保守主義の哲学シリーズⅠ-2 (6)‐‐‐バーク保守主義、ベンサム理論を抹殺す‐‐‐その四

⑦ベンサムの男女平等観(男女平等の選挙権)

 最高構成権力をもつ人民の選挙権の基準について、ベンサムは言う、

 「当該構成権力がひとしく、当該社会のあらゆるメンバーの掌中にあるならば、そのそれぞれの個人的な諸利益の総計それ自体が普遍的利益となる

 「二つの例外がある。その一つは、年齢における未成熟性である。もう一つは、学問・芸術、つまり、学問的適性能力における欠落ないしは不充分さが認められる者である。この学問的適性能力を欠く者は、選挙に際して、立候補者が最高作動権力の担い手としてのふさわしい総合的な適性能力を有しているか否かについて判断することができないからである」

 前者の年齢について、ベンサムは「各国の慣習で決定するのがよい」「イギリスでは二十一歳である」としている。

 後者の「学問的適性能力」とは、「読む能力」と「自身の氏名を書ける能力」のみであると言う。

 さらに女性の選挙権について、ベンサムは言う、

 「男性とちがえる必要はない。なぜならば、女性という人々が社会のメンバーではないということはありえないからである。もしかれらの幸福が社会の普遍的幸福の一部分を構成していないとすれば、彼らの利益は社会の普遍的利益には含まれていないことになる。これは、女性たちがかれら自身の利益を損なうことなく、彼ら自身の行為に方向性を与えうる能力(=社会の普遍的利益を追求する能力)がないという誤解を与えかねないものであろう。知的能力に関して、この人類の半数を占める女性たちが、その適正能力において、男性よりも劣っているとみなされる理由はなにもない。経験の示す限りにおいては、作動権力の最高の地位(=君主)に関しては男性よりも女性に軍配がある。二人の男性君主の時代にではなく、エリザベスとアンという二人の女性君主の時代に、イングランドは栄えたのである」

➡ベンサムが普通選挙女性参政権の必要性について19世紀前半に既に言及していたことについてはその先見性を率直に認めたい。英国で女性の参政権が認められたのは20世紀第一四半期頃の1928年だからである。しかしその必要性の理由については、極めて疑問が多い。

 第一に、選挙権を社会のすべての市民に与えれば、その社会の普遍的利益を最も正確に集約する手段となるという虚構である。ベンサムの人間本性である「自己利益優先性」を前提とすれば、選挙権の行使とは、主目的個人的な諸利益追求権の行使であり、従属的目的として社会の普遍的利益追求権の行使とならざるを得ないはずである。しかし、ベンサムは個人的な諸利益の総計それ自体が人民の普遍的利益となると言う。この誤謬は簡単に証明できるのであって、例えば自由主義社会(ベンサムは自分の理論を自由主義理論と言っているので)において、二大政党制の場合、敗北した政党を支持した諸個人の利益は普遍的利益にとって害悪であるとして棄却されるからである。

 例えば勝利政党と敗北政党の得票率が6:4の時国民の4割の求める利益は無視され、棄却されるこれをもって国家の「最大多数の最大幸福」の目的が達成されると言えるのであろうか?つまり、普通選挙権の必要性を国家の普遍的利益の増大とするのは、明らかな誤謬の論理である。

 第二に、選挙権を認めない二つの例外を挙げている。①年齢における未熟性つまり、未成年者は選挙権を認められない、である。これは、成人を何歳に設定するかの問題はあるとしても、もっともな話であろう。つぎに②「学問的適性能力」における欠落ないしは不充分さが認められる者である。

 ここでベンサムは「学問的適性能力」として「読む能力」と「自身の氏名を書ける能力」のみを挙げている。

 読者の皆さんの中には、たったそれだけ?と思われる人も多いと思うが、これが19世紀の英国ではかなり厳しい基準だったのである。ある国の全国民のうち、読み書き能力のある人口の比率を識字率という。ベンサムはまさに「最低ラインの識字能力」を「学問的適性能力」の基準としているのだが、19世紀中頃の成人男性の識字率はある資料によると、日本70%ロンドン20%パリ10%であったというから、このベンサムの基準は、彼の言う「当該構成権力(=選挙権)がひとしく当該社会のあらゆるメンバーの掌中にあるならば、・・・」という条件と明らかに矛盾している。

