保守主義の哲学---「子ども手当法案」の闇---「日本国解体」という狂気(その3)


 TBS系列ドラマの

 ブラッディ・マンデイの「日本再起動計画」は、狂気のフィクションである。

 が、鳩山由紀夫政権と小沢一郎民主党の「日本解体計画」は狂気の現実である。

 ついに動き出した、官邸主導の「日本解体計画」第一弾---「こども手当法案」の闇(その3)


両性の本質的平等

 第二十四条  婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 ○2  配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 私の解説→この条文は、上記のタイピストのベアテ・シロタ嬢の起草であり、「平等主義」の「平等」であるが、「両性の本質的平等」などは、医学的にも、生物学的にも、脳科学的にも全くあり得ない妄想であり虚言である。世界の憲法で「両性の本質的平等」なる文言の条項があるのは「日本国憲法」のみである。「男女の平等」なる文言は、社会主義国など、世界の憲法にも存在するのは事実である。

等しく教育を受ける権利

 第二十六条  すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する

 ○2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 私の解説→第十四条の“法の下の平等”に基づき、日本国民は、“教育を受ける権利の行使の自由”を平等に保障・擁護されるという意味である。

 (被選挙権及び選挙権行使の資格

 第四十四条  両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない。

 私の解説→第十四条の“法の下の平等”に基づき、日本国民は、“国政における国民の被選挙権及び選挙権の行使の自由”を平等に保障・擁護されるという意味である。

 最後に、大きな問題になるのが、個人の生存・教育・維持発展などに関する給付を、国家に対し要求する権利と言われる社会権の解釈とその適用範囲の扱い方である

 「社会権」には、生存権(二十五条)、教育を受ける権利(二十六条)、勤労の権利、労働基本権(二十七条、二十八条、労働三権)などがあるが、特に、日本国憲法 第二十五条においては、国家による社会保障が以下のように規定され、生存権の根拠とされている。

 しかし現実問題としてこの社会保障の財源のための国債増発が巨額の財政赤字を生み出た代償が現在世代の日本国民の子や孫や曾孫らの将来世代の日本国民の負担として先送りされているのである事実上現在世代の日本国民の食い逃げ」「責任放棄である

 このような態度は、バーク保守主義の最も嫌う「無責任・無道徳」の極みであり、現在世代の日本国民の「将来世代の日本国民に対する責任・義務の放棄」である。

 そこで「社会保障政策本質とは何か」及び鳩山由紀夫政権が「児童手当」に替えて施行しようとしている「こども手当」の恐るべき実体について、憲法第二十五条の解釈を踏まえながら解説することとする。

 (5) 社会保障制度の本質について

 第二十五条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する

 ○2  国はすべての生活部面について社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない

 第二十五条では社会保障の内容についての記述はなく1950社会保障制度審議会(総理大臣の諮問機関)が発表した「社会保障制度に関する勧告」中で、次のように述べている。

 「いわゆる社会保障制度とは、疾病負傷分娩廃疾死亡老齢失業多子その他困窮の原因に対し、保険的方法または直接の公の負担において経済的保障の途を講じ、生活困窮に陥った者に対しては国家扶助によって最低限度の生活を保障するとともに、公衆衛生および社会福祉の向上を図り、もって、すべての国民が文化的社会の成員たるに値する生活を営むことができるようにすることをいう。」

 ここで、憲法第二十五条と社会保障制度審議会が発表した「社会保障制度に関する勧告」について、確認しておかねばならないことは、当然のことであるが、日本国政府国家が行う社会保障の対象者は日本国民であるという絶対原則である

 これは、第二十五条が日本国憲法 「第三章 国民の権利及び義務の章に属していることからも明らかである。

 ゆえに、国家に対する請求権である社会権は、国籍を有しない外国人には原則として認められない仮に外国人に認められたとしても日本国民と外国人の間で異なる取り扱いをするという明確な区別を必ず設けるべきである

