保守主義の哲学---新渡戸稲造『武士道』・與謝野晶子に学ぶ---道徳論(7)


 ―――日本国民の道徳の再興へ向けて―――

 エドマンド・バーク保守主義哲学)―――真正の自由―――「道徳ある自由」・「美徳ある自由

 新渡戸稲造―――『武士道

 與謝野晶子―――「幸福になる女性の道徳」(中川八洋與謝野晶子に学ぶ 幸福になる女性とジェンダーの拒絶』)

 から学ぶ

―――日本国再生の手懸りとしての道徳論(7)與謝野晶子という女性(其の2)―――


 (2) 歪曲された「君死にはまふことなかれ」

 與謝野晶子、『反戦とは全く無縁の歌人であった皇室や天皇への尊崇についても人後に落ちることはなくまさしくよき国民の一人であった

 晶子を『反戦文学者とするのは、ある政党が戦後に仕組んだ偽りの宣伝プロパガンダであって嘘もここまでやるとは悪質このうえない

 晶子は、四男の(東大工学部卒)がパール・ハーバーの奇襲から一ヶ月が過ぎた19421月、海軍大尉として帝国海軍の駆逐艦に乗って太平洋へと出撃した時、次のような歌を詠んでいる。『勇敢に戦え』、『武運を祈る』とある。どこに『反戦』思想があるというのだろう。匂いほどもない

 『水軍の大尉となりて我が四郎み軍(いくさ)に往く猛く戦へ

 子が船の黒潮越えて戦はん日も甲斐なしや病ひする母

 子が乗れるみ軍船のおとなひを待つにもあらず武運あれかし

 三千と世の神の教へに育てられ強し東の大八島びと』(『白桜集』

 ・・・(1910年)山口県新湊沖で海軍第六号潜水艇半潜水訓練中に沈没し、佐久間艦長以下十四名が殉職した。この際、佐久間勉は、死を目前にしながら事故と事故後の艇内状況の報告を認(したた)めていて、その冷静かつ職務への忠誠は日本のみならず世界的に感動を呼んだ

 ・・・佐久間艦長への鎮魂の歌(1911年作)には、それ(=明治以降の軍人への敬意)がよく滲みでている。

 『勇ましき佐久間大尉とその部下は海国の子にたがはずて死ぬ

 いたましき艦長の文ますら男(を)のむくろ載せたる船あがりきぬ

 桜さく弥生も海のできごとはいたましきかな沈む武夫

 ますら男(を)は笑みて死にけめ聞く我はたをやめなれば取乱し泣く』(『青海波』その他

 ・・・〈その他にも1933年作の『国民覚せいの歌』(『與謝野晶子全集』、第八巻、文泉堂、288293)や1914年作の『戦争』(『與謝野晶子全集』、第九巻、講談社、121)などの歌や詩もあり〉このような、晶子の詩や歌があるのを知れば、かの有名な『君死にたまふことなかれ』は、どうも『反戦詩』ではないかもしてない、との疑問は誰しもすぐ湧いてこよう。

 結論を先に言えば堺市にある実家の老舗駿河屋の断絶を恐れてのそれを継ぐ弟の無事帰還を祈った詩、それが『君死にたまふことなかれのすべてであった。

 もし晶子が反戦歌人なら19042月から19058月までの一年半も続いた日露戦争の間、あれほどの作品を発表した中に、そのような詩や歌がほかに何首かは必ずあるはずである。しかし一首もない。・・・

 晶子を反戦歌人に仕立てあげることがいかに荒唐無稽なこじつけであるかは、これだけでも充分に明らかだろう。

 このような、軍人武勇への晶子尊敬の情あるいは軍人の信条たる天皇国家への忠誠についての晶子尊敬の念は、当時にあっては平凡だが、現在からすれば、極めて高いものがあった。散文においても、次のような見解を発表している。

 『爆弾三勇士の尊い自己犠牲・・・に感激するのは国民各自の内に三勇士に共鳴する同様の勇気が潜在しているからである』(『定本 與謝野晶子全集』第二十巻、講談社、384

 『軍人は・・・勝つことが最後の目的ではなく、勝つことに由って、軍人自身の忠誠武力とを陛下のおん前に捧げ、・・・』(『定本 與謝野晶子全集』第二十巻、講談社、280

 さて、『旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて』との詞書(ことばがき:和歌で、その歌を作った日時・場所・背景などを述べた前書き)の、この世間を騒然とさせた詩(=『君死にたまふことなかれ』)は『明星』19049月号に発表された。