 この「学問的適性能力」基準によって多くの国民の選挙権が剥奪されるのである。なお、幕末に日本を訪れた外国人は皆そろって、日本人の識字率の高さに驚いたという話である。

 第三に、ベンサムは、女性の参政権の必要性について、女性の「普遍的幸福」とか、「普遍的利益」を理由としてあげる。ベンサムの言う「普遍的利益」は「すべての(全)人民の利益」を意味し、「最大多数の利益」を意味しない最大多数の利益」つまり、「最大多数の利益」と競合する「少数者の利益を邪悪な利益として排除すること」を指す場合は、「最大多数の幸福」という言葉を使う。これは、ベンサム自身が以下のように述べている。

 ベンサムは言う、

 「幸福という言葉に代えて、利益という言葉が用いられる時は、普遍的利益という言葉は、すべての人々の利益に関するものとして用いられるものであって、最大多数の利益という意味ではない

 とすれば、上記の「普遍的幸福」とは「最大多数の幸福」の誤りであろう。 

 しかし、いずれにしても、ベンサムは女性も、男性と同じく自分自身の「特殊利益」を損なうことなく「最大多数の幸福」、「全人民の普遍的利益」を実現する能力があるのだから女性にも選挙権を与えるべきだと言っているのである。

 これを裏返して言えば、ある「個人」が追及する「特殊利益」が、社会の「最大多数の幸福」または「全人民の普遍的利益」を損なう場合には、その個人(男性でも女性でも)には選挙権は与えるべきでないということである。このような発想は全体主義的発想であって自由主義社会ではあり得ない発想である。

 例えば、自由社会の個人は、自己の幸福や利益追求が、最低限の道徳基準や法律や憲法に抵触していないかどうかを判断して行為するとしても、「全人民の普遍的利益」にかなっているかどうか、など考えて行為しないし、そもそも「全人民の普遍的利益」が何であるのかさえ特定できない。様々な社会問題1,2,3、4・・・に対して、諸個人A,B,C,D・・・の考え方はそれぞれ異なるのであって、「全人民の普遍的利益」など存在しない。そのようなものは明らかな「机上の理性の妄想」である。

 そのような「全人民の普遍的利益」が諸個人では判断できないからこそ、定期的に「選挙」を行って、その選挙の結果を「国民の多数意見」として「国民」は知ることができ、「国会議員」は達成すべき「政治目標・目的」とするのではないか。

 その場合、より多くの国民に「選挙権」を与える方が「より多くの国民の多数意見」として反映されるので、「普通選挙」とするのである。女性に参政権を与えるのも「女性の意見の多数を国政に反映させるため」である。これが、自由社会の「普通選挙」へ至る歴史事実ではないか?

 注意すべきは、「普通選挙権」はフェミニストが言うような男女平等論によるのではなく、両性の“法の下の国民の権利の平等”論から発したものだ、ということである。

 バーク保守主義のみならず、「両性の本質的平等」などという、生物学的・医学的観点からも「妄想」である概念を正しいと唱えるのは、フェミニスト団体関係者以外、世界中にどこにも、誰もいない。

 であるのに、日本国憲法第二十四条第二項はこれを規定している。このような条文が憲法にあること自体異常である。世界の嘲笑の的である 。

 一言でまとめれば、ベンサムの「選挙権」は先に「最大多数の幸福」「全人民の普遍的利益」という「普遍的政治目的」が決まっていて、それを忠実に実行する国会議員を選出し、その国会議員が「先に決定されている政治目的」を守っているかを「監視する」ための「選挙権」である。女性への参政権付与も国会議員の監視人を増やすための目的である。

