保守主義の哲学シリーズⅠ-2 ‐‐‐ホッブスの「国王絶対主権論」VSヘイルの“法の支配”

(2)英国「全体主義の祖」トマス・ホッブス、英国「左翼哲学の怪人」ジェレミー・ベンサム

 ●ホッブスの「国王絶対主権論」

 コモン・ローの大法律家であるエドワード・コーク卿の没後、英国は政争と内戦の嵐のような一時代を迎える。そのような時代にあって、机上の思弁に過ぎない、極めて非英国的な(全体主義的な)思想が突然生まれて、しかも後代に甚大な影響を残すことになった。人間の社会を機械のようにモデル化するトマス・ホッブスの異様な思惟(思想)である。

 日本の学界・教育界では、「全体主義の祖」ルソーと並んで英国の「全体主義の祖」ホッブスを崇拝し神格化するものが絶えないため、英国及び人類の思想史上、ホッブスなど比較にならない、知の巨星であったエドワード・コークについてすら抹殺的な無視をしてきた。

 日本のほぼ全大学の法学部でもその大学院でもコークを知らない、そしてそれ故にコークの著作を決して読めない状態にしておいて、コークを揶揄嘲笑するホッブスの方だけを学生に読ませている。これは、事実上、思想の自由も研究の自由も認めない、日本の学界・教育界の戦慄する実態の氷山の一角である。かような実態は、日本国民のほぼ全部が、ホッブスベンサムJSミル=すべて左翼哲学者・全体主義思想家)の名前は知っていてもエドワード・コークマッシュー・ヘイルウィリアム・ブラックストーン=真正の保守主義者)の名前を聞いたことすらないことで明らかであろう。

 これは、日本の教育界・学会が左翼哲学・全体主義思想(キング・コブラ)に染まっていて、その天敵である“法の支配”を支柱とする保守主義(マングース)を日本から排除しようとしているかのごとくである。

 話をホッブスに戻して、まず彼の著作における狂言をを紹介しよう。

 まず、ホッブス著『英国コモン・ローについての、哲学者とコモン・ロー学徒との対話』(1681年刊)から。

 ちょっと一言。このタイトルで哲学者とはホッブス自身のことであり、コモン・ロー学徒とはコークの信奉者のことである。以下ホッブスの言説を列挙するが、ホッブスが「哲学者」でコーク信奉者が「学徒」とは何という傲慢と事実転倒であろうか。現実はホッブスが「落第点の学徒」でコークが「偉大な哲学教授」である。

 ホッブスは言う、

 「わが国王は、制定法とコモン・ローの双方の立法者である」

 

 「国王は唯一の立法者である。唯一の至高の裁判官である」

 

 「国王は神の法のみ服するが、成文法・不文法のいずれにも、そしてその他の法にも服さない」

 

 次に、有名なホッブス著『リヴァイアサン』1651年)から。

 ちょっと一言。ホッブスとは「絶対主権」の一元的権力のもとでの「支配―被支配」的関係の政治体制が理想と論究していくその詭弁の論理として、あの有名な「万人の万人に対する戦争」というありもしない、また、歴史的にも存在しない仮構(フィクション)を「自然状態」と定義する創作をなした。 

ホッブスは、「万人の万人に対する戦争」の状態よりは「絶対主権の下での服従による平和」の方がましとの、架空の恐怖を煽られるとやたらと安心・安全を求める人間の弱い心理をその「絶対主権」の論理に悪用したのである。それが、『リヴァイアサン』の趣旨である。

 

 ホッブスは言う、

「主権は全体に生命と運動をあたえる人工の魂であり、為政者たちやその他の司法や行政の役人たちは人工の関節である」

 「内乱のさいの悲惨で恐るべき災厄と、支配者のいない人々のあの無法状態と比べると(絶対主権下の服従という)一般人民におこりうる最大の不便さえも大したことではない」

 

 「(主権が)国王・上院・下院に分割されているという意見(権力分立論)が、イングランドのほとんどすべての部分ではじめに受け入れられなかったならば、人々が二派(国王派=騎士党VS議会派=円頂党)に分かれて、(清教徒革命という)内乱を引き起こすことも決してなかった」

 

