スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

保守主義の哲学---