 また、女性の参政権付与に関して、女性が男性に対して「知的能力」で劣っているとみなされるべき理由はないことをあげている。

 そして、その理由として、経験上、二人の男性君主より、エリザベス女王とアン女王の時代にイングランドは栄えたからであるという。

 しかし、そもそも「知的能力とは、学問の自由の下での諸個人の努力の結果の問題であって、女性であるからとか男性であるからという次元の問題ではない

 ベンサムの論理では、全女性の平均的知的能力が全男性のそれより劣っていない理由を、彼自身が最も嫌悪し、罵倒し、廃止すべきだとする、君主を取り上げて、「二人の男性君主」の時代より二人の女性君主」の時代の方がイングランドは繁栄したからだとする。なんとお粗末な論理であろうか。

 男性君主二人と女性君主二人、それも「ベンサムが意図的」に選んだ「君主四人」のみを比較の比較において、全女性と全男性の平均的知的能力の比較とする。呆れてものも言えない。

 しかも「君主制」は、君主が邪悪な利益(=君主一人の最大幸福のみ)を追求して、人民の邪悪な犠牲を最大化する制度であり、絶対君主制であれ、制限君主制であれ、さらには、人民の代表機関を伴う混合君主制であっても、害悪以外の何物でもない、としてかれ自身が徹底批判しておきながら、「エリザベス/アン女王の時代にはイングランドは繁栄したと言っている。

 一言で言えば、ある程度の社会的教養と一般的知識を教育され、精神的にもある程度成長しただろうとみなされる、成人年齢(=各国が定める)に達した国民は、男女ともに、その「知的能力」に無関係に選挙権は与えられてよいのである。なぜなら、その選挙権の行使の結果が、すなわち国政選挙の結果が、その国民の、その時点での「知的水準」として必然的に現れるからである。

 そのように、選挙権行使後に必然的に結果として表れる「知的能力・水準」をベンサムのように選挙権行使以前に、「選挙権付与の基準」にして峻別し、選挙権の有無を決定すること自体がおかしいのである。

  ただし、選挙権行使の結果現れる国民全体の「知的能力・水準」つまり選挙結果については、国民は義務を負わなければならない。つまり国民が自ら示した「知的水準」によって選ばれた政府が行う政策について、国民は選出義務を負う。選挙後に公約違反だ騙された、といくら政府を罵倒しても、ある政党や候補者の「公約に騙されるのも、国民の知的水準の結果」であるから、次回の選挙が訪れるまでは、国民はその政府の政策に従う義務しかない。国会議員、政府及びその政策をとりかえる権利は国民にはない。国会解散権は内閣総理大臣しかもっていないこのことを国民は周知しなければならないだろう。

 しかし、国民の間に、甚だしい誤解や無知が異常な勢いで横行している時に、政権を奪いたいがために、その国民の世論をそのまま受け入れ、これを熱心に実行しようとするならば、その政治家は、単に国民の雇用者に堕し、国民に害を与えるだけで役にはたたない。政治家たるものは、国民を指導し、国民から指導されないようにするのが、指導的政治家の責務であることを忘れてはいけないのである。現在の日本のように、政治家たちが、民衆の人気に頼っているという場合には、この教訓は守りにくいことは言うまでもない。したがって政治家は厳に自制することが必要である。

⑧ベンサム貴族院(貴族)観

 ベンサムは、立法・行政・司法の権力分立論を一貫して否定している。

 ベンサムは言う、

 「最高作動権力(立法権力、行政権力、司法権力)は、一体のものであって、分割することはできない。そのメンバーのすべては、同時にかつ、同一の場所において活動する。・・・なぜならば、分割することによって、さまざまの形の害悪がつくり出されるであろうからである。分割することによって善いものがつくり出されることはない。・・・分割されてゆくにつれて、その害悪はますます増大してゆくであろう。害悪とは、①停滞、②複雑化、③損失、これらの害悪はすべて取り返しのつかないものである。・・・」

