保守主義の哲学---「子ども手当法案」の闇---「日本国解体」という狂気(その2)


 TBS系列ドラマの

 ブラッディ・マンデイの「日本再起動計画」は、狂気のフィクションである。

 が、鳩山由紀夫政権と小沢一郎民主党の「日本解体計画」は狂気の現実である。

 ついに動き出した、官邸主導の「日本解体計画」第一弾---「こども手当法案」の闇(その2)


 (3) GHQ欽定憲法である日本国憲法第三章の「マッカーサー草案」の起草過程

 ところで、余談であるが、日本国憲法を理解する上で、極めて重要な内容であるので、GHQ欽定憲法である「日本国憲法」第三章のマッカーサー草案の起草過程について、日本随一のバーク保守主義者(=真正の保守主義者でありバーク研究者であり碩学の政治哲学者である、中川八洋 筑波大学名誉教授 著(『正統の憲法 バークの哲学』、中央公論新社、2001年、第五章)から部分引用かつ要約して紹介する。

――中川八洋正統の憲法 バークの哲学より部分引用かつ要約ここから――

 憲法の素人である、ロウスト中佐H・E・ワイルズ博士ベアテ・シロタ嬢(=両親と同じく純粋のロシア人で、日本に五歳から十五歳まで日本にいたため、語学力を買われてタイピストとしてGHQに採用されていた)の三名が書いた第三章の主要部分はロウスト中佐が担当したが、ロウスト作の一つが、「マッカーサー草案」第十三条(現憲法第十四条)の「すべての自然人all natural persons)は法の前に平等である」である。

 「すべて自然人は」は帝国議会での審議の過程で「すべて国民はに修正された。「日本国民」をルソーの自然人だと定義したロウストの真意は日本国民から民族の歴史・伝統・慣習という衣をはぎ取りルソーが理想とした文明人の野蛮人・「未開人を日本国において実行することであった。

 また、ロウストが執筆した「マッカーサー草案」第十六条の「外国人aliens法の平等な保護を受ける」は、在日の外国人も日本国民と同等にすることを定めたのであり、それでは日本国は外国人共同租界地にならざるを得ないため削除された。(→憲法制定過程で削除されたこの「マッカーサー草案」第十六条を復活させて、「日本国を外国人共同租界地にしようとするかのごとき政策ばかりを立案するのが、鳩山由紀夫政権であり、小沢一郎民主党幹事長であり、民主党であり社民党であるのが解るであろう)

 さらに、ロウストは、GHQですらレッド条項と大騒ぎした「マッカーサー原案」第二十八条も執筆した。それは、土地の私有財産権を完全に否定する共産主義そのものの規定であった。しかも、スターリン憲法第六条をそのまま援用したのである。

 「土地及びすべての天然資源の究極的所有権は人民集団を代表する国家に帰属する」(訳、中川八洋)

 なお、スターリン憲法第六条とは、「土地地中埋蔵金属、・・・は、国有、すなわち全人民の財産である」(訳、外務省)。

 さて、過激な左翼思想の持ち主は、ロウストのほかに二人いた。「マッカーサー草案」を全体的にまとめた運営委員会に所属していた、ラウエル陸軍中佐とロウストの部下であったベアテ嬢である。

 ラウエルは、マルクスの『共産党宣言』の命じる「相続の廃止」を信奉していて、それを強く主張した。ラウエルがコミュニストだったことは多くの人がすでに指摘している。彼は、日本国の共産化を真剣に模索し、スターリン憲法を日本国憲法のモデルにしようと考えていた。とくに、鈴木安蔵高野岩三郎日本のコミュニストマルクス主義者たちのグループ「憲法研究会」のつくった「草案要綱」について好意的な意見を付けて参謀長に提出したのもその一つである。教条的なコミュニストであった鈴木安蔵らの「憲法研究会草案要綱」は主としてスターリン憲法を下敷きにしてつくられた。

 なお、現憲法 第二十五条

 第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

 は「マッカーサー草案にはなく、鈴木らのこの「草案要綱」から日本側の方が採用したものである。日本側の帝国議会にもコミュニストやそのシンパが多くいたのである。

 コミュニストかそのシンパであったベアテ嬢は、現憲法の第二十四条(「マッカーサー草案」第二十三条)の原案を起草した。

 現憲法 第二十四条

 第二十四条  婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 ○2  配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 原案執筆にあたってベアテ嬢は参考にした外国の憲法を率直に回想している。

