保守主義の哲学---「大衆」解釈論---日本国民は、早急に「大衆的」国民から「貴族的」国民に回帰せよ(2)


―――オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(1930年)に基づく―――

エドマンド・バーク保守主義的「大衆」解釈論

―――日本国民は、早急に「大衆的」国民から「貴族的」国民に回帰せよ(2)―――

 日本国2,600年の歴史は、世界で唯一国、日本国民にそれを可能にせしめる力を秘めている

―――その時、夕日は再び朝日となり、東の空から大天空へ浮上し始めるであろう―――


  オルテガ曰く

 『われわれの時代を支配しているのは、大衆人であり、したがってわれわれの時代において決定を下すのは大衆人である。・・・(かつての)普通選挙においては、大衆は決定したのではない。彼らの役割は、いずれかの少数者の決定に賛同することにあったのである。いくつかの少数者の集団が自分たちの「綱領」を提示した。

 「綱領」――なんとすばらしい言葉であろうか。これらの綱領は確かに集団的な生に関する綱領であった。そして大衆はこれらの綱領の中から、一つの決断の計画を受けいれるよう呼びかけられたのである。

 ところが、今日の事情はこれとは非常に違っている。・・・社会的権力は大衆の一代表者の手中にある。しかも大衆はあまりにも強力であり、いかなる反対の可能性を抹殺してしまった

 今や大衆は、完全に無比無敵、絶対的な形で社会的権力を所有している。歴史上にこれほど強力な政治の前例を発見するのは困難であろう。

 ところが、それにもかかわらず、社会的権力すなわち政治はその日暮らしをしているのである。明快な未来像を示さず未来を明確に予告せずその後の発展を想像しうるようなものの始まりとしての姿をとっていない。要するに、生の設計も計画もなしに生きているのである。

 自分がどこへ行くのか知っていない。知らないはずである。

 厳密にいって進みはしないからであり、あらかじめ定められた道も設定された軌道ももっていないからである。

 かかる権力が自己を正当化しようとする時には未来には全く言及しないばかりか、現在に閉じこもり、あきれるほどの率直さで「余は環境によって強制された変則的な政治形態である」というのである。

 つまり、現在の緊急事態によって余儀なくされた政治形態であって、未来への計算が要求される形態ではないというわけである。社会的権力の活動が、その時々の軋轢をかわすことに限られてくる理由はここにあるのである。

 軋轢を解決するのではなく、一時的にそれを避けようとし、そのためにはいかなる方法をも用い、それによってかえって多くの混乱をきたるべき将来に蓄積する結果になることも辞さないのである。

 大衆が社会的権力を直接行使した場合は常に右の(=この)ような状態であった。それは全能でありながらその日暮しなのである。大衆人とは、生の計画をもたないその日暮しの人間であり、波のまにまに漂う人間である。したがって彼の可能性と彼の権力がいかに巨大であっても何も建設することはできないのである。』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、6668

 私の解説意見:オルテガは言う。

 かつて(=19世紀)は、いくつかの少数者の集団(=政党)が、集団的な生に関する綱領を提示して、大衆がこれらの綱領の中から一つの綱領を選択していた。しかし、今日では社会的権力は大衆の一代表者の手中にあって大衆が絶対的な形で社会的権力を掌握している

 にもかかわらず政治はその日暮しをして社会の生の設計も計画もなしに政治を行なっている

 なぜなら大衆は、あらかじめ定められた道も設計された軌道ももちあわせていない(=政治的能力が無い)からである。

 そして、自己を正当化しようとするときには未来については全く言及せず現在に閉じこもり、平然と「現政権は現在の緊急事態に対応するために大衆に支持された政権であって未来についての生の設計や計画をするものではない」と言い放つ。しかも、その現在の緊急事態に対しても、その軋轢を解決もせず一時的にそれを避けようとすることのみに専念し、多くの混乱を将来世代に押し付けることを辞さない無責任さである。

 なお、最後の一文の「彼(=大衆人)の可能性」とは、大衆人の知的能力の可能性の意味ではなく、「現世紀が前世紀より環境(=世界)が豊かになったために、大衆の決断できうる選択肢の可能性が巨大になった」と言う意味でオルテガは使っていることに注意頂きたい。

 現在の鳩山政権は、まさに現在に閉じこもり将来世代の820兆円を超える債務返済の重負担のことなど一切無視する超無責任・超無能政権である。しかも現在の緊急事態である日米同盟の根幹を揺るがしかねない普天間基地の移設問題についても軋轢回避のため結論の先送りの繰り返しばかりである。また、鳩山由紀夫とは、「この問題に関する米国との最終的合意の成否が首相の進退問題となるは考えていない」とまで平然と言い放つ、精神的欠陥者である。民主党とは、まさに大衆政党そのものであり、無能である

