保守主義の哲学---新渡戸稲造『武士道』・與謝野晶子に学ぶ--‐道徳論(6)


―――日本国民の道徳の再興へ向けて―――

 エドマンド・バーク保守主義哲学)―――真正の自由―――「道徳ある自由」・「美徳ある自由

 新渡戸稲造―――『武士道

 與謝野晶子―――「幸福になる女性の道徳」(中川八洋與謝野晶子に学ぶ 幸福になる女性とジェンダーの拒絶』)

 から学ぶ

 ―――日本国再生の手懸りとしての道徳論(6)與謝野晶子という女性(其の1)――― 


 ―――中川八洋 筑波大学名誉教授與謝野晶子に学ぶ 幸福になる女性とジェンダーの拒絶』より部分引用(一部要約)、ここから―――

 (1) 夫への献身という至福

 與謝野晶子とは、たったひとりの男性貞節貞操と献身をもって青春の恋心のままにその生涯を賭けて愛し続けた女性であった

 処女作『みだれ髪』から没後出版の『白桜集』に至るまで歌われ続けた、晶子の鉄幹(=與謝野鉄幹)への41年間1900年~1942年、鉄幹は1935年没)におよぶ生涯変わらぬ恋心は、イプセンの戯曲『人形の家』の主人公ノラの生き方となんという相違であろうか。

 ノラ夫を捨て子供を捨てた

 晶子夫を愛し五男六女11を立派に育て上げ先立たれて後もまた鉄幹追憶に生きた

 ノラと晶子のいずれが本物の女性であるかは、言うまでもあるまい

 ・・・そもそも晶子がいかに夫を愛したかは、その出産した子供の数において明らかだろう。むろん当時の女性で11人を生み育てるのはさして珍しいわけではないが、晶子は女流歌人であり女流評論家でありまた一家を経済的に支えていたのである。さらに源氏物語の現代語訳を完成したようにそれなりの国文学者でもあった

 とすれば、絶えず妊娠した状態で、晶子があれほどの優れた作品を40年間も休むことなく世に送りつづけた事実は、「女性の鏡」などというのは舌足らずであろう。@いわんや結婚仕事キャリア子持ち恋愛かなどと・・・選択不幸と絶望の老いが迫りくるのを感知できない女性が今日本の女性人口の半ばに達せんとしているが、晶子からすればそんな選択は未熟さからの矮小無能とをさらけ出しているにすぎない

 (→私の意見結婚仕事キャリア子持ち恋愛かなどと、一方しか選択肢がないという思考はネガティブな思考である。

 それは、男性に憎悪し女性を擁護するかのごとき「男女平等」を主張をしながら実は、「男性に愛される幸福な女性も同時に憎悪し呪詛するマルクス主義的フェミニズム(ラディカル・フェミニズム)日本女性を不幸にするために吹聴している虚妄妄想である

 女性が「私は、女性の幸福のすべてを手に入れてみせる!!と大目標を立てその大目標を達成できる手段と方法を探し出して、それに向かって一生懸命努力してその大目標に至る小・中目標を一つ一つ達成してゆく過程そのものが女性が“真の幸福”なのではないのだろうかか?と、私(ブログ著者)は思うのだが・・・。最初から「どちらか一方を捨てる」などと決めつける(思い込む)という悲観的選択肢は、本来、選ぶべき「選択肢ではない」のではなかろうか。

 そして、国家そのような目標をもって努力する女性にこそ最大限の支援策を施すべきであろう、と考えている。)

 さらに晶子は、その超多忙な日々のなかで、夫への愛を絶えず熱ある行動において示し続けた。その一例として、13人を出産し、死産1人と夭折1人(名前は寸)を除く11人の子供を立派に育てあげたことをあげねばなるまい。夫への愛と尊敬が並みであったなら13人の出産などどうして可能となるだろう子育てにも晶子は手を抜くことはなかった

 ・・・幾時代を経ても北極星のように煌めき続ける晶子に比べて、(夫の)鉄幹は賞味期限のすぎた過去の文人だと世間がみなしているときですら、晶子は夫だからでなくその歌人としての才そのものにおいて鉄幹を心から尊敬していた。だから夫の作品『相聞』を、すでに自棄的でやる気をなくしていた夫に代わって、自分の睡眠や体力を削ってまでも強引に出版したのである。

