保守主義の哲学シリーズⅠ-2 (7)‐‐‐バーク保守主義、ベンサム理論を抹殺す‐‐‐その五

⑩「諸利害の同一化」――個人的利害と普遍的利害(=社会全体の利害)の同一化

 ベンサムは言う、

 「各個人と全社会との諸利害の同一化は、ある個人の行為の結果として、どのような内容のものであれ、ある善がその個人にもたらされると同時に、そのような善が社会全体にもたらされる場合に実現する。それは、害悪についても同様のことが言える。また、同一の原因による結果として、ある善が社会と同時に個人にももたらされる場合、ないしは、ある害悪が社会と同時に個人にもふりかかる場合も同様である。それゆえに、そのような個人と社会との諸利害の同一化は、善の共同性によって、ないしは、害悪の共同性によって、さらには善悪の共同性によって、もたらされるのである」

 上記④で述べたように、ベンサムの人間本性論は、自己利益優先性原理である。このような本性の諸個人全社会諸利害の同一化など100%不可能である。

 全社会(全人民)の「善悪の共同性」など一体どうやって持ち得るのであろうか?

 いやそれ以前に“法の支配”“コモン・ロー”を理解できないベンサムの「善悪の基準」とはいったいどこに求めるのであろうか。バーク保守主義では、コモン・ロー(=祖先の積み重ねた叡智の集積)が「自由(と裏表の道徳)」を擁護すると述べた。

 例えば、日本で言えば、孔子の『論語』などの四書五経聖徳太子の『十七条憲法』、『古事記』、『日本書紀』『大宝律令/養老律令』、清少納言の『枕草子』、『御成敗式目(貞永式目)』、各種の『仏教典』、吉田兼好の『徒然草』、鴨長明の『方丈記』、『公事方御定書』、『武家諸法度』、『禁中並公家諸法度』、佐藤一斎の『言志四録』、儒学/朱子学/国学、『五箇条の御誓文』、『大日本帝国憲法(明治憲法)』、『教育ニ関スル勅語(教育勅語)』など、その他無数にある祖先の道徳の集積の山の中から、現代でも通用する道徳(善悪基準)=“法”を発掘することができるのである。

 少し脱線するが、日本国政府および文部科学省は、このような道徳書の集積の山の中から、「現代日本人の持つべき道徳指針」を抽出し、『日本国民の道徳書』として国民の前に提示すべきである。それをせずして、「教育の省」たる「文部科学省」の存在意義は全くない。「知育・徳育」両輪揃って「教育」というのである

 文部科学省の役人は自己の責任をもっと自覚すべきである。やる気になれば、国民会議を立ち上げてでも充分できるはずなのに、なぜ戦後64年間(少なくともサンフランシスコ講和条約発効以降)も放りっぱなしなのか?それが現代日本人の「道徳性破綻」の原因ではないのか?私には、文部科学省はある種のイデオロギーによって意図的に「道徳教育」を避けてきたとしか考えられない。

 そして、文部科学省は義務教育課程において、自己の権利の主張ばかりを教える「人権教育を直ちに廃止し、他人の権利を侵してはならないという自己の義務を教える「国民の道徳教育」に切り替えるべきである。「国民の道徳教育」の方が「人権教育」よりはるかに「国民の権利」を擁護するのは、明白である。

 なぜなら「人権教育」では、人間同士が自己の権利を主張し、自己の権利を押し通そうとすることによって相互の敵対関係を悪化させる。「道徳教育」では、人間同士が他人の権利を侵してはいけないという義務感によって相互の権利衝突を緩和するからである。

 話を戻すが、このように「道徳基準」とは、“”“コモン・ロー(慣習を含む)の中にあるのであって、ベンサムのように、これらを否定するなら、人間は「道徳基準」を「人間の理性」の中に求めるしかない。しかし、その本性が「自己利益優先性」である人間の理性で、全人民に共通する「道徳基準」(および「全人民の利益(幸福)の基準」)など感知できないし、形成できるわけがあるまい。

