保守主義の哲学---「平等」という虚構---人間は生まれながらにして“不平等”である(2)



―――エドマンド・バーク保守主義哲学)―――

 「平等」・「平等主義」という虚構否定が、真正自由主義保守主義である

 「平等」・「平等主義」という虚構世界史的考察

―――人間は生まれながらにして不平等である(2)―――


 (3)“真正の自由”ゼロの状態を「自由」だと詭弁するルソー主義のヘーゲル

 平等と自由が両立せず、しかも平等化の最終地点完全平等化が自由ゼロとなることは、自由主義者全体主義者(=社会主義者共産主義者)も共に認める一つの普遍的な真理である。

 そう認識するが故に全体主義者は、“自由ゼロ=「完全平等」であるのに、「平等」主義の終着駅が自由ゼロの社会になってしまうことを隠すために、自由ゼロ=「自由だと詭弁し、「平等」を世俗神学化することに精力を注いできた

 ルソーの社会契約論と、このルソー主義の忠実な後継者であるヘーゲルの歴史哲学もその一つである。

 ヘーゲルは言う、

 「①法律に服従する②意志だけが③自由である。それは、④その意志が⑤自分自身に服従することであり、その点で⑥意志は⑦自分自身のものとなり、⑧自由なのだからである」(ヘーゲル『歴史哲学』、岩波書店、71

 (ルソーの『社会契約論』的翻訳:私=ブログ作成者

 ――私(=ブログ作成者)の解説――

 以下、自由主義者が用いる真正の自由を“自由”と表記し、全体主義者社会主義者共産主義者)の用いる、真正の自由ゼロ=「完全平等」の状態を表す虚偽用語を「自由」と表記する。

 ①「立法者」の発する「一般意志」に服従する②「特殊意志」だけが、③自由”ゼロという虚偽の「自由である。

 ルソーの『社会契約論』では、人民のすべての権利を譲渡された、立法者の発する命令(=これを一般意志という)は、人民が絶対服従しなければならぬ命令である。

 なぜなら立法者に譲渡された人民の権利から発したもの(=人民が立法者を通して人民自身に発した命令だからである。

 これに対し、「特殊意志」とは、僅かに個人個々の市民に許される自由意志」のことである。

 上記のヘーゲルの言説にある自由は、個人にとって、唯一自由な「特殊意志」までもが「一般意志(=立法者の命令)」に服従することを意味しており、それはまさしく自由の喪失状態の「自由」である。

 それは、④その「特殊意志」が⑤「一般意志」に服従することであり、その時点で⑥「特殊意志」は⑦「一般意志」に同化し、⑧自由”ゼロの「自由が達成される。

 つまり、ルソー主義のヘーゲルは、観念論的で、一般人には高尚で理解困難な言い方で、暗号的にルソーの社会契約論』の「全体主義のすすめ」を反復しているだけのこと。

 ヘーゲルは言う、

 「国家、祖国が生存の①共同体を形成することになり、人間の②主観的意志が③法律に服従することになると、④自由と⑤必然との⑥対立は消える。⑦理性的なものは⑧実体的なものとして必然的であるが、この⑨理性的なものを⑩法律として是認し⑪これをわれわれ自身の存在の実体とみて、⑫これに従う点でわれわれは自由である」(ヘーゲル『歴史哲学』、岩波書店、71

 (ルソーの『社会契約論』的翻訳:私=ブログ作成者

 ――私(=ブログ作成者)の解説――

 国家、祖国が生存の①「共同体」(=ルソーの『社会契約論』において、社会契約とは、個々人が権利も自由もすべて「共同体」に投げ渡すことを意味する。)を形成すること(=国家がルソーの言う社会契約の国家になること)になり、人間の②「特殊意志」が③「立法者」の発する「一般意志」に服従することになると、④自由”ゼロの「自由と⑤“人民に不服従の権利”が全くない「平等は⑥対立は消え、全人民が自由ゼロという状態で「平等」となり、矛盾なく併存できる

 ⑦人民に不服従の権利が全くない”平等」は⑧人民が共同体にすべての権利と自由を譲渡する契約をするのだから、)実体的なものとして必然的なものであるが、この⑨人民に不服従の権利が全くない”平等」を⑩立法者の「一般意志」として受け入れ、この⑪立法者の「一般意志」をわれわれの自身の存在の実体(=人民の譲渡した権利と自由の主体)とみて、⑫この立法者の「一般意志」=“人民に不服従の権利が全くない”平等」に服従することが、人民の自由”ゼロの「自由」である

 これも同じで暗号的にルソーの『社会契約論』の「全体主義のすすめ」を反復しているだけのこと。

 ヘーゲルは言う、

 「①客観的意志と②主観的意志とは融合し、ただ一個の曇りのない③全体となる」(ヘーゲル『歴史哲学』、岩波書店、71

 (ルソーの『社会契約論』的翻訳:私=ブログ作成者が翻訳

 ――私の解説――

 ①「一般意志」に②「特殊意志」が吸収・融合し、ただ一個の曇りのない③完全な一般意志」(=立法者の絶対命令人民の絶対服従の状態)となる。(ルソーの「一般意志」と「特殊意志」を弁証法的アウフヘーベンしただけ)