 「ワイマール憲法ソビエト憲法は私を夢中にさせた。ロシア革命のすぐ後の1918年に制定されたソビエトの憲法は、その後何度か修正されているが、社会主義目指すあらゆる理想が組み込まれていた。

 ソビエト社会主義共和国連邦憲法(1936年成立)第百二十二条 1ソ連邦における婦人は、・・・のあらゆる分野において、男子と平等の権利を与えられる」(ベアテ・シロタ『1945年のクリスマス』、柏書房、138頁)

 自由社会の憲法条項としては類例を見ないこの異様な憲法第二十四条は、「スターリン憲法にあこがれる二十二歳のロシア人女性の手によって書かれたのである。このゆえに1945年の米国では、ごくごく少数意見であり、米国憲法には存在しない平等主義の平等」が二回も出てくる原案が書かれたのである。

 「equality of both sexes両性の本質的平等)」と「equality of the sexes夫婦が同等)」である。

 米国は、1972年に「男女平等」を明記した新しい条項を付け加える憲法改正を始めようとしたが、過半が保守主義ともいえる米国女性の猛反撃によってつぶされた。米国で初めて「男女平等」という概念が受容され始めたのは1960年代半ばからである。

 また、このマッカーサー草案第二十三条には、「家庭は人類社会の基礎でありその伝統は良きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透するという言葉があった。「家庭は尊重されるというのは憲法条項としてふさわしいであるのに帝国議会で日本の議員がこの文言を削ったのである。日本の方にこそGHQ以上の家族解体論のコミュニストやそのシンパが覆面で多数いたのである。

――中川八洋正統の憲法 バークの哲学より部分引用かつ要約ここまで――

  (4) 憲法第三章 「国民の権利及び義務」のうち、注意すべき点の列挙

 上記の「マッカーサー草案」の起草過程を踏まえた上で、現行の日本国憲法 「第三章 国民の権利」のうち、注意すべき点を以下に列挙する。

 日本国は“自由主義”国家であるから、日本国憲法の条文における“平等”は「平等主義」の「平等」ではなく、原則として、“法の下の平等(→意味は上述の第十四条での解説のとおり)”の意味であり、内容としては、以下のとおりである。

 (法の下の平等 第十四条第一項

 第十四条  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 ○2  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

 私の解説→本来、法の下の平等が保障されていて、華族その他の貴族に、「貴族以外の庶民(平民)の自由と権利を侵害するような特権」を与えないならば、法の下の平等と貴族制度は両立し国民の自由と権利は侵害されない英国の例が典型的であり、国王王室)、貴族と貴族院という封建制度の残滓を残しているが英国は自由の先進国であり英国民は自由であり、英国民の権利は英国憲法により保障されている現状からも容易に解るであろう。

 マルクスエンゲルスの『共産党宣言』における、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争論に洗脳されたコミュニストマルクス主義者が「身分階級自体が諸悪の根源である」という出鱈目な思想1925年の日ソ国交回復以降、日本国民に吹き込み続けたため、「身分階級自体の持つ長所までも日本国民は一切忘却した。

 しかし新渡戸稲造の『武士道』やエドマンド・バークの『フランス革命の省察』やウォルター・バジョットの『英国憲政論』の記述に見られるように、身分階級制度は高貴なる者(=身分の高い者)の持つべき義務観を生みだし国民全体に道徳・美徳を開花させる源泉であったという長所を忘れてはいけないし、共産主義やマルクス主義こそ妄想と諸悪のパンドラの箱であったという明白な証拠である20世紀の社会主義共産主義国家の自国民大虐殺の歴史事実も忘れてはいけない

 以下に掲げる3名の著作のほんの一節を読んでみよ。その「徳性」の高さに心打たれ、心休まるであろう。ルソーの『社会契約論』やマルクスの『共産党宣言』など、人間にとって如何に「無価値な書物」であるかが、この3名の著作のほんの一節を読んだだけで解るはずである。

―――新渡戸稲造『武士道』から引用ここから―――

 武士道(シヴァリー)はその表徴たる桜花と同じく日本の土地に固有の花である

 それは、古代の徳が乾からびた標本となって、我が国の歴史の腊葉集中に保存せられているのではない。それは、今なお我々の間における力と美との活ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態を取らないけれども、それにかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なお力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。それを生みかつ育てた社会状態(=封建制度)は消え失せて既に久しい。

 しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように封建制度の子(=残滓たる武士道(シヴァリー)の光はその母たる制度(=封建制度の死にし後にも生き残って今なお我々の道徳の道を照らしている

 ヨーロッパにおいてこれと姉妹たる騎士道が死して顧みられざりし時、ひとりバークはその棺の上にかの周知の感動すべき賛辞を発したいま彼れバークの国語英語をもってこの問題についての考察を述べることは私の愉快とするところである。(新渡戸稲造『武士道』「第一章 道徳体系としての武士道」、岩波文庫、25頁)

―――新渡戸稲造『武士道』から引用ここまで―――

―――エドマンド・バーク『フランス革命の省察』から引用ここから―――

 婦人に慇懃な(=礼儀正しく丁寧な人々の国(=フランス王国)、名誉騎士道を尊ぶ人々の国にあって、そうした災厄が彼女(=王妃マリーアントワネット)の上に下るのを生きて見ようとは夢にも思いませんでした。彼女に対する侮蔑の脅威が瞥見(=ほんの僅か、ちらりと見られること)されただけでも、一万もの剣が抜き放たれて復讐に閃く(=反射的に考えが脳裏をかすめる)ものと私は信じていました。しかし、騎士道の時代は過ぎ去りました。・・・ヨーロッパの栄光は永遠に消え失せました。

 身分と女性に対するあの高雅な忠節、あの誇り高い服従心情のある恭順――奴隷の身分にあってすら一種格調高い自由の精神を生々と保させたものども(=封建性の中にこそ真正の自由の精神が息づいていたこと)――はもはや決して、決して見られないでありましょう。

 金銭で購われたのではない生命の気品廉価な国防人間的感情と英雄的行動の揺籃(=育くまれた時代)、これらも過ぎ去りました。原理に対するあの感受性名誉を重んずるあの廉直さ――1つの汚点すら傷(=)と感じたもの、凶暴さを矯め(=矯正)つつしかも勇気を鼓舞したもの、およそ自らの手に触れるすべてを気高くさせたもの、悪徳に対してすらあらゆる粗野を捨てさせてその害毒の半分を失わしめたもの(=騎士道精神)――は去ったのです。

 このように思想と感情が交々織り成す織物の起源は古の騎士道にありますこの原理(=騎士道精神)は移ろいゆく人の世の有様に連れて姿こそ変わりはすれ幾百世代もの長きにわたって生き続け影響し続けて我々の時代にすら及んでいるのです。万一それが完く消え去るとするならば、その損失は甚大であろうと私は憂えます。

 現代のヨーロッパにその特質を賦与したのはこれ(=騎士道でした。(現代ヨーロッパの)内部では(国家によって)統治形態が如何に異なろうとも、現代ヨーロッパをアジア諸国家(=インドや中国のイメージをアジア諸国全体のイメージと捉えている)より区別し、また恐らくは、古代世界の最も燦然(=きらびやかな)たる時代に繁栄した諸国家より区別して優れたものとしたのもこれ(=騎士道)でした。

 諸身分を混同することなく偉大な平等(→日本国の江戸時代の士農工商の身分制のもとでの武士と商人/職人/農民の融和とほぼ同義でバークは使っている、とブログ作成者の私は考える)をもたらし、それを社会生活のあらゆる段階を通じて下にまで伝え降ろして行ったのもこれ(=騎士道)でした。

 王達を和らげて同僚とし私人を高めて王達の朋輩にしたのもこの思想(=騎士道でした。それは、力も用いず反対にも会わず、高慢と権力の荒々しさを屈服させました。それは。君主たちを、社会の評判(=名誉心)という柔らかい首輪に従うのを余儀なくさせ、厳格な権威を強制して優雅さに服従させ、更には、法における征服者(=法の下にある国王)が習俗(=被征服者からなる社会の評判)によって支配されることになる統治をもたらしたのです。(エドマンド・バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、2009年、97から98頁)