 ・・・まず、『君死にたまふことなかれ』の第二聯を考えてみよう。

 『堺の街のあきびと

 老舗を誇るあるじにて、

 親の名を継ぐ君なれば

 君死にたまふことなかれ

 旅順の城はほろぶとも

 ほろびずとても何事ぞ

 君は知らじな、あきびとの

 家の習ひになかりけり。』

 世間から轟々たる批判を浴びた『旅順の城はほろぶともほろびずとても何事ぞ』の二行を除けば、この聯は、旧家を継いでいくのが弟の任務なのに死んだらそれを果たせないではないかと実家の一大事とばかりに晶子が慌てふためいているのが伝わってくる。そして『あきびと商人である理由において死ぬ必要がないとの主張である。晶子はここで、江戸時代の士農工商の身分階級のルールを持ち出している。

 ・・・『戦場に赴くのは武士階級の子弟に限られるべき』との考えは、日露戦争当時はまだ田舎あたりでは濃厚に残っていた。晶子のこの多少ずれた感覚は、なんら不可解ではないいわんやまだ26歳の時である。

 そうはいうものの、・・・旅順が攻略できなくてもよいとしたのは、余りに軽率であった日本がその存亡と命運を賭けて戦争している最中の文言としては不適切であったことは否定しようがない

 では、なぜ晶子は、こんな不用意な文言を発想したのか。無思慮にもトルストイを盗作したからである。

 190487日付の『平民新聞の(トルストイの)この個所は、『我生活の事業なる者は、旅順口に対する清人、日本人もしくは露国人の権利の承認と何の交渉あらざる也』とある。

 『平民新聞、(トルストイの訳に際してPort Arthur 旅順港』を『旅順口誤植したが、『旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて』という晶子の詩の詞書も、『旅順口』と『』が『』になっている。晶子が盗作したことの証左である。

 ロンドン・タイムズ紙に書いたトルストイの英文原文によれば、『旅順港が、清国の権利と認められようと、日本国のになろうと、露国のになろうと私の生活にとっても仕事にとっても何の関係もない』という意であり、晶子は『平民新聞』のうまいとは言えない訳(文)からその趣旨を正しく把握し、『旅順の城はほろぶともほろびずとても何事ぞ』としたのである。

 ・・・そして第三聯の、最も物議を醸した次の部分は、またまたトルストイから拝借したものであった。

 『平民新聞』の訳によれば、トルストイが『汝、心なき露国皇帝、○○皇帝、大臣、牧師、僧侶、将官、記者、投機師、その他なんと呼ばるる人にもあれ、汝ら自ら彼の砲弾銃弾の下に立てよ我等は最早行くを欲せず、・・・』と書いた箇所を晶子は次のように表現した。

 『戦争と平和』の著者トルストイは、ロシアにおける過激な無政府主義者アナーキスト)で皇帝制度廃止論者であった。

 『すめらみことは、戦いに

 おほみずからは出でませね、』

 また、この後に続く次の二行も、トルストイの『なお野獣の如く、否野獣よりも一層悪しく、彼らは互にできうる限り多くの生命を断たんとして専心一意努力しつつあり・・・』から着想したのであろう。

 『互(かたみ)に人の血を流し、

 獣の道に死ねよとは、』

 とりわけ、『すめらみことに・・・』の二行は、天皇誹謗の不敬ともとらえられるから、晶子に対する世間の目は社会主義者アナーキストが蟠踞する平民新聞』に対するかのように厳しくなった

 この意味で、個人的には知り合いでもある大町桂月の激越な非難があったのは、晶子としては反論の機会が生まれたし、また世間もそれで満足するから、幸運であった

 結果として君死にたまふことなかれの詩で晶子の社会的評価に傷がつくことはなかった

 三代目宗七となった籌三郎乃木将軍麾下(=直属)の第三軍第四師団所属であったが、最も多くの死傷者を出した旅順港の背後にある二百三高地攻撃部隊にいるとの誤まった伝聞に動転して盗作もどきの作品を書いた晶子の軽率をむしろ桂月こそが救ったと解してよい。・・・

 【 晶子の天皇・皇室観 】

 『君死にたまふことなかれ』を反戦詩として宣伝する左翼運動の目的には、もう一つある。

 『すめらみことは・・・』の二行をもって、『與謝野晶子も天皇制に反対もしくは批判的だった児童・生徒に対する天皇制廃止の洗脳教育にこれを活用する戦術としてである

 しかし晶子のどこを読めば天皇制廃止などというコミンテルン32年テーゼおよび社会主義・共産主義思想そのままの考えが発見できるというのだろうか晶子にはそんなものどこを探しても存在しないむしろ逆である。次のエセーを読んで頂きたい。

 『私の常に感謝してゐる事が幾つかある。中にも第一に忝(かたじけな)く思ふことは日本に生れて皇室の統制の下に生活してゐることの幸福である』・・・

 『私は茲(ここ)に昭和七年の元旦に当たつて、謹んで皇室の萬萬歳を祝はせていただくと共に国民として聖代の恩寵に生きることの幸福を感謝し奉るのである

 『一旦皇室のおん上に思ひ及べば粛然として正しきに復(かへ)いかなる公私の闘争も鎔解し去るのが三千年の歴史に養われた特殊の国民精神である』(『定本 與謝野晶子全集』第十九巻、講談社、269)・・・