 このような、ベンサムの思考においては、必然的に、議会は「一院制」しかあり得ないこととなる。特に第二院が「貴族院」=「貴族で構成」であることは、さらなる害悪を生むし、あってはならない、という。

 ベンサムは言う、

 「二院制のそれぞれの議員が社会の犠牲において俸給を受け取るならば、そのような俸給が多額になればなるほど、公衆に対する損害はますます大きくなる。俸給も、それゆえ、損失も、その必要がないにもかかわらず、慣習によって支払われるようになり、裁判によってその必要性が証明されるまでは不可避的なものとなるであろう」

 イングランドの貴族院は、君主によって設立され、存続してきた。それは、君主にとって必要性という圧力があったからである。なぜならば、君主の掌中には、君主自身の権力に人民を永続的に服従させうるに充分な手段が欠けていたからである

 「このような最高作動権力の二院制は、特殊的な利益と邪悪な利益を温存しようとするものであって、これは普遍的利益と敵対的に働いていた」

 「人間社会の中に特別な階級がつくられるだけではなく、特殊的にして邪悪な利益を共有する階級がつくられることは、普遍的利益と永続的に敵対する状態をつくることである。それは、このような特権階級に対する非特権階級的人民一般のやり場のない憎悪と軽蔑の対象になってゆくのである」

 (特権階級と非特権階級が分裂した国家では)一方が命令し、他方が服従する。一方がすべての利益をわがものとし、他方は絶望的悲惨に陥る

 このような、ベンサムの貴族観が、当時の英国民の貴族観であったとすれば、現在の英国になぜ、立憲君主制と貴族院が存続しているのであろうか?彼の貴族観に対しては、反論する気も起らないし、うんざりするので、ベンサムとほぼ同時代のウォルター・バジョットの『英国憲政論』における貴族観をもって反論としておく

 バジョット曰く、

 貴族院――むしろ貴族というほうがよい――の威厳の力は、非常に大きな効用をもっている。かれらは、君主ほどの尊敬を受けてはいないが、やはり相当大きな尊敬を受けている。貴族階級の役割は、一般民衆の心の中になにものかを植え付けることである。植え付けるものは、必ずしも虚偽ではなく、いわんや有害なものでもない。貴族は民衆の鈍重な想像力に、貴族であればこそといえるような、なにものかを植え付けるのである。大多数の人間の空総力は、・・・貧弱である。・・・目に見える象徴がなければ、なにも理解できない。・・・貴族は、知能の象徴である。・・・大多数の者は、・・・現在もやはりそのように考えている

 「なお、貴族階級は、服従感覚をつくり出すだけではなく、それを防止することでも大いに役立っている。貴族は、富の支配すなわち、黄金崇拝を防止している。がアングロ・サクソン人の偶像であることは、疑いのないところであり、またそれは当然と言える。・・・しかし、多くの国において、富の崇拝は適度をはるかに通り越している。・・・単に巨富そのものをうらやましがり、愛好するのである。ところがイギリスでは、貴族制度がこのようなことを防いでいる。『気の毒なことに、百万長者がイギリスほど不自由に暮らしている』国はどこにもない。・・・財力とは違った別の優勢な権威によって富が押さえつけられているのである。いな、脅迫されている、と言った方がよい。・・・黄金崇拝地位の崇拝も同じである、といわれるかもしれない。かりにこの理屈を認めるとしても、やはり二つの偶像をもっていることは、社会にとって非常に結構なことである。偶像崇拝の競争をすると、本物の方が勝利を占めるからである。しかし、地位の尊敬、少なくとも世襲的な地位の尊敬が、黄金崇拝と同様に卑しいというのは当たらない。これまでの経験によると、礼儀作法は、ある身分層(=世襲貴族層)では半ば世襲的に受け継がれてきている。礼儀作法はすばらしい芸術の一つである。それは、社会の品格を示すものである。・・・を尊敬することによって、人間ではなく人間の付属物を尊敬しているのである。世襲貴族を尊敬することによって、貴族が所有していると思われる偉大な能力――貴族の持っているなにものかを示す能力(=気品と礼儀作法)――を尊敬しているのである

