保守主義の哲学---「大衆」解釈論---日本国民は、早急に「大衆的」国民から「貴族的」国民に回帰せよ(3)


―――オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(1930年)に基づく―――

エドマンド・バーク保守主義的「大衆」解釈論

―――日本国民は、早急に「大衆的」国民から「貴族的」国民に回帰せよ(3)―――

 日本国2,600年の歴史は、世界で唯一国、日本国民にそれを可能にせしめる力を秘めている

―――その時、夕日は再び朝日となり、東の空から大天空へ浮上し始めるであろう―――


 (2)の続 き

 →私の解説意見:私は、この引用箇所に極めて大きな感銘を受ける。オルテガの「大衆」論の真骨頂を発揮していると言えるだろう。

 日本国で例えるなら、江戸時代の「武士道」を身にまとった「武士階級サムライの生」を呼び覚ます。

 オルテガの言う、「自分を超え自分に優った一つの規範に注目し自ら進んでそれに奉仕するという、やむにやまれぬ必然性を内にもっている」とは、まさに武士道の精神そのものであろう。

 「敷島(しきしま)の 大和心を 人とはば 朝日に匂ふ 山桜花」(本居宣長

 「かくすれば かくなるものと 知りながら 已むに已まれぬ大和魂」(吉田松陰

 「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも とどめおかまし 大和魂」(同上

 「われ今国のために死す 死して君親にそむかず 悠々たり天地のこと 鑑賞は明神にあり」(同上

 このような句を聞くと反射的に「国家主義」であるとか「民族主義」であるとか「右翼」であると言って批判する人間が、いわゆる左翼人である。

 しかし祖国日本がその存続の危機に瀕した時当然に日本国民のうちの誰かが日本国を守る使命を果たさねばならない

 上記の歌人たちは他者あるいは国家に強制されることなく自己が自らに対して、その義務を課した高貴な精神の持ち主である

 「国家主義などとは全く無縁の存在である

 私に言わせれば、上記のような「高貴な精神の句引用したり、「感銘を受けると言ったりする私のような人間のことを、真っ先に国家主義」だの「民族主義」だの「右翼」だの「戦争を賛美する非・人間」だのと言って批判する社会主義者共産主義者等の左翼人こそ自ら真っ先に祖国日本を守る義務を放棄している人間であり、卑怯者であり真に非・人間かつ非・国民である

 ここで、すこし余談になるが、上記の「人間」―「非・人間」の水掛け論のごとき論理が、実は「死刑制度の是非」と「殺人犯の人権」という極めて重要な問題の結論を導き出すのである。

 簡単に言えば人権宣言による人権(=人間の権利)」の定義を正確に把握すれば論理的に他者の生命(=人権を奪った殺人犯」に「人権など存在しえないという極めて明快な結論が導出されるのである

 つまり、人権宣言によれば、「人権」とは、

 「人間として生まれたということによって、すべての人間が享受する権利であり、かつ、あらゆる(=すべての)人間によって、奪われることのない奪われてはならない人間の生得の権利」のことである。

 そうであるならば、他者(=人間)の生命(=人権)を奪った「殺人犯」に「人権(=人間の権利)」が存在しうるのだろうかという疑問が起きる。

 論理的に突き詰めれば答えはNo無い)」である

 なぜなら、「人権」の定義上、人権とは「あらゆる(=すべての)人間によって奪われることのない(奪われてはならない)人間の生得の権利」であるから、生命(=人権を奪われた被害者(=人間)はその人権を「何もの」に奪われたかと問えば、非・人間に奪われたと解釈しなければ、上記の「人権の定義自体が破綻するからである。

 つまり、「殺人犯」は、上記の「人権の定義を堅持するならば非・人間」(=動物とか無機質の物体かその他の人間以外の何か)でしかあり得ないのである。

 逆に、殺人犯人間であると認めるならば、人権の定義を変えねばならなくなる

 つまり「・・・かつある場合のある種の人間によっては奪われることもあり得る人間の生得の権利と。でなければ、「殺人犯」は「人間」の範疇に入れない。

 しかし、このように人権の定義の方を変えてしまうと、「生命(=人権)は場合によっては奪われることもありうると認めてしまうことになり、以下のパラドックスに陥る

 つまり殺人犯を死刑に処することは人権の定義上認められる(=あり得る)という結論に至る

 結論として殺人犯」=「非人間でなければ人権の定義は存立しえないのである

 そうすれば非・人間である「殺人犯」に「人権(=人間の権利)」当然ないから、死刑も認められるということになる。

 つまり、殺人犯(=非・人間)に対する「死刑制度の是非」の議論において、殺人犯(=非人間人権(=人間の権利)を持ち出すことは、完全なる論理矛盾であり転倒論理にすぎない、ということである。