 ・・・鉄幹の臨終に際し子供たちが故人の愛用品を棺に入れているときに晶子は次の歌を詠んでいる

 筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我を愛できと『白桜集』「寝園」

 夫は自分を最も愛したのであるから生前の愛用品を棺に納めるのであれば私を入れてくださいと声を出したかったがさすがに言い出せなかった、と。夫の棺に共に入りたいと思う妻は、今日の日本の夫婦のなかに、さて幾人いることだろう。

 晶子は夫の女遊びに関して、妻は寛容であるべきだと心底から思っていた。

 実際に遊び人でもあった鉄幹・・・のそばにいることそのことに無上の幸福を感じそれこそを至福の我が人生と確信して生きた女性でもあった。次のエセーはこのような考え方を理論的にまとめたものである。

 『以前は、婦人解放と云ふ事が問題に成つた場合もありましたが、今日は其より男子解放と云ふ事を主張すべき時期に達して居ると思ふのです。・・・

 今日の自覚した男子の心には却つて一婦人を守って居ると云ふ事が不自然に感ぜられるに違い無い。・・・情味の欲を禁制せられて苦痛を感ぜぬ男子があるなら其は恐らく不具の人でせう。・・・

 此に至つて世の聡明なる妻は皆良人(をっと)の心に同情し、快く良人(をっと)をして自由なる情的生活に赴かしめるのが賢い立派な量見でないかと思ひます』(『定本 與謝野晶子全集』第十四巻、講談社、183184

 妻ひとりだけに性関係を制限するのは、男として夫は『不自然』、『苦痛』と感じるだろう、と理解している。

 このように、晶子の女性の自立は(フェミニストとは異なり)、男性への尊敬男性の生理的行動に対する男女関係の相違(=妄想的理想論ではなく現実問題としての男女の生理学的行動の相違など男女両性は本質的に平等ではない本質的に異なっているという現実から逸脱することはなかった

 昨今の日本のフェミニズムのように、夫の浮気を認める代わりに妻も浮気すればよいという夫婦崩壊家族解体の煽動を秘めた、悪意と下劣な男女平等論晶子の発想の枠外にあった。

 晶子は、鉄幹の女遊びに対するに、妻の貞操に関する次のような自らの心情信念とを素直に綴っている。貞操は道徳以上に尊貴である』という1915年のエセーである。

 『私は貞操最も尊重し貞操最も確実堅固な基礎の上に据ゑたい

 『私が、私の貞操を絶対に愛重して居るのは芸術の美を愛し、学問の真を愛するやうに道徳以上の高く美しい或物―――仮に趣味とも信仰とも名づくべきものだと思つて居ます』

 『私は貞操を尊重することを何人にも譲らないために敢えて此一文を書きました』(『定本 與謝野晶子全集』第十五巻、講談社、130139

 ・・・上記に引用した短い文章のなかで、キーワードをあげるとすれば、貞操を除き、『道徳』、『』、『』、『趣味』、『信仰(=理屈を超えた確信)』の五つがそれに当たる。

 この五つのキーワードの組み合わせはほぼ、・・・エドマンド・バークの哲学でも論究されている。また、19世紀のヨーロッパ随一の歴史学者、ヤーコブ・ブルクハルト倫理道徳論を支える、その美意識との関係にも近い

 ・・・バークには、250を経た今も世界中の大学で美術の教科書の一つとして使用されている27歳の時の作品、『崇高と美の観念の起源』という著がある。バーク美徳ある自由の哲学は、へのこだわりが、“道徳ある真正の自由を大成するにあたって出発点の一つとなったと言える。

 一般的に言っても道徳とは美に類するものである。人間の持つ美徳と悪徳への区別と好悪は美と醜を区別する感情や感性と同じであって、理屈はいっさい介在しない。このことは、18世紀英国(スコットランド)のデイビットヒュームアダムスミス道徳哲学でつとに十分に証明されてきたものであった。

