保守主義の哲学---「平等」という虚構---人間は生まれながらにして“不平等”である(1)



―――エドマンド・バーク保守主義哲学)―――

 「平等」・「平等主義」という虚構否定が、真正自由主義保守主義である

 「平等」・「平等主義」という虚構世界史的考察

―――人間は生まれながらにして不平等である(1)――― 



 読者の皆さんへ。

 いつも私の稚拙で長ったらしいブログを読んで頂いて、感謝しております。

 今後とも、お付き合いのほど、よろしくお願いしたい。

 前回の反フェミニズムの「トータル・ウーマン」をブログに掲載した直後に、偶然にも福島瑞穂が封印されていた「ジェンダー・フリーを解禁する旨の方針を明らかにした

 まあ、社会主義者の彼女なら、「するべきことをやった」という程度にしか思っていないであろう。

 しかし、私のブログは、前回の反フェミニズムの「トータル・ウーマン」から、今回の「平等主義」の虚偽・虚構の解説を経て、最終的には「ジェンダー」、「ジェンダー・フリー」という悪魔の宗教の解体まで進むつもりであったから、私のブログの方が、一歩先に出たというところであろうか、とも思っている。

 今回のブログ内容は、「平等」、「平等主義の否定というよりも、「平等」という概念自体が、現実には存在しえない妄想であることを解説したいと思っている。

 なお、私自身が思うに、今回のブログ内容は、極めて濃いので読むのが大変であるかもしれないが、読者の皆さんの知識と智恵と知力アップには、必ず貢献するだろうと確信しているので最後までお付き合い願いたい。

 では、本題に入ろう

 (1) 自由と平等の二律背反

 平等は、法の下(前)の平等を例外として、自由と両立することはできない。法の前の平等」のみは自由を擁護し自由と両立するが、それ以外のすべての平等(物質的平等、人格の質的平等、低学力の生徒に合わせた質的平等教育、等々)は、常に人間の自由を侵害する危険なものである

 ベルジャーエフ曰く

 「自由と平等の間にあるものは和解できない敵対的矛盾である。・・・・自由は何よりも不平等に対する権利である(=不平等を認める権利である)。平等は何よりも自由(=不平等に対する侵害であり自由の制限である・・・・平等は自由を貪り食ってしまう」(ベルジャーエフ『霊的終末論』、八幡書店、202203

 では、なぜ、“法の下の平等が自由を擁護し自由と両立するのか

 それは、“法の下の平等”が英米系の自由主義政治哲学において、「ある国の国民が、その権利を行使する自由”は、その国の“国法=憲法”によって、“平等に擁護され保障”される」という意味だからである。

 つまり、“法の下の平等”の“平等”とは、国民にその権利を行使する自由を平等に与えるという意味であり、その結果もたらされる“結果の不平等は当然として容認する概念であってすべての国民が物質的に平等でなければならない」とか「すべての国民が生まれながらにして平等である」などのような「平等」の概念とは異質・異次元・正反対の概念であることが容易にわかるであろう。

 では、前者の自由主義の法の前の平等”と後者の平等主義の平等」とどちらが、“真理”と“現実社会の実態”を説明しうるのかは、正常な思考のできる真正の日本国民であれば、容易に判断できるのではないか。

 個々の日本国民が自ら努力し切磋琢磨して得た、“多様で格差のある”つまり、“不平等な能力や才能が、それ相応に容認されその結果に対する物質的不平等を生むのは人間の本性において極めて当然である

 例えば、スポーツで言えば、メジャー・リーグのイチローやフィギアスケートの浅田真央選手などを見れば、現実の社会の実態もそうであることは容易にわかるであろう。

 このことは、特に有能な上記の国民にだけ当てはまることではなく、日本国の社会全般においてすべての日本国民に当てはまることである

 例えば、ある一つの私企業の中を見ても、平社員、主任、筆頭主任、課長、部長、取締役、社長などの役職が存在し、社員はその昇級=身分的不平等昇給=物質的不平等を目指して努力する実際に努力している)ことからも自明であろう。

