保守主義の哲学---ホイッグ主義の蘇生による社会主義の撃退が日本救国の道である(13)


―――――エドマンド・バーク保守主義―――――

―――――保守主義哲学の神髄―――――

 18世紀 英国の“ホイッグ主義”の系譜――バークマコーレーグラッドストーンアクトン卿ハミルトントクヴィルハイエクらの思想を正統継承する者こそ真正自由主義者真正保守主義者である

ホイッグ主義蘇生による社会主義撃退日本救国の道である(13)

 ―――FA・ハイエク『隷属への道』(ハイエク全集Ⅰ-別巻)、春秋社、7374頁(ここから)―――

 誰もすべてを包括する価値尺度はもつことができない。つまり、入手可能な資源を競って求めようとしている、人々の無限なまでに多様なニーを、完全に把握し、それぞれ価値づけを与えることは、どんな人間にもできない、と指摘するだけでは不十分であろう。

 また、今問題にしていること(=誰も、すべてを包括する価値尺度はもつことができないという問題)に関するかぎり(→ハイエクは、「この問題に限定して考察する場合に言えることは」と限定していることに注意)、その個人が実現しようとしている目的が満たす(=満足させる)のは、自分だけの(=利己的な)ニーズなのか、身近な人々の(=利己と博愛の中間的なニーズなのか、あるいはもっと一般的な人々の(=博愛的な)ニーズなのか、ということ―――つまり、彼がいわゆる「利己的」か「愛他的」か、ということ―――もさして重要なことではない

 (→例えば、極左哲学者Jベンサムの「最大多数の最大幸福」的な目的基準でさえ、その基準が唯一単独価値序列化の尺度になるわけではない、ということ。なおベンサムについては、本ブログ:「バーク保守主義、ベンサム理論を抹殺す」を参照のこと)。

 きわめて重要なことは、どんな人間であろうが限られた分野以上のことを調査することや、ある一定の数以上のニーズがどれだけの緊急性を持っているか考慮することは不可能であるという基本的な事実である。

 自分の物質的な必要にしか関心のない(利己的な)人であれ、すべての人間の福祉に熱い関心を持っている(博愛的な)人であれ、(その人独りで考慮できる目的の数は、(その人独りが考慮しきれない全人類のニーズ全体に比べれば、極めて微小な一部にすぎないのである

 (→計画主義者である社会主義者の思想的欠陥はすべて、このような基本的事実を理解できないこと、つまり自分の目的全人類の目的であると考える極端な傲慢と無知から発していると言って問題なかろう)。

 まさにこのことこそ、個人主義全哲学よって立つところの、基本的な事実である。

 個人主義哲学は、通常言われているように、「人間は利己的であり、またそうであらねばならぬ」ということを前提としているのではなく一つの議論の余地のない事実から出発するのである。

 それは、人間の想像力には限界があり自身の価値尺度収めうるのは社会の多様なニーズ全体一部分にすぎないということである。

 また、厳密に言えば、価値尺度は各個人の心の中にしか存在しないから、常に部分的なものであり、それぞれの尺度は、決して同じではありえずしばしば衝突しあうものとなる、ということである。

 だからこそ個人主義は、ある範囲内で(→この「ある範囲内」という限定極めて重要となる)個人は、他者ではなく自分自身の価値観や好みに従うことが許されるべきであり、その範囲内では、自身の目的体系が至高であって、いかなる他者の指図の対象ともされるべきでない、と結論するのである。

 個人主義の立場の本質を形成しているものは、このように各個人こそ自分の目的に対する究極的審判者であるとする認識であり、各個人はできるかぎり自身の考えによって自身の行動を左右していくべきだという信念である。

 この考え方は、もちろん「社会的な目的」を認めないということではないし、よりふさわしく言えば、協力して追求した方が望ましいような、個々の目的の一致がありうること認めないものでもない

 だが、そういう共同活動は、個々の考えが一致する場合にのみ限定されるべきだと主張する。

 つまり、個人主義にとっていわゆる「社会的目的」は、多くの人間が一致した目的、すなわちその達成のために喜んで貢献しそれと引き換えに自分の欲望も満足させられるというような目的でしかない。

 したがって、共同活動は、共通の目的に関して人々の意見が一致した場面のみ限られることになる。非常に多くの場合、これらの共同目的は、それぞれの個人にとっては最終的な目的ではなく、それぞれの異なった目的を達成するために使用する手段である

 事実、共同目的究極目的でなく、極めて多様な目的の達成に役立つ手段である場合にこそ人々は共同活動に合意するだろう。

 ※〔 〕内:翻訳者の補足、( )内:〔=ブログ作成者〕の補足

 ―――FA・ハイエク『隷属への道』(ハイエク全集Ⅰ-別巻)、春秋社、7375頁(ここまで)―――

 →〔=ブログ作成者〕の解説:上記の二つのパラグラフを正確に読解すれば、“真正自由主義”=“真正保守主義”の主張する“個人主義”の概念とは、“集産主義である社会主義共産主義国家社会主義ファシズムなどの全体主義に対峙して、個人の自由擁護保障する概念”であって、一般に言われる「利己主義」とか「自己中心主義」を意味する「個人主義」とは似て非なる概念であり、後者の「個人主義」をハイエクが「偽りの個人主義」と呼ぶのも明確に理解できるであろう。