 それを、できると言うなら、それは哲学的論理矛盾か、啓蒙によって人間理性は完成するという「啓蒙哲学」あるいは「進歩主義」の「妄想」である。よって理性による「善悪の共同性」など妄想でしかない、非現実の物語である

 さらに、ここで学ぶべきことは、国家を運営する政府は決して、「その国家(社会)を完全なる善の国家(社会)にすること」を目的にしてはならない、ということである。

 そのようなことは、人間本性からして不可能である。政府は、人間本性がもたらす害悪をできるだけ極小化するように努めることを目的としなければならない。

 なぜなら、ベンサムのごとく「完全に不可能」なことを「実現しよう」とすれば、国家権力は「国民のありとあらゆる権利に介入」し、「国民を監視」せざるを得なくなるからである。ここに国民の「自由ゼロの全体主義国家」が誕生するのである

 ベンサムの「個と全体の同一利益・道徳の共同性原理」は全体主義特有の非常に危険な原理である。この「共同性/共同体」原理はルソーの『社会契約論』の論理と全く同一である。

 以上に見てきたベンサムの最善の国家形態/制度である「代表制民主主義」の要点は、次のようにまとめられる。

A)  国家の目的は、「最大多数の最大幸福」を実現することである。「幸福」とは「生存・豊富・安全・平等」である。

(B)  人間本性は、「自己利益優先性原理である。

(C)  従って、いかなる君主制も貴族制も「邪悪な利益」を求め、人民の「邪悪な犠牲」を最大化するので認められない

(D)  上記の人間本性にも関わらず、啓蒙によって「人間理性」は完成し、「諸個人の利益」と「普遍的利益」は同一化できる。よって、一つの全体としての「人民」同一の普遍的利益を共有し、人民の「世論」も最大幸福原理からの逸脱は全く見られなくなる「善悪の共同性(=理性による道徳基準の共有化)」も実現する。

(E)  このような普遍的利益と完成された世論をもつ「人民」が最高構成権力(選挙権ある人民)となり、最高立法権力(最高立法議会)の代理人(立法議会議員)を選出する。(=人民主権の概念)

(F)  この最高立法議会は、完成された人民から選出された代理人で構成されるので、国家権力の中で「最高の絶対的権力でその権限にはいかなる制限も存在しない」と位置付けられる。よって、最高立法議会が立法した法律(命令)には、すべての人民、行政権力および司法権力は従わなければならない。ただし、議員の任期は1年であり再選禁止である。

(G)  しかし、万が一、最高立法議会の代理人(議員)が最大幸福原理(人民の普遍的利益と世論)から逸脱した行動(立法)をすれば、最高構成権力(人民)は、代理人(個人毎)に対する解任権と懲罰権をもつ。この他、最高構成権力は、首相、行政府の大臣、司法大臣、裁判官、地方行政府の首長及び登記官、地方議会の議員を解任できるとしている。

(H)  最高立法議会の代理人が、最大幸福原理から逸脱した行動(立法)をしているにもかかわらず、最高作動権力が解任権や懲罰権を発動しない場合、世論法廷最高構成権力に勧告するか、世論法廷が解任権や懲罰権を発動する。

(I)  最高執行権力行政権力と司法権力)は最高立法権力に従属する(下位権力である)。行政権力の長たる首相は最高立法議会が選任し、解任できる。首相は必ずしも議員である必要はないが、君主とその血族には首相の資格はない。首相には最高立法会議の解散権はない

 ただ、ベンサムは、上記のような極端な君主制批判論と君主制に替わる代表制民主主義論(=理性による人工国家論)を展開したにもかかわらず、フランス革命のような、「暴力革命」を目指したかどうかは、はっきりしない。

 ベンサムは議会の急進的改革を要求したが、「急進的改革とは、現在の庶民院を代表制民主主義の原理に基づいて組織しなおされた庶民院に取り替えることであり、君主と貴族院をその権力とともに残すことである」と言っているからである。

 しかし、一方で次のようにも言っている。

 「このように、(悪政に)苦しめられているあらゆる市民は、なす術もなくその苦痛を甘んじて受けるか、さもなくば、立ち上がるほかはない。・・・すなわち、支配者たちの利益に対して普遍的利益を犠牲にすること・・・の上に成り立っている国家形態を取り替えることである。・・・新しい国家形態につくり替えることである

