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保守主義の哲学---ホイッグ主義の蘇生による社会主義の撃退が日本救国の道である(3)

―――――エドマンド・バーク保守主義―――――

―――――保守主義哲学の神髄―――――

 18世紀 英国の“ホイッグ主義”の系譜――バークマコーレーグラッドストーンアクトン卿ハミルトントクヴィルハイエクらの思想を正統継承する者こそ真正自由主義者真正保守主義者である

――ホイッグ主義蘇生による社会主義撃退日本救国の道である(3)――

―――(1)―2 落選した千葉景子の法相留任について―――

 次に社会主義者千葉景子が、自身の参議院議員選挙落選という選挙結果無視して、法相に留任したことについて一言。

 実態的には、管直人仙石由人の二名が

 ※ 極左優等生である社会主義者 仙石由人人物像については、以下を参考にされたい。

 (参 考)盟友ブログ:「真正保守政党を設立する」:“民主党の「出自」を正確に捉えなければならない。

 社会主義者千葉景子を法務大臣職に慰留したのであり、やはり精神的に正常でない反日社会主義者らにとって憲法民法刑法所管する法務省同族仲間据えておくことは、さぞ重要なことなのであろう。

 憲法に保障された参政権日本国民による行使結果である「政治家に対する国民の審判結果でさえ平気で無視できる人間が、民主党管直人政権に、最低3名いることは疑うことのできない事実だ、ということになる。正常な政府とはとても言い難いし、それに対して「おかしい間違っている」と主張する議員が若干名いたとしても、最終結果として阻止できない民主党の議員団も正常であるとは言い難い

 民主党とは「政治は結果がすべてである」、言い換えれば「失敗した結果については必ず責任をとる」という政治の基本原則について、普天間基地移設問題失政を経験しても、政権交代から1年がたってもさっぱり理解できない政治落第生のようである。

 しかも参議院選民主党惨敗責任取らなければならないという意志民主党内誰にも感じられない

 口頭では、「責任を感じる」と言いながら、全く行動しない。挙げ句の果てに、「現在の職務に、より一層専念すること責任を果たす」という小学生が聞いても首をかしげるレベルの非常識すり替え理論逃げようとする

 社会主義者千葉景子は、少なくとも「人権擁護法案」や「外国人参政権」を高らかに唱える最低限前提条件として、南北朝鮮人中共人民権利ばかり擁護せずに、まずもって、己の義務を果たすのが先ではないのか?

 ――――権利と義務の一体の原則について(ここから)――――

 選挙における権利義務関係は、〔=ブログ作成者〕が以前にブログで述べた「権利義務一体の原則」によって次のとおりである。

 (→「権利義務一体の原則」とは、ある日本国民Aが「国民Aの権利A1」を行使した場合、その権利行使結果に対する責任義務)は日本国民A自身負わねばならない、という「小学生でも、頭の中では理解できる」原則である。ここで、日本国民Aとは「責任能力のある成人日本国民」であることは言うまでもない)

 つまり、千葉景子の選挙区の場合、

 参政権選挙権)を行使(=投票行動)した日本国民は、それが千葉景子投票した国民であっても、投票しなかった国民であっても、その権利行使に対する結果、すなわち「他者当選し千葉景子落選した」という選挙結果遵守する義務を負うということである。

 逆に、被選挙権行使した(=立候補して選挙運動をし、自分への投票を訴える行為をした千葉景子は、自分の選挙運動の出来不出来や自分の選挙区の政治的環境の満足不満足に関わらず、「他者が当選し自分は落選した」という選挙結果遵守する義務を負うということである。

 つまり、われわれが、混同してはいけないことは、選挙区民の権利行使に対して千葉景子が責任を負わねばならないとか、千葉景子の権利行使に対して選挙区民が義務を負わねばならないという表現は、本質的には間違いであるということである。

 このように、「日本国民Aの権利行使の結果に対する責任/義務を、他者である日本国民B負う」という思考は、本質的には「責任放棄責任転嫁」の思考であり「権利義務一体の原則」に明らかに背反しているが、われわれは往々にして権利と義務の関係を混同し、権利と義務の主体所在)を分離するが、本質的には権利と義務の主体所在)は分離できず同一主体所在)である。

 本質的には同一主体所在)にある権利義務が、現実の様々な場面において、一見すると「日本国民Cが行使した権利に対して日本国民Dが義務を負うように見える、あるいは表現される」のは、日本国民Cを主体とする「一体としての権利と義務の行使C」が、日本国民Dを主体とする「一体としての権利と義務の行使D」が何らかの接点をもって相互に関係し合うからである。

 選挙の場合であれば、選挙区日本国民あるいは千葉景子は、それぞれ選挙権および被選挙権という互いに異なる権利の行使によって生じた選挙結果つまり「他者が当選し千葉景子は落選した」という同一の結果(=接点)を遵守する義務生じるということにおいて、両者の「一体としての権利義務」が相互関係し合うのである。

