保守主義の哲学---ホイッグ主義の蘇生による社会主義の撃退が日本救国の道である(14)


―――――エドマンド・バーク保守主義―――――

―――――保守主義哲学の神髄―――――

 18世紀 英国の“ホイッグ主義”の系譜――バークマコーレーグラッドストーンアクトン卿ハミルトントクヴィルハイエクらの思想を正統継承する者こそ真正自由主義者真正保守主義者である

ホイッグ主義蘇生による社会主義撃退日本救国の道である(14)

 さて、以上で(2)-1-(イ)公共の福祉」と“個人主義”が提示する“価値観”を終え、(2)-1-(ロ)「専門家」委員会への計画委託危険性に進みたいのであるが、折しも、民主党代表選挙選挙運動期間中であるので、ここでハイエクの興味深い論文を掲載しておきたい。

 ―――FA・ハイエク『隷属への道』(ハイエク全集Ⅰ-別巻)、春秋社、174186頁(ここから)―――

 ここで、われわれは、一つの信念を吟味しなければならない。

 全体主義の出現を不可避と見なしている多くの人々にとっては、不安をなだめてくれている信念であり、また、全体主義の真の性質をはっきりと知ったら、全力でそれに抵抗するだろう別の多くの人々にとっては、抵抗の力を深刻に弱めさせられてしまっている信念である。

 その信念とは、現在の全体主義体制が持っている最も嫌悪すべき性格は、全体主義に本質的なものではなくたまたまならず者テロリストといったグループによって樹立されたという、歴史的偶然由来しているのだ、というもの(=信念)である。

 なるほど、次のようなことがよく言われている。

 ―――ドイツにおける全体主義政権創設が、シュトライヒャーキリンガーライハイネヒムラーハイドリッヒをはじめとする邪悪な人間ばかりを権力の座につけたのは、ドイツ人の性格の悪辣さを証明しているのかもしれない

 もしそうなら、こういった人間たちが高い地位に登りつめたのは、全体主義体制必然的(=本性的)な帰結ではないのかもしれない

 だとすると、もし重要な目的を達成するために必要だとして、同じ種類の体制(=全体主義的な体制)が生みだされることになっても、それが分別ある人々によって、社会全体のために運営されていく(=善政が行なわれる)ことも、ありうるのではないだろうか

 ・・・(しかし)様々な面から考えて、現在存在する全体主義体制最悪の特徴と思われるものは、偶然的な副産物ではなく全体主義が遅かれ早かれ生み出すに違いない現象であることは、ほとんど疑いのないところである。

 どんな民主的な統治者であっても、国民の経済活動を計画し始めるやいなや、独裁的な権力をふるうか、それとも計画を放棄するかという二者択一に直面してしまうのと同様に、どんな全体主義的独裁者も、その体制を運営し始めるやいなや通常の道徳を無視するか、それとも運営に失敗するか二者択一せざるをえなくなるだろう。

 まさにそのゆえにこそ、全体主義へと向かっている社会においては、不道徳で自己抑制力のない人間権力の座へ登るようになるのである。

 このことが、理解できない人は、全体主義自由主義体制とがいかに決定的に違うものであるか集産主義西欧個人主義文明とで社会全体の道徳的雰囲気がいかに究極のところで違うものか、まだ完全に把握できていないのである。

 ・・・民主主義的諸制度抑圧全体主義体制の創設先立ってどのような状況が存在したか、ということに再び立ち返ってみる必要がある。

 その段階で支配的であった政治的要素は、迅速で決意ある行動を政府に求める広範な要求であった。

 つまり、ある行動を起こすために様々な行動が要求されるという、遅々として厄介な過程を要する民主主義的手続きへの不満が、支配的であったのである。

 こうして人々の多くを魅了するようになったのは、「事を処理する」のに十分強力で断固とした指導者ないし政党必要だという考えであった。

 ここで言う「強力」とは、単なる数字上の多数派を意味しない。そもそも国会の多数派が全く役立たないことこそ、人々が不満に思っていたのである。

 人々が求めていたのは、強固な支持結集して、意図したことを何でも実現できてしまう信頼のおける人物出現であった。

 まさにこういう状況によって、新しいタイプの、軍隊的な政党が登場してきたのであった。

 ・・・あるグループ圧倒的な権力を獲得するのに必要なことは、同じ一つの原則を少しでも深く追求することであり、また、その時々の選挙における多数の支持などでなく、少数でも非常に徹底して組織された母胎集団の、絶対的で無条件の支持その力を求めることであった。

 全国民に全体主義体制押しつけることができるためには、指導者がまず最初に、自分のまわり全体主義的原理進んで従う意志のある人々を結集できなければならない。

 そしてこの人々が、力ずくでその原理を、他の人たちに押し付けていくのである。

 社会主義は、大半の社会主義者決して容認しないような方法によってしか実現されえないということは、言うまでもなく、過去の多くの社会改革家が学んできた教訓である。

 古いタイプ社会主義政党は、彼ら自身が持っていた民主主義的な理念によって抑制されていたし、自らの任務を実現するのに必要な冷酷さを持ち合わせてもいなかった

 ・・・ところが新しいタイプ社会主義政党は、計画社会で問題となるのは多数の合意などではなくすべての事柄を一つに方向づけられるほど構成員の間十分な合意が存在している最大多数のグループどれであるか、あるいはそういったグループのどれもが主張を実行できるほど大きくない場合には、どうやれば、また誰がそれを作り出せるか、ということなのだと十分に知り尽くしていた。

 ところがこういった、構成員まったく同じような思想を持つ強力で人数の多いグループは、社会の最善の人々からではなく最悪の人々から作られる傾向がある。

 これは主として、次に述べる三つの理由によっている。

 第一に、一般に教育や知性の水準高くなっていけばいくほど、人々の考え方や趣味趣向は多様になっていきある価値体系に対して人々が意見を一致させる可能性が少なくなっていくのはおそらく間違いない

 このことから推論すれば、もし人々の間高度の一様性や相似性を見出したいのであれば、より道徳的・知性的でないレベルより原始的共通の本能がむき出しになる部分へと視点を下ろしていかなくてはならないことになる。

 断っておくが、このことは人々の大半が低い道徳的基準しか持っていないことを意味するのではない

 同じような価値観を持った人々よって構成される最大のグループ、(大きければ大きいほど)低い道徳的知性的水準を持った人の集まりである(=集まりとなる)、ということを意味しているにすぎないのである。

 (端的に)言ってみれば、最大の人々一致させられるのは一番低い分母(→ならず者ごろつきなど、無節操で利に走りやすい悪人〈→ヒュームから引用〉)である、ということである

 (→〔=ブログ作成者〕の解説:このハイエクの説明を聞けば、〔=ブログ作成者〕が初めてマルクスエンゲルスの『共産党宣言共産主義の諸原理』を読んだ時、〔=ブログ作成者〕には、その内容が「高校生レベルの作文」にしか感じられなかった理由充分納得できる

 なお、『共産党宣言共産主義の諸原理』に対する簡単な批判論は本ブログ:「バーク保守主義VS共産党宣言」を参照されたい)。

 つまり、ある人生観価値観他者に押しつけることができるほど強力な、多人数のグループが必要とされるのであれば、それは決して高度にバラエティーに富んで洗練された趣味趣向を持った人々から構成されるのではなく、悪い意味での「大衆」に属する人々、最も非独創的非独立的で、自分たちの理想(→多くの場合、金銭欲名誉欲権力欲性嗜好など、古代からの原始的欲望そのものである)を数の力ごり押しすることも辞さないような人々によって構成されるだろう、ということである。

 とはいえ、独裁を目指している者が、素朴で原始的な本能においてたまたま一致した人々を支持母体とするだけなら、それらの人々の数は政策を実現していくのに十分なほど多くはない(=人数が足りない)だろう。

 独裁を目指す者は、そういった人々の数をもっと増やすために、より多くの人を一つの単純な教義へと改心させていかなければならないだろう。

 ここにおいて、メンバー獲得原理第二番目登場してくることになる。

 独裁を目指す者は、従順なだまされやすい人々根こそぎ支持者に抱き込むことができるだろう。

 これらの人々は、自分自身の確固とした信念(=価値観)を持っておらずその耳に大声で何度も何度も吹き込まれれば

 (→現在の日本国の男性などは、大声で何度も言わずとも、女性の色気囁かれる即ノックアウトして支持してしまう腑抜けがなんと多いことであろう。情けないご時世である)

 どんなお仕着せの価値観であろうが、受けいれてしまう

 こういった、物事をぼんやり断片的にしか考えず他人の考えに動かされやすい人々、あるいは、情熱感情たやすく駆られてしまう人々が、全体主義政党下部党員数を増やしていくのである。

 第三の、おそらく最も重要な要素は、このようにして結集力の強い同質な支持母体を作るために、熟練した煽動家が採用する計略的な手段に関してのものである。

 人々が積極的な意義を持つ事柄(→自由義務責任自助努力積極性などの前向き価値よりも敵を憎む(→他者への憎悪呪詛)とか自分たちより裕福な暮らしをしている人々を羨む(→羨望嫉妬などの下賤心)とかいった、否定的(=後ろ向き)な政治綱領(→日本国では、いわゆるマニフェストに記載される内容)のほうにはるかに合意しやすいことは、人間性に関する一つの法則とさえ言えるように思われる。

 「われわれ(=味方)」と「かれら(=)」をはっきりと対照させたり、グループ以外の人々対して共に闘っていくといったことは、一つのグループ共同の活動へと強固に団結させていくどんな政治的教義にとっても、不可欠な要素であると言えよう。

 そのためこのようなやり方は、政策への支持のみならず、巨大な大衆の無条件な忠誠をも獲得しようとする人々(→自分自身に宗教の教祖のようなカリスマ性欲する人々)によって、常に使われている