 このパラグラフの最後で、バジョットが言いたいことを少し補完しておくと、「貴族階級でなくても気品ある生活を送っている人間は沢山いるだろうし、礼儀作法をよく心得ている人間もどこにでもいる。しかし、その『気品ある』とか『礼儀作法を心得ている』とか言う時のその『気品』『礼儀作法』の基準はどこから発するのか?と問えば、それは当然『貴族階級』の中から発するのである」ということを言っているのである。

 二院制についてバジョット曰く、

 「一般的にいって、完全な下院(庶民院/衆議院のことであるが、以後、衆議院で統一する)ができると、上院はほとんど無用になるというのは確かである。イギリスにおいても、完全に国民を代表する理想的な衆議院ができて、常に節度を守り、感情に走らず、政治に専念できる余暇をもった人材を擁するようになるなら、また、遅くとも確実に手順を踏んで熟慮することを忘れないようになるなら、上院のごときものは必要でなくなることはいうまでもない。衆議院の任務は立派に遂行されるので、監視や修正のための機関などを必要としなくなるのは当然のことである。・・・しかし、現実の衆議院を見ると、修正機能をもち、また政治に専念する第二院を並置しておくことは、必要不可欠とはいえないにしても、きわめて有益であるといえる。現在のところ衆議院において、・・・多数派は、意のままに法律をつくることができる。もちろん大問題については、衆議院全体は非常に忠実に世論を代弁している。また、小さな問題についても、その判断は議院構成上の隠れた長所によって、驚くほど妥当かつ正確である。しかし、突然団結して利己的な行動に出る危険性がある。これはこの種の議院にはありがちなことである。・・・つまり、邪悪な利欲に駆られた恐るべき勢力が、何かの機会に、しばらくの間衆議院を完全に掌握する可能性が常に存在している。したがって、衆議院と対抗する性格をもち、これと構成を異にし、邪悪な勢力が支配するような可能性を根絶する第二院を設けることは、きわめて必要であると言える

 このパラグラフで、バジョットが言いたいことは、完全な下院(衆議院)などあり得ないし、現実の衆議院を見ても、そのような可能性は見当たらない。それどころが、逆に、衆議院の方が「邪悪な利得」に駆られた勢力に突然支配される可能性を孕んでいる。よって衆議院と構成を異にする貴族院は極めて必要なものである、ということである。

 さて、みなさん、ベンサムバジョット。貴族院及び貴族について、どちらの認識が適確であり、事実に即していると思いますか?

⑨ベンサムは言う、「君主正統性理論は空理空論である」

 ベンサムは言う、

 「あらゆる君主制には正統性がある。これを別言すれば、君主制以外には正統性のある政体はない、ということである」

 「なぜ何百万もの人々が、一人の人間(=君主)の意志と快楽のために苦しめられなければならないのか」

 「君主制においては、君主の最大幸福がその君主の見解によれば、国家の唯一正しい固有の目的となる。この君主の見解によれば、その君主の最大幸福が、一人を除くその他のすべての人々の最大幸福をあらゆる場合において犠牲にすることを要求しても仕方がないのである」

 「(君主は)神の代理人、もしくは神の現実的表象」(=王権神授説 「最高権力は、・・・当該社会のメンバーの最大多数の最大幸福高度に貢献すべきものである。それは一言でいえば、代理民主主義ないしは代表制民主主義となる。それは代理人(=人民の代理人)によってなされる民主主義となる」

 第一にベンサムの時代(19世紀)の君主制の正統性」は“”“コモン・ロー”の世襲の原理を明文化した1689の「権利の章典」(正式名称:「臣民の権利と自由を宣言し,王位継承を定める法律」)に基づくものである。