 「臣民たちの行為の善・悪・合法・非合法に関するこれらの(絶対主権者の定める)規則が、・・・・個々のコモン=ウェルス(国家)の法律である」

 

 「市民法(=絶対主権者の立法)が、何が正直で何が不正直なのか、何が正義で何が不正義か、そして一般に何が善で何が悪なのかを決定する」

 

 このような思考の下では、法も道徳も絶対主権者の命令にすぎなくなるが、ホッブスの思考の浅さとはそのような程度のものであり、二十世紀の自由の政体を破壊する全体主義体制の論理そのものである。上記の「主権」、「絶対主権者」を二十世紀の「ヒトラー」「レーニン」「スターリン」に置き換えれば、そのまま当てはまることが容易に理解できるであろう。だから、ホッブスは英国「全体主義の祖」なのである。

 

 では、このような「絶対支配――絶対服従」の政治体制において、服従者の「生命の自由」は保障されるのだろうか。ホッブスは自己保存つまり、生命の維持の権利のみは、臣民、個人個人が所持している(?)と言う。

 

 ホッブスは言う、

 「服従しない自由をもっている」

 

 「だれでも自分の死や傷害や投獄から(自分を)免れさせる権利を(絶対主権者に)譲渡(したり、)または(その権利を)放棄できない」

 

 だが、これらはあまりに非現実であり、虚構・詭弁である。絶対服従という政治的反抗の放棄がドグマ(教義)とされている社会において生命に危険が迫る時のみ抵抗できる、と夢想することはできても実際には完全に不可能である。

 

 そして、実際にホッブスは次のように本音を言っている。

 

 ホッブスは言う、

 

 「臣民が主権者の命令によって(罪なく)殺されることがありうる・・・・が、そのようにして死につく者は、その行為をする自由をもったのであり、(自由を)侵害されたのではない

 というのが、ホッブスの論理であるが、みなさん意味わかる?。

 

 私が噛み砕いて解説するとこうなる。

臣民は生命権も含めて、すべての自分の権利を主権者に譲渡(主権者が持っている)している。ということは、自分のすべての権利をもっている主権者に自分が殺されることは、自分の権利で自分を殺した行為であり、自殺という自由の権利を行使したということである

 

 この考え方は、ルソー『社会契約論』の考え方と全く、完璧に同一である。ルソーも、人民は「絶対者」にすべての権利を譲渡するとし、「全人民の権利」をこの「絶対者」に「集約して一手に握る」とする。とすれば、その「絶対者」が発する命令は「全人民の意志(権利)に基づく命令」であるから、各人民は必ずその命令に従わなければならないとする。ルソーは、このような国家を「社会契約」の国家と言ったのであり、「人民主権」の国家と言ったのである。

なぜなら、「絶対者」の命令は「絶対者に集約された全人民の権利」を代表したものであるから、「人民主権」というのである。

ホッブスやルソーのこのような哲学(というより思想)が全体主義思想の起源なのである。このような体制の下では、主権者の行為は、殺戮も何もかもが、すべて「全人民の意志行為」となり、先述のホッブスのような「殺人の正当化の詭弁」が生じるのである。

若干補足しておくと、ホッブスの『リヴァイアサン』は彼がフランス亡命中に、当時、清教徒革命後の一時的な共和制英国の独裁者であったクロムウェルに対し、「帰国したら身を捧げて服従する」というメッセージであって、英国への早期帰国を実現するためのクロムウェルへの阿諛(へつらい)の書だったという事実があるようである。だから、『リヴァイアサン』がホッブスの本心の思想であったかは若干疑問の余地があるとして、彼を擁護しておく。

しかし、彼の思想がその後、ロック➡「命令法学の祖」ベンサム➡「命令法学の父」オースティン➡「人定法主義」ジェニングスらの思想に発展した点では、やはり彼の罪は重いであろう。

ルソーやホッブスの理論とは「全体主義体制下での人間殺戮の合法化の詭弁」であって、哲学でも何でもないのである。単なる精神的に何らかの欠陥がある人間の妄言である。真剣に読む書物ではない。

