保守主義の哲学---新渡戸稲造『武士道』・與謝野晶子に学ぶ--‐道徳論(8)


 ―――日本国民の道徳の再興へ向けて―――

 エドマンド・バーク保守主義哲学)―――真正の自由―――「道徳ある自由」・「美徳ある自由

 新渡戸稲造―――『武士道

 與謝野晶子―――「幸福になる女性の道徳」(中川八洋與謝野晶子に学ぶ 幸福になる女性とジェンダーの拒絶』)

 から学ぶ

 ―――日本国再生の手懸りとしての道徳論(8)與謝野晶子という女性(其の3)―――


 (3) 出産は光輝、子供は歓喜(よろこび)

 「 産声を聞くと心も身も溶ける

 『命がけで新しい人間の増殖に尽くす婦道永久に光輝であって、・・・真に人類の幸福はこの婦道から生じると思うのです。・・・これは・・・私の胎を裂いて八人の児を浄めた血で書いて置く』(『定本 與謝野晶子全集』第十四巻、講談社、99

 これはエセー『産褥の記』(1911年、33)の結語である。・・・

 晶子が、・・・11人の子供を産み育てた情熱義務意識は、ここにあるように出産というものを命がけで新しい人間の増殖に尽くす婦道』だと、『女の道と捉えていたからである。そして『出産は永遠に光輝がある』と考える、豊かで確かな女性性に生きたからであろう。・・・

 晶子は、三男の麟を生んだとき、『産屋物語』というエセーを書き、出産について次のように考えた。

 『妊娠の煩ひ産の苦痛斯う云う事は到底男の方に解る物では無からうかと存じます。・・・しかし児供が胎を出でて初声をあげるのを聞くとやれやれ自分は世界の男の何人(だれ)もよう仕遂げない大手柄をした

 女と云ふ者の役目を見事に果たした

 ・・・と云ふ気持ちに成つて上も無い歓喜(よろこび)の中に心も体も溶けて行く』(『定本 與謝野晶子全集』第十四巻、講談社、34

 出産の直後に、このように出産の喜びを表現するのは、本当に出産が心も体も溶ける歓喜であるという、そんな体験を実際にしたからであろう

 この健全で正常な発想日本の女性ごく自然な考えであるのに、1990年代からの日本ではいたずらにこれを否定し出産が歓喜ではないかのような逆さまの宣伝が学校などでなされている

 その狙いが、人口の半ばを占める女性を不幸にして社会を撹乱し革命の土壌を創らんとしているのが見え見えだし、また、ルソーの狂気を継承した『家族なき社会』をユートピアとするマルクス主義というカルト宗教の教理をこの日本に実現しようとしているからでもある。

(→私の解説1991年にレーニン/スターリンから引き継がれた共産ソ連が崩壊してしまったこと逆恨みとして、それを信奉していた社会主義者共産主義者などが、1990年代以降、日本国・日本国民に悟られぬように、目に見えにくい卑怯な手段で、捨て鉢で日本国解体(日本国の廃墟化)に躍起になっている。

 男性および男性に愛される女性を憎悪するフェミニズム人間呪詛マルクス主義の結合体であるマルクス主義的フェミニズム第二期フェミニズム、そして、それにポストモダン思想という激辛の調味料を加えたジェンダー・フリー第三期フェミニズム)を撒き散らしているのである。

 福島瑞穂らの提唱する『選択的夫婦親子別姓法案』などは、第二期フェミニズム確信犯的な家族解体イデオロギーの法制化である。

 また、極左のマルキスト大澤真理 東京大学教授らの暗躍によって導入され、1999年に施行された男女共同参画社会基本法は、悪魔のカルト宗教ジェンダー・フリー法制化であった。)

 しかし、出産に歓喜する晶子が正常なのかルソーやマルクスを教祖とするカルトの家族解体教の信者が正常なのかは、自明ではないか

 五女・エレンヌを出産して五日目の朝、晶子はその『新しい感激』を次のような詩に表現している。題は『産室の夜明』である(『定本 與謝野晶子全集』第九巻、講談社、93)。