 このような各国民の私的な努力による結果の不平等に対して、国家権力(=政府)が、法律による規制などを通じて介入し、「出る杭は打て式に全国民を物質的・精神的に平等化(=全く同一に取り扱うするのが平等主義平等である

 ここまで読んで頂いた、読者の皆さんは、私がこれから述べる平等主義の平等」という概念が、正統な哲学的真理でも何でもなく単に無気力で向上心も自助努力の精神もない自己の生に怠慢でありながら、他者が自身の差別的努力(=他人以上の特別な努力など)を為すことによって得た名誉や地位や富を「認めるな差別は悪である許さないすべての国民は同一でなければならない、場合によっては暴力によっても良いから取り上げよと絶叫する最も卑怯かつ下劣な人間(=社会主義者共産主義者の感情的な嫉妬不満羨望嫌悪憎悪」を「平等」という代名詞言い換えただけのことである、とわかるであろう。

 平等主義平等とは何らの哲学的真理をも有さない疑似宗教的妄想である

 しかし、「宗教的ドグマ」であるが故に、一度脳裏に「真理であると洗脳されるとそこから脱出するのが極めて困難なのである。

 この極めて困難な問題を、私(=ブログ作者)がこれから、エドマンド・バークらの世界的に著名な保守主義哲学の言説を引用しながら説明していくので、以降、興味ある方は読んで頂きたい。

 なお、冒頭でも説明したとおり、今回のブログは「平等主義完全否定する本格的な真正の自由主義哲学)」=「保守主義哲学)」であるから、前回のブログ『トータル・ウーマン』のように、読み易くないかもしれないが、私ができるだけ解りやすく説明していくので、できれば最後までお付き合い願いたい。

 今回の平等排斥論は、真正自由主義保守主義を理解する上で極めて重要な内容である

 (2) 平等主義者の詭弁人間は生まれながらにして平等である

 平等主義者(=社会主義者共産主義者)が「人間はうまれながらにして平等である」という詭弁絶叫するのは裏返して本音を言えば、“人間はうまれながらにして家族における両親の資質努力資産やその家族の存在する地理的条件外的環境その人間自信の生まれながらにもつ性別知力体力忍耐力自助の精神先天的な能力や性向の格差を持っているということを最も認識している証拠である

 なぜならもしすべての人間が先天的な能力や性向の格差の全くない完全平等な存在として社会に産まれてきてそれらの人間が、「すべての人間は平等であると平等に思考してその社会で生を営み続け生を終えて行くということが真実であるとすれば理論的には、「人間の社会とはそれが始まった原始の完全平等社会当初から、常に完全平等社会を維持・継続して、つまり、「戦争もない封建的身分制度もない国家という枠組みもない階級対立もない人種差別もない、・・・という差別なき社会を維持・継続して現在に至っていなければならないが日本史も世界史もそのような事実は皆無であるということを平等に最も固執する平等主義者が、誰にもまして認識しているからである

 もっと端的に言えば、もし「原始の完全平等社会から現在に至るまで、「完全平等社会が維持・継続してきたのであれば、そのような社会の中の構成員が、「人間は生まれながらに平等であると叫ぶ必要もないし、「平等という概念自体がそもそも発生しえないということである

 つまり、真実は人類の全歴史を通じて、「不平等の現実を認識する」がゆえに「平等にせよと訴えることができるのであって、そのことと「人間はうまれながらに本質的に平等である」ことは全く正反対の事象であり、後者は明らかな虚偽虚構論理矛盾宣伝煽動にすぎない、ということである。

 平等主義者が、“法の支配(=rule of law)”や“立憲主義(=constitutionalism)”を無視したり排斥したりするのは、これらが、国民に平等を強制しようとする国家権力政治権力制限をかけて個々の国民の自由自助努力の結果の不平等を擁護・保障するからで、国家権力政治権力による個人の自由制限自由の侵害通じて実現する平等という疑似宗教を信仰する自らの狂信に反するからである