 さらにそれは、彼らの観点からすれば、具体的な政治綱領を提示するより、もっと自由に活動できる余地があるため、はるかに有利なやり方(→主要な論点について、マニフェストで触れないというやり方は、後で党の方針を変更しても、証拠が残らないようにすることを意図とした最も卑怯で詐欺的な方法)なのである。

 敵というものは、(ナチス・ドイツでの)「ユダヤ人」や(共産・ロシアでの)「富農」のように内部のものであれ、外部に存在するものであれ、全体主義指導者武器庫における必需品なのだと言えよう。

 ・・・集産主義政策(=左翼極左政策こそどこにおいても国粋主義の傾向を持つのは、単に人々の無条件の支持を獲得するためなのだと考えてしまうと、もう一つの、同様に重要な要素を見逃してしまうことになるだろう。

 集産主義政治綱領が、ある限られたグループ利益(=特定集団利益団体圧力団体〉の特殊利益)を計らないような(一般的ルールに基づく)ものとして現実に想定できるかどうか集産主義国粋主義民族主義階級主義といったある種の特殊主義以外の形で存在できるかどうか、考えてみるのがよいかもしれない。

 ・・・集産主義哲学がその成立において抱えている矛盾の一つは、個人主義が育んだ人間主義的道徳の上に立脚しつつも、その哲学(=個人主義的な道徳哲学自由社会における一般的な意味での道徳哲学)は限定された集団の中でしか実現化されない、と言う点である。

 社会主義理論の次元留まっているかぎり国際主義だが、実践に移されるやいなやロシアでもドイツでもそうだったように、激しい国粋主義になってしまうという事実直視するならば、西洋の人々が想像している(→現在の多くの日本国民全く同じである)ような「自由主義的社会主義」は、純然と理論的なものでしかなく、社会主義の実現全体主義以外の何ものをも導かない(→つまり、ハイエクによれば社会民主主義などという主義空論である)ということ明らかになるだろう。

 集産主義の中には、自由主義のあの広い人道主義存在する余地がなく全体主義狭い特殊主義しか入る余地がないのである。

 ・・・社会主義計画主義者たちの国粋主義的帝国主義的性向は、一般に認められている(=知られている)よりはるかに普遍的ではある(=共通している)が、例えば(革命主義的マルクス主義反対し、漸進主義的社会主義の「福祉国家」を実現することが理念のはずのウェッブ夫妻やその他何人かの初期のフェビアン主義者場合ほどどう見ても明らか(に国粋主義者言えるケースはない

 彼らの計画化への熱情(の中に)は、強大な政治単位への崇拝小国への軽蔑が、特徴的な形で結びついていた。

 歴史家エリー・アレヴィは、四十年以上前初めて出会った頃のウェッブ夫妻のことを、こう書き留めている。

 『彼らの社会主義は心底から反自由主義的であった。彼らは保守党トーリー党憎んではおらず、むしろ異常なくらい寛大であったが、「グラッドストーン流自由主義(=ホイッグ主義)」に対しては、どんな慈悲心も持っていなかった

 それはちょうどボーア戦争

 (→1899年~1902年南アフリカの金・ダイヤモンド獲得のために英国がトランスバール共和国及びオレンジ自由国を相手に戦った戦争)

 の頃で、進歩派の自由主義者ならびに労働党を結成し始めていた人々は、「英国帝国主義」に対して戦ったボーア人の側に、自由人間性(=道徳との名において高潔に味方していた

 ところが、ウェッブ夫妻とその友人バーナード・ショウはまったく対極の立場に立った。

 彼らはあえてあからさまに帝国主義者として振舞った小国の独立は、自由主義的個人主義者には、少なからぬ意義を持つものであった。

 だが、彼らのような集産主義者には、それ(=小国の独立)は何ものをも意味していなかった

 シドニー・ウェッブが私に、未来は世界を管理するいくつかの大国のものであり、そこでは官僚が支配警察が秩序維持するのだ、と説明した声は、いまだに私の耳の奥に響き続けている

 (→われわれ日本国民は、「夜警国家から福祉国家へ」と中学校の社会科で教わるが、「福祉国家」の提唱者であるウェッブ夫妻フェビアン主義者が実は、「夜警大国」を羨望していたという事実は、極めて重大である)』

 また、別の書でアレヴィはバーナードショウがその頃議論していたことを引用している。

 いわく、「世界は必要上いくつかの強大国のものとなる。そして小国は強大国に吸収されるか、さもなくば存在を抹殺されざるをえない」と。

 ―――FA・ハイエク『隷属への道』(ハイエク全集Ⅰ-別巻)、春秋社、174186頁(ここまで)―――

 読者の皆さんも、このようなハイエク的な観点から、民主党代表選観察してみてはどうだろうか。

20100906ブログ掲載】

 保守主義の哲学---ホイッグ主義の蘇生による社会主義の撃退が日本救国の道である(15)へ続く


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