 この「権利の章典」の中で、臣民は、「(かれらの祖先たちが同様な場合に行ったように古来の(世襲の)自由と権利を擁護し,主張するため、次のように宣言する」とし、13項目を列挙している。また、「・・・オレンジ公殿下が、・・・僧俗の貴族および庶民が個々に主張したその諸権利の侵害、およびその宗教、権利、自由を侵そうとする他のすべての企図からかれらを護るであろうことに全幅の信頼をおいて、・・・つぎのように決議する。すなわち、オレンジ公および女公であるウィリアムとメアリは、・・・国王および女王となり、かれらの在世中・・・王冠および王位を保有するものとし、かつその旨宣言される。・・・王権は、公および女公の名において、前記オレンジ公が単独かつ完全に行使するものとし、公および女公ののちは、・・・王冠および王位は、女公の自然血族たる直系卑属の相続人に伝えられ、このような直系卑属のない場合には、デンマークのアン女公(メアリの妹)およびその自然血族たる・・・相続人に、またこのような(アン女公の)直系卑属のない場合には、前記オレンジ公の自然血族たる・・・相続人に伝えられるものとする」として臣民の権利が受け入れられ、擁護される時は、国王の王位とその世襲継承を承認するとしている。

 そして「私何某は,ウィリアム国王陛下およびメアリ女王陛下に,忠実であり,真実なる忠誠をつくすことを、誠意をもって約束し,宣誓します。神にかけて。」と臣民自ら国王への忠誠を誓っている臣民が承認した、実に明快な「君主(王位)の正統性」ではないか。

 また、「私、何某は、教皇またはローマの教皇庁当局によって破門または廃位された君主は、その臣民その他いかなる人もこれを退位せしめまたは殺害し得るという、いまわしき教義および見解を邪悪かつ異端なものとして、心から嫌悪し、憎悪し、かつ廃棄することを宣誓します。また、外国の君主、要人、高位聖職者、国、または主権者は、わが国においては、いかなる裁判権、権力、至上性、優越性、または教会もしくは宗教に関する権限をも有せず、また有してはならないことを宣誓します。神にかけて」と臣民が暴力によって君主に退位をせまったり、君主を殺害したりする行為を嫌悪し、憎悪し、かつ廃棄することを臣民の側から宣誓している。

 この立憲君主制のもとでの衆議院の代表制民主主義こそが、真の「正統性のある政体」である。

 第二に法の支配」及び「立憲君主制」が確立していた、ベンサムの19世紀英国の時代に「何百万もの人々が、一人の人間(=君主)の意志と快楽のために苦しめられる」とか、「その君主の最大幸福が、一人(=君主)を除くその他のすべての人々の最大幸福をあらゆる場合において犠牲にすることを要求しても仕方がない」などという偏見は、時代錯誤も甚だしく、明らかな謬論である。君主に対するベンサムの個人的怨念か、王制廃止の目的の国民への煽動としか思われない(フランス革命のシェイエスを思わせる)。少なくとも英国臣民(国民)の一般的な君主観とはかけ離れている

 第三に、「王権神授説」について。 近代的な「主権」の概念はフランス人のジャン・ボーダン153096年)の『国家論六巻』(1576年)をもって発祥とする。

 ボーダンが「主権」という国権の最高性を理論化したのは、フランス王国が、「対外的」には、神聖ローマ帝国とローマ教皇の教会権力に対して独立の地位を有する国家として確立することを目的とするためであったし、「対内的」には、カトリック対カルヴァン派(ユグノー)の宗教内戦と地方の封建領土への過激な分権化に翻弄されるこのフランス王国の国内統一のために、国内の諸侯に対する君主の絶対優越性を正当化する必要からであった。そしてこのボーダンの理論から、「対外的」には、国際法上の「国家主権」、「対内的」には国内法上の「君主主権」の概念が成長していったのである。

 しかし、このボーダンの国内法上の「君主主権」は君主に封建諸侯が服従することによって国内の秩序安定を図る目的で使用した用語であり、「王権神授説」などを全く意味していない

