保守主義の哲学---「大衆」解釈論---日本国民は、早急に「大衆的」国民から「貴族的」国民に回帰せよ(1)


―――オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(1930年)に基づく―――

エドマンド・バーク保守主義的「大衆」解釈論

―――日本国民は、早急に「大衆的」国民から「貴族的」国民に回帰せよ(1)―――

 日本国2,600年の歴史は、世界で唯一国、日本国民にそれを可能にせしめる力を秘めている

―――その時、夕日は再び朝日となり、東の空から大天空へ浮上し始めるであろう―――


 読者の皆さんへ。いつも私の稚拙で長々しいブログを、辛抱強く読んで頂き、大変感謝しております。

 私も皆さんのご期待に添えるように自己研鑚し、真正の「保守主義の哲学」を本ブログ上で展開し、皆さんの「真正の保守主義」理解に役立ち得るよう情報を提供して行きますので、今後とも、御指導・御鞭撻の程、お願い申し上げます。

 さて、前回まで、「道徳論」について新渡戸稲造武士道』、中川八洋 筑波大学名誉教授與謝野晶子に学ぶ 幸福になる女性とジェンダーの拒絶』に基づいて、説明しところであるが、読者の皆さんの中にも、「道徳なんか、面倒くさい」、「今の時代に『武士道』なんか、時代錯誤も甚だしい」と途中で読むのを止めた方も多いのではないどろうか。

 むろん私は、そんなことは重々承知の上で、「道徳論(1)~(9)」をブログに掲載したのである。

 なぜなら、「道徳論(1)~(9)」の主目的は、「道徳教育の教科書作成の必要を訴えることであったのであるが、従目的として今回から始めようと思っている「大衆」「平等」「デモクラシー」「全体主義」等の解説における「前置き」とする目的があったためである。今回も少々長文だが、例えば、「人権擁護論」に基づく「死刑廃止論」の論理的自己矛盾の説明など、濃厚な内容を多く盛り込んでいるのでぜひ最後までお付き合い頂きたい。

 さて、早速であるが、「デモクラシー(Democracy)」とは、日本国では一般的に「民主主義」と邦訳され使用されているが、これは甚だしい「誤訳」・「誤使用」である「主義」とは、英語では、「‐ism」と表記されるが、「デモクラシー(Democracy)」には見てのとおり、語尾に「‐ism」など付着していない。この観点からして「民主主義」なる邦訳が誤訳であるのは、誰が考えても明らかであろう。

 そもそも「デモクラシー(Democracy)」とは「民衆(demos)」の政治参加とその「支配(cracy)」による制度を意味する。「民衆」とは「モブ・下層民・暴徒・暴力団など(mob)」が集合して「群衆(crowd)」となり、「群衆(crowd)」=「大衆(mass)」となったものであるから、デモクラシーとは、原義は「大衆(=mobの集合体)」の支配する政治社会という意味である。

 つまり、世界中の真正の保守主義者たちは、程度の差こそあれ「デモクラシー」を危険視し、拒絶する。

 端的に言えば、真正の「保守主義」とは、「真正の自由主義」のことであり、「デモクラシー」とは「民衆の平等化・平準化」のことであるから、二律背反するのである。

 ちなみに、英国のE・バークは、1/3デモクラシー許容論(最大限排除すべき)、米国のA・ハミルトンは、デモクラシー「最大限排除すべき論」、仏のA・トクヴィルおよび墺のF・ハイエクは「自由主義的デモクラシー許容論」と立場は微妙に異なるが、“自由を最重要視する点では全く同じである。

 日本国では「民衆」=「大衆」と言えば、「国民の声は神の声」、「国民の声を実現する政治が善き政治」などとされて、「大衆」こそが、社会の発展の基礎である、と持ちあげられている。

 そこには、「大衆(民衆)」に関する神話(=迷信)を神話(=迷信)とせずに、逆に無謬の「真実」と妄想する「狂信」が支配している。

 デモクラシーとは、この「大衆(民衆)」神話のうんだ政治制度であり、「大衆(民衆)」神話とは次の二つである。

 () 大衆民衆)は、公共的問題に対する合理的な判断力をもっており、政治社会の「進歩」に寄与する「意志」(能力をもっている

 () ()により、デモクラシーの制度そのものこそが、国家権力の過剰な肥大化やその暴走を抑制抑止あるいは制限する。

 今回は、スペインの哲学者で二十世紀のトクヴィル(→トクヴィルの「デモクラシー」論は後日紹介予定)はオルテガ・イ・ガセットオルテガ)の『大衆の反逆』(1930年)から主要部分を抽出し、「大衆」とは何であるのか、「大衆」と上記の神話()のごとく公共的問題に対して理的判断をなし得るのか、政治社会の進歩に寄与する意志(能力)を持っているのか、等を読者の皆さんと共に考えてみたい。