 この辺りが、ベンサムの狡猾さであり処世術なのであろう。一般的論理を目標として述べながら、結論は自国の現状に合わせた、国民に批判されにくい結論で括るのである。

 これは、ベンサムが、革命フランスの「名誉市民」となった時、ベンサムが言った、「私はロンドンでは君主制支持者であるが、パリでは(反君主の)共和制支持である」という言葉に集約されている。 以上が、ベンサムの『憲法典』概略的な構想とその批判である。

 この辺りで、ベンサム批判を終えようかと思ったが、ベンサムの著作を読んでいるとバーク保守主義を信奉する私の頭にカチンとくるところが、まだまだあったので、続けて、彼の極左思想を徹底的に叩き、抹殺する

ⓐ機械論的国家機構

 ベンサムは言う、

 「政治機構のこの部分(=最高構成権力と最高作動権力)を構築する場合、最高作動権力は時計の中のゼンマイの役割を果たす。他方、最高構成権力は、時計の整時器の役割を果たす。整時器なくしては、主ゼンマイはあまりにも多くのことをやりすぎることになるかもしれない。また、主ゼンマイなくしては、整時器はなにもなすことができないであろう。つまり、相互に補完しつつ、かつ、相互に張り合いつつも、それら二つの権力が相互的に適宜調和を保持する限りにおいて、それら二つの権力は必要なことをなしうるのである」

➡国家機構全体を時計(機械)になぞらえた、全体主義論者ホッブスを踏襲している。

 国家権力は機械の部品(物)ではない。時計の主ゼンマイと整時器は互いに調整し合うが、破壊し合うことはない国家権力ではそれが起こりうる。また、主ゼンマイまたは整時器自体が故障することがあるように最高作動権力も最高構成権力も腐敗することがある。

 特にベンサムの国家論では、整時器としての最高構成権力の整時機能自体が、「理性の完成による一つの全体としての人民の利益/世論/道徳」という「妄想」で成立しているから、整時器として機能しえない

 また、「諸個人の集合体」である最高作動権力や最高構成権力を「一個のゼンマイ」や「一個の整時器」とみなすのは、完全な「全体主義体制」の発想であって「そこに諸個人の自由は全くない」。

ⓑ君主の邪悪な利益

 ベンサムは言う、

 「・・・それゆえに、君主の権力は、人民が人民自身の利益を無視することの上に成り立ち、そのような無視に比例して増大する。このような無視は、人民の知的弱点に比例していることは言を待たない。知的弱点は、無知誤解から成り立ち、構成されそれらの二点に比例している。ここで無知とは、あらゆることに関する無知であって、それが有益な方法においてであるか、有害な方法においてであるかを問わず、人民の利益を左右しているのである。ここで、誤解ないし思い違いとは、それが効果をもつ限りにおいてではあるが、人民の心の中に、次のような心情をつくり出すことである。すなわち、それは、君主の利益と人民の利益は同一であるとする誤解であり、または、君主の利益は人民の利益と非和解的に対立するものではないとする誤解であり、あるいは、君主の利益と人民の利益が対立しているとしても、君主は人民の利益を優先して自己の利益を犠牲にするに違いないとする誤解である」

➡ここには、明らかにベンサムの本心・本性が見て取れる。人民の知的弱点は無知と誤解であり、無知とは「あらゆることに関する無知」とまでいう。

 このような「あらゆることに関して無知な人民」に人民の「普遍的利益」など理解し得るのであろうか?「善悪の共同性」など持ち得るのであろうか?「あらゆることに関して無知な人民」をいくら啓蒙しても「理性の完成」など不可能であろう。ベンサムはそれを知っていて、人民を代表制民主主義に導こうとしている。上記ⓐと併せて考えれば、やはりベンサムは「最大多数の最大幸福」とか「民主主義」という耳触りのよい言葉で人民を誘導し、人民民主主義という名の英国型全体主義体制を企んでいるとしか考えられない。

