保守主義の哲学シリーズⅠ-2 (3)‐‐‐バーク保守主義、ベンサム理論を抹殺す‐‐‐その壱

 ジェレミ・ベンサムは、19世紀の立憲君主制の自由主義英国に「大いなる負の遺産」を残した「極左哲学の怪人」である。彼は、自己の哲学を「自由主義」と装いながら、その内容は英国に「社会主義・全体主義」思想を導入することに徹した、狡猾な哲学者であった。彼の影響で自由主義英国は45度ほどの左旋回を余儀なくされたと言われる。

 ここで、ベンサムの思想を徹底的に叩き、葬り去る目的は、大東亜戦争の敗戦後、米国の指導で自由主義国の一員となったはずの日本であるが、その実、国内政治政策はどんどん左傾化していくという矛盾を懸念するからである。

  特にこの左傾化は、1990年代以降そのスピードを強めている。そして2009年の民主党/社民党/国民新党の連立政権の誕生である。早速、「東アジア共同体」に言及し親中政策を打ち出そうとしている。「東アジア共同体」と「大東亜共栄圏」、何が違うのか

 大東亜戦争(特に対英米戦争)の発端は、名目上、「大東亜共栄圏」を日本の主導でアジアに建設しようとし、支那(中国)の抵抗を受け、「日支事変」が泥沼化したのが、そもそもの発端であろう。そこに毛沢東の共産党日本のコミュニスト近衛文麿が暗躍していたのは、現在では明白な事実である。そしてその背後にはスターリンがいた。

 つまり、日本と中国は、政治的にも、経済的にも、思想的にも、民俗的にも、相容れることができず、講和できず、背後に共産党の影響もあって、日支事変が泥沼化した(共栄圏がつくれなかった)のである。これが、日中間の過去の歴史事実である。

 では、現在の日中関係は「東アジア共同体」なるものを構築できる条件が、つまり、政治的、経済的、思想的、民俗的条件のうちで、何か「共同」できるものが、あるのであろうか?。

 そもそも、中国は、経済的には一部自由経済を導入しているとはいえ、政治的、思想的には、れっきとした、共産党一党独裁の「共産主義国家」である。自由主義国の日本と「共同性」を持ちうる部分など無いに等しい。また、民俗的にも先の大東亜戦争の残滓が大きく影響しており、和解の「和」の字も見いだせる状況にない

 このように、共同性など、無いに等しい国家同士を無理やり「共同」しようとすれば、どちらか一方が他方に飲み込まれるか、大幅に譲歩するしかない

 この場合、現状の中国と日本の政治的・軍事的優劣を考えれば、中国に日本が飲み込まれるか(=日米同盟が有効に活用できない場合)中国に日本が大幅に譲歩せざるを得ないか(=日米同盟が堅持され有効に作用する場合)どちらかであることは、どんな馬鹿な日本人でも分るであろう。それは、「日本の共産化あるいは、共産主義への急接近」を意味するのである。

 では、共産主義国家の本質とは何か。一言でいえば、「国民の監獄」である。

 「共産主義」の真の恐ろしさは、例えば、中国の「微笑み外交」という、表の「微笑み」の裏に隠されている、無神論・唯物論の「残虐性」である。神を信じない人間・人間を物としか思わない人間は「罪の意識なく人間を虐殺できる」のである。

 ソ連のレーニンとスターリン、ソ連支配下の東欧諸国、中国の毛沢東、カンボジアのポル・ポト、北朝鮮の金日成/金正日、ベトナムのホーチミン等の共産主義国家で殺戮された国民の総数は2億人に上る。これが「共産主義の本質」である。

 「共産主義者が権力を握れば、その政権は、必ず、利害なく、その国民を虐殺する」これが、歴史の真実である。共産主義者(国)の言う「平和」とは、「最終的には、世界の共産化、手始めは周辺国の共産化」という意味である。真の共産主義を知る者の間では、「常識」の「合言葉」である。

 これくらいの「事実」くらいは、日本国民もしっかり胸に刻んでおくことである。

  現在、日中間には、北朝鮮問題、東シナ海のガス田問題や尖閣諸島問題、歴史(教科書)問題、総理の靖国神社参拝への内政干渉問題など問題が山積している。冷凍餃子薬物混入問題でさえ、未だに犯人が確定していない。また、日韓関係も竹島問題、対馬問題、歴史(教科書)問題、総理への靖国神社参拝への内政干渉問題、日本海の「海名」問題など問題が多い。このような状況でどんな「東アジア共同体」をつくれるのか、私には皆目見当がつかない。

 韓国は歴史上、中国の中華秩序に与していた中国の属国であるから、問題はないだろうが、日本は中華文明とは異なる単独の文明圏である。日本の外交の主軸を自由主義同盟である「日米同盟」から中国共産党などとの連携である「似非東アジア共同体に決して移してはならない

 「日米同盟」の堅持なくして日本の生きる道はない。このことだけは、日本国民は決して忘れてはならない。脱米入中」などは、精神欠陥者の妄説である。

  話を戻すが、GHQ占領下に置かれていた1952427日までは、日本に主権が無かったのでやむを得ない面もあるが、1952428日のサンフランシスコ講和条約の発効以降の左傾化の進行は、明らかに、日本の左翼学者、左翼官僚、左翼政治家、左翼マスメディア等の煽動によるものであり、日本国自身の問題である。そこには、19世紀の自由主義国英国に左傾化を生じさせたベンサムら「哲学的急進グループ」の活動と重なるものを見ることができるのである。よって、ここにおいて、極左ベンサムの論理をバーク保守主義の論理で徹底的に叩き、葬り去る試みをするのである。  方法としては、ベンサムの著作『憲法典に先行する第一諸原理』(1822年)、及び『憲法典』(第一巻1830年)における言説を取り上げながら、ベンサムの「最大多数の最大幸福」原理の本質とその論理の矛盾・誤謬をバーク保守主義理論で破壊するスタイルをとる。まず、ベンサムの思想の全体像を捕捉するため、ベンサムの言説を列挙し、言説毎に論評を加えていくこととする。

①ベンサムの「国家の目的」

 ベンサムは言う、最大多数の最大幸福は、国家の唯一正しく、かつ固有の目的である。すべての人民の幸福他人の幸福を減ずることなく、増進可能な限りにおいては、すべての人民の幸福が国家の目的となる。しかしながら、他人の幸福を減ずることなくしてはある人々の幸福が増進されえない限りにおいては、最大多数の最大幸福が国家の目的となる。こうして生み出された幸福の正味は、国家という手段によって生み出された幸福量、つまりの数量と、逆に国家という手段によって生み出された不幸量、つまり、害悪の数量とによって算定されるであろう」

 ➡いわゆる、最大多数の最大幸福原理解説・批判は後述する。

②ベンサムの国家観

 ベンサムは言う、「あらゆる国家は、まさに、その本質において、害悪である。なぜならば、国家は義務(注:例えば納税の義務)を創設することによる以外にはその機能は遂行され得ないからである。しかも、あらゆる義務は、それ自体としては、害悪だからである。したがって、国家の諸権力を行使することは、害悪をなすことである。国家の唯一正しく、かつ、固有の目的を追求するために、国家の諸権力を行使することは、最大可能量の善を達成しようとする目的にもとづいているとはいえ、害悪をなすことにほかならないのである」

 ➡いわゆる、国家害悪説

 「あらゆる損失害悪である。あらゆる損失は、どのような形のものであっても、害悪に他ならない」

 ここで、ベンサムは、国家に関わる「損失」として、①税金、②懲罰、③報酬、④意図的な動機に基づく位階の創設、⑤あらゆる形の義務、⑥略奪を挙げている。

③ベンサムの国家の統治機構

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()人民主権」をもつ人民(選挙権を持つ者)に最高構成権力としての絶対的権力  を与えている。

 しかし、“法(コモン・ロー)の支配”、“立憲主義”を根本原理とするバーク保守主義では、国内政治(国際政治での国家主権は別である)において、それが人民であろうと国民であろうと、天皇陛下であろうとも“主権”などというものは所持してはならないものである。あらゆる権力は“法(コモン・ロー)およびコモン・ローを明文化した「憲法」”によって制限がかけられなければならない。   あらゆる権力は、ある時代のある個人(または数人)の理性(=貧困の知性、人間の理性の完成など無い)によってつくられた制度や法律(制定法)によって抑制できるものではない  

 あらゆる権力は、ある国の、過去数百年間または数千年間の過去のすべての祖先たちが、時の権力者の抑圧から彼らの自由を守るために、その各時代の統治者と交渉し、あるいは戦って、統治者に彼らの自由を承認させ、それを子孫に世襲(相続)してきた成果・叡智の集積(=コモン・ロー)によってのみ、抑制し、制限できるものである。

