保守主義の哲学---新渡戸稲造『武士道』・與謝野晶子に学ぶ--‐道徳論(4)


―――日本国民の道徳の再興へ向けて―――

 エドマンド・バーク保守主義哲学)―――真正の自由―――「道徳ある自由」・「美徳ある自由

 新渡戸稲造―――『武士道

 與謝野晶子―――「幸福になる女性の道徳」(中川八洋與謝野晶子に学ぶ 幸福になる女性とジェンダーの拒絶』)

 から学ぶ

 ―――日本国再生の手懸りとしての道徳論(4)敢為堅忍の精神・誠――― 


 (5) 勇・敢為堅忍の精神

 勇気(=道理に対し真率正直なる徳・正義のために行われるのでなければ徳の中に数えられるにほとんど値しない。孔子は『論語』において、その常用の論法に従い消極的に勇の定義を下して、「義を見てなさざるは勇なきなり」と説いた。この格言を積極的に言い直せば、『勇とは義(ただ)しき事をなすことなり』である。

 あらゆる種類の危険を冒し一命を殆(あやう)くし死の顎(あぎと)に飛びこむ―――これらはしばしば勇気と同一視され、しかして武器をとる職業においてはかかる猪突的行為―――シェークスピアが呼んで『勇気の私生児』と言えるもの―――不当に喝采せられた

 しかしながら、武士道にありてはしかあらず死に値せざる事のために死するは、「犬死と賤しめられた。・・・水戸の義公も『戦場に駆け入りて討死するはいとたやすき業にていかなる無下の者にてもなしえらるべし。生くべき時は生き死すべき時(=死ぬことが義しきことである道理に適っていると判断した時にのみ死するを真の勇とはいうなり』と言っている。

 剛毅(=意志がしっかりしているさま)、不撓不屈(=困難にひるまず屈せず意志を貫くさま)、大胆(=物事に恐れたり憶したりしないこと)、自若(=落ち着いていて物事に驚いたり慌てたりしないさま)、勇気(=義のためならば何事も恐れない強い心等のごとき心性は少年の心に最も容易に訴えられかつ実行と模範によって訓練されうるものであって少年の間に幼児から励みとされたるいわば最も人気のある徳であった

 小児はいまだ母の懐を離れざるに、すでに(いくさ)物語を繰り返し聞かされた。もし何かの痛みによって泣けば母は子供を叱ってこれしきの痛みで泣くとは何という臆病ものです!戦場で汝の腕が斬り取られたらばどうします?切腹を命ぜられた時はどうする?と励ました。『先代萩』の千松が、『籠に寄りくる親鳥の、餌ばみ(=餌を与えること)をすれば小雀の、嘴さしよるありさまに、小鳥を羨む稚心(おさなごころ)にも、侍の子はひもじい目をするが忠義じゃ』と、いじらしくも我慢したる昔話は、人のあまねく知るところである。

 我慢勇気の話はお伽ばなしの中のもたくさんある。しかし、少年に対し敢為自若の精神を鼓吹する方法は、決してこれらの物語に尽きなかった。時には残酷と思われるほどの厳しさをもって親は子供の胆力(=物事に簡単に驚いたり恐れたりしない気力を練磨した。『獅子はその児を千仭の谷に落とす』と彼らは言った。武士の子は艱難の嶮しき谷へ投ぜられ、・・・苦役に駆り立てられた。時としては食物を与えずもしくは寒気に曝すことも忍耐を学ばしむるに極めて有効なる試練であると考えられた。幼少の児童に用を命じて全然未知の人に遣わし或は厳寒といえども日の出前に起き朝食前素足にて師の家に通って素読の稽古に出席せしめた。

 ・・・この超スパルタ式なる『肝を練る(=胆力を練磨する)』方法補注1参照現代の教育家を驚かせて戦慄と疑問を抱かしめるであろうか―――このやり方は人の心の優しき情緒をば蕾(つぼみ)のうちに摘み取る野蛮の方法であるまいかとの疑問を、抱かしめるであろうか。

 ――(補注1ここから――

 勇気が人のたましいに宿れる姿は、平静すなわち心の落ちつきとして現われる平静静止的状態における勇気である。

 敢為(=物事を思い切って行うことの行為が勇気の動態的表現たるに対し、平静はその静態的表現である。

 真に勇敢なる人は常に沈着である。彼は決して驚愕に襲われず、何ものも彼の精神の平静さを紊(みだ)さない。激しき戦闘の最中にも彼は冷静であり大事変の真中にありても彼は心の平静を保つ。地震も彼を震わず、彼は嵐を見て笑う。危険もしくは死の脅威に面しても沈着を失わざる者例えば差し迫る危険のもとに詩を誦み死に直面して歌を吟ずる者かかる人は真に偉大なる人物として吾人の賞嘆するところであり、その筆跡もしくは音声従容(=ゆったりと落ち着いているさま)として平生と異なるなきは、心の大なることの何よりの証拠である―――吾人はこれを『余裕』と呼ぶ。それは屈託せず混雑せずさらに多くをいるる(=許容できる余地ある心である

 ・・・ブルトゥスの死に際しアントニウスおよびオクタヴィウスの感じたる悲哀は、勇者の一般的経験である。

 上杉謙信は十四年の間武田信玄と戦ったが、信玄の死を聞くや敵の中の最も善き者の失せしことを慟哭した

 謙信の信玄に対する態度には終始高貴なる規範が示された。

 信玄の国は海を距(へだ)てること遠き山国であって、塩の供給をば東海道の北条氏に仰いだ。北条氏は信玄と公然戦闘を交えていたのではないが、彼(=信玄)を弱める目的をもってこの必需品の交易を禁じた。謙信は信玄の窮状を聞き、書を寄せて曰く、聞く北条氏、公(=信玄)を困(くるし)むるに塩をもってすと、これ極めて卑劣なる行為なり(=謙信の公(=信玄と争うところは弓箭(ゆみや)にありて米塩にあらず今より以後塩を我が越後の国に取れ多寡(=数量ただ信玄の命のままなり、と。

 ・・・実に名誉とは等しく平時において友たるに値する者のみを戦時における敵としてもつべきことを要求するがこの高さに達した時それはに近づく

 ――(補注1ここまで――新渡戸稲造『武士道』、邦訳 矢内原忠雄、岩波文庫、4550

 (6) 誠

 信実(=正直)と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。伊達政宗曰く、『礼に過ぐれば諂(へつら)いとなる(=度を越えた礼はもはやまやかしであり真実性がない)』と。『心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん』と誡めし昔の歌人は、ポロニウスを凌駕する。

 孔子は中庸においてを崇びこれに超自然力を賦与してほとんど神()と同視した。曰く、『誠は物の終始なり、誠ならざれば物なし』と。彼はさらに博厚にして悠久たる性質動かずして変化を作り(=意識的に動かすことなく相手を変化させ)、無為にして(=あるがままにして作為せずに目的を達成する力について、滔々と述べている。

 ・・・虚言遁辞(=言い逃れ逃げ口上はともに卑怯と看做された武士の高き社会的地位百姓町人よりも高き真実(=正直の標準を要求した

 『武士の一言』・・・と言えば、その言の真実性に対する十分な保障であった。武士は然諾(=引き受けたことは必ずやり遂げること)を重んじ、その約束は一般に証書によらずして(=口約束で結ばれかつ履行せられた。証文を書くことは、彼の品位に適わしくないと考えられた。

 『二言すなわち二枚舌をば死によって償いたる多くの物語が伝わっている

 信実(=正直)を重んずることかくのごとく高く、したがって真個の武士は、誓いをなすをもって彼らの名誉を引き下げるものと考えた(=第三者である神などに誓いをなすことは自分の信実(=正直)と誠実に確信がもてない証拠であり信実や誠実が徳として自分の身に定着していない証拠であってであり名誉を傷つけることと考えた)。

 ・・・近頃一人のアメリカ人が書を著わして、『もし普通の日本人に対して虚言を言うのと礼を失するのといずれを取るかと質問すれば、躊躇なく虚言と答えるであろう』と述べた。

 かく言えるピーリー博士は、一部分は正当であり、一部分は間違っている。普通の日本人のみでなく、武士でさえも、彼の言えるがごとくに答えるであろう、という点においては正しい。

