保守主義の哲学---「大衆」解釈論---日本国民は、早急に「大衆的」国民から「貴族的」国民に回帰せよ(5)


―――オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(1930年)に基づく―――

エドマンド・バーク保守主義的「大衆」解釈論

―――日本国民は、早急に「大衆的」国民から「貴族的」国民に回帰せよ(5)―――

 日本国2,600年の歴史は、世界で唯一国、日本国民にそれを可能にせしめる力を秘めている

―――その時、夕日は再び朝日となり、東の空から大天空へ浮上し始めるであろう―――


  ―――大きく、回り道をしたが、再びオルテガの『大衆の反逆』(1930年)に戻る――― 

 『わたしにとって貴族とは、つねに自己を超克し、おのれの義務としおのれに対する要求として強く自覚しているものに向かって、既成の自己を超えてゆく態度をもっている勇敢な生同義語である』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、91

 →私の解説意見道徳とは自らが自己に課す義務のことであり、自己犠牲のことである。「貴族的な生」とは、「美徳ある生」と同義である。オルテガの定義する貴族的少数者=「エリートの概念がここに簡潔かつ明確に示されている

 『ヨーロッパ大陸に訪れつつある困難な時局に直面し、大衆が急に不安にかられ、ほんの瞬時のこととしてもとにかく心を入れかえ、特に困難ないくつかの問題に限って、優れた少数者の指導を受けいれることも考えられないことではない。

 しかし、こうした改心すらも永続きはしないであろう。大衆の魂の基本構造は自己閉塞性と不従順さからなっているからである。大衆には、生まれながらにして、それが事象であろうと人間であろうと、とにかく彼らの彼方にあるものに注目するという機能が欠けているのである。彼らが誰かの後に続こうとしても、それは不可能であろう。彼らが誰かに耳を傾けようとしても、結果は自分の耳が聞こえないことを発見するに終わるに違いない。

 さらに、今日の平均人の生の水準が他の時代と比べていかに上昇したからといっても、彼が自力で文明の推移を指導して行くであろうと考えるのはまさに夢物語であるわたしは推移といっているのであり進歩とはいっていない。今日の文明を単に維持するためだけの処置でさえ、極端に複雑であり、はかりしれない鋭敏さを必要としているのである。文明の多くの利器を使うことは学んだが、文明の起源そのものをまったく知らないこの平均人が、その指導を誤りうるのはしごく当然であろう』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、9394

 『まず今までのことを要約してみよう。われわれがここで分析しているのは、ヨーロッパの歴史が、初めて凡庸人そのもの(=大衆)の決定に委ねられるに至ったという新しい社会的事実である。

 あるいは、能動態で言えば、かつては指導される立場にあった凡庸人が、世界を支配する決心をしたという事実である。・・・この大衆人という新しい人間のタイプの心理構造を、それが社会的な生に及ぼす影響に注目しつつ研究すると、次のようなことが明らかになる。

 第一大衆人は、生は容易であり、あり余るほど豊かであり悲劇的な限界を持っていないという感じを抱いていることであり、またそれゆえに各大衆人は自分の中に支配と勝利の実感があることを見出すのである。

 そして第二この支配と勝利の実感が、彼にあるがままの自分を肯定させ、自分の道徳的知的資産は立派で完璧であるというふうに考えさせる(=妄想させる)のである。この自己満足の結果、彼は、外部からのいっさいの示唆に対して自己を閉ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自分の見解になんら疑問を抱こうとせず、また自分以外の人の存在を考慮に入れようとはしなくなるのである。彼の内部にある支配感情が絶えず彼を刺激して、彼に支配力を行使させる。したがって、彼は、この世には彼と彼の同類しかいないかのように行動することとなろう。

 したがって第三に、彼はあらゆることに介入し、自分の凡俗な意見を、なんの配慮も内省も手続きも遠慮もなしに、つまり「直接行動の方法に従って強行しようとするであろう。

 こうした諸様相は、われわれに、「甘やかされた子供」と「叛逆的未開人」つまり、野蛮人に似たような、ある種の不完全な人間のあり方を想起させた(正常な未開人は、これとは反対に、彼らより上位にある審判、つまり、宗教、タブー、社会的伝統、習慣などに、かつて例を見ないほど従順な人間である)』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、137138