 また、「君主の利益は人民の利益と非和解的に対立するものではないとする誤解」も上記の企みの前提条件である「君主制絶対悪論=廃止論」を「無知な人民」に植え付けようとしているに過ぎない。

 なぜなら、1689年の『権利の章典』で君主と臣民の間には、君主が臣民の権利を擁護することを条件に臣民が君主に忠誠を誓い、君主の地位と世襲による王位の継承を承認する宣誓がなされているのだから、君主の利益と臣民の利益は既に一体化しているのであって、非和解的などというのは全くの出鱈目である。

Ⓒベンサムの無“法”及び“唯物論”

 ベンサムは言う、

 聖職者のうちに、君主の有形の諸手段の一つをみることができる。欺瞞こそ、聖職者が主として使用する無形の手段である。強力つまり、物理的強制力は、彼の領域にはない。脅迫も同様である。しかし、欺瞞によって、脅迫がつくり出される。法律家の脳髄からわきおこってくる精神的なものはコモン・ローである。聖職者の脳髄からわきおこってくる精神的なものは宗教である。法律家の職務は、第一に、君主の意志を実現することであり、第二には、かれ自身の意志を実現することである。・・・かれらが用いる脅迫の形態と程度が違ってくるのである。法律家それ自身によって描き出される恐怖の情景は、現世のものに限定される。聖職者はかれ自身の発明した生を用意する。その生は、脅迫の包括的な手段で満たされたものであり、その強度と持続期間において無限の責め苦で満たされたものである。法律家は、最もむごい刑罰という形において、被害者(=裁判の被告、容疑者)ある希望の余地を残す。それは、死刑においてその終末(刑罰/罪が消え去るの)を見届けたいとする希望である。そのような究極的な慰めは、聖職者によって法律家から引き離される(=死刑を回避され、終身刑などとなる)。法律家の暴虐は聖職者の手にゆだねられ、そして最高度に利用される(=聖職者は受刑者に宗教的指導をする/神の教えを説く)。こうして有限のもの(=死刑ならその時点で消え去る罪)が、無限の苦悩と絶望(=死ぬまで、あるいは聖職者の説く死後の世界まで続く苦しみと絶望感)とにすりかえられるのである」

➡ベンサムとは、何という、偏見の塊のような男であろうか?哀れにさえ思えてくる。

 まず、犯罪を起こした可能性が極めて高いと思われるか、あるいは侵した決定的証拠がある「被告/容疑者」のことを、法律家のコモン・ロー(=ここでは、ベンサムの偏見である「法律家の創造による神のようなもの」を意味する)によって刑罰を受ける「被害者」(当然、冤罪で裁かれる場合は真の「被害者」である)という

 そして裁判で刑罰が確定した「犯罪者」の最後の希望・慰めが「死刑で自分の罪が消え去るのを見届けること」だと言う。

 ここまででも、かなりの偏見だが、さらにベンサムは、聖職者が犯罪者の「死刑」を回避して「生命」だけは何とか救ってあげようとする「救済の慈悲」に対して、その行為は、「犯罪者に(ベンサムにとっては存在もしない)救済(神)の教えを説くことで死刑によって消え去るはずの罪を死ぬまで、あるいは、あの世まで続く無限の苦悩と絶望にすりかえる」邪悪な行為であるというのである。

 私は「死刑」は必要と考える人間であるが、このベンサムの考えには呆れかえるしかない。「死刑」反対論者なら、なおさら激怒するのではないか。ここまでくるとベンサムは「偏見」男をこえて、人間性疾患者あるいは、精神疾患者である

ⓓ諸個人の特殊利益と人民の普遍的利益の関係

 ベンサムは言う、

 「あらゆる政治社会において、各人は、・・・その(社会の)普遍的利益の中にある分け前をもらっている。しかし、あらゆる社会において、各人は、その他のメンバーとは共有しえないある特殊的利益をもっている。あれこれの多くの場合において、この特殊的利益は、普遍的利益と対立した状態にある。そのような場合のそのような利益(=特殊的利益)についてのある人の幸福は、その他の社会のメンバーの集合的幸福(=普遍的利益)一定程度減少しない限り(=減少せずには)、増大することはありえない。それゆえに、このような特殊的利益は、そのような事情(=社会の普遍的利益を減少させる場合)にある限りにおいては、邪悪な利益言えるだろうし、かつ邪悪な利益言わなければならないだろう」