―――エドマンド・バーク『フランス革命の省察』から引用ここまで―――

―――ウォルター・バジョット『英国憲政論』から引用ここから―――

 「貴族院――むしろ貴族というほうがよい――の威厳の力は、非常に大きな効用をもっている。

 かれらは、君主ほどの尊敬を受けてはいないが、やはり相当大きな尊敬を受けている。

 貴族階級の役割は、一般民衆の心の中になにものかを植え付けることである。植え付けるものは、必ずしも虚偽ではなく、いわんや有害なものでもない。

 貴族は民衆の鈍重な想像力に貴族であればこそといえるようななにものかを植え付けるのである

 大多数の人間の空想力は、・・・貧弱である。・・・目に見える象徴がなければ、なにも理解できない。

 ・・・貴族は、知能の象徴である。・・・大多数の者は、・・・現在もやはりそのように考えている」

 「なお貴族階級は服従感覚をつくり出すだけではなくそれを防止することでも大いに役立っている貴族は富の支配すなわち黄金崇拝を防止している

 富がアングロ・サクソン人の偶像であることは、疑いのないところであり、またそれは当然とも言える。

 ・・・しかし、多くの国において、富の崇拝は適度をはるかに通り越している。

 ・・・単に巨富そのものをうらやましがり、愛好するのである。

 ところがイギリスでは貴族制度がこのようなことを防いでいる

 気の毒なことに、百万長者がイギリスほど不自由に暮らしている国はどこにもない。

 ・・・財力とは違った別の優勢な権威によって富が押さえつけられているのである。いな、脅迫されている、と言った方がよい。

 ・・・黄金崇拝地位の崇拝も同じである、といわれるかもしれない。

 かりにこの理屈を認めるとしても、やはり二つの偶像をもっていることは、社会にとって非常に結構なことである。

 偶像崇拝の競争をすると本物の方が勝利を占めるからである。

 しかし地位の尊敬少なくとも世襲的な地位の尊敬が黄金崇拝と同様に卑しいというのは当たらない

 これまでの経験によると、礼儀作法は、ある身分層(=世襲貴族層では半ば世襲的に受け継がれてきている

 礼儀作法はすばらしい芸術の一つである。それは、社会の品格を示すものである。

 ・・・富を尊敬することによって、人間ではなく人間の付属物を尊敬しているのである。

 世襲貴族を尊敬することによって、貴族が所有していると思われる偉大な能力――貴族の持っているなにものかを示す能力(=気品と礼儀作法)――を尊敬しているのである」(ウォルター・バジョット『英国憲政論』、中央公論新社「世界の名著72」、1999年)

―――ウォルター・バジョット『英国憲政論』から引用ここまで―――

 このパラグラフの最後で、バジョットが言いたいことを私が少し補完しておくと、「貴族階級でなくても気品ある生活を送っている人間は沢山いるだろうし、礼儀作法をよく心得ている人間もどこにでもいる。

 しかし、その『気品ある』とか『礼儀作法を心得ている』とか言う時のその『気品』『礼儀作法の基準はどこから発するのかと問えばそれは当然貴族階級の体質本質の中から発するのである」ということを言っているのである。

 このような、貴族制度の長所を鑑みれば、日本国憲法の“法の下の平等”によって国民の権利行使の自由を平等に擁護し、それを侵害する特権華族その他の貴族付与しないならば、実質的には「形式上の華族(→公家華族及び大名家族のみ)の家系(家柄)」という制度にすぎなくとも、道徳・美徳の発生源となる長所を持つことから、華族その他の貴族の制度封建制度の残滓として日本国にも残しておくという選択肢もあったのではなかろうか、というのがバーク保守主義者としての私の見解である。

 ○3  栄誉勲章その他の栄典の授与はいかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

 私の解説この条文は戦後の日本国において事実上死文化している

 例えば、国民栄誉賞受賞者やオリンピックのメダル獲得者やノーベル賞受賞者等々には、国家が特権を与えなくとも、日本国民、特にマスメディアや企業の側が自ら積極的に(視聴率獲得や商品広告目的等で巨額な出演料などの)特権を与えている。

 しかし、これは、栄誉や勲章や栄典の受賞者の自己研鑽自助努力とその成果に対する日本国民からの称賛の結果であり、当然に沸き起こる感情であろう。この条文については、英国の極左哲学者ベンサムの『憲法典』等の影響が大きいと考えられる。


 保守主義の哲学---「子ども手当法案」の闇---「日本国解体」という狂気(その3)へつづく


 

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