 ここで重要なことは、“個人主義”の主張する「各個人の目的体系が至高であって、いかなる他者の指図の対象ともされるべきではない」とか「各個人こそが自分の目的に対する究極的審判者」などの“価値観”をして「利己主義ではないか」とか「自己中心主義ではないか」と解釈するのは全くの誤解である。

 なぜなら、ハイエクが述べているとおり、各個人がこれらの“価値観”を行使できるのは、“ある範囲内に限定されているのであって、いかなるルールにも拘束されないということを全く意味しないからである。

 このことは、例えばサッカー野球などのスポーツ競技全般を想定すれば容易に理解できるのではないか。

 いかなるスポーツの選手も、個々のスポーツ競技における“固有のルール(=規則)”に必ず拘束されるが、その“ルールの範囲内”で、何某のチームに勝利することを目標にするとか、自己記録をどこまで伸ばすことを目標とするか、などの自己目標目的)を設定することは各個人の自由であるし、その目標目的)ために行なうトレーニング方法トレーニング時間の配分などの計画を立てることも各個人の自由である。

 実際に、競技本番においても、ルールの範囲内において、攻撃・守備の作戦などは個々人が自由に計画して良いのである。

 すなわち、“真正自由主義”=“真正保守主義”の“価値観”である“個人的自由”あるいは“個人主義”とはこのような概念を社会全般の事象に拡大適用したものと考えればよく、各個人の“自由”とは“国法の支配”・“立憲主義”というルールの遵守という枠内でのみ有効な“自由”を意味するのである。

 さらに付言すれば、“国法の支配”・“立憲主義”というルール遵守することは、実際には法律等によって遵守を強制されるのであるが、本質的には各個人の「ルールは遵守しなければならないするものである」という自己に課する責任観義務観つまり、道徳観によってのみ実効性・有効性が生ずるものである、ということは容易に理解できるであろう。

 これをエドマンドバーク保守主義では、“道徳と一体の自由”とか“自由と道徳は一枚のコインの裏表であって切り離せないもの”などと呼び、さらにこの“道徳と一体の自由”が世襲の原理によって後世代まで継承されていく時、徐々に“美徳ある自由”に昇華するであろうと考えるのである。

 逆に言えば、“国法憲法”のみは、各個人の“個人的自由個人主義擁護保障する根本原理であるから、これは個人の自由な意志によっても改変変革できないしてはならない絶対的普遍的価値”であり、改善改良のみ許されるということを意味するのである。

 ハイエクは、“法の支配”の“”を次のように定義している。

 「当局の恣意的な活動を禁ずる一般的・形式的なルール」(FA・ハイエク『隷属への道』ハイエク全集Ⅰ-別巻、春秋社、93

 「『形式的な』法ないし正義」(FA・ハイエク『隷属への道』ハイエク全集Ⅰ-別巻、春秋社、94

 「形式的なルールは、しかじかの状況―― 一般的な言葉で説明でき、特定の時間や場所の指定をしないものでなければならない ――で、政府はどう行動するかを、人々に前もって示すものである」(FA・ハイエク『隷属への道』ハイエク全集Ⅰ-別巻、春秋社、94

 「あらゆる恣意的強制を制限するような正しい行動の普遍的にして統一的なルール」(FA・ハイエク『法と立法と自由Ⅲ』、春秋社、106頁)

 「一般的に承認された正しい行動のルール」(FA・ハイエク『法と立法と自由Ⅲ』、春秋社、17頁)

 このハイエク型法の支配”と法の支配の祖であるE・コーク型法の支配”について、中川八洋 筑波大学名誉教授『保守主義の哲学』、PHP研究所、から部分抜粋させていただく。

 ―――〔=ブログ作成者解説ここまで)―――

 ―――中川八洋保守主義の哲学』、PHP研究所346351ここから)―――

 マグナカルタ自由権章〕からブラクトン等を経てコーク卿にて確立され、さらにヘイルを経てブラックストーンの十八世紀末まで続いた、英国における「法の支配」の伝統は、その後は新生アメリカに引き継がれ十九世紀末まで堅持されたが、その頃より衰退しはじめ、今日に至っている。

 二十世紀初頭からの社会主義思想隆盛人定法主義legal positivism〕の跋扈が原因であり、またデモクラシーの発展に伴う「社会正義」という魔物のような新しい概念が蔓延したためである。

 「二十世紀最大の自由の哲人」であるハイエク政治哲学においては、これらの動きに抗して「法の支配」を再び現代に蘇生せんとする知的作業が中心であった。

 つまり、イギリス中世の封建時代において成長発展した「法の支配」の“”そのものを直接的に復活させることではないが、その根本原理を継承して現代に再生できる“”を「再発見する」作業がハイエク政治哲学神髄となった。