 以上のように、ヘーゲルの歴史哲学とは個人が、(ルソー的な「特殊意志」も含めた)“自由すべてを国家に捧げること(ルソー的には、国家=「立法者」の命じる「一般意志」に服従すること)、つまり個人の自由がゼロになって国家(ルソー的には、「立法者」の命ずる「一般意志」)のみが自由を独占することが国民の自由なのだと断定しているのである。

 端的に言えば、ヘーゲルは、自身の理想とする全体主義国家を「機械時計」に例えるならば、「個人の自由」とは時計の中の一歯車として、「時計全体の機能を狂わせないように機械的に回転し続けることであると言っているのであり、20世紀のナチスドイツヒトラーは、『歴史哲学』におけるヘーゲルの「全体主義哲学」に忠実に従い実行したのである。

 ここまで読者の皆さんは理解頂けただろか

 上記のヘーゲルの言説を読み解くためには、ルソーの『社会契約論』の意図を正確に理解している必要があるので、もし読者の皆さんが、私の説明の理解に苦しんだとしたら、ただ、私の説明の能力不足の所以であり、お詫び申し上げる。

 ただ、理解して頂きたいのは、真正の自由主義者保守主義者の用いる“自由”の概念は“真正の自由法の支配立憲主義の下での道徳と一体の自由のことであり、全体主義者(社会主義者・共産主義者)平等主義者の用いる「自由」の概念は、「“真正の自由がゼロの状態での暗黒の平等」のことであり「虚偽である、ということであるので注意が必要だ、ということである。

 当然のことであるが、実際の政治哲学(思想)の著作には、真正の“自由”の“ ”や虚偽の「自由」の「 」などのカッコはあるわけもなく、単に自由として使われているので、真偽の見極め(=精密で正確な読解力が必要であるということである。

 (4)“真正の自由”と国家権力の関係

 “真正の自由とはそれが(=国家や他者や他の集団)からの強制脅迫的命令による圧迫を受けないように、“国法=憲法の支配によって擁護・保障された個人の活動空間の存在を意味する

 端的に言えば、“真正の自由とは、“他からの強制圧迫を受けない保護された個人の私的活動空間の存在を意味するのである。

 カール・ポパー曰く

 「自由の理念とは支配や統治が可能な限り少なくあるべき」(カール・ポパー『開かれた社会――開かれた宇宙』、未来社、47

 つまり、“真正の自由”が擁護・保障されるようにするための第一条件は、国家権力が各人から遠ければ遠いほど小さければ小さいほど良いということである。

 しかしながら、国家権力による支配や統治を可能な限り小さくすることは、むろん、国家権力ゼロという無政府(=アナーキーを是とするものではなく無政府は逆に自由の敵である

 なぜなら、カントが指摘するように、各人の自由が他のすべての人の自由と両立できるその限度以上に大きくならないように国家権力による各人の自由を制限することが必要だからである。

 つまり、国家には国法の支配”、“立憲主義を司る権力がどうしても必要なのである

 すなわち、各人の自由を守るための第二条件は、国家はすべての各人の自由を守るためにこの各人に強制力を振るう他の集団や他の個人に対してそれを妨害してやる役割を担うことである。

 まとめれば、国家が無制限の強制力を所有することもその逆の国家の強制力ゼロも、“自由”にとって絶対に排除されなければならない。一方この中間の制限された小さな国家権力は自由にとって欠くことができないのである。

 ところが、上述したように、“真正の自由”とは、“他からの強制圧迫を受けない保護された個人の私的活動空間の存在”を意味するのであるが、この“真正の自由の正統な定義が、1789年のフランス革命の掲げた「平等」によって決定的に変質させられたのである。

 「平等」という疑似宗教の教理が、民衆による政治参加である「デモクラシー」を「政治的自由」だと定義し、「デモクラシー」が「自由」の主たる意味となってしまったのである。

 私のブログ、保守主義の哲学---大衆論」で述べたとおり、デモクラシーとは、原義は大衆(=mob下層民などの集合体)」の支配する政治社会という意味である。

 そして、デモクラシー」とは「民衆の平等化・平準化主義」のことであるから、“真正の自由”とは何ら無関係であるどころか全く正反対の概念である。

 ここに、フランス革命によって変質させられた、「デモクラシー」=「自由の定義が、ルソーヘーゲルの唱える「虚偽の自由」であることが明らかになるのである。

 実際に、近代以降の世界史の真実が、このことを端的に証明している。

 例えば、デモクラシーの下で行われた普通選挙によって選出された、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチ)は、何をしたか?

 ゲッベルスは、「政府と民族全体の強制的同一化の実現」を政策として掲げ、ナチ党以外の政党労働組合などは次々に排除され、禁止された。そしてすべてのドイツ国民が国家や党の主導によるイベントや集会に動員参加することが義務づけられドイツ国民の真正の自由を圧殺した

 なお、ナチによるユダヤ人の絶滅計画としてのホロコーストは、読者の皆さんもよくご存知であろうが、ナチが行なったのはユダヤ人の大量虐殺のみではない

 アーリア人である多くのドイツ国民全く正当化できない凶悪な論理で虐殺された

 ナチスは精神病やアルコール依存症患者を含む遺伝的な欠陥を持っていると見なされた40万人以上のドイツ国民を強制的に殺戮した。

 また、T4 安楽死プログラムによって何千人もの障害を持つ病弱なドイツ国民が殺害された

 また、1917年のロシア革命で誕生した共産ソ連であるが、共産主義とはマルクスエンゲルスの『共産党宣言共産主義の諸原理』ではっきりと明記されているように、「完全平等主義」であることは自明のところである。

 ブルジョワジーとプロレタリアートの(虚構の)二大階級の階級闘争(=革命)を経て、プロレタリアートが政権を掌握した後には、

 「社会全体による生産の共同経営とその結果としておこる生産のあたらしい発展は、まったくべつの人間を要求し、・・・共産主義的に組織された社会はその構成員にかれらのあらゆる方面への発展した素質をあらゆる方面で活動させる機会を与えるであろう。そしてそれとともに、必然的にさまざまな階級もまたきえうせる

 したがって、共産主義的に組織された社会は、一方では、階級の存続と両立しないし、他方では、この社会自体が、この階級差別を廃棄する手段を与えるのである。

 ・・・生産諸力の共同的で計画的な利用のための、社会のすべての構成員の一般的な連合、すべての人の欲望を満足させる程度の、生産の拡大、ひとりの欲望が他者の犠牲において満足させられる状態の終了諸階級とその対立の完全な絶滅、・・・これが私的所有禁止主要な諸結果である」(マルクス・エンゲルス『共産党宣言・共産主義の諸原理』、講談社学術文庫、2008年、160163

 なんと、バカバカしい論理であろうか。「私的所有の禁止」をすることで、このようなユートピアがやってくるわけがなかろう。このようなものは哲学でも何でもなくただの似非宗教の教理である。

 また、共産ソ連共産主義国家の北朝鮮は、北朝鮮の正式名称が「朝鮮民主主義人民共和国」と自称しているとおり、その原義大衆(=mob下層民などの集合体)の支配する政治社会」という意味でのデモクラシー国家」である。

なぜなら、共産ソ連でも、北朝鮮でも究極の人民の政治参加が存在した(する)のであり、それは選挙でありその投票率は99%であることからも容易にわかることである。

 しかし共産ソ連北朝鮮などが究極のデモクラシー国家であるからといって、人民に真正の自由全く存在しなかったしていない)。

 また、デモクラシー国家であったドイツにおいて、ヒトラー率いるナチ党総選挙による得票率は、19285月には2.6%であったのが、1930918.3%19321133.1%1933343.9%19331192.2%ドイツ国民選挙による政治参加を通じてナチ党を独裁政党に育てたのである。

 しかし、ナチ党が独裁政権を樹立して以降ドイツ国民に“真正の自由など皆無であったのは上述のとおりである。ここでも、デモクラシー=「自由」が全くの虚偽であることがわかるであろう。

 このように大衆の「政治的平等」である「デモクラシー」とは、「全体主義体制=“真正の自由ゼロの政治体制の母胎であっても、決して真正の自由を生みだす母胎ではない

 デモクラシーによって生まれた政治権力の暴走強力な箍をはめる、“国法の支配”、“立憲主義の存在その厳守あってこそ国民の真正の自由が擁護保障されるのである

 これこそが、エドワード・コークブラックストーンエドマンド・バークの流れで完成された、“法の支配”・“立憲主義”という英国保守主義の神髄であり、ブラックストーンの『英国法釈義』を座右の書としていた米国建国の父ら、特に、アレクサンダー・ハミルトン米国保守主義の神髄でありその成果が米国の建国米国憲法なのである。

 ここまで読んで頂いた、読者の皆さんは、日本国民が21世紀日本国の目指すべき方向が、社会主義、共産主義、真正自由主義(=保守主義)、無政府主義(アナーキズム)のうちのどのイデオロギーであるか、また日本国民の“安全な生”・“希望を持てる生”・“生き甲斐ある生”等を未来永劫にわたり擁護・保障するイデオロギーは何か、を明確に理解できたのではないだろうか。

 もう一度繰り返すが、真正の(=世界の著名な保守主義哲学者が認識する保守主義とは真正自由主義のことであり真正の自由とは、“法の支配”・“立憲主義遵守しかつ擁護保障される道徳と一体の自由美徳ある自由のことであり放縦の自由ではない



 保守主義の哲学---「平等」という虚構---人間は生まれながらにして“不平等”である(3)へ続く


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