 しかしながら博士が日本語の『ウソ』という語を“falsehood虚偽)”と翻訳して、これに過当の重みを置いた点は誤りである。『ウソという日本語は何でも真実(「マコト」)でなきこともしくは事実(「ホントウ」)でなきことを示すために用いられる

 ローウェルの言うところによれば、ワーズワースは真実事実とを区別することができなかったというが、普通の日本人はこの点においてワーズワースと異ならない

 日本人に、或はいくらか教養のあるアメリカ人にでも彼が君を好まないかどうか、もしくは彼は胃病であるかどうかを質問してみよ。長く躊躇することなくして、『私は君を甚だ好む』とか、『私は大丈夫です、有難う』とか虚言(=ウソであって虚偽ではないことに注意)の答えをするであろう。これに反し、単に礼儀のために真実(=マコトを犠牲にすることは『虚礼』であり『甘言人を欺くものであるとなされた新渡戸稲造『武士道』、邦訳 矢内原忠雄、岩波文庫、6971

 →私の解説:「真実」とは字のごとく「真理・道理を伴った本当のこと=複数の人間に共有されねばならない本当のこと」という意味である。

 「事実」とは字のごとく「単純に現実に存在した事存在している事という意味の本当のこと以上の意味を持たない。つまり、複数の人に共有されねばならないという意味はない

 そして、新渡戸稲造博士によれば、日本語のウソ)は「真実でも事実でもないことを示すことである。

 つまり、博士の上記の例で言えば、ある人間Aが人間Bのことを嫌っていたとする。

 この時、人間Aにとって「人間Bが嫌いである」のは本当であり、「事実」であるが、この「事実」について人間Bは知らないし解らない(=人間AとBの間で共有されていないし、される義務もない)のであるから、すでにこの時点で両者の間に共有すべき真実など存在しない

 であるから、人間Bが人間Aに対して「あなたは、私を嫌っていますか?」と問うた時、人間Aが「私はあなたが大好きです」と答えても、それは事実でないことを示しただけであって、何も真実を犠牲にしてはいない

 つまり人間Aは虚言ウソ)」を言ったのであって、それは虚偽ではない

 読者の皆さん、ここまで解りますか?

 また、胃病の例の場合も全く同じで、人間Aが胃病であったとしても、それは人間Aの「事実」であって人間AとBの間で共有されていないし、共有される義務もない。

 これに対し、“falsehood虚偽)”とは、「真実を知りながら故意に真実を歪め偽の真実を偽造することであり、極めて悪質である。

 例えば、極端な例をあげれば、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦問題に関して、それが現実に行われたか否かの問題は、現在も論争中であるが、このような問題の結論は「日本国民全体に共有されねばならない本当のこと」に分類されるから、これは真実に関する問題である

 ゆえに、この問題に関して、「事実」の立証が不十分な段階で、それをあたかも「真実」かの如くに、言論や出版により公然と表現することは、「真実を犠牲にし似非真実を偽造して日本国民全体を欺き煽動する行為であるから、「虚言ウソ)」では済まされない次元の虚偽であり「犯罪」である

 つまり、「ウソ)」真実を偽装しない、「虚偽真実に土足で踏み込み真実を歪曲する意味で極めて卑劣な行為である

 現在の日本国において、このような、「虚偽を報道するマスメディア新聞雑誌テレビラジオ・・・)が散見られるが、それらは、「」=「正直」という徳が欠如しているということであり、孔子がを崇びほとんど神と同一視したことを考えれば、「虚偽報道という罪は極めて凶悪と言わざるを得ない

 言論の自由などの表現の自由権利行使認められて然るべきであるがその表現の自由の行使に虚偽を用いて社会国家)や国民利益を損ねた場合、その結果に対する義務は、権利の行使者が負わねばならないのであるから、倫理・道徳による自主的な抑制さえできず平然と虚偽報道をするような報道機関に対しては刑法にて厳罰を科すべきであろう


保守主義の哲学---新渡戸稲造『武士道』・與謝野晶子に学ぶ--‐道徳論(5)へ続く


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