 『・・・

 青ざめし女われ

 生まれて五日目なる

 我が藪椿(やぶつばき)の堅き蕾(つぼみ)なすエレンヌ

 一瓶の薔薇

 さて初恋の如く含羞(はにか)める

 うす桃色・・・

 静かに清清(すがすが)しき曙かな。・・・』

 晶子の出産の喜びと産み続ける喜びは何から生じているのであろうか

 その理由は、いくつもあろう。が、何といっても『結婚の人生より、独身で恋愛の人生ををキャッチフレーズにした、・・・とんでもない間違い狂気)を晶子が排除拒絶しているからである。

 結婚恋愛は、どちらをとるかという選択の問題ではない結婚恋愛ともに同時に選択すべきであって、二者択一は(本来)あり得ない

 晶子は、女性にとっても結婚とは生涯の恋愛であって結婚が恋愛の終着駅ではないという、結婚の最も根幹的な本質から逸脱する考えを持つことはなかった。

 晶子は結婚をもって恋愛の体制制度』―――この晶子の用語『体制』は政治哲学者ハイエクの言う『自然発生的な制度に似た概念であろう―――だと、その洞察が骨髄までおよんでいた

 『恋愛は結婚の意義の中心をなすものである恋愛の成立しないところに真実の結婚は成立しない恋愛は結婚の精神であり、結婚は恋愛の体制である』(『定本 與謝野晶子全集』第十六巻、講談社、344

 晶子は、恋愛の延長上で結婚をすべきだなどと凡俗な意見を述べてはいないあくまでも結婚そのものが恋愛なのだという“晶子流の大定義”を提唱している。

 つまり、結婚とは晶子によれば、『恋愛の創造に基礎を置き恋愛の成熟を過程とし目的とするものである以上、恋愛と結婚の境界があろうはずもなく、前者(=恋愛)が後者(=結婚)に発展し解消していくという考えも肯くわけにはいかないのである。

 晶子が出産し続けたのはその結婚が恋愛であったからで恋愛の上に結婚をしたのでははなく結婚において恋愛を継続し恋愛であるが故に毎年のように出産しながらそれが光輝歓喜となったのである

 さらにまた、晶子の恋愛の定義も独自色の強いものであった

 『恋愛はふたりの人格が芸術的に抱き合つて真実を具現した音楽を鳴り響かせることを意味します。・・・恋愛の絶頂は真実の体験です二人の人格がからまり合つて生きて動く彫刻です

 (→私の解説私は、與謝野晶子のこの結婚観を人間の魂霊魂)と身体のような関係と考えてみた。

 つまり、『恋愛霊魂』、『結婚身体』である。人間は霊魂と身体が同時に存在してこそ生存しうる。どちらが欠けても存在できず一体不可分である。

 恋愛霊魂のみで一生過ごすことは、可能であるが、それでは、目に見える身体が無いのであって、他者からは認識されない寂しい人生である。

 また、結婚身体恋愛霊魂が融合すれば、心と身体を合わせ備えた目に見える正常な存在(=人間)として他者から認識され尊重される人生となる

 また、結婚身体恋愛霊魂として両者一体となるから結婚が恋愛の終着駅にはならず結婚生活が続く限り恋愛も並行して続くのである

 そして、結婚生活が終わる時(=例えば夫婦のどちらか一方が他界するなど)、霊魂恋愛身体(=結婚から遊離して恋愛霊魂他者に認識できない存在となるが、霊魂恋愛は、永遠に存在し続けるし他者の心の中にも追憶として生き続ける

 そのように考えてみてはどうだろうか?

 そう考えることができるならば、やはり、「恋愛か結婚か」ではなく「恋愛すなわち結婚」の方が、より善き人生として正解であろう。

 また、上記の、與謝野晶子恋愛定義についてブログ作成者〉は次のように解釈する。

 『恋愛は、男性の人格と女性の人格が、精神的にも肉体的にも芸術のように美しく融合して、オギャーという産声を発する新しい生命(=神秘なる真実)を誕生させることを意味します。・・・恋愛の絶頂は新しい生命という神秘なる真実を誕生させる体験にあります。新しく生まれた、〈我が子〉とは、両親(男女)の人格が絡まり合って誕生した、生きて動く、美しい芸術作品である』と。

 私ブログ作成者の解釈は的外れであろうか?

 中川八洋『與謝野晶子に学ぶ 幸福になる女性とジェンダーの拒絶』グラフ社、2005年、100104


保守主義の哲学---新渡戸稲造『武士道』・與謝野晶子に学ぶ--‐道徳論(9)へ続く


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