 “”はつくるものではなく、「発見するものであるとする、十七世紀的な英国コモンロー法律家の思惟をハイエク頑なに継承して守っている

 ハイエク的な「法の支配」とは、「すべての人に対して等しく適用される同一の抽象的で一般的な規則〔ルール〕の支配」、「正義に適う普遍的な行動ルールの支配」というものである。この「法の支配」に関して、ハイエクは次のような定義もしている。

 「法の支配は、政府がすでに知られている規則の実施を除いては、決して個人を強制してはならない」〔FA・ハイエク『自由の条件Ⅱ』、春秋社、103104頁〕

 「法の支配とは、立法府の権力を含めて、あらゆる政府の権力の限界を設定している」〔同〕

 「法の支配は、立法全体に対する制限である」〔同〕

 「法の支配とは、法律がどうあるべきかに関する一つの教説であり、また、個々の法律の持つべき一般的属性に関する教説である」〔同〕

 「法の支配とは、立憲主義以上のものである。それは、すべての法律がある原理に従うことを要求する」〔同〕

 このハイエク的「法の支配」も、コーク的「法の支配」と同様、やはり衰え弱まっている。その原因は、コーク的な「法の支配」の衰退と同じく、自由が「法の下(=支配の下)の自由」でしか擁護されえない一大真理認めない(=理解できない)、自由を侵害する立法法律万能――それは実質的には権力者の〔国会〕の(恣意的な)命令(にすぎない)――思想が二十世紀後半以降に興隆しているからである。

 蛇足だが、米国立憲主義constitutionalism〕とは、米国憲法の制定によって誕生したもので、憲法準コモンロー見なすことによって理論化されたものだから、あくまでも英国の「法の支配思想からの派生体である。

 ・・・このハイエク型の「法の支配」の思想は、主として「ヒュームアダムスミスアダムファーガソン」らのスコットランド哲学者法思想を源流としたものである。必ずしもコモンロー法曹家の直系的な系譜上のものではない。

 もともとハイエク哲学は、オーストリア学派を「父」とし、スコットランド学派を「母」として生まれている。

 むろん、ハイエクは、古代ギリシャ古代ローマから十九世紀の米国に至る「法の支配」に関する諸文献を実に広範に渉猟し精通しているし、コークらに深い敬意の念をもっているが。

 ●”と「法律」との棲み分け

 ハイエク型の「法の支配は、国家の成立以前から存在し発展してきた“”をまず、君主立法府議会〕の制定する布告勅令〕/法律から峻別し、次にこの“”を法律から「棲み分ける理論現代版といってもよいだろう。

 そして、ハイエクのこの「法律棲み分け出発点に、アダムスミス次の一文の思想があるように思える。

 「人間社会という偉大なる将棋盤の上では、あらゆる個々の駒は、立法府がそれに与えようとしてたまたま選ぶ運動原理〔デカルト/ホッブス的合理主義、立法無制限主義、法律=命令主義、法律の体系〕とはまったく異なった独自の運動原理〔自然的に発展・成長してきた“”を遵守すること、“”の体系をもっている

 もしもこれら二つの原理法律と“”〕が一致して同じ方向に向かって行動するならば、人間社会の勝負〔営み〕は円滑に調和的に進められ、・・・もしもそれらの原理が相反するか、あるいは異なっているならば、・・・人間社会は終始この上もない混乱状態に陥らねばならない」〔アダム・スミス『道徳情操論』下巻、未来社、494頁〕

 そしてハイエクの“”は「正義に適う普遍的な行動ルール」とも表現して良いものであるが、この表現はアダムファーガソンの「正義の制限からも学んだように思う。ファーガソンは、その『道徳と政治学の原理』〔1792年〕で、次のように述べている。

 「自由〔liberty〕もしくは自由〔freedom〕とは、すべての制限restraintからの解放かのようであるがそうでなく、君主も臣民も等しく含む自由国家のすべての人々に、あらゆる正義の制限just restraintを最も効果的に適用することである。

 すべての各個人が安全で自分の身体の自由財産無実の行為が侵害されないのはこの正義の制限のみによってである

 以上のような「法律棲み分け理論」と名づけられるものが、ハイエク型の「法の支配」である。

 つまり、ハイエク

 ①“”が上位にあって「法律」が下位にあること、ならびに②“”によって立法法律〕が制限を受けること、を前提としている。

 一言で言えば、無制限人定法主義跋扈私法の聖域にまで公法の闖入野放しにしている今日の議会の立法万能主義に対する制限システム導入しようとしているのである。

 ―――中川八洋保守主義の哲学』、PHP研究所346351ここまで)―――

20100906ブログ掲載】

 保守主義の哲学---ホイッグ主義の蘇生による社会主義の撃退が日本救国の道である(14)へ続く


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