 今回のブログの基本スタンスは、オルテガの『大衆の反逆』の中から、私が重要と考える部分を抜粋し、必要に応じて私の意見や解説を付す形式とした。

 ―――オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008)より、部分抜粋(ここから)―――

 『社会は、つねに二つのファクター、つまり、少数者大衆のダイナミックな統一体である。少数者とは特別の資質を備えた個人もしくは個人の集団であり大衆とは特別の資質を持っていない人々の総体である。

 したがって、大衆といった場合、「労働大衆を指すものと考えられては困る大衆とは、「平均人」のことなのである。

 こう考えることによって、先には全く数量的であったもの、つまり群衆が、質的なものにかわるのである。大衆は万人に共通な性質であり、社会においてこれといった特定の所有者をもたぬものであり、他の人々と違わないというよりも、自己のうちに一つの普遍的な類型を繰り返すというかぎりにおいて人間なのである』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、15

 →私の解説意見:「大衆」とは、単なる数量的「群衆」ではなく、特別の資質を持っていない質的な「平均人」のことである。社会の中に仕えるべき特定の主人もなく、質的上昇をなすでもなく、一定の周期で平均的な事象を繰り返して終わる人間のこと。

 『大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、17

 →私の解説意見:端的に言えば、「大衆」とは、努力して自分の価値を高める向上的な意欲がなく、そのような同士が自分の周囲に大勢いることに安どする人間のこと。

 『一般に「選ばれた少数者」について語る場合、悪意からこの言葉の意味を歪曲してしまうのが普通である。

 つまり人々は、選ばれた者とはわれこそは他に優る者なりと信じ込んでいる僭越(せんえつ:身分や権限を弁えず差し出がましいこと)な人間ではなくたとえ自力で達成しえなくても他の人々以上に自分自身に対して多くしかも高度な要求を課す人間のことである、ということを知りながら知らぬふりをして議論しているのである。

 人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。

 第一は自らに多くを求め進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は自分に対してなんらの特別な要求をもたない人々生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外の何ものでもなくしたがって自己完成への努力をしない人々つまり風のままに漂う浮標のような人々である』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、1718

 →私の解説意見:バーク保守主義者は、このような意味での「大衆」については、国家の保護を要求できる「社会的弱者」とは決してみなさない。

 この意味での「大衆」は“法の下(の権利行使の)平等”の恩恵に与りながら、義務を果たしていないだけであり、弱者でない。

 『近年(=1930年頃のこと)の政治的変革は、大衆の政治権力化以外の何ものでもないと考えている。かつてのデモクラシーは、かなりの強度の自由主義と法に対する情熱とによって緩和されたものであった。これらの原則を遵奉することにより、個人は自分のうちに厳しい規律を維持することを自ら義務付けていた。自由主義の原則と法の規範との庇護によって少数者は活動し生きることができたのである。そこでは、デモクラシーと法および合法的共存は同義語であった』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、20

 →私の解説意見:冒頭で持述べたとおり、「自由主義」と「デモクラシー」が両立するかは、保守主義者の間でも捉え方が若干異なる。

 エドマンド・バークアレクサンダー・ハミルトンは、「デモクラシー」の本質が人間の「平等化平準化」であり、必ず自由を侵害し、腐敗させるため、最大限排斥すべきとした。

 一方アレクシス・トクヴィルフォン・ハイエクなどは、自由を遵守するルールが確立できれば二者は両立できるとした。

 が、オルテガの解説する上記のスペインの政治的変革の状況を観察すれば、やはり「自由主義デモクラシーの平等化平準化に侵害され腐敗し溶解するというのが、正解であろう。現在の日本国の状況を見ても明らかである。

 現在、日本国に「デモクラシー」によって繁栄しているように見える「自由」はJS・ミルの「偽りの自由」であり、「道徳と一体の真正の自由」ではない。日本国民の大多数が道徳を皆目理解できていないという意味において日本国から真正の自由ほぼ消滅した、と言っても過言ではない。

 つまり自由と平等は二律背反で両立しない、ということである。

 『当時の大衆は公の問題に関しては、政治家という少数者の方が、そのありとあらゆる欠点や欠陥にもかかわらず、結局は自分たちよりいくらかはよく知っていると考えていたのである。ところが今日では、大衆は、彼らが喫茶店での話題からえた結論を実社会に強制し、それに法の力を与える権利を持っていると信じているのである』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、21

 →私の解説意見:日本国でも「公共事業はムダだから反対!」と唱える「市民団体」が多いが、彼らは、国や県に対し「なぜ無駄と言えるのか」の逆・説明責任を果たすべきである。その説明が、合理的にされ得ない公共事業反対!呪文は全く意味を成さない

 例えば、「ダムがいらない!」というならば、「ダムが必要である」とした国や県の科学的な、貯留関数法や洪水計算法に基づく計算結果(=ダムによる河川防災計画)に対し、同様な科学的根拠をもって反論すべきである。

 『今日の特徴は、平凡な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を完全と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、2122