  それが、英国では不文憲法であるコモン・ローであり、米国では英国のコモン・ローとそこから新しく発見した“法”を明文化した米国憲法なのである。新しく発見した“法”とは例えば、権力分立論の中から、建国の父の一人であるアレクサンダー・ハミルトンが発見し、米国憲法に世界で初めて取り入れた「違憲立法審査制度」などがある。

 この意味において、日本の場合、日本国二千年の歴史の“コモン・ロー”を明文化しているのは、いくらかの欠陥があったとしても、明らかに、「明治憲法であり、決して現「日本国憲法ではない※1)。

()最高構成権力」と独立した「世論法廷」なるものを設置し、最高立法権力(一院制の立法議会)代理人(=議員/代議士のこと)の立法議会における「道徳的適正能力」「知的適正能力」「職能的適正能力」を「世論法廷」にチェックさせ(例えば「議会の出欠状況」、「世論に反した演説をしていないか」「世論に反した立法に賛成票を入れていないか」等々)、場合によっては、この「世論法廷」が適正能力に欠けると判断した代理人(議員)を「解任できる(解任権を持つ)」というのである。ここには、「世論無謬主義」、「人民絶対正義主義」、「人間理性完成主義」が前提にある。バーク保守主義から見ると極めて危険な思想である。

 そして、この「世論法廷」の構成員には、「その国の有権者、有権者以外のすべての国民(当時では、女性や、未成年者等)及びその問題に関心のある外国人」が含まれるという。ある国の立法議会の立法権に、外国人が意見を差しはさみ、議員を解任する権力を持つという、コスモポリタニズム(地球市民主義・普遍的市民主義)とはいったい何であろうか?。

 バーク保守主義では、あるA国の立法議会の立法に対して、(A国の歴史・慣習などに基づく“A国のコモン・ロー”を全く理解しない/できない)B国のB国民が、関心があるから、という理由だけで、A国立法議会議員の解任権(の一部ですら)を与えることなど狂気の沙汰である。これは、現在日本でも問題になっている、外国人の地方参政権付与の問題にも還元される(※2)。

  バーク保守主義においては、ある文明国の政治社会において、「地球市民」とか「全世界の普遍的権利」とか全人間共通の「人権」などの概念は、存在しえないし、あり得ないと考える。あるA国の国民の持つ権利はあくまで「A国民の権利」である。

 中国人民が中国国内で所持する「中国人民の権利」と日本国民が日本国内で所持する「日本国民の権利」が同じ人間であるという理由だけで、「普遍的に同一であるはずがないではないか。冷戦時代に、ソ連人民がソ連邦内で持っていた「ソ連人民の権利」と米国民の米国内で持っていた「米国民の権利」が同一でなかったのは誰もが知るところであろう。

 バーク保守主義は過去から現在に至る人間の歴史の現実に基づいた思考(まさにそれが保守主義の根本であるのだが)をするが、過去に成功したためしもなく、遠い未来にも実現不可能と分かりきった理想(未来)主義的思考は絶対にしない。 

 断言するが、これから千年後でも世界が普遍的に同一な「地球市民・地球国」になることなど100%無いし、そのような努力は無駄である。

 EUは、EUの中にフランスドイツのような社会主義傾向の強い国があるので、EU各国が一体となる遠心力となっているが、自由主義国(ベンサムの影響でかなり左旋回したが)の英国は渋々ついて行こうか、どうしようか、という感じである。 

 英国は立憲(制限)君主制であり、コモン・ロー発祥の地であるから、当然の行動と言えよう。 

 そしてこれはあくまで私の予見だが、EUの完全一体化は、非常に些細な紛争が少しでも起これば、一気に瓦解するであろう。これは、そう遠い将来のことではないと思う。 

 なぜなら、紅茶ビールワイン紅茶ビールを混ぜ合わせても、混ざり合わないか、混ざり合っても、もとの物よりまずくなっても、おいしくなることは決してないからである。そこへもって、ウォッカなどが大量に混じってくると大変なことになろう。

()人民※3)と世論

 ベンサムの言う「人民」とは、一つの全体としての「人民」であって、個々の個人を言っているのではない。そこでは、個々の個人は「啓蒙」によって「理性が完成」し、“個々人の全体”としては、求める「幸福」も「利益」も一致する「一つの人民」のことである。