➡ベンサムの『憲法典』のサブ・タイトルは「自由主義(リベラリズム)をいただくあらゆる国民とあらゆる政府の使用に供するために」“For the Use of All Nations and All Governments professing Liberal Opinions”となっており、自由主義を唱えているが、上記の言説のどこが自由主義なのか?全くの虚偽である。

 一つの全体としての人民の「普遍的利益」に反する諸個人の「特殊利益」が「邪悪な利益」として排除されるような社会を「自由主義社会」とは決して言わないこのような社会は諸個人の自由を完全に圧殺し、社会(国家)の利益のためにのみ労働させる全体主義(社会主義・共産主義)であるベンサムは決して自由主義者などではなく明らかに全体主義者である。

ⓔベンサムは、「革命」を否定したか否か?

 ベンサムは言う、

 「このような(=現時点で存在する英国の国家体制において生じている害悪を善きものに取り替える)目的のために、二つの変革がたえず主張されてきた。その一つは、議会改革という名において主張されているものであり、もう一つは革命という名において主張されているものである。・・・革命とは、現在の政治的国家の国王の地位に代えて、現時点においてその地位にある者とは別の個人を任用することを意味する

 「悪政に対する矯正策として考えられている革命については、一語で充分すぎるであろう。もし革命が成功したとしても、それによって、または、それとともに、どのような利点がもたらされるであろうか。仮に現在の君主が解任されたとしても、どこにより良いものが見出されるというのであろうか。一般的にいえば、どこにも見出すことはできない。逆に、われわれは、もっと悪いものの脅威を受けるのである。ここで、矯正策として要求されている革命は、害悪の根源が個人にあると仮定している。しかし、それは個人にあるのではない。すなわち、それが個人にあったためしはないのである。それは(国家)形態にある。その(国家)形態が消滅しない限り、なにも変わらないのである」

➡ここでのベンサムの主張を見る限り、ベンサムの言っている「革命」=「当時の英国社会で一般に主張されている革命」とは、1688年の「名誉革命のような革命」を指しているとしか考えられない。

 名誉革命では、国王ジェームス二世を追放し、権利の章典によってウィリアム国王とメアリ女王が君主の地位に就いた(交替した)。つまり、国家形態は変わらずに、君主(個人)だけが入れ替わっただけなので、現在の英国の政治は良くなっていない。だから「名誉革命のような革命はだめだ、意味がない」と言っているのである。

 そしてその直後に、「その(国家)形態が消滅しない限りなにも変わらない」と言っている。つまり、「革命」をするなら「名誉革命」のような革命ではだめで、「清教徒(ピューリタン)革命」や「フランス革命」のような国家形態を破壊する「真の革命」でないと意味がないと言っているだけで、「暴力革命」を否定しているのではないのである。

ⓕベンサムの宗教観

 ベンサムは言う、

 「国家権力は、宗教の問題について、どのような教義の確立にも、または、どのような信仰箇条の確立にも、利用されてはならない」

 「このように使用される(ある宗教に与した国家)権力は、(その宗教を信仰する者には)褒章を与えるか、(信仰しない者には)刑罰を科するか、あるいは、その両方のうちのいずれかになってゆくだろう」

 「そのように教え込まれた信仰は、真実のものもあるであろうが、間違ったものもあるであろう」

 「したがって、宗教に関する教義は、どうみても、国家の手において略奪と抑圧を進めるために、結果的には、脅迫、腐敗、欺瞞という手段をつくり出すという目的以外のために打ち立てられたものではなかった(=という目的のみのために打ち立てられた)」

➡ここでベンサムは国教のみではなく、宗教一般を明確に否定している。国教に関するベンサムの見解には賛同する。しかし、宗教一般が、すべて「国家が人民の略奪と抑圧のための目的のみで創造された」というのは余りにも「唯物論的/無神論的偏見であろう。

 

(紙幅及び字数の関係上その六(ベンサム・最終章)へ続く)

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