 →私の解説意見オルテガ曰く、「大衆人」=「自分のことを知的道徳的に完璧であると錯覚している凡庸人」=「甘やかされた子供」=「叛逆的未開人」<「正常な未開人 

 私が、左翼的で、凡俗無知な政治家・学識者・マスメディア等の暴言・盲言を、「小学生レベル」「幼稚園レベル」と感じるのと全く同じ感覚なのだろうか?

 『十九世紀の文明とは平均人過剰世界(=全てにおいて満たされすぎた世界)の中に安住することを可能とするような性格の文明であった。そして平均人はその世界に、あり余るほど豊かな手段のみを見て、その背後にある苦悩は見ないのである。彼は、驚くほど効果的な道具卓効のある薬未来のある国家快適な権利にとり囲まれた自分を見る。

 ところが彼は、そうした薬品や道具を発明することのむずかしさそれらの生産を将来も保証することのむずかしさ知らないし、国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである。

 こうした不均衡彼から生の本質そのものとの接触を奪ってしまい、彼の生きるものとしての根源から真正さ奪いとり腐敗させてしまうのである。

 これこそ絶体絶命の危険であり、根本的な問題なのである。人間の生がとりうる最も矛盾した形態は「慢心しきったお坊ちゃん」という形である。

 だからこそこうしたタイプの人間が時代の支配的人間像になった時には警鐘をならし生が衰退の危機に瀕していることつまり死の一歩手前にあることを知らさなければならないのである

 ・・・わたしは、この危惧すべき下降傾向は、「慢心しきったお坊ちゃん」のこの上もない異常さのうちにありありとうかがえると思う。

 というのは、「慢心しきったお坊ちゃん」とは、自分の好き勝手なことをするために生まれてきた人間だからである。実は「良家の御曹子」はこうした錯覚にとらわれるものである。

 その理由は、すでに周知のごとく、家庭内においては(そこが私的空間であるから)、いっさいのものが、大罪までもが最終的には何の罰も受けずに終わってしまうからである

 家庭という境界内は(そこが私的空間であるから)比較的不自然なもので、社会や街中(=公共的空間内)でやったとすれば当然のことに、ただでは済まされないような行為の多くが許されるのである。

 しかし、「お坊ちゃん」は、家の外(=公共空間)でも家の内(=私的空間)と同じようにふるまうことができると考えている人間であり、致命的で取り返しがつかず取り消しえないようなものは何もない信じている(=妄想している)人間である。

 だからこそ、自分の好き勝手にふるまえると信じている=妄想しているのである。なんと大きな誤りであろうか』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、142144

 『ところで、「慢心しきったお坊ちゃん」は、ある種のことは不可能だと「知り」ながら、そして、知っているからこそ、その反対の確信をもっているかのごとき(=可能であるかのごとき)言動をするのである。

 ファシストは政治的自由に反対する動きをするだろうが、それは政治的自由が最終的にはけっして消滅するものではなく、ヨーロッパの生の本質そのものの中に厳然として存在しているものであること、そして事態が重大となり、政治的自由真に必要になった場合はいつでもそこに帰ることができると知っていればこそである。

 不まじめと「冗談」、これが大衆人の生の主調音なのである。

 彼ら(=大衆人)が何かをやる場合は、「良家の御曹子」がいたずらをするのと同じように、自分の行為は取り消すことができないのだという真剣さに欠けている

 あらゆる面において、努めて悲劇的でせっぱつまった決然とした態度をとっているかに見えるのは、単にうわべだけのことなのだ。

 彼らは、この文明世界に真の悲劇などありえないと信じているからこそ、悲劇をもてあそんでいるのである』(『大衆の反逆』、ちくま学芸文庫、2008年、146147

 →私の解説意見オルテガは、大衆のことを指して「慢心しきったお坊ちゃん」と形容しているのだが、私にはこの「慢心しきったお坊ちゃん」=鳩山由紀夫と思えてならない。上記引用文の「慢心しきったお坊ちゃん」、「良家の御曹子」、「お坊ちゃん」を「鳩山由紀夫」に置き換えて読み返せば、「ピッタリと整合のとれた文章となる