 つまり、「死刑制度廃止人権派弁護士人権擁護団体の「殺人犯の人権擁護論は自らが掲げる人権の定義に対して完全なる論理矛盾であり自己矛盾である

 上記の理論は、パラドックスのような理論に思えるかもしれないが、論理に矛盾は全く存在しないと考える。

 そして導出された結論も極めて妥当である

 なぜなら、生命を奪われた「被害者」は、当然その時点で「人権」は消滅する。であるのに、生存している「殺人犯」にのみ「人権」が残り、憲法上の「人権(=生命権/生存権)」を盾に死刑廃止論を唱えるなどという矛盾した人権派の暴論(=ブログ作成者、「理論的に封じ込めた」ということである。

 ただし、「人権を侵すこと」と「人権を奪うことは意味が全く異なる前者は復元可能であり後者は復元不可能であることには注意が必要である

 話を戻すが、現在世代の日本国民(=日本国民を全般的に見れば、明らかにオルテガの言う「大衆」である)の中で、「規律ある生」、「高貴なる生」を生きている、あるいは生きるように努力している者はどれくらいいるのであろうか。

 失礼ではあるが、私には、ほぼ皆無であろうとしか思えない。私だって、どこまで自分に「厳しく生きているか」と言われれば、返答に躊躇する。

 例えば、2009830日の第45回衆議院議員総選挙での国民の民主党への投票行動などは、民主党の現金バラマキ型マニフェストに対し、その財源の有無も真剣に考えようともせず、所得再分配の金銭欲自民党つぶしのマスコミの煽動に食らいついたまさに極めつけの大衆度」を見せつけた。

 例えるならば、衆議院選挙での大多数の日本国民の投票行動は、「大衆」丸出しの、池にばら蒔かれた餌に他の鯉に負けてはなるまいと食らいつくあのよく見かける鯉の群れの状態であった

 しかし、私も、私のブログの読者の皆さんの大部分も、おそらくこの「鯉の群れの中には存在しないであろうと私は考える。なぜなら、私の稚拙なブログを、好んで読もうとして頂いていること自体、そして、「真正の保守主義とは何かを知りたい」と思考されていること自体が、すでに一般大衆から一線を画している証拠だと考えるからである

 さて、大部分の日本国民が「大衆化」している現実を、我々は悲観していても仕方がない。今後、日本国民が、どのように生きるかが問題なのである。

 そして日本国民のうちの一定割合の少数者」が「貴族的な生」に回帰できるのか、「高貴なる者の責任Noblesse obligeをもつ生回復できるのか、そしてその「少数者」が他の大多数の「大衆人」を政治的に指導して行けるか、が問題なのである。

 ここで私が、「回帰」、「回復」という言葉を用いたことに注目して頂きたい。回帰・回復とは「元に戻る」ことであり、過去に日本国民が「貴族的な生」、「Noblesse obligeの生営んでいた時代があったということある

 その時代とは、具体的には、江戸時代から明治時代末1912年)にかけての時代であるが、厳密に言えば、1905日露戦争の勝利以降は、世界の列強の一員にアジアから唯一加わった国であるとの「驕り」から、日本国民の「貴族的な生」、「道徳的武士道的な生」が徐々に退行の兆しを見せ始めるのである

 ここでは、江戸時代から明治時代末にかけての「日本国民の高貴なる生」の有様を当時の外国人の著作・書簡等から引用し、客観的に総覧する(※一部明治以降のものを含む)。

 ―――イエズス会の宣教師 ルイス・フロイス―――

 『われわれ(ヨーロッパ)の子供はその立居振舞に落ちつきがなく優雅を重んじない。日本の子供はその点非常に完全で、全く称讃に値する』(『大航海時代叢書』第巻、岩波書店、538539

 『ヨーロッパの子供は青年になってもなお使者になることはできない。日本の子供は十歳でも、それを果たす判断と思慮において、五十歳にもみられる』(同)