 『あらゆる時代の「民衆(vulgo)にとっては、「生」とは何よりもまず制約であり、義務であり、隷属であった。要するに圧力を意味した。・・・以前(=百年前より以前)は、金持や権力者にとってさえも、世界は貧困、困難そして危険の領域であったのである。

 新しい人間(=大衆人)をその誕生の日からとり巻いている世界は、いかなる意味においても彼に自己を制約するように仕向けることはないし、彼に対していかなる拒否も制止も行なわない。それどころか、原理的には無限に増大しうる彼の欲望を鞭撻するのである。

 つまり、――そしてこれがきわめて重要なことだが、――十九世紀と二十世紀初頭の世界は、すでに既存の事実となっている完全さと広大さをもっているのみならず、あたかも、自分には、まったく自然に終わることのない成長が可能であると信じているかのように、その住民に対して、より豊かでより完全でより広大な明日が約束されているかのような根強い安心感を与えたのである。

 この牢固たる信念に小さな亀裂が生じたことを物語るいくつかの兆候が見られる今日においてさえ、自動車は五年後には今よりももっと快適になり、安くなるだろうということに疑問を抱く人はきわめて少ないだろう。』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、79

 →私の解説意見豊かになった世界で欲望のままに生を営みそれが永遠に続くことを疑わず未来には進歩しかなく未来に対する危機感や義務感など想像もできない人間、それが「大衆人」である。

 『われわれは、今日の大衆人の心理図表(=心理形態を表すのに適した図表というものがあるなら、それ)にまず二つの特徴を指摘することができる。

 つまり、(第一に)自分の生の欲望の、すなわち、自分自身の無制限の膨張と、(第二に)自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩である。

 この二つの傾向は、あの甘やかされた子供の心理に特徴的なものである。そして実際のところ今日の大衆人の心を見るに際しこの子供の心理を軸として眺めれば誤ることはないのである

 ・・・誰かを甘やかすというのは、彼の欲望になんの制限も加えないこと、自分にはいっさいのことが許されており、なんの義務も課せられないという印象を彼に与えることである。

 こうした条件のもとで育った人間は、自分自身の限界を経験したことがない。外部からのいっさいの圧力や他人との衝突のすべてから守られてきたために、そうした人間は、ついには、自分だけが存在していると思い込むようになり、自分以外の者の存在を考慮しない習慣、特に、いかなる人間をも自分に優る者とはみなさない習慣がついてしまう。

 自分よりも優れた人間がいるという感じを彼に実感させうるのは、彼よりも強い人間が、彼に欲望の一つを放棄するよう強制し、分を守り控え目にするよう義務づけることができた場合だけである。もしそうなっていれば、彼とても、次のような基本的な規律を学びえたことであろう。

 つまり「わたしにできるのはここまで。あとは、わたし以上の能力をもった人が引き継いでくれる。世の中には、思うに二人の人間がいる。つまりわたしとわたしに優る人である』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、8081

 →私の解説意見21世紀の現在世代のわれわれ日本国民も拳々服膺すべき、内容ではないか。

 『つまり、わたしの主張はこうである。19世紀が生のいくつかの側面に与えた組織(=人間が懸命に努力して作り上げたもの)的完全さそのものが、その受益者たる大衆が、それを組織とは考えず自然物(=人間が懸命に努力して作り上げたものでなく、元来、自然界にあったもの)とみなしている原因なのである

 かくして、それら大衆・・・の不合理な心的状態が明確になる。

 つまり、彼らの最大の関心事は自分の安楽な生活でありながら、その実、その安楽な生活の根拠には連帯責任を感じていないのである。彼らは、文明の利点の中に、非常な努力と細心の注意をもってして初めて維持しうる(=人間の懸命な努力によってのみ維持できる)奇跡的な発明と構築とを見てとらない(=知らない、理解できない、無関心である)のだから、自分たちの役割はそれらをあたかも生得的な権利ででもあるかのごとく(錯覚して)、断乎として要求することのみにあると信じるのである。

 飢饉が原因の暴動では、一般大衆パンを求めるのが普通だが、なんとそのためにパン屋を破壊するというのが彼らの普通のやり方なのである。

 この例は、今日の大衆が、彼らをはぐくんでくれる文明に対してとる、一層広範で複雑な態度の象徴的な例と言えよう』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、82

 →私の解説意見:オルテガの言う、質的な平均人」である「大衆」とは、この程度のレベルの人間である。いわんや、「プロレタリアート」とマルクスが定義した労働大衆をやである