問題なのは、このような思想を教育界・学界で教える狂気の方である。これらの思想を教授する中・高・大学校の教師、教授らは本当にルソーやホッブスを読んでいるのだろうか。上記のような、彼らの思想の根幹を理解しているのだろうか。それとも全体主義を好んでいるのだろうか。いずれにしても、極端にレベルの低い知能の持ち主たちである。読者のみなさんは、もう真実を知ったから、大丈夫です。先へ進みましょう。

 ●トマス・ホッブス「主権論」VSマッシュー・ヘイル“コモン・ロー(法の支配)”の思想戦

 

ホッブスの上記のような「主権論」による、“法の支配”・“コモン・ロー”及びコーク批判に対して、コモン・ロー法律家として王座裁判所の首席判事に登りつめたマッシュー・ヘイルは、コモン・ロー擁護(=コーク擁護)のために反撃した。

 

 ホッブスは言う、

 

 「わが国王は、制定法とコモン・ローの双方の立法者である」

 

 「国王は唯一の立法者である。唯一の至高の裁判官である」

 

 「国王は神の法のみ服するが、成文法・不文法のいずれにも、そしてその他の法にも服さない」

 

 これらは、当時の現実もそれまでの歴史事実もすべて無視する暴論であり、虚言である。

 

 ヘイル曰く、

 

 「国王に立法権はあるが、国会の助言と承認なしに臣民を拘束する法律をつくりえない。布告は法とはなりえない」

 例えば、課税は国会の同意なしではできないこと一つを考えても、ホッブスの言説がデタラメにすぎることは誰にもわかる。

 

 ホッブスは言う、

 

 「イングランド国王は、その良心において国民を防衛する必要を判断すれば、いつでも国王の考えるだけの徴兵と課税をすることができる」

 

 ヘイル曰く、

 「陸海軍を出動させる軍権は国王のみに存する。だが、それには、臣民を海外出兵させうる権力は含まれていない。また、議会の同意なくして、兵士の給与、軍艦派兵費用、その他の軍事費のための援助金であれ通常の税金であれ、課することはできない」

 

 ホッブスの「国王絶対主権論」を否定するに際して、ヘイルが反駁するその論理の中には少し独特なものがある。

ヘイルは、英国法を

() 強制権をもつ法

() 指導権をもつ法

() 違法行為を無効とする法

の三つに分け、この三つの法のすべてに国王が拘束されないとすれば、「国王は法の下にない=国王は法の支配を受けない」から主権があると言えるが、三つの法うち一つにでも拘束されるならば、「国王は法の下にある=法の支配を受ける」から主権はない、という法理である。

() 強制権をもつ法の場合

  例えば、起訴や法廷出頭などの法の強制権は、国王の地位がコモン・ロー(=法)自体であるから、国王には適用されない。「国王(地位と身体)は神聖にして侵すべからず」とはここから発する原理である。

  (要注意)

ここに、フランス革命「人権宣言」生まれの「平等」の概念である「人間は生まれながらにして平等である」を真理だと錯覚して持ちこむと王制の否定観となり、上記()に対して、なぜ国王だけ適用されないの?不平等じゃないの同じ人間なのに?となってしまう。左翼思想家必ず、全員ここを誤解し、国王(天皇)を嫌悪するから保守主義者と相容れなくなってしまうのである。

が、第一に、「人間は生まれながらにして平等」などということは全く真理ではない。まず、「人間」という普遍的概念を捨てるべきである。なぜなら、「アフリカのエチオピア国民」と「パレスチナのアラブ人」と「中国の中国人民」と「米国の米国人」と「北朝鮮の朝鮮人民」と「日本国の日本国民」と・・・・すべてを包括して普遍的「人間」として、「生まれながらに平等である」わけがないであろう。何もかも、すべてが不平等ではないか。これは、保守とか左翼とかのイデオロギー云々の問題ではないテレビの映像が、写真が、新聞が、・・・示している現実ではないか。

第二に「人間」という概念を取り除いて「日本国民」に限定して考えてみる。

日本国民は生まれながらにして平等である」は真理か?。答えはNo

裕福な家庭に生まれてくる日本人もいる、貧乏な家庭に生まれてくる日本人もいる。経済的なことだけではない。生まれながらに障害や不治の病を抱えて生まれてくる子供もいる。健康に生まれてくる子供もいる。勉強が得意になる日本人もいるし、スポーツが得意になる日本人もいる。勉強が得意な日本人の中にも数学、化学、物理、国語、英語、地理、歴史、・・・・など、長けている分野もそれぞれ違う。スポーツも同じ。勉強もスポーツもだめでもその容姿の美しさや、お笑いの才能で芸能界に進む日本人もいる。音楽が好きで歌手やアーティストになる才能を持った人間もいる。そして男性として生まれるか、女性として生まれるかも違う。両性の本質的平等などといくら叫んでも、生理学的・医学的に言っても平等でないのが、明白な事実である。

このように、「すべての日本国民は生まれながらにして不平等であり、平等な人間など一人もいないのが真理であり、明白な事実である。

 先に、私は、“法の支配”、“コモン・ロー=法”が理解できないと保守主義は理解できないと書いた。そこが第一の通過点とすれば、ここが第二の通過点である。この不平等の原理が「真実である」と理解できない人間は保守主義は理解できない。

 「不平等であると認識するが故に、人間として最低限必要な平等のラインまでは政府が政策で何とかしよう」これが保守主義である。行き過ぎた平等政策は必ず、全体主義(社会主義・共産主義)に陥るため、決して認めない。

 保守主義で認める、唯一の平等とは、“法の下の平等”であり、“私有財産・生命・自由(とコインの裏表である道徳・正義)”の“法による擁護”においてのみ平等である。

 とすれば、天皇陛下(以下、敬称省略)とて同じことである。天皇として生まれようと思って生まれてきたわけではない。しかし偶然にも天皇となる運命として皇室に生まれたのである。

 つまり、天皇となる運命として生まれた“不平等”がゆえに、その地位につくのである。

 そして、この天皇の“地位(及び身体)と世襲の原理”は過去二千年間の概ねすべての日本国民の祖先が許容し、われわれ現世代まで世襲(相続)してきた“究極のコモン・ロー”なのである。

 要約すれば、天皇の“地位(及び身体)と世襲原理”は“究極のコモン・ロー”であり、“究極の不平等”なのである。それ故に「その地位(及び身体)及び世襲は、神聖にして侵すべからず」なのである。

 それは、聖徳太子・・・藤原道長・・・平清盛・・・源頼朝・・・北条時宗・・・足利尊氏・・・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・・・西郷隆盛・大久保利通・・伊藤博文・井上毅・金子堅太郎・・・・と、日本国の権力を握った日本人であっても、侵さず守り続けてきた、まさに“法の中の法”なのである。

 であるから、真の日本国民と自覚する者は、この神聖な“法の中の法”ハイエクの名付けた、デカルト的「設計主義的合理主義」や、極左イデオロギーである「無神論・唯物論のマルクス・レーニン主義」というフランス/ドイツ生まれの、育ちの悪い、下品な「高々数人から数十人程度のプロレタリアート哲学者が思惟した、薄っぺらな机上の空論」から“真正保守主義の正統な論理”で断固として保守あるいは死守しなければならない義務を負っているのである。

 

 少し長くなったが、次へ進む。

 

 () 指導権をもつ法の場合

  この場合は、マグナ・カルタの再確認などを余儀なくされており、国王に適用されている。法に拘束されているので、国王は主権者ではない。

 

 () 違法行為を無効とする法の場合

  国王の違法行為、例えば特定団体に独占権の附与をしても無効となることがあり、この法も国王に適用されている。やはり主権者ではない。

 

 よって、「ホッブスの主権論は謬説である」とヘイルは論理的に結論づける。

しかし、正常な人間ならボッブスの「国王絶対主権論」など、その言説を聞いただけで、謬説だと判断できるであろう。

 ただし、上記()の(要注意)事項で述べたとおり、国王(天皇)の“地位と身体及び世襲の原理”については、それ自体が“コモン・ロー”であるから、主権的であり、“神聖にして侵してはならない”ことだけは、ここで再確認しておこう。

 ここを理解できないということは、真正の保守主義者が最も保守または死守すべき“法の中の法”が理解できないということであるから理解できるまで、何度も何度も考えてください。

 次回は、英国「左翼哲学の怪人」ジェレミー・ベンサムの有名な文句「最大多数の最大幸福」に隠された“恐るべき悪意”などを紹介する予定である。

(次回へ続く)

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