保守主義の哲学(雑)---「地方主権」概念の弊害(平成22年12月22日)(修正・補足)


 読者の皆さん、及びこのブログへ初めて来訪の皆さんへ。

 
 いつも私〔=ブログ作成者〕の稚拙なブログをお読み頂き、感謝するとともに深く御礼申し上げます。

 
 さて、英米系の保守主義(自由主義)哲学においては、立憲主義の確立した国家の内政上のあらゆる権力は、個人であれ、中央及び地方の議会であれ、法の支配によって制限されなければならない。

 
 これは、特定の国民からなる暴力革命主義的な集団の権力または国家(政府)権力が暴走し、一般国民の自由と諸権利を侵害するのを防止するために必要不可欠な自由主義の基本原理である。

 
 ゆえに、“立憲主義”国家の内政において、無制限の絶対権力及びその主体を意味する「主権」と「主権者」なる概念は、論理矛盾であり本来存在し得ない。

 
 つまり、あらゆる権力の暴走に制限をかける“法の支配”と“立憲主義”と何ものにも制限されない絶対権力を意味する「主権」は、文字どおり盾と矛の関係であり、「矛盾」である。

 
 つまり、憲法の条文の中に、それが「天皇主権」であろうと「国民主権」あろうと「すべてを超越する絶対的権力を意味する主権(=
The rights of sovereignty)」が存在することが、まさしく矛盾であり狂気であることが解るであろう。

 
 日本国民に存在するのは、“憲法に制限”された「国民の権利」のみであり、国会の立法権力もまた憲法の規定を超越してはならない。

 
 日本国憲法

 
 第九十八条

 
 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない

 
 第九十九条

 
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。(→義務は権利ではないから必ず遵守しなければならない)

 
 これら、第九十八条の制限(=立憲主義)、第九十九条の憲法遵守義務により、

 
 第四十一条

 
 国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。

 
 の条規は、国会が無制限の権力を持つことを意味せず、憲法の枠内での国権の最高機関にすぎないという意味にしか解釈してはならない(→最高機関なる表現も本来は問題ありなのだが、ここでは触れない)。

 
 多くの日本国民、日本国の政治家、政治・憲法学者そして時には最高裁判所の判事でさえ、この英米系憲法学の基本原理を理解していないか、意図的に無視しようとする傾向がある。

 
 このように考えれば、「地方主権」なる極左の政治造語が「いかに無知暗愚で無意味な単語」にすぎないかは明白であろう。

 
 地方の権利を主張するならば、日本国憲法第八章と地方自治法とを根拠とする“地方自治権”と表現するのが唯一正しい表現であろう。

 
 ところが驚くべきことに、この「地方主権」なる概念を悪用して、国会も立法してはならない「外国人地方参政権」を地方の市議会が「住民投票制度」に悪用する「条例」を次々に成立させている。

 
 極めて由々しき事態である。

 
 これに関する詳細は以下のブログを参照されたい。

 
 
http://blog.livedoor.jp/shinseihoshu/archives/51809207.html 

 
 (補足説明)主権の概念について、ハイエク『法と立法と自由〔Ⅲ〕』、春秋社、52頁より引用しておく。

 
 ハイエク曰く、

 
 「人民の多数派〔あるいは人民によって選出された代表者〕は、合意できることはどんなものであれ、自由に布告できるべきであり、この意味において、かれらは全能であるとみなされねばならない、という考え方は人民主権という考え方と密接に関係している。

 
 その誤りは、存在するどんな権力も人民の手にあるべきであり、しかも人民の願望は多数決によって表現されなければならないだろうという思い込みにあるのではなく、この根本的な権力源が無制限でなければならないという思い込み、すなわち主権概念そのものにある。

 
 そのような無制限の権力源のいわゆる論理的必然性は全く存在しない。

 
 そのような必然性に対する思い込みは人的制度の形成について、そのすべてをある独創的な設計者、あるいはなにか他の計画的な意志行為(→ルソーの『社会契約論』では、それを〈立法者一般意志〉と明確に表現している)に由来するものだとしようとする誤った設計主義的解釈の産物なのである」

 
 さらにもう一つ、ハイエク『哲学論集』、春秋社、28ページより引用する。

 
 ハイエク曰く、

 
 「デカルトは、証明できることのみを信じるべきだ、と教えた。道徳と価値の一般的分野に適用するなら、彼の教義が意味したのは、承認された目的のための合理的な設計と認めるもののみをわれわれは、唯一拘束力あるものとして受け入れるべきだ、ということである。

 
 ・・・彼(=デカルト)の後継者たちにとっては、すべての社会形成物の創造者としてその者(=デカルトの後継者たち、設計主義的合理主義者ら)の意図が正当化を提供するもの(つまり、設計主義的合理主義者が正しいと承認するものだけ)が、人間の意志(であるととみなされるよう)になってしまったことは明らかである。

 
 彼らにとって社会とは、意図的な目的のために、人びとが計画的につくりだしたもののように思えた。

 
 デカルトの忠実な門下生J・J・ルソーの著作によってもっとも明らかに示されているように、最高権威の無制限の権力が、とりわけ代表議会にとって、必然であるとの考え、それゆえ、民主主義は多数者の無制限の権力をいみしているとの考えは、こうした設計主義の不吉な帰結なのである」

 
 ルソーに関して、欧米特に英米では、ハイエクのように、極めて否定的に捉えるのが一般常識である。

 
 ルソーとルソー主義者のロベス・ピエール率いるジャコバン党らが起こした「フランス革命」を大賛美しかしない狂気も、社会主義国家を除く欧米の自由主義国家では、当のフランスも含めて世界中で唯一「日本国のみ」である。

 
 日本国の社会科の教科書の左翼・極左一辺倒の内容は異常である。

 
 文部科学省の義務教育や日本国の大学の哲学科・政治学科・法学科では、なぜ、デカルトやルソーやホッブスやベンサムやJ・S・ミル、ヘーゲル、マルクス・・・などの極左哲学を教えるのに、ヒュームやコークやブラックストーンやバークやハイエクやアレグザンダー・ハミルトンやアクトン卿やトックヴィルなどの欧米では常識として教育している思想・哲学を全く教えないのか、日本国の大多数の国民が納得できる、明快な回答を頂きたいものである。


平成221222日掲載】

エドマンド・バーク保守主義者(神戸発)


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