 ゆえに、「選挙区日本国民権利行使に対して千葉景子責任負わねばならない」という表現は、別個の主体が別個に所有する「一体としての権利義務」の接触による相互関係表象のみを捉えた表現に過ぎないであって、本質的には権利義務同一主体所在)の中で必ず自己完結するのである。

 〔=ブログ作成者〕は、この自己完結の原則を「権利と義務の一体の原則」と呼んでいるにすぎないのである。

 読者の皆さんは、一般的に「人権侵害」と呼ばれる「日本国民の権利の侵害」について考える場合は、常にこの原則照らして思考し、物事の表象のみ捉えた表現惑わされてはならない。このように思考すれば、他者一見正しく聞こえる人権侵害の訴え」も、「実は全く見当はずれである」ということが見えてくる場合が多いのである。

 ――――権利と義務の一体の原則について(ここまで)――――

 権利義務の関係の原則論について少しまわり道して説明したが、〔=ブログ作成者〕が言いたいのは、自己の権利行使に対する結果自己の義務果たせない千葉景子が、「他者の権利義務問題(=人権問題)」を論ずる資格など皆無であるということである。

 つまり千葉景子が「人権擁護法案」、「外国人参政権」、「夫婦親子別姓法案」、「死刑存続論または廃止論」について、言及すること自体が不謹慎であり、さすがに無道徳無責任社会主義者らしい傲慢不遜な態度である。

 上記のような悪法案、つまり日本国民個々人(=すべての他者)の権利義務問題あり方について恣意的変更を加え、悪影響及ぼすゆえの悪法案を、自分自身権利/義務もきちんと果たせないような千葉景子のごとき身勝手な社会主義者ら立法されたのでは、真正の日本国民にとって迷惑千万であるから止めよ、ということである。

 例えば、“真正の自由主義”=“真正の保守主義”の価値観では、“家”及び“家族”とは、“日本国法の支配 によって日本国民のために擁護保障された“自由”によって、日本国民各個が自らのために築いた他の誰も干渉することの許されない保護された領域であり、それぞれの家族祖先から継承した“伝統慣習

 (→例えば、礼儀作法言葉使いなどのしつけ)や育児名誉忠義克己清廉勤勉などの道徳家訓長幼の序信仰心家産やその他家族から学ぶ多くの教え

 若干つけ付言すれば、などを「呼称が古めかしい」と言う理由拒否される方がおられるなら、それらを自己修養同情責任友情勤勉勇気忍耐正直忠誠信仰などと表現してもよいが、日本固有の美徳を「呼称が古めかしい」という理由で拒否するのは誤謬であって、道徳とは“古めかしい呼称であるにもかかわらず、現在でもそれを解り易く丁寧に教えてもらえば理解できる納得できる”からこそ、それらの道徳は、“正しい価値”として賞賛されるのである。)

 を子孫継承ための大切な領域である。

 ここで真正の日本国民誤解してはならないことは、例えば読者の皆さん家族の中(→成人社会人になって社会の特定の集団に属した場合、その集団内においても全く同様のことが言える)で伝統慣習拘束されることを、真正の自由主義者は「自由を拘束される」などとは決して言わない言うのは根本的な間違いである認識するということである。

 なぜなら、日本国民が“自由”と“権利”を所有し、“権利自由に行使できるのは、“日本国法(=憲法)”によって擁護保障されているからであり、日本国民権利を自由に行使する時、この“日本国法(=憲法)”の擁護・保障する範囲外に及ぶような権利行使してはならない義務道徳が生じるのは当然の原理だからである。

 もし日本国民Aが“日本国法(=憲法)”の擁護・保障する範囲外に及ぶ程度の権利行使をすれば、同様に“日本国法(=憲法)”によって擁護・保障されている他の日本国民BCD・・・の“自由”と“権利”を必ず侵害することになる。これは、難しく考えなくても、「日本国民は、何の拘束制限もない放縦の自由行使し、好き勝手なことをしてもよい、それが自由と言うものである」となれば、強盗も「自由」、殺人も「自由」、・・・という「放縦の自由」となり、“自由”が成立しなくなるのは自明であろう。

 また、「他人に迷惑をかけない限り何をしても一切自由」という制限を付しても、「何が他人の迷惑になるのかならないのか判断するために、必ず判断基準を持つ必要が生じるであろう。その判断基準つまり価値観は、第一に家族の中で教わり身につける伝統慣習中にあるのであり、第二に特定の社会集団(=中間組織の中教わる規則などのルールの中にあるのである。

 ゆえに、伝統慣習およびさまざまな社会集団に属することによって遵守する必要が生じるルールは、決して自由を拘束するものではなく自由を自由であらしめるために絶対的に不可欠な根本原理であると考えなければならない。【20100822ブログ掲載】

 保守主義の哲学---ホイッグ主義の蘇生による社会主義の撃退が日本救国の道である(4)へ続く




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テーマ : エドマンド・バーク保守主義
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