 従って、そのような人民の発する世論は、絶対的正義であり、必ずそれが人民に最大幸福をもたらすとされる、統一された「世論」なのである。

 このようにベンサムは、「人民の世論」に、つまり人間の理性善の基準を見出すのである。バーク保守主義“法”=“コモン・ロー”善の基準を発見するのと対極的であるのがわかるであろう。    

 ここで、ベンサムの「世論」はルソーの「一般意志」と同じ意味と考えてよい。しかし、ルソーの「一般意志」は「絶対者(=立法者とも言い、国家の統治機構の外にいる神のような存在『社会契約論』)」にしか感知できないので、個々人は「すべての自分の権利を絶対者に譲渡」する。この時点で、一つの全体としての「人民」が完成する。そして絶対者はすべての人民の権利を一手に握り、自己の感知した「一般意志」を人民に命令として下す。 

 この命令は「人民」の権利から発する命令だから、人民には「絶対服従の義務」のみが残る。つまり、諸個人は権利をすべて絶対者に譲渡してしまったから、自分の手元には“自由”の権利もない。

 しかし、ルソーに言わせれば、諸個人の全権利(自由権含む)を一手に握った絶対者の命令は「人民の自由権」から発した命令でもあるから、それに絶対服従することは人民の「自由」であるという。これがルソーの“自由”ゼロの「自由」であり、「人民主権」という名の「独裁者による全体主義体制」である。これを世界で最初に忠実に実行したのが、ロベス・ピエールらによるフランス革命である。

 人権宣言」の前文の最後に、「・・・こうして、国民議会は、最高存在の前に、かつ、その庇護の下に、人及び市民の以下の諸権利を承認し、宣言する」とあるのが、明確かつ消せない証拠である。

 「・・・以下の諸権利を承認し、宣言する」のだから、諸権利を絶対者に譲渡していないではないか、という反論には、こう反論しよう。

 フランス革命は「アンシャン・レジーム(旧体制)の打倒と言われているが、「君主制」と「キリスト教(カトリック)」の打倒が目的の革命なら、なぜ無関係の「一般市民」が「約50万人」も殺戮されたのか?「人権宣言」における、殺戮された約50万人の諸権利はどこへ消えてしまったのか? 

 私が答えてあげよう。「最高存在」の下での革命においては、反革命派は「最高存在の命令」により、処刑されたのである。そして、「最高存在の命令」に従った革命派の人及び市民だけが諸権利を承認されたのである。しかしその諸権利も最高存在(絶対者)の手元に握られていたのである。

 ところで、ベンサムの「世論」は、彼の著作による限りでは、ルソーのような「絶対者」が一手に握るとしていないが、現実的には、諸個人の「理性の完成」などあり得ないのだから、一つの全体としての人民の「世論」など存在しえない 

 存在しえないはずの人民で統一された世論」を「世論法廷」が、存在するかのように諸個人を欺いて議員の解任権をもって、最高立法権力(立法議会)を自由に操れるとすれば、この「世論法廷」こそが、ルソーの「絶対者」あるいは、旧ソ連の「共産党」のような独裁機関に突然、反転する可能性を十分に孕んでいると考えざるを得ない

 あるいは、最高立法議会の議員の多数が談合して「世論法廷」や「最高構成権力(選挙権のある人民)」の議員解任権等の権力を取り消す立法をすれば(法律を制定すれば)、突如として、一院制の「最高立法議会(国会)」が独裁機関となる可能性も充分に考えられるのである。 

 つまり、「人定法(法律)」のレベルでいくら権力の濫用(害悪)を制限する制度を整えたつもりでも、それを破壊する「人定法(法律)」が上塗りされれば、害悪は再び発生し得るのである。それをまた、新たな「人定法(法律)」で上塗りして・・・と無限のサイクルを繰り返すのである。なぜなら、「人定法(法律)」とは、ある時代の高々、数百人の立法議会議員の「人間の浅薄な理性」の産物でしかないからである。

 だから、バーク保守主義は、「祖先が積み重ね、子孫に世襲(相続)してきた叡智の集積」を利用せよ、と言うのである。それが、“法(=コモン・ロー)の支配”であり、“立憲主義”なのである。

 しかし、“法=コモン・ロー”を明文化した「憲法」もまた制定法であるから、改正されることもありうるし、あってもやむを得ないことである。「憲法」が、その国の“法=コモン・ローとかけ離れている場合はなおさらのことである。しかし、「憲法」は「権力の濫用(害悪)を制限する最後の砦である」から、その改正手続きの壁は、非常に高く、厳しくしなければならないのである。