 また、「権利と義務の自己完結の原則」によれば、第二十五条第一項で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」のであり、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」は専ら各国民の私的領域の問題」であって、「文化的」とか「最低限度とかの基準は各国民によって異なるのであるから、その権利行使にともなう義務は国民自身にあるのであって本来は国家にはないのである。

 例えば「文化的」のレベルをランクE<D<C<B<Aの5段階のアルファベットで表し、「最低限度」のレベルをランク1<2<3<4<5の5段階の数値で表すとする。

 すると、ある国民Pは「文化的」のランクをC、「最低限度」のランクを3(これをP(C,3)と表す)程度の権利行使(=生活を営むこと)を行いたいと思い、ある国民QはQ(A,4)程度の権利行使(=生活を営むこと)を行いたいと思うならば、それに対応する義務(=選択した程度の生活を営むために、「勤労に努めること」や「貯蓄を増やすこと」や「健康を維持すること」・・・等々)の程度(ランク)も当然、義務P)<(義務Qとなることは、本来的(論理的)には自明の原理であろう

 この自明の原理が解らない人、(→つまり、すべての国民の生活ランクをR(C,3)と国家が一律に決めてそのための保障を国家がするべきと考える人=社会主義者)は、話にならない。

 さて、国民Pと国民Qの権利行使の程度P(C,3)とQ(A,4)は私的選択領域であり、個人の自由権の行使により個人の意志によって決定される

 ところが、それに対応する義務Pと義務Qの関係に国家が社会保障政策の名目で大きく介入して(→所得の再分配をして)、義務P>義務Qとなった(→QよりPの方が低い生活レベルを望んでいるのに、QよりPの方が大きな努力義務が必要となった)とすれば社会保障政策とは平等政策などではなく、「強制的な不平等政策と言えるであろう。

 また、社会保障費の財源のとなる税金の課税方式として、例えば、所得税の累進課税を考えれば、国家は国民に対し強制的不平等の押し付けを課税の段階で、既に行っていると言える。

 つまり、憲法第二十五条の第二項の社会保障政策本質とは、「国家がすべての国民に平等に不平等を強制する政策であり、「国家の決めた不平等を国家権力が国民に強制するという国民の自由権に対す侵害行為である

 端的に言えば、累進課税によって多くの所得税を納税して納税額に比して少ない社会保障受ける高所得者も、累進課税によって少ない所得税を納税して納税額に比して多くの社会保障を受ける低所得者も受給金額の損得の問題以前の問題として、社会保障制度とは、実際は、国家権力の介入によって国民の自由権を侵害し国民に不平等を強制する制度であり自由主義国家には不相応な制度であるという制度自体の問題点と危険性に気付くべきである

 現在世代の日本国民は、直接的に「金銭の受給」あるいは「費用負担の減額」等の恩恵を受けるから、社会保障制度が国民の自由を侵害したり国民に不平等を強制したりしているとは夢にも思わないかもしれない

 しかし、現実は国家が行った社会保障政策(=国民の自由権侵害や不平等の強制の弊害や歪国債発行残高などの将来世代の債務返済の負担として、将来世代の日本国民に丸投げされているだけであるということに気付かなければならない

 現在世代の日本国民は、自分の子や孫や曾孫が自分たちの無責任の代償を引き受けて、どのような苦しい生活を強いられることになっても平気なのであろうか。現在の日本国民には、将来世代の日本国民にたいする責任感があまりにも欠け過ぎている。せめて、このブログの読者の方は、自分の子や孫や曾孫の顔をじっと眺めたり、抱っこしたり、ゲームしたり、・・・しながら、よく考えて頂きたい。

 なお、社会保障政策において、重要なことは、その不平等が自由主義社会における各国民の自己研鑽や自助努力(=自由権の行使によって生じる結果的不平等とは全く異質なものであって国家権力が国民の自由権を作為的に侵害して行う強制的不平等であることである