 そして、を尊ぶことは真実を尊ぶことに通じるから、倫理道徳の醸成にあたって、美を求める心を育てることの教育効果は計り知れぬほど大きい。だから子供に対して、絵画や音楽や建築などの教育を通じての美の鍛錬は、そのことがすぐに道徳教育になるわけではないが、道徳性の萌芽と成長にとって欠かせない基盤の一つが作られることになる。

 『貞操は道徳以上に尊貴である』とペアになっている晶子のもう一つのエセーが『私の貞操論』である。

 そこで晶子は『純潔』についても言及し、純潔と貞操の関係を明らかにするとともに、『純潔』を『正しいことを好む心』と喝破している。英国のスコットランド学派の哲人D・ヒュームが『人間本性論』で論じている中核的なモチーフそのものになっている。

 『自分には純潔を尊ぶ性情がある。鄙近に云へば、潔癖、突込んで云へば之(=純潔)が正しい事を好む心と連関しているこの性情が自分の貞操を正しく持することの最も大きな理由になっているように考えられる』

 具体的な夫(鉄幹)との関係にも触れて、自分が貞操を堅持するのは自分が自分自身を尊重するためであり、軽い気持ちのようなものでない旨を明確にしている。

 『自分の貞操は男子―――良人の貞操の如何によつて動揺するものでない自分の肉体を清らかに保つのは自分の心の象徴だとして、何よりもまづ自分のために尊重するのである

 そして貞操を放棄する行為そのものに、『不潔』と『虚偽』を見る。『純潔な心』は、キリスト教徒にとっての十字架のような象徴 シンボル』だと言うのである。

 『良人(夫)と自分との間には心の上に虚偽がない何事も隠さずに打ち明けねば自分の純潔を好む心が済まない従つて肉体をも純潔に自重したい不貞なる行為はやがて不潔である虚偽である純潔な肉体は、自分の純潔な心最も大切な象徴として堅く保持したいと思ふ』(『定本 與謝野晶子全集』第十四巻、講談社、365382

 ・・・1910年刊の詩集『相聞』は、晶子がすべて取捨編纂浄写その他の労を注いで完成させたものである。・・・これもまた、世間から見捨てられた失意と自嘲の日々に蝉の抜け殻のようになった夫に、往年のあの意気軒昂を取り戻して欲しいと望み、晶子が提案し晶子が身を削って出版したものである

 ・・・ところで、この『相聞』には、晶子に次ぐ天才女流歌人山川登美子への鉄幹のひたむきで真剣な愛の歌が、数々収められている。それは、青年時代の女遊びの歌のそれではない。

 鉄幹と登美子のこのような愛を晶子は果して、『良人をっと解放だと心乱れることなく寛容であり得ただろうか

 実際には晶子はかなり参ったようだ。『良人解放もケースによっては不寛容と寛容の間に揺れてこそ自然であるいつも男性解放がいいとは限らない

 晶子の良人解放は、イデオロギーに徹して人間性を顧みない人間性を否定する嘘ラベル婦人解放という“女性憎悪の哲学に対する批判としてまたバランサーとしてその提起した意義は高い

 しかし、『夫のふた心の問題普遍であるべき倫理道徳の範囲で論じられるべきではなく個人レベルケースごと個人が判断するべきものであろう同様にまた、『婦人解放もそれぞれの女性がその個人としてのレベルにおいて選択し行動する問題であって、社会問題や国家法律的問題とすべきではないのである。

 今日の日本では、フェミニズムの荒れる猛威によって、また、これに便乗する立法によって、夫婦家族という私的領域への国家の介入は(家庭裁判所を含め)度を過ぎこの点で個人の自由は過剰に侵害され重大な危機にある

 男女の愛は、結婚の法制度を除き伝統と慣習という不文のに律せられるべきで、国家の権力による『法律の強制』がいささかも入ってはならない聖域に存在する。

 そうでなければ、男女の愛も、それを支え社会全体を暖かく包み柔らかく照らす美も、この世から消えることになる中川八洋『與謝野晶子に学ぶ 幸福になる女性とジェンダーの拒絶』グラフ社、2005年、1029 


保守主義の哲学---新渡戸稲造『武士道』・與謝野晶子に学ぶ--‐道徳論(7)へ続く


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