④ベンサムの人間本性論

 ベンサムは言う、

 「・・・すなわち、それは、可能な限りでの、人間本性に普遍的なある性癖の欠如によって構成されているものである。各個人の心情に秘められているこの性癖は、あらゆる状況において、かれにとってかれ自身の優越的な利益と思われる利益に対して、その他のすべての人々の利益を犠牲にしてもかまわないとする性癖である。そのようにふるまうことによって得られるかれ自身幸福を獲得するために、かれは、その他すべての諸個人の幸福を奪い取ったり妨害したりしようとするのである」

 ➡人間本性の「自己利益優先性」原理

 ベンサムはここで、人間本性の自己利益優先性を認めている。そして、それは、権力を持つ人間にとっては、権力濫用の原因となる悪癖である、と言っているのである。

 そしてこの人間本性である悪癖が、権力と結びつく時、権力者(公職者)の「邪悪な利益(ベンサムの用語:私利追求利益のこと)追求を生み、同時にそれが、人民の「邪悪な犠牲(権力者の私利追求により被る人民の損失)を伴うので、人民の「最大多数の最大幸福」が達成されない、と言う。よって、ベンサムは、権力者の自己利益優先という人間本性を(人間の完成された理性及び法律によって)コントロールしうる政治制度を確立しようとしたのである。

 一言でまとめれば、これが、ベンサムの『憲法典』のすべてである。しかし、問題はその人間本性の悪癖をコントロールする「政治制度論」が、ベンサム『憲法典』バーク保守主義では根本的に異なるのである。

 ベンサムは言う、

その希望がかなえられる可能性のないところでは、そのような性癖や欲望や欲求はほとんど起こりえないであろう。人は、それを獲得する可能性がないところでは、それを獲得しようとする欲求を持とうとはしなくなるものである。したがって、成功の可能性や見込みへの道が完全に閉ざされたところでは、そのような欲望は押さえられ、弱められるはずである。ここでは、そのような性癖は、ちらちらとゆらめく炎にとどまり、燃え盛ることはないであろう」

 ➡ベンサムの言わんとするところは、公職者が邪悪な利益を求めうる場を完全に閉ざせば、公職者が邪悪な利益を求める欲望は失われるだろう、ということである。

 ここで、皆さんは、「なるほど、それはすばらしい考えだ!」と簡単に納得してしまっては困るのである。なぜなら、権力者は当然のことだが、既に権力(立法権、行政権、司法権)を持っている。その権力者たちから、邪悪な利益を追求する場をなくしてしまうことは至難の業であるからである。必然的に荒治療が必要となる。

 後述するが、ベンサムは“法=コモン・ロー”の意味がさっぱり、理解できなかった。だから、否定し罵倒しているであるから、既存の権力者たちから、邪悪な利益を追求する場をなくしてしまう方法としては、以下の三つが考えられる。

()暴力革命によって現在の政治制度(立憲君主制)を白紙に戻してつくり直すこと。

()暴力革命によらずに、何らかの方法で、さらに強力で合理的な(=その権力を持った者自身も邪悪な利益を追求できないような)別の最高(最強)権力人智(理性)によってつくり出して既存権力を抑え込むこと。

()1688年の名誉革命のような無血革命によって、既存権力(ベンサムは主として君主を指す)の濫用制限を認めさせるか、既存権力をもつ人間を入れ替える方法。

 ベンサムは()の方法を考案しようとしたが、()の方法を放棄していない(これは後述する)。そして、その最高(最強)権力が、「最高構成権力(人民)」であり、「世論法廷」であった。そして、それらの最高権力立法権を制御する方法は「代表制民主政体しかないと考えた。さらに行政権及び司法権をこの立法権の支配下に置けば、立法権、行政権、司法権のすべてを「人民」及び「世論法廷」によって制御できると考えたのである。 一見、なるほど、と思える。

 しかし、ここで一つの重大な疑問が生じる。ベンサムにおいて「人間本性」とは、上記で述べたとおり、「自己利益優先性」原理である。

 他人を犠牲にしてまで自己の利益を追求する諸個人が、一つの全体としての「人民」を形成し、全体としての完成した「世論」など形成できるのだろうか?そしてそれを、既存権力をコントロールする「最高権力」とするという。

 つまり、善悪の基準が「完成された理性をもつ人民」であり、そこから発する「正義の世論」であるというのである。ここには、人間の理性の完成性を信じる「進歩教」「未来教」の狂信がある。「進歩教」は旧ソ連のマルクス・レーニン主義の実験で「妄想」であったことが既に、証明済みである。

 そして、もし「人民」と「世論」が一人のカリスマ的独裁者によって、巧みに誘導されればどうなるか。ナチ・ドイツヒトラーの誕生である。

 現に彼のナチ党は、民主主義体制下のドイツにおける国会議員選挙で国民の支持(=世論)よって勢力を伸ばしたし、彼自身は大統領兼首相の地位である総統立候補し、国民投票で89.9%の支持(=世論)を得て就任したのである。

 この事実を見ても、「人民」や「世論」が常に正しい選択をするとは言えないのである。つまり、単純に「代表制民主主義」(デモクラシー)に制度を改変すれば、国民の生命(安全)・私有財産・自由(と裏表の道徳)を擁護する政治制度になるとは言えないのである。

 バーク保守主義代表制民主主義否定するものではない。しかし、この政治制度の上に、必ず権力の暴走を制限する、“法(コモン・ロー)の支配”や“立憲主義”がどっしりと覆いかぶさっていない限り容認しない。最大の好例が「米国のそれ」である。 

 逆に言えば、権力の暴走を制限する“法(コモン・ロー)の支配”や“立憲主義”が確立していれば、立憲君主制で構わないし、英国日本の場合国王(王室)/天皇(皇室)の地位が“コモン・ローそれ自体”であるから、立憲君主政体が最もふさわしいと考える。

 英国の場合は、ベンサムのような、“コモン・ロー”としての王制※4や貴族制完全否定する左翼の大怪人が現れてもなお、現在でも王制/貴族制は“コモン・ロー”と位置付けられているので、国王(王族)や貴族階級が存在し、貴族院(上院)が議会の一翼を担い、また、庶民院(下院)もその一翼を担い、互いにその役割を十全に果たしている立憲君主国であるのは周知の事実である。

⑤ベンサムの「代表制民主主義」(最高立法機関と世論法廷)

 ベンサムは言う、

 「こうして、腐敗の露顕可能性が、まさに代表制の本質となる。これこそが、代表制民主主義の本質である。これに対して、混合君主制の本質は、・・・とくに人民を代表する機関を混合しているところにある。そのような混合君主制を創設することは、・・・それは、法(=人定法=法律)によってそのような腐敗を創設することである。同様に、代表制民主主義を創設することも腐敗を創設することである。法(=人定法=法律)によってそのような腐敗を創設することである。この限りにおいては、・・・違いはないのである。・・・いずれも腐敗しうる可能性がある点では違いはない。その違いは、・・・代表制民主主義においてのみそのような腐敗防止装置が制定され得るのであり、・・・そのような装置によって腐敗の芽が腐敗という結果に広がってゆくことを防止してきたのであった。・・・これに反して、混合君主制においては、そのような装置が欠落しているために、・・・腐敗の芽は絶えず増大していくのである。・・・腐敗的結果それ自体が絶えず自己増殖していく。・・・腐敗の自己増殖という点では、・・・混合君主制と絶対君主制の区別は無くなってしまうこうして人民は、憤激して立ち上がり、・・・混合君主制を廃止し、それに代わる別の政治政体を設立しようとするのである

 ➡ベンサムは人間本性の「自己利益優先性」原理の結果、混合君主制の創設も、代表制民主主義の創設も法(=法律)によって腐敗を創設することである、とする。ところが、代表制民主主義においてのみ腐敗防止装置が制定されうるのであって、混合君主制においては、そのような装置が欠落している、装置が制定され得ない、という。

 ここに大きな論理の飛躍がある。同一の哲学原理から二つの異なる結果が出てくるという大矛盾である

 「代表制民主主義」も「混合君主制」も人間が構成する政治制度である。諸個人(庶民)も君主も貴族も階級や財産や地位の差はあれ同じ人間である。ならば、前者で腐敗防止装置が制定できるなら、後者でもできるはずであるし、逆に後者で腐敗防止装置が制定できないなら、前者でもできないはずである。

 ベンサムの詭弁では、人間本性は変えようがないが、「代表制民主主義」の下での「最高構成権力(選挙権を持つ人民)」や「世論法廷」がもつ立法議会議員(=国会議員)の解任権や処罰権が立法議会議員を服従させ、腐敗防止装置を制定させうるというのである。