 このように国家権力が国民の自由権を侵害(=権利と義務の自己完結の原則を破壊して不当に介入することを強制的に行う政策を社会主義政策共産主義政策)」というのである

 よって、憲法第二十五条第二項は社会主義政策」条項であり、自由主義国家には不相応な政策であるため、仮に導入するとしても国家が介入し過ぎることがあってはならない。国家の介入度が強まれば強まるほど国民の自由権は縮小されていくからである。国家の介入は最小限に抑制されなければならない

 ところが、日本国政府は、戦後、自民党政権時代を通して、自由主義国家(経済)に不相応な社会主義政策を一貫して行い、拡大してきた。この意味において自民党真正自由主義を掲げる政党つまり、保守政党とよべる政党などではなかった断定できる

 社会党との馴れ合いであった55年体制の自民党政治が、今日の危機的な財政状況を生みだしたのである。

 自民党の政治家は真正の保守主義とは何であるのかをもっと問い詰めて勉強し、これまで行ってきた社会主義的政策の全面的見直しを行って今夏の参議院選で圧勝しない(=参議院で過半数をとれない)ならば必ずや参議院選から1,2年以内に自民党は解体し消滅するであろうと断言しておく。

 なぜなら、極左・反日の民主党政治に極度の怒りを覚えている真正の日本国民は保守政党に投票したくてしょうがないのに、自民党が真正の保守政党としての受け皿になれないならば国民にとって自民党の存在価値など皆無だからである。

 ちなみに、読者の皆さんは、現在の普通国債発行残高を御存知であろうか。「国の借金」=「普通国債の発行残高」=約823兆円であり、納税者=世帯主として「納税者の負担」=「家庭の負担」=約1557万円(→20103122000現在値、※国民一人当たりの負担額は6492168201041日時点〉:経済ジャーナリスト・財部誠一氏のホームページ 借金時計より)である。

 この巨額の債務を現在世代の日本国民は、出生率が低下して人口が減少しつつある、将来世代の日本国民にすべて背負わそうとしているのである。

 なお、社会保障政策を説明するのに都合の良い、「国家による自由」なる似非自由思想があるが騙されてはいけない。その内容をフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用して批判しておく。

――フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用ここから――

 国家による自由とは国家が介入することにより国民が得られる自由ないしは権利のことを一般にいう。国家からの自由と対にして用いられることもあり、一般に自由権を指す「国家からの自由」に対し、国家による自由には、社会権が主に含まれる。

 社会権は、規制対象として捉える国家による束縛からの解放ではなく、むしろ国家に対し特定の政策目標達成のための施策を行うことを求める権利である。

 当該政策目標が達成されることで国民が取りうる活動の範囲が広がりまたは生活の基盤が確立されることをして、「自由として捉えるのが、国家による自由の場合の自由の語義となる。

 政府のサポートに基づいて得られる積極的自由として、自由権における消極的自由と対比して用いられることもある。

 実際に国家による自由を具体化するものとしては、1つには社会保障制度が挙げられる。

 社会保障制度は一般に経済的側面に関する社会的弱者に対して、政府などが一定の給付等を行うことによって、人権の享有主体としての国民が日常的に活動するための基盤を確保するためのものである。

 社会権の一環としての国家のサポートによって国民は自由権その他の意義における自由を行使・確立することができることとなる

 一般に人権の発展形成時期・歴史における自由権・社会権の発展の経緯と対応し、国家による自由、とは、国家からの自由に関する議論よりも比較的新しい時期において提唱・発展してきたものであるが、現在においては少なくとも一定限度の国家による自由は国家が国民に対して当然保障すべきものとしての理解が通常となっている

――フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用ここまで――

 このような、国家が介入することによって国民が得られる自由などという意味の「国家による自由」などは、一見もっともらしいが政策の一側面だけを捉えた全くの出鱈目の似非自由」である。真の意味での“自由”とは言わない。