 また、上記のオルテガの『ファシストは・・・』以下の文章を、形式的に「ファシスト」を「民主党」に、「政治的自由」を「普天間基地のロードマップ合意(=当初の辺野古沖合意案)」に、「ヨーロッパの生の本質」を「日米安全保障条約」に置き換えて読めば、「普天間基地移設問題」の興味深い結末が見える(ただし、実際の結果がどうなるかは別問題であるが、1930年(80年前)のオルテガの「大衆」論に従えばそういう結果になるだろうということである)。

 読者の皆さんは、解るだろうか?

 そのように読むと、続く『あらゆる面において、努めて悲劇的でせっぱつまった決然とした態度をとっているかに見えるのは、単にうわべだけのことなのだ。彼らは、この文明世界に真の悲劇などありえないと信じているからこそ、悲劇をもてあそんでいるのである』という文章も極めて説得力をもって聞こえるではないか。

 このように、鳩山由紀夫とは典型的な大衆人」であり、彼が率いる「民主党」とは、典型的な「大衆党」ということである。であるならば、やはり対極として貴族的な精神をもつ真正の保守政党の存在が不可欠である、という主張は間違ってはいないであろう

 なお、余談だが、上記の『不まじめと「冗談」』は『まじめと「冗談」』でないから始末が悪い。

 なぜなら、「まじめな冗談」の結果は、概ね、冗談で済まされる場合が多いが、「不まじめな冗談」は、取り返しのつかない結果をもたらす場合があるからである。

 最後に、オルテガのイメージする「すぐれた少数者」=「エリート」とは、「血筋による貴族」ではなく、「つねに自己を超克しおのれの義務としおのれに対する要求として強く自覚しているものに向かって既成の自己を超えてゆく態度をもっている勇敢な生の少数者」を指している。

 それは、「保守主義の父」であるエドマンド・バークや「米国保守主義の父」であるアレクサンダー・ハミルトンもいう、英米で理想とされている、血統とは無関係な、「真正のエリート」=「自然的貴族のあり方と同義であろう。

 この「自然的貴族」についてのエドマンド・バークの定義を紹介して、この「大衆論」の結びとしたい。

 『尊敬を受ける境遇で育つこと

 幼少時より下賤卑俗な光景を目にしないこと

 自己を尊敬するように躾けられて世間の目の厳しい注目になれること

 早めに民意の動向を洞察すること

 広い社会において、人間と事象との広くて無限で多様な関係を、大局的に把握する高い視野を身につけること

 読書し思索し談話する余暇を持つこと

 機会があれば、必ず賢明で博学な人物の恩顧と注目を授かること

 軍隊内での指揮と服従の習慣を体得すること

 危険を恐れず名誉と義務の遂行に励むこと

 些細な失敗でも破滅的な結果をもたらすような状況下で、最高度の警戒心、洞察力、用意周到さを体得すること

 極めて重要な事柄において、同胞市民の教導者として、自分が神と人間の調停役として期待されているとの自覚を持ち、慎重で道理ある行動に努めること

 法と正義の執行者としての職務に励み、人類に最も重要な恩恵を施す人間であること

 高級な学問もしくは自由な創造的な技芸の教授であること

 事業の成功の経験から、鋭敏で強い理解力を身につけ、勤勉、秩序、誠実、規律といった美徳を持ち合わせた裕福な商人であること

 ―――(=エドマンド・バーク)が「自然的貴族」と呼ぶ人々が形成される人間環境とは、このような環境である』(『エドマンド・バーク バーク政治経済』、法政大学出版局、2000年、662663頁、邦訳補正:ブログ作成者


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