 フランスについて言えば、対外的に独立が達成され、しかも国内的にも法秩序が整備されて繁栄に向かって進展する「近代国家」となった時、具体的にはウェストファリア条約(1648年)をもって、無用の長物と化した対内的な主権論の方は直ちに廃棄すべきであった。「主権論の父」ボーダンが生きていればそうしただろう。

 ところが、人類にとって不幸なことに、1718世紀の「君主主権」論が、「朕は国家なり」と権力を振るう太陽王ルイ十四世への軽佻な追従にすぎない、「全国家は君主一身のうちにある。・・・全人民の意志も彼のうちにある・・・」(ジャック=ベニーニュ・ボシュエ)などの未開で前近代的な王権神授説」の流行によって堕落したことであった。

 君主の地位は「自生的秩序による地位」=「歴史上の必要性から自然発生し、それが、世襲(相続)によって連続し、成長してきた秩序による地位」であって、日本の天皇のように「万世一系という二千年に及ぶ連続的な歴史的経過そのことにこそ、その地位の正統性が存在し安定していくもの」である。

 不要となった「君主主権」の概念を早急に「廃棄」すべきであったのに、それに逆らい、その正統性の根拠まで歪曲したボルシェらの罪は重罪である。

 「主権1617世紀に不安定な政治権力の構造を統一的に再編したように、政治権力の構造を変革する「力」がある。しかしその「力」は安定や秩序もつくれば、その逆の破壊もする「両刃の剣」である安定的で変革が不必要な時には、「主権」はその政治社会にとって危険な凶器になる。

 結論としては、少なくともベンサムの時代の19世紀においては、英国臣民は、君主の正統性について、「王権神授説」に基づくものとはいささかも思っていない。世襲(相続)による正統性」であると考えていた。

 この時代に君主の正統性を「王権神授説にあるから空理空論だ」と考えていたベンサムの言説自体が「最大の空理空論」である。

 第四に、ベンサムは、「最高権力は、・・・当該社会のメンバーの最大多数の最大幸福高度に貢献すべきものである。それは一言でいえば、代理民主主義ないしは代表制民主主義となる。それは代理人によってなされる民主主義となる」というが、君主の権力も議会(貴族院と衆議院からなる二院制)も「権利の章典」を含む不文憲法に制約されていた立憲君主制の英国は、英国から独立した米国と並ぶ世界最先端の自由主義国であった。

 この立憲君主制を廃止してまで、君主も貴族も除いた、一般庶民たる大衆からのみ構成される、全人民の完全平等主義である代理民主主義」ないしは「代表制民主主義」に政治制度を「改革」「変更」「革新」すれば、本当に「最大多数の最大幸福」が実現できるのか全くのデタラメにしか思えない。そんなことをすれば、英国は、現在の北朝鮮のような、「最貧困の平等主義国」に転落したであろう。

 つまり、ベンサムが言う「代表制民主主義」の「全人民平等主義」が「最大多数の最大幸福」を実現できないとすれば、「人民主権」の民主主義つまり人民民主主義国人民共和国などの「正統性」などはまさに「空理空論の最たるもの」であろう。 事実、現在から過去を振り返ってみても、「平等主義」の「社会主義国」で「人民の最大多数の最大幸福」が実現された国などただの一国もない。

 レーニン/スターリンのソ連、ソ連支配下の東欧、毛沢東時代の中国、金日成/金正日の北朝鮮、ポル・ポトのカンボジア、ホー・チ・ミンのベトナム、・・・これらの国々の人民は、「最小幸福」どころか「最悪地獄」であった。 

 これらの国々の政権下で殺戮された人民の数は総計2億人と言われている。

 この事実をみなさんよく覚えておいて欲しい。極端な「平等主義」を唱える政党が国家の政権を握ると、それが「人民民主主義」と呼ばれようと「人民共和国」と呼ばれようとその国民は、「最貧困の平等かつ自由ゼロ」「国家による国民の大殺戮」このツーペアを必ず経験することになるのである。

(紙幅及び字数制限によりその五へ続く。)

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