 つまり、「平等」とは、「国家権力による国民への不平等の強制(=自由の侵害)」という手段でしか達成できないのであるから、「平等」の定義自体に「不平等」が含まれており、すでに論理矛盾である。

 論理矛盾を含む概念は哲学的真理とは言えないつまり、「平等哲学的に真ではなくであり虚偽虚構である

 ノーベル経済学賞受賞者で政治哲学者でもあるF・ハイエクは次のように述べている。

 ハイエク曰く

 「人びとが平等でないからこそわれわれは人々を平等に取り扱うことができる」のであって、「もしもすべての人の資質と傾向が(うまれながらにして)完全に等しいのであるとすれば、何らかの社会組織をつくるために、われわれは人々を別様に(=差別的に)取り扱わねばならない」(ハイエク『市場・知識・自由』、ミネルヴァ書房、18

 「法の前の平等物質的平等とは、異なっているばかりでなく、たがいに対立する。そして、どちらか一方を達成することはできるが、同時に両方を達成することはできない」(『ハイエク全集』第五巻、春秋社、128

 物質的不平等が、感情的に嫉妬不満羨望同情」さらには「憎悪憎悪などを招くことは、理解しないわけではないが、この物質的不平等をもって社会的とみなすことは間違いである

 貧困も富裕もではないしそれが自由の結果であるからといって“自由なのでもない

 なぜなら、外面の物質的なものであれ、内面の精神的なものであれ、“それらのものを得るために自助努力する義務を果たして成功した者は当然それらのものを自由に保持あるいは行使できる権利を与えられる”というのが“自由主義であり、自由主義は、ある人間が貧者として産まれてもその才能努力幸運の如何によっては貧困から脱出させる可能性を育む基礎土台であり、これをとして棄却すれば貧者は永遠に貧者であり続けなければならなくなり、そのような社会での人間の生の意味は皆無となる

 また、自由主義の場合、人間の内面の精神的側面である人格道徳高貴性富裕においても貧困においても、“自由に輝かせる可能性を有する

 実際に、日本国の江戸時代の武士は、農・工・商(特に商・工)より、ずっと貧困であったが、武士道という高貴な道徳を重んじて生きたことは、私の先のブログで紹介したところである。

 これに対して、平等主義は、「人間が、それぞれの才能や自助努力と幸運に従って、内面の精神的なものであれ、外面の物質的なものであれ、質的に高級な水準に向かって向上しようとする本能を持つという現実意図的に無視して、人間のこのような質的向上を決して認めないし断じて許さない主義であるから、社会は精神的にも物質的にも質的向上が完全に窒息させられて精神面における人格道徳低級低俗化物質面でも経済の活力は失われて最貧困レベルでの平等となる

 以上の理論が、全く空論などではなく、逆に政治哲学的に最も正統な理論であることは、平等主義を掲げた、「フランス革命と人権宣言」や「共産主義のソ連や北朝鮮や毛沢東の中国」や「国家社会主義のナチス・ドイツの悲惨で残酷な世界史証明済みである。

 なお、共産ソ連74年間1917年~1991年)のレーニンスターリンによる共産党独裁の恐怖政治の目も当てられないような、犯罪テロルジェノサイド)・抑圧の惨劇については、ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト共著『共産主義黒書』ソ連篇、恵雅堂出版、2006を参照されたい。別冊コミンテルン・アジア篇もある。人間がここまで非道であり得るのかと唖然とするほどの悲惨悲劇である

 これを読んでなおマルクス・レーニン主義者でいられるならばそのものは非・人間としか、私には思えない。

 ここまで読者の皆さんは理解頂けただろか

 政治哲学的意味での「平等主義」を、大多数の国民が、小学生レベルの思考で「差別は悪だから平等は善である」などと、寝ぼけた虚偽を信仰していると、その国家は必ず滅亡に至る。



 保守主義の哲学---「平等」という虚構---人間は生まれながらにして“不平等”である(2)へ続く

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ジャンル : 政治・経済

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