 このような「プロレタリアート」が革命によって政治的権力を握るべきとするのが、「マルクス主義」である。

 レーニンが革命を実行しスターリンが継承したソ連74年間の歴史の結果はどうであったか

 自国民6,600万人の虐殺という目も当てられぬこの世の生き地獄暗黒世界であったこれが社会主義共産主義の本質であり、最下層プロレタリアートには万が一にも一国の政治的支配を担える能力などないのである

 私が思うに、「プロレタリアートの実態とは経済的な最貧困層であるのではなく精神的道徳的かつ知的な最貧困層というのが正解であろう

 『大衆人は、環境に無理強いされるのでなければけっして自分以外のものに目を向けることはないであろう。そして今日では、環境が彼に強制することはないのだから、彼は、他に頼ることをやめ、自ら自己の生の主であるという気持ちになっているのである。

 これに反し、選ばれた人間、つまり優れた人間は、自分を超え自分に優った一つの規範に注目し自ら進んでそれに奉仕するという、やむにやまれぬ必然性を内にもっているのである。

 ・・・つまり、選ばれたる人とは、自らに多くを求める人であり凡俗なる人とは自らに何も求めず自分の現在に満足し自分に何の不満も持っていない人である。

 一般的に考えられているのとは逆に、本質的に奉仕に生きる人は、大衆ではなく実は選ばれたる被造物なのである。

 彼にとっては、自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり生としての意味をもたないのである。

 したがって彼は、奉仕することを当然のことと考え圧迫とは感じない。たまたま、奉仕の対象がなくなったりすると、彼は不安になり、自分を抑えつけるためのより困難でより苛酷な規範を発明するのである。

 これが規律ある生――高貴なる生である。高貴さは自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない

 まさに貴族には責任があるNoblesse oblige高貴なる者の責任・義務)のであり、「恣意につきて生くるは平俗なり高貴なる者は秩序と法をもとむ」(ゲーテ〔「庶出の娘」、「続編のための構想」〕)のである。

 貴族の特権は、元をただせば、譲り渡されたもの、つまり、好意的に与えられたものではなく彼らが闘いとったものである

 したがって、原則的には、その特権の維持は、その特権の所有者が、必要とあらば、つまり誰かがそれを奪いとろうとすればいかなる場合にもふたたび闘いとるだけの力をもっていることを前提としている

 個人的権利、つまり特権とは、ただ受動的に享受するといった占有物ではなく、その人間が努力して到達しうる輪郭を示すものなのである。

 これに対して、(フランス人権宣言に謳われているような)「人間として市民としての権利のような一般的権利は、受動的財産であり、すべての人間が手にすることができる当然の収益であり余禄であり、(犬や猫や他の野生動物として生まれず、「偶然に人間として生まれた」という)運命の寛大な贈り物なのである。

 そしてこの贈り物を受けるためには普通に息をして頭を正常に保つこと以外なんの特殊な努力も要しない

 したがって、わたしは、無人称的な権利は人間が自然にもっている権利であり、個人的権利は人間が努力して維持する権利であるというのが正しいと考える。

 「貴族」という、かくもわれわれを鼓舞する力を秘めた言葉が、日常の語法においてすっかり堕落してしまったことは、腹立たしい限りである。

 堕落というのは、この言葉が多くの人によって世襲的な血統による貴族を意味するにいたっては万人に共通の一般的権利と似たものに変わってしまい、生気のないもののようにただ受け継がれ譲り渡されるという静的で受動的なものに変わってしまうからである。

 ところが、貴族noblezaの本来の意味と言うか語源etymo本質的に動的なものである

 高貴な人noble)とは、「世間に知られたの意味であり、無名の大衆の上にぬきん出ておのれの存在を知らしめた人すべての人が知っている人有名な人の意味である。

 したがって、高貴であるということは彼に名声をもたらした常ならざる努力があったことを意味している

 だから、高貴な人というのは、努力の人優れた人というに等しいのである。

 貴族の息子の位階や名声はもはやまったくの余禄にすぎない。つまり、父が名声をなしたがゆえに子が有名なのである。彼は反射によって有名なのだ。

 事実、世襲貴族は一種の間接的な性格を持っている。それは、反射光線であり、死者によって基礎づけられている月光貴族なのである。

 この月光貴族の中でただ一つ生きており真正で動的なのは先祖が到達した努力の水準を保持させるように子孫に仕向ける刺激(=名誉の保持のみである

 このように弱体化した意味においてもなおつねに貴族には責任がある」(Noblesse obligeのである。』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、88から90


 保守主義の哲学---「大衆」解釈論---日本国民は、早急に「大衆的」国民から「貴族的」国民に回帰せよ(3)へ続く


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