 ―――イエズス会の宣教師 フランシスコ・ザビエル1549年来日)―――

 『日本人はこれまで遭遇した国民のなかで最も傑出している。名誉心が強烈で、彼らにとって名誉がすべてだ。武士も平民も貧乏を屈辱だと思っていない。金銭よりも名誉を大切にし、侮辱や嘲笑には黙って忍ぶということをしない。武士が領主に服従するのは、それが名誉だからであって、罰を恐れているからではない。日本人の生活には節度がある。酒を飲み過ぎるきらいはあるが、多くの人たちが読み書きができ、知的水準がきわめて高い。学ぶことを好み、知的な好奇心にあふれている』

 ―――イエズス会の宣教師 ヴァリニャーノ―――

 『ヨーロッパ人に見られる粗暴さや無能力がなく、忍耐強く清潔好きで、理解力に優れ、仕事に熟達している。礼儀正しさと理解力において、日本人がわれわれを凌ぐほど優秀であることは否定できない』

 ―――英国詩人 エドウィン・アーノルド1889年来日)―――

 『日本には、礼節によって生活を楽しいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちが良いし、・・・騒々しく無作法だったり、しきりに何か要求するような人物は、男でも女でも嫌われる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしている人、ドアをばんと叩きつけたり、罵言を吐いたり、ふんぞり返って歩く人は、最も下層の車夫さえ、・・・古風な礼儀を教わり身につけているこの国では、居場所を見つけることができない・・・』(渡辺京三『逝きし世の面影』、葦書房、149頁)

 ―――駐日フランス大使 ポール・クローデル(駐日大使:1921年~1927年)―――

 『私が決して滅ぼされることのないように希(ねが)う一つの民族がある。それは日本民族だ。・・・彼らは貧乏だが、しかし彼らは高貴だ』

 ―――ノーベル物理学賞受賞・物理学者 アルバート・アインシュタイン1922年来日)―――

 『日本人は優しく、争いを好まない』

 『日本人は平和に生活を楽しんでいて、うらやましい』

 『人を真剣に、高く評価するのが日本人の特徴。彼らほど純粋な心を持つ人はいない』

 『西洋とで出合う前に、日本人が持っていた生活の芸術化、謙虚さと質素さ、純粋で静かな心を忘れないでほしい』

 ―――米国・国民詩人 ウォルト・ホイットマン―――

 1860年 外国奉行・新見豊前守正興を正使とする遣米使節がニューヨーク来訪時の日本の武士の姿を初めて見て。

 『西方の海を越えて此方へ日本から渡米した

 謙虚にして浅黒く両刀を差した使節たちは

 無帽にして臆せず、無蓋の四輪馬車に反りかえり

 今日マンハッタンを練って行く』

 『言語の巣窟、詩賦を伝えた人、往古の民族が来た

 元気旺盛にして忍耐強く熟慮断行の

 芳香馥郁(ふくいく)として寛(ゆる)やかに流れる衣装の

 日に焦げた容貌の、不屈の魂の、炯炯たる眼光の

 婆羅摩(ブラーマ)の民族がやってきた』(白鳥省吾訳『ホイットマン詩集』)

 ―――インド詩人 ラビンドラナート・タゴール1916年来日)―――

 『こんな大勢の子供たちが、通りといわず川岸といわず、いたるところで遊んでいるのを、私は他国で見たことがない。その理由は、日本人が花を愛でるように、子供たちを愛しているからだ、と私は思った』

 『女性の服装に、自ら女性であることを強調しようとする試みは見あたらない。他のほとんどの国では、女性の服装に、男性の目をひこうとするような、なんらかの態度が見えすいている。この国の女性の着物は美しくはあるが、着物には肉体をほのめかすような企てはほとんど見当たらない』(タゴール『日本紀行』)

 ―――米国・紀行作家 ER・シッドモア1884年来日)―――

 『日本の良さを味わうには、アジア大陸経由で足を踏み入れることだ。・・・最初に見える沖合の緑の小島から、視界の最後に映る絵のような小山のいただきまで、そろって美しい。人家はおもちゃのように見え、そこに住まう男女はお人形みたいだ。そしてこの人たちの生活マナーは清潔で愛らしく、美的感覚に富み、際立った特徴を持つ』(ER・シッドモア『日本・人力車旅情』奥地光夫訳 有隣心所)

 さて、どうであろうか。この程度挙げればよいのではないか。

 これらが、当時の外国人の目から見た「日本人の生」の姿であったのである。


  保守主義の哲学---「大衆」解釈論---日本国民は、早急に「大衆的」国民から「貴族的」国民に回帰せよ(4)へ続く


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