 →私の解説意見:オルテガ『大衆の反逆』は1930年発刊であるが、2010年の多くの日本国民にそのまま当てはまることが、日本国の事態の深刻さを示している。

 現在の日本国民の大多数は、80年前のスペイン国民と同レベルの大衆度である、ということである。

 特に、生活保護費(=社会権の行使による)をパチンコに費やす人間や派遣村で支給された現金(=社会権の行使による)だけを持って、職探し(=義務も果たさず)もせず逃走する人間等々・・・いい加減にせよ!と言いたい。

 『わたしは、人間社会はその本質上、好むと好まざるとにかかわらずつねに貴族的であるといってきたし、また日ごとにその確信を強めている。人間社会は、貴族的である限度に応じて社会たりえ、貴族性を失うに従って社会たることを止めてしまうほど貴族的なものなのである』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、24

 →私の解説意見:「貴族的な社会」、「貴族的な生」については、オルテガが後述しているが、簡単に説明すれば、「貴族的社会」とは“道徳と一体の自由という価値を尊重する社会である。

 「大衆によるデモクラシーの社会」とは、人間の平等化を志向する社会である。

 そして究極の平等主義の下での社会(国家)とは、「“自由”ゼロ」の暗黒の全体主義社会になるということである。ヒトラーのナチス・ドイツ、レーニン/スターリンのソ連金日成金正日の北朝鮮などが、そのことを歴史事実として証明している。

 『十八世紀に、ある少数者たちが、すべての人間は生まれたというだけの事実によってある種の基本的な政治的権利つまり基本的人権と市民権をもっているものであり、そのためには何ら特殊な資質を備える必要がないこと、しかもそれら万人に共通した権利こそが存在しうる唯一の権利であることを発見した。かくして、特殊才能に関連した他のいっさいの権利は特権として非難されることになった。』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、24

 →私の解説意見1789年のフランス人権宣言フランス革命のことである。「フランス人権宣言」とは、ルソーの社会契約論と重合わせて、正しく解釈して読めば、テロル正当化のための「テロルの経典」である。実際にこの人権宣言以降、フランス革命で反革命派の約50万人の国民が虐殺されたのであるから、事実とも符合している。

 なお、1789年の「人権宣言」の正しい解釈については、私のブログ(→テロルの経典「フランス人権宣言」〈その1~その4〉)を参照されたい。

 端的に言えば、フランス人権宣言の「権利」とは、犬や猫やその他の野生動物ではなく、「偶然、人間としてこの世に出生できた」という理由のみによって、人間が持っている権利であって、それら万人平等化の「権利」のみが存在しうる唯一の権利であるというのだが、このような「低級な権利」のみで、現在の日本国のような、「高級な権利を必要とする文明社会」を生き抜けるわけがなかろう。

 しかもフランス革命中、フランスでは「無憲法」状態が続き、これらの人権を擁護するのは「法律」であり、その立法権は、ギロチンをフル稼働させていたジャコバン党が握っていたのである。このような状況で、「人権」などが擁護されるわけがない。このような矛盾に満ち溢れた「フランス革命」や「人権宣言」を神事のように信仰する人間とは、よほど「暴力革命」や「ギロチン処刑」がお好みの、無道徳人間なのであろう。

 『ほとんどの時代が、自分の時代が過去の時代より優れているとは考えなかった。それどころか、漠然とした過去によき時代より完全な生存形式を想像するというのが最も普遍的な態度であった。

 ギリシャとローマの遺産によって育ってきたわれわれは、そうしたよき時代を「黄金時代」と呼・・・んでいる。この事実は、そうした人々が自分自身の生命の鼓動がやや微弱であり衰えているために体内のあらゆる血管に血をみなぎらすことができないことを示している。そして、まさにこの理由から、彼らは過去を、「古典時代尊敬し、あの時代の生は、自分たちの時代よりも、・・・豊かであり、より完全で自分たちの手のとどきかねるもののように思っていたのである。

 過去を眺めより価値のある時代に思いをいたす時彼らは自分たちの時代がそれらを凌駕するとは思えず逆に劣るものだと信じ込んだのである』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、24

 →私の解説意見:我々現世代の日本国民が、過去尊敬し、過去を眺めより価値のある時代に思いをいたす態度を欠くならば、日本国は“日本国法”が指し示す進路から大きく逸脱していくことになるだろう。

 「日本国の2,600年の由緒ある歴史と、歴史と共に世襲相続されてきた日本国法”」は、日本国民を乗せた日本丸という「大船」が悠久の未来という大海原を安全に航行し続けるために必要な最も確かな羅針盤であることを忘れてはならない


 保守主義の哲学---「大衆」解釈論---日本国民は、早急に「大衆的」国民から「貴族的」国民に回帰せよ(2)へ続く


スポンサーサイト

テーマ : エドマンド・バーク保守主義
ジャンル : 政治・経済

コメント

Secret

プロフィール

バーク保守主義(広報部)

Author:バーク保守主義(広報部)
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード