保守主義の哲学---保守主義(哲学)の神髄---7/11参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(8)

―――――――エドマンド・バーク保守主義―――――――

―――――保守主義哲学の神髄―――――

E・バークA・ハミルトンJ・ジェイJ・マディソン

A・トクヴィルオルテガ・イ・ガセットFA・ハイエク

D・ヒュームギュスターヴ・ル・ボン ・・・

世界の偉大な保守主義(哲学)者からの現代日本国への警鐘

――711参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(8)――

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 ―――D・ヒューム道徳哲学(その2)―――

 ―――デヴィット・ヒューム『人性論』、世界の名著 中央公論社、第三篇521頁(ここから)―――

 徳と悪徳理性によるだけでは、つまり、観念の比較によるだけでは見いだされ得ないのだから、悪徳の違いを定めることのできるのは、これら(=悪徳)が引き起こす何かある印象または心情によるのでなければならぬ、ということである。

 道徳的な正しさ堕落についての判定は明らかに知覚である。ところで、知覚はすべて印象観念いずれかであるから、このうちの一方(=観念が取り去られれば、そのことは他方(=印象)に対する確信をいだかせる論拠である。だから、道徳は判断されるというよりも感じられるという方が、適切なのである。

 ある行為心情性格有徳である。あるいは、悪徳である。なぜか

 それを見ると特殊な種類のまたは不快が引き起こされるからである。したがって、その不快理由を示すことで、われわれはあるいは悪徳十分に解明していることになる。

 徳の感覚を持つことは、ある性格を見つめることから、特殊な種類の満足を感じることにほかならない。感じこそが、賞賛賛美構成しているのである。われわれはこれ以上に進むこと(=必要はない

 満足の原因を調べたりはしない。また、われわれは、ある性格が満足を与えるがゆえにその性格は有徳である、と推理するのではない(=推理するのではく、満足な感じ賞賛賛美徳の感じなのである)。

 そうではなくある性格がそういう特殊な仕方で満足を与えると感じることで、事実上、それが有徳であると感じているのである。

 この事情は、あらゆる種類の好み気持ちについての判断(→感じと同じである。

 これらがわれわれに伝える直接的な快うちに、われわれがこれらをよしと認めることは含まれている推論せずとも、既に、不快感じの中に悪徳の感じが含まれている)のである。

 ―――デヴィット・ヒューム『人性論』、世界の名著 中央公論社、第三篇521頁(ここまで)―――

 ―――デヴィット・ヒューム『人性論』、世界の名著 中央公論社、第三篇523525頁(ここから)―――

 あらゆる種類の徳の感覚自然的なもの(=自然で直感的な快)ではなく(=自然的なものということではなく)、人類が置かれている状況必要から生じる人為あるいは考案によって快や是認を生むいくつかのがある。

 そして正義この種のものであると私は主張する。

 (→〔=ブログ作成者の解説:以下のヒュームの考察は、前述の自然で直感的な快の中に含まれている徳についてではなく、人為的あるいは考案による徳である「正義」についての考察であることに注意すること)

 明らかに、われわれがある正義と言われる)行為賞賛するときには、(本来は)それらの行為を生みだした(内面的な)動機だけを考慮し、(外面的な)行為を(内面的な)心とか気質のうちの(→うちにある、)ある原理表示として考える。

 (本来は)外面的に行われることにはなんの価値もない。(ある行為の)道徳的な性質を見いだすには内面(=内面的な動機を見なければならない

 ただ、これを直接に行うことはできない。そこで注意を外的な印である行為に向けるのである。しかし、これらの行為が印として考えられていることには変わりはない。賞賛是認究極の対象(=本来の対象は、行為を生みだした動機なのである。

 したがって有徳な行為はすべてその価値有徳な動機からのみ得るのであり、(行為は)ただ有徳な動機の印として考えられるだけであることは確かである

 この原則から私は次のように断定する。すなわち、ある行為に価値を与える最初の一番初めの有徳な動機はけっしてその行為の徳を考慮することではあり得ずある別の自然な動機もしくは原理でなければならぬということである(→下記の私の解説を参照してもらいたい)。

 行為の徳ただ考慮することが、その行為を生み、有徳にする最初の動機なりうる想定するのは循環論である。

 そういう考慮をなしうる前に、(一番初めの行為まず実際に有徳でなければならない

 したがって、ある有徳な動機そうした考慮先行しなければならない

 (→〔=ブログ作成者の解説:要するに、一般的に有徳な行為と言われる行為は、その動機が有徳であるから、その動機の印として有徳な行為と見なされる。

 つまり動機を推理して行為の徳性判断する

 であるから、自分や他者が、「どんな動機がどんな有徳な行為を生み出すのか」を既知の場合には、人間は、「この行為をすれば自分は他者から有徳な人物だと評価されるだろう」という意図的な動機で、その行為を行なうかもしれない。

 ところが、一番初めに、動機が未知の、ある行為が為される時には、その最初の動機が、有徳であるか否かを自分も他者も知らないから、一番初め行為動機だけは、「この行為をすれば、自分は他者から有徳な人物だと評価されるだろうという動機」では決してありえない

 ゆえに、その動機は、意図的でない自然な動機もしくは原理でしかあり得ない、ということ)

 要するに、疑えない基本原則として次のことが定められよう

 すなわち、いかなる行為も、その(最初の)行為を生む、ある最初の動機行為の道徳性についての感覚(=行為と道徳の間の既知の感覚)とは別個に(=関係なく別に)人間性のうち(=人間性そのものの中)にあるのでなければ、(ある最初の動機が)有徳つまり道徳的に善とはなりえない、ということである。

 そこで、これまでのことをすべて当面の正義の場合に当てはめてみよう。

 そうすると、正義の行為正直の行為に対して、正直を考慮するの(=正直〔有徳な動機〕と行為の間の既知の関係を考慮すること)とは別個にある自然的な動機見つけ出すことが必要となる。

 そしてこの点に大きな困難があるのである。

 なぜなら、もし私的な利害や評判対する関心がすべての(正義の行為、)正直な行為の(自然で正当な動機であると言われるのなら、その関心がなくなれば、(正義や)正直もはや(=その時点から)あり得ない(=無くなってしまう)ということになろう。

 (また、)そうではなくて、自己愛(=利己心)が(自然に)きままに振る舞うときには、正直な行為を行わせるどころか、かえってあらゆる不正義不正直の源となるのは確かなのである。

 ところが、もしそういう行為の理由もしくは動機が、公共の利益への考慮であり、不正義不正直の実例ほどこれ(=公共の利益への考慮)に反するものはない(→言い換えれば、公共の利益への考慮が正義や正直の動機であると主張されるならば、一般に次のように言えるだろう(→以下のヒュームの言説は、最初は違和感を覚えるが、やはり正しい)。

 すなわち、(公共の利益の中には、自分自身の利益も含まれるのであるから、それへの考慮が正義や正直の動機であると主張されるならば、)まったくの純粋な人類愛、つまり各個人の地位、職務、自分自身との関係といったものと関わりがない人類愛(=自分自身の利益全く関係がない人類愛のような、情念正義や正直の動機)は人間の心にはない存在し得ない)、ということである。(→この意味は、以下のヒュームの説明を、良く読めば解るはずである)

 たしかに、どんな人間でも、また実際、どんな感受力のある存在でも、その幸、不幸がわれわれの身近に置かれて、生き生きとした色合いで(=強い実感として)示されるときには、ある程度われわれの心を動かすのは事実である。

 しかしながら、こうしたことはただ共感からのみ起こるのであり、人類へのそういう普遍的な愛情の証拠にはならないのである。

 こうしたすべてのことから、“公平の法を守る”ようにする動機としてはわれわれは、“公平そのもの”と“これを守ること価値以外にはなんら真の普遍的な動機も持たないということになる

 そしていかなる行為もそれとは別個の動機から生じることができない(=動機の中に自分自身の利益を含む場合には公平なもの価値あるものなり得ないわけだからここには明らかにこじつけ循環論(=矛盾)がある

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 (〔=ブログ作成者の解説公平の法を遵守する」ことのみが、「普遍的価値正義」である。

 しかし、「公平」の中には他者と同様に「自分も含まれていなければ、「公平」とは言えない。

 ②ある人間P1自身がその構成員である集団N〔=例えば、国家人類などの集団。ここでは仮に集団L、集団M、集団O、集団P、集団Q、集団R、集団S、集団Tから構成される単一国家N〕を仮定しよう。

 この国家N集団Pに属する国民P1が国家N行政の長になって、N国のすべての国民〔=集団LMOPQRSTに属するすべての国民〕に利益を分配する政策を実現しようとした時、国民P1自身は国家Nの構成員であり、かつ集団Pの構成員でもあるから、国民P1すべての国民に対して「公平の法遵守して」利益を分配するように行為したと自分で確信していても、あるいは、国民P1が、他のすべての国民に対して「正義(=公平の法)に基づいて利益を分配した」と明言したとしても国民P1の政策国民P1の利益にも関係している限り、その「利益分配の結果」について「完全な公平」=「完全な正義」を実現できたとは結論できない