 エドマンド・バーク保守主義者の私の観点からすれば、真正の“自由”とは、“法の支配”・“立憲主義”のもとで“国法=憲法”によって保障されるものである

 国家(政治権力をもつ人間集団)の意志(=人間の意志・理性によって保障されるものではない

 このような「人間の意志・理性の介入によって自由を創りだせると妄想する政策は必ず理性の限界の壁に阻まれて当該政策目標を達成できずに破綻する

 ソ連の計画経済の失敗が、未だに理解できていない無能・無知の人間の発想であり、真正の自由が何であるかが全く解っていない。

 そして「国家による自由」というが国家によってある政策目標が達成されて国民に「自由」が与えられる前段階には必ずその政策実施のための課税や増税や国債増発という自由の拘束があることを隠蔽している

 そして、その政策目標達成のハードルが高ければ高いほど、また、対象範囲が広ければ広いほど課税・増税・国債増発という自由の拘束はますます大きくなり逆にその巨大な政策目標の達成率は低下するから、最終的には政策目標が達成できずに国民は、「課税・増税・国債増発という自由の拘束のみされて政策目標であった自由や権利は得られずに終わるつまり国家による自由とは、ルそーの自由ゼロは「自由」であるという詭弁と同義である

 現在の日本国の社会保障制度の危機的状況を見れば自明であろう

 なお、「経済的側面に関する社会的弱者にたいして政府などが一定の給付等をおこなう」とか「社会権の一環としての国家のサポートによって国民は、自由権その他の意義における自由を行使・確立することができることとなる」などは全くの出鱈目であり非現実であって、虚偽である。

 現在の日本国の社会保障制度では、「高齢者・後期高齢者=経済面に関する社会的弱者=高齢者all弱者」であるし、「現在世代の日本国民は自由を享受しているかもしれないが、その犠牲として巨額の国債発行残高が将来世代の日本国民に債務返済の負担としてのしかかり、彼らの自由権の拘束を確定せしめている」のが実体であろう。

 世界的に見ても、「ゆりかごから墓場まで」の北欧の社会保障制度である「スウェーデンモデル」は、すでに事実上破綻している。今時、スウェーデンモデルを福祉国家のモデルであると口にするものは、自分の無知を証明しているのと同義である。

 第二次世界大戦後の英国の労働党内閣による社会保障政策は英国病を生んだ。

 日本国の社会保障政策も事実上破綻寸前といって過言ではない。目の前の巨額の借金に目を瞑っているだけである。

 結局、高度な社会保障制度を継続的に維持し続けることができる国家など、無いのである。

 これが世界の社会保障政策の現実である。

 つまり、「国家による自由などという概念は妄想・虚構であり国家が国民の社会権に介入すればするほど、国民の真正の自由を拘束するのであり国家の政策によって自由を創りだすことなどできない

 「国家による自由とは社会主義教という邪教の描く妄想」「虚構」である。

 なお、「政府のサポートに基づいて得られる積極的自由として、自由権における消極的自由」などという言説は、真正の“自由”の何たるかが全く解っていない証左である。

 そもそも日本国民真正の自由”とは“日本国法=憲法に保障・擁護されて存在できるものであるから、日本国民は“日本国法=憲法”に対してそれを遵守する義務道徳)をもつ。つまり「道徳と一体の自由」である。

 そして国家(=政府)も“国法=憲法によってその権力の妥当性を保障・擁護されるのであるから、国家もまた国法=憲法に対してそれを遵守する義務を持つ

 このことによって国民の自由は国家(=政府権力による侵害から免れるのである

 であるから、「国家からの自由」とか「国家による自由」などというのは、国家(=政治権力)が“日本国法=憲法”の支配の下にあること、つまり“法の支配”・“立憲主義”の意味がさっぱり解っていない阿呆の妄言である。少し英米系の正統な憲法学を勉強された方がよろしいのではないかと思う。


 保守主義の哲学---「子ども手当法案」の闇---「日本国解体」という狂気(その4)へつづく


 

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