得ないから理論上、侵害し得ない)、「国民の権利行使の自由の抑圧や制限や弾圧のことである。

 第十九条の「思想及び良心の自由」とは、思惟・観念の領域であるから、上記(イ)から(へ)極端に言えば、(ハ)「日本国民Jが死亡した場合」と(ニ)「日本国民は権利と義務を一体としてのみ所有できるから、義務能力に欠ける未成年者などは、所有できない権利もある」の場合以外に、「思想や良心の自由」という思惟観念でしかないもの

(→第十九条は言論や出版などの表現の自由のことではなく思惟観念の自由である。なぜなら、前者の思想的行為の自由や思想的表現の自由は、第二十一条に規定してあるからである

 を侵害することができるのであろうか

 もちろん、マルクス主義のように子供を親から隔離して公共の施設で共産主義の洗脳教育をするのは、その子供の思想及び良心の侵害であるが、それはあくまでもその子供が共産主義以外の思想書を購入して読書する行為や好きなテレビ番組やニュースを見る行為等々の行為を侵害し制限する結果であって、思想や良心という思惟や観念直接的に侵害しているわけではないしそのようなことは物理的に不可能であり、あくまでも行為侵害(制限)でしか思想や良心の自由など侵害できない。

 であるから本来は、第十七条は「思想及び良心を学ぶ知る)自由は、これを侵してはならない」と書かねば論理的に成立しないであろう。

 そう考えれば、学校の入学式や卒業式などで象徴的な「日の丸」の掲揚や「君が代」の斉唱の強制が憲法第十七条の思想及び良心の自由の侵害だ」というのは論理矛盾である。

 なぜなら、もし、ある教師A思想A=「国旗と君が代はどちらも嫌いだが特に君が代が嫌いだ」が「国旗掲揚や君が代斉唱の強制」によってもし本当に侵害されるのであれば、その教師A国旗掲揚と君が代斉唱後に、「国旗掲揚と君が代斉唱を強制させられたせいで君が代が大好きにさせられてしまった」という思想転向が起こらなければならないそうでなければ思想及び良心の自由の侵害とは言わない

 現実には、教師Aは国旗掲揚・国家斉唱の前後で思想Aを転向することはないしますます思想Aを強めていくではないか。つまり、思想や良心のような思惟・観念自体を侵害することなど絶対に不可能なのであるから、そのような妄言は決して国旗掲揚・国家斉唱拒否の論理として成立しない

 それに加えて、仮に教師Aの言い分によるならば、教師Aは国旗掲揚・国家斉唱を従順に行った他の教師や生徒や父兄の思想や良心の自由の侵害」については、どう考えるのか。

 教師Aは、「彼らは、国旗・国家が好きだったから権利侵害などないではないかとは絶対に言えない

 教師Aの権利侵害とは「学校の規則には従わなければならない」という「思想及び良心の自由」に対しての侵害である。

 そう考えれば、教師Aの行為が如何に論理性に欠け無道徳的かが分かるであろう

 現在は国旗国歌法が成立して、国旗掲揚・国家斉唱の拒否は処分の対象となるが、そのようなものが無くとも、日教組の反日教師に強制的に国旗掲揚・国家斉唱させても何ら思想の侵害ではない(彼らの思想は何ら変わらない)から、彼らの言い分などをまともに受ける必要など無い

 地方公務員法教育公務員特例法職務命令権を行使して職務命令に従わない者は、どんどん処罰すればよいだけのことである。それが職務命令違反という権利行使に伴う結果責任義務であり当然のことである

 第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

 ○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

 ○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 →私の解説:第三項のいわゆる「政教分離」規定は、世界195カ国で、フランス革命で宗教破壊を行った、当のフランス共和国と日本の二カ国だけである。なぜこのような異端思想を憲法原理とするのか。標的は神社神道であるが、これについては以前のブログで何度も述べているので省略する。

 第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 ○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 →私の解説(3) バーク保守主義の根本原理である法の支配”・“立憲主義”と「権利侵害権利闘争の関係を参照されたい。

 第二十四条  婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 ○2  配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 →私の解説:この第二十四条は問題だらけの条文であって、ここでは説明しきれない。

 後日、フェミニズム及び第三期フェミニズムに属するジェンダー・フリーを木端微塵に粉砕するつもりであるので、その時にまとめて解説する。

 第二十五条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

 ○2  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 →私の解説:第一条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」は当然なのだが、国民に権利があるなら、(原則3権利行使と結果義務の自己完結の原則からその義務も国民にあるのだが、第二項で義務は国政府権力にあるとしているから、社会保障政策がパンク状態となってしまったのである。同時に政府権力も超肥大化している。権利を国民に持たせ、義務を国家権力にもたせる間違った権利義務関係の典型であり、明らかな社会主義政策の条文である。

 以上で、「人権」についての考察(第2弾)---21世紀日本国へ・バーク保守哲学による人権批判論 を終えることとするが、最後に一言。

 エドマンドバーク保守主義(哲学)とは、“憲法の支配”と“立憲主義”、“憲法)”を介在した道徳と一体の自由道徳を育む伝統と慣習(=これらも憲法〉”の一部である)、そしてこれらを保守し子孫へ継承する世襲の原理などの支柱から成り立っているが、その目標とする国家とは、“高貴なる自由”・“美徳ある自由の輝く国家であり、その悠久の繁栄である。(→私のブログ「真正の保守主義とは、いったい何なのか?」を参照されたい)

 ゆえに、道徳を弁えてこそ正当な権利の主張ができるものと考え、無神論無道徳無宗教社会主義者共産主義者の喚き立てる人権」や「人権侵害の妄言など聞く耳をもたない

 「道徳を伴わない似非自由による権利の行使は必然的に「似非権利行使」であるからバーク保守哲学理論で論理的に詰めていけば(上記に掲げた権利と義務原則の組み合わせによって論理をつめればよい)、必ず似非人権侵害」「権利侵害」の主張などは「似非と見抜くことができる

 「人権」問題で困った時は、このブログで掲げた原則を読み返してもらい、解決の糸口を探って頂きたい。ただし、私は、弁護士を職業としていないので、私への直接の人権相談は遠慮願いたい。申し訳ないが、私もそのような相談にのっている時間はないのである。

 エドマンド・バーク保守哲学自由と道徳の哲学であることは、次の有名な一文からも明白である。

 「武士道(シヴァリー)はその表徴たる桜花と同じく日本の土地に固有の花である。それは、古代の徳が乾からびた標本となって、我が国の歴史の腊葉集中に保存せられているのではない。それは、今なお我々の間における力と美との活ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態を取らないけれども、それにかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なお力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。それを生みかつ育てた社会状態は消え失せて既に久しいしかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように封建制度の子たる武士道(シヴァリー)の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って今なお我々の道徳の道を照らしている。ヨーロッパにおいてこれと姉妹たる騎士道が死して顧みられざりし時ひとりバークはその棺の上にかの周知の感動すべき賛辞を発したいま彼れバークの国語英語をもってこの問題についての考察を述べることは私の愉快とするところである」(新渡戸稲造武士道』「第一章 道徳体系としての武士道」、岩波文庫、25頁)


21世紀日本国へ‐‐‐バーク保守哲学による人権批判論‐‐‐END


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