 しかし、この詭弁には三つの問題がある。

 第一に、「最高構成権力」や「世論法廷」を構成する人民もまた同じ人間本性を持つ人間である。自己利益優先の人間の集合体にすぎない「最高構成権力」や「世論法廷」は他者利益優先である「最大多数の最大幸福の優先性」を持ち得ない。持ち得るとするのは明らかな哲学的論理矛盾である。つまり、自由主義社会では、「他者利益優先原理による人民の幸福」など存在しえない。

 例えば、自由主義政体では自己利益優先原理の国民の代表者が国会議員として国会に集合しても、近似的利益を考える集団が複数の党派を形成する。いわゆる政党政治である。

 つまり、国家にある緊急事態が発生した場合などの例外を除き、全国会議員が党派を超えて、同一の利益を持ち、それが国民の利益であると思考することは絶対にあり得ない。

 もし、「最高構成権力」である「人民」や「世論法廷」が解任権や処罰権をもって、立法議会にそのような「90%以上のほぼ全会一致」を起こさせようとするなら、そのような矛盾が起こりうるのは、社会主義政体のみである。この光景は、旧ソ連中国北朝鮮などの議会でよく見かける、それである。全議員が提案議題に対して反対もせず、全会一致の拍手で称賛している光景である。ベンサムは明らかに英国の社会主義化を想定している 

 第二に人間本性は「最大多数の最大幸福優先性」を持ち得ないため、「最高構成権力」や「世論法廷」が立法議会議員に対して解任権処罰権を発動するとき、それら権力の発動決定を必然的に多数決(例えば「世論法廷」が100人で構成されており、ある議員Aの解任5545で解任決定するとする)に求めることにならざるを得ない

 すると、この瞬間にこの解任決定は「最大多数の最大幸福なるもの」と大きくかけ離れている。約半数の45人の幸福は増大するどころか損失を受けたのである

 もしこれを持って「最大多数の最大幸福」というのであれば、それは「世論法廷」の多数者の専制政治に他ならない。つまり、この「世論法廷」の多数者がすべての立法議会議員の解任権を握るとすれば、これはすでに「代表制民主主義」などではなく、「世論法廷の多数者による専制政治」である。

 上記③にベンサムの国家統治機構図を示したが、私は、この「世論法廷」なる機関の存在に極めて怪しげなベンサムの悪意の企図を感じるのである。

 ベンサムの統治機構では、最高構成権力である人民が立法議会議員の解任権と処罰権を持っているのだから、どう考えても「世論法廷」なる機関は不要である

 そして、万が一、この「世論法廷」が「最高立法議会」と手を握るようなことが発生すれば、この「世論法廷」と「最高立法議会」の関係は、フランス革命時の「公安委員会」と「国民公会」、旧ソ連時代の「共産党」と「最高会議(ソビエト議会)」の関係に変質するのである。いわゆる「全体主義体制」である。

 第三に、「庶民、君主、貴族の階級や財産や地位」と「人間本性」の関係である。ベンサムの言うように、人間本性は「自己利益優先性」であるとする。しかしその「強度」は個人によって異なることは想定される。この場合、「自己利益優先性の強度」と「階級/財産/地位」との関係はどうであろうか。

 ベンサムは君主や貴族は階級/財産/地位をさらに高めようとする邪悪な利益しか求めないのに対して、階級/財産/地位のない個々の庶民が「一つの全体としての人民」となれば、邪悪な利益を追求することはなく、最大多数の最大幸福を求めるという

 が、本当であろうか?そして、それ故に君主や貴族の存在しない、庶民からなる「代表制民主主義」以上に良き政体はないという。ここには啓蒙による「人間の完全(完成)性」が前提にある。 

 しかし、バーク保守主義はそうは見ない(米国保守主義でも同じかそれ以上である)。政治を行う政体としては純粋デモクラシーほど危険な政体はないと考える

 それは、バーク保守主義では人間本性については、「人間の不完全(不完成)性を前提とするため、人間を個人的にも集団的にも善人であるとはみなさない。むしろ大部分が悪人であると見る。

 だからこそ政府による統治が必要なのであり、“法の支配”“立憲主義”が絶対的に必要であると考えるのである

 そもそも人間がすべて善人(完成した人間)であると前提するならば、政府など必要ないではないか、ということである。

 これは、エドマンド・バーク米国「建国(※5)の父」であるアレクサンダー・ハミルトン、ジョン・ジェイやジェームス・マディソンすべての保守主義者共通する考え方である。