 大正天皇の即位の御大典191511月、京都)には、二十二首も詠んでいる。うち二つをあげる。

 『南庭(なんてい)の萬歳旙(ばんざいばん)のくれなゐの錦に天(あま)つ日(ひ)のうつる時

 『悠紀(ゆき)の民文基(たみすき)の国人(くにびと)御穂(みほ)まゐるわが聖帝と神々のため』(『朱葉集』

 昭和の時代に入って、晶子は天皇と自由の関係について、『国民の自由は王制の存在によって擁護されている』と省察したエドマンド・バークとよく似た思惟をするようになったが、昭和天皇には特段の崇敬の情を抱いていたようである

 国語・国文学の重視を説いて、文部省の国語軽視政策を批判したエセー『日本人として』(1927年)の中の一節に、次のような昭和天皇への感謝が綴られている。・・・

 『今上陛下が旧臘(きゅうろう:昨年十二月)の朝見(ちょうけん:臣下が参内して天皇に拝謁すること)第一儀に賜つた勅語が、・・・11典拠のある文字をもつて・・・お選びになった事、是等は、・・・日本人が含蓄の深い象徴的芸術的の典雅なる言語を用ひる伝統的の趣味精神に本づくことである。文部省が浅薄な簡便主義に囚はれて国語、国文および漢字、漢文を軽視してゐる堕落傾向に対して、今上陛下が特に典雅なる文字文章の存在する事を国民の前にお示しになった事を、私は有難いと存じ上げます』(『定本 與謝野晶子全集』第十九巻、講談社、308428186

 ・・・晶子とは社会主義思想共産主義思想強く嫌悪※1参照そう堂々と公言し論陣を張った例外的な知識人であった

 ・・・晶子はなぜか明治大帝教育勅語キリスト教徒にとっての新約聖書のように押し戴いていたそんな晶子がどうして反天皇であり得ようか

 『自分は信じてゐる綱上(こうじょう:人の守るべき道理)倫理大本皇祖皇宗の御遺訓にあると。その御遺訓の粋と要とを集めて言言玉を聯(つら)ねられた聖典は今上陛下明治天皇教育勅語である教育勅語偉大荘厳赫耀たる所は・・・啻に日本人の依憑し遵守すべき倫理である・・・』

 このような尊皇の思想晶子終生変えることはなかった中川八洋『與謝野晶子に学ぶ 幸福になる女性とジェンダーの拒絶』グラフ社、2005年、3248

(※1)與謝野晶子は、社会主義思想やソ連を、旗幟鮮明に批判した。

 晶子の反ソ・反共の政治思想について、彼女は何か別のテーマのエセーの片隅にちょっとだけそれらを主張したのではない。堂々と二十本を超えるエセ―で論陣を張ったのである。

 晶子が、反ソ・反共の論陣を張った、1920年から30年代の日本(特に1925年の日ソの国交回復以降)では、マルクス主義こそ“時代の正義”であり、“人類の真理”であるとみなされていた。

 東大・京大では、マルクス主義は、ニュートン力学と同じ、科学の一つとして公然と講義されていた。

 知識人・文化人も新聞社説も、目にするほぼすべての活字は、社会主義を支持し、それを信仰していた時代である。

 日本国全体が、このマルクス主義一色に染まった情勢下で、一直線に大東亜戦争に突入して行ったのであるから、大東亜戦争を論ずるに、当時の日本国におけるマルクス主義の跋扈を看過して、大東亜戦争の真実を語ることができないのは、自明の原理であろう。

 晶子が単なる天才歌人にとどまらないのは、第一に、ソ連研究者でもないのに、ソ連を鋭く解剖して、ソ連を知ること当代一流であったことであろう。共産体制を冷静に観察する能力において、晶子をしのぐものは当時日本にいなかった。ソ連特集をいくども組んだ『改造』や『中央公論』での東大教授その他のソ連論より、晶子の方がソ連の真像をはるかにうがっていた。

 第二に、晶子は社会主義やマルクス・レーニン主義を拒絶したが、それらのイデオロギーの理解においても、晶子の右に出る者はいなかった。

 このような、晶子の反ソ・反共のエセーについては、ここでは省略するが、(『定本 與謝野晶子全集』第十九巻・第二十巻)に集約して掲載されている。興味ある方のみ読んで頂きたい。

 あるいは(中川八洋『與謝野晶子に学ぶ 幸福になる女性とジェンダーの拒絶』グラフ社、2005年、第三章、5268)を参照されたい。


保守主義の哲学---新渡戸稲造『武士道』・與謝野晶子に学ぶ--‐道徳論()へ続く


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