 このことは、社会国家が大きければ大きいほど社会国家を構成する国民の数が多ければ多いほど、ある利益集団の規模がが大きければ大きいほど一層そのようになる

 ①②を一般化して言えば、ある人間Aが、自分自身が集団Bを構成している一員である場合に、人間A集団Bすべての構成員に対して利益を分配するとき、人間Aすべての構成員に「公平の法を遵守して」利益を分配したと確信していても人間Aが「公平の法を遵守して利益を分配した」と他のすべての構成員に対して明言しても、つまり、人間Aが「正義に基づいて行為した」と確信していても、あるいは人間Aが「正義に基づいて行為した」と他の構成員明言しても人間Aの行為人間A自身の利益にも関係している限り、その「利益分配の結果」について「完全な公平」=「完全な正義」を実現できたとは結論できない、というパラドックス

 さらに、要約すれば、「公平の法遵守すること」が唯一の「正義」の動機であるから、その「正義」の動機に基づいて自分の属する集団のすべての構成員に「公平に利益を分配しようとしても、その利益分配行為自分自身の利益にも関係している限り、その「分配の結果」について、「公平の法正義遵守した」と結論できないという矛盾〔循環論〕に陥るということである。

 ※ここで、ヒュームの言う「公平」とは平等主義の「物質的平等」や「金銭的平等」の意味ではないことに注意。ヒュームの時代〔『人性論17391740年〕に平等主義の「平等」の概念は存在しない。

 平等主義平等は、ルソーの『学問芸術論1750年と人間不平等起源論1755以降であり、ヨーロッパの現実の政治(文明)社会に、それが実態のない蜃気楼のごとく、妄想的現われた発生源は、1789年フランス革命の「人権宣言」である。

 ヒュームの「公平」とは、

 1215年「マグナカルタ

 第六十条「さらに朕が朕の王国内で朕の下にある人々に対する関係において遵守すべきものとして許容した上記の諸慣習および諸自由は、朕の王国内の者は僧侶たると俗人たるとを問わずすべてかれらとその下にある人々との関係においてこれらすべてを遵守しなければならない」〔宮沢俊義ら編『人権宣言集』、岩波文庫、51

 第六十三条「このように朕は、イングランドの教会が自由であること、ならび朕の王国内の民が前記の自由権利および許容のすべてを、正しく平和に自由かつ平穏にかつ完全にかれら自身のためおよびその相続人のために、朕と朕の相続人からいかなる点についてもまたいかなる所においても、永久に保有保持することを、欲し、かつ確かに申し付ける」〔宮沢俊義ら編『人権宣言集』、岩波文庫、5354

 1689年「権利の章典」正式名称「臣民の権利および自由を宣言し王位継承を定める法律

 「僧俗の貴族および庶民は、・・・わが国民の完全なかつ自由な代表としてここに召集され、・・・まず第一に(かれらの祖先が同様な場合に行なったように)かれらの古来の自由と権利を擁護し、主張するため、次のように宣言した」〔宮沢俊義ら編『人権宣言集』、岩波文庫、81

 「すなわち、前記宣言中に、主張され、要求されている権利および自由は、その一つ一つが全部、わが国の人民の真正で古来から伝えられ疑う余地のない権利および自由であり、そのように評価され、承認され、判断され、思惟され、理解されなければならない」〔宮沢俊義ら編『人権宣言集』、岩波文庫、85

 等々の“英国法”の内容から解るとおり、“英国法の下の平等な自由と権利の保障という意味と、“祖先と現世代と子孫相続人の間の同等な自由と権利の保障という意味で捉えるのが正しいであろう。

 なお、エドマンドバークは、この平等主義の「平等」の危険性を透視し、その思想が「自由主義の英国に闖入するのを絶対阻止するため強力な論陣を張ったのである。

 そのため、「(英国の自由の保守主義の父」と呼ばれ、その代表的著作が不朽の名著フランス革命の省察』である。

 ゆえに保守主義とは真正自由主義のことを言うのである

20100629ブログ掲載】

 保守主義の哲学---保守主義(哲学)の神髄---711参議院選挙投票日までに必読の政治哲学(9)へ続く

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