 そして、階級/財産/地位のある人間(世襲貴族や自然的貴族)の相当程度は、善人ではあるまいが、少なくとも庶民(民衆)よりは、それなりの教養と才能と人格が備わっているので、自己利益優先性の強度が弱いと考える。

 だから、庶民のみからなる「代表制民主主義」よりも貴族や君主と庶民からなる「混合君主制(立憲君主制)」のほうが、むしろ逆に庶民に生命(安全)、私有財産、自由(と裏表の道徳)を擁護し、国家を繁栄させると考えるのである。

 そのかわり、国家は国民に(社会的弱者への最低限度の生活保障は別として)、国家の創造した均一な最大限の豊富(=幸福)を平等に国民に配給するようなことを国家の目的としない。それは国家権力による国民の自由権の侵害と考えるからである。

 そして、そのような平等社会がやがて行き着く先は、「最貧困の平等社会」となるのである。それは旧ソ連、東欧諸国、市場経済導入以前の中国、北朝鮮、カンボジアの事実が充分に証明している。

 ちなみに、ベンサムの「人民の完成性」の妄想は次の言葉によく現れている。

 ベンサムは言う、

 人民は、全体としてはかれらの利益と幸福に関するその究極的な結果を決定しうる支配者である。人民以外のさまざまな権威は、人民がその幸福実現のために用いる道具でしかない

 これがベンサムの一つの全体としての「人民」観である。

  余談であるが、このブログを書いている私もバーク保守主義を信奉しているから、「自分は不完全な人間だ」と思っている。だからこのブログで述べる私の意見もまた完全ではありえない。だから私の言説にも論理的矛盾があるかもしれない。しかし、できる限り論理矛盾が生じないように努力しているつもりである。

(紙幅の関係上、その弐へ続く。)

 

 ここで、ベンサムの思想を徹底的に叩き、葬り去る目的は、大東亜戦争の敗戦後、米国の指導で自由主義国の一員となったはずの日本であるが、その実、国内政治政策は、どんどん左傾化していくという矛盾を懸念するからである。

  特にこの左傾化は、1990年代以降そのスピードを強めている。そして2009年の民主党/社民党/国民新党の連立政権の誕生である。

 早速、「東アジア共同体」に言及し親中政策を打ち出そうとしている。「東アジア共同体」と「大東亜共栄圏」、とは何が違うのか大東亜戦争(特に対英米戦争)の発端は、名目上、「大東亜共栄圏」を日本の主導でアジアに建設しようとし、支那(中国)の抵抗を受け、「日支事変」が泥沼化したのが、そもそもの発端であろう。そこに毛沢東の共産党日本のコミュニスト近衛文麿が暗躍していたのは、現在では明白な事実である。そしてその背後にはスターリンがいた。日本と中国が政治的にも思想的にも民俗的にも、相容れなかったから、いつまでも講和が成り立たず、戦争が泥沼化したのではなかったか?

  では、現在、日本と中国(+韓国)は、政治的、思想的、民俗的に和解し、共同性を保持し得る状況であろうか?

 そもそも、中国は共産党一党独裁の共産主義国である。自由主義国である日本と共同性を持てるような国家ではない。

 

 ここで、ベンサムの思想を徹底的に叩き、葬り去る目的は、大東亜戦争の敗戦後、米国の指導で自由主義国の一員となったはずの日本であるが、その実、国内政治政策は、どんどん左傾化していくという矛盾を懸念するからである。

  特にこの左傾化は、1990年代以降そのスピードを強めている。そして2009年の民主党/社民党/国民新党の連立政権の誕生である。

 早速、「東アジア共同体」に言及し親中政策を打ち出そうとしている。「東アジア共同体」と「大東亜共栄圏」、とは何が違うのか大東亜戦争(特に対英米戦争)の発端は、名目上、「大東亜共栄圏」を日本の主導でアジアに建設しようとし、支那(中国)の抵抗を受け、「日支事変」が泥沼化したのが、そもそもの発端であろう。そこに毛沢東の共産党日本のコミュニスト近衛文麿が暗躍していたのは、現在では明白な事実である。そしてその背後にはスターリンがいた。日本と中国が政治的にも思想的にも民俗的にも、相容れなかったから、いつまでも講和が成り立たず、戦争が泥沼化したのではなかったか?

  では、現在、日本と中国(+韓国)は、政治的、思想的、民俗的に和解し、共同性を保持し得る状況であろうか?

 そもそも、中国は共産党一党独裁の共産主義国である。自由主義国である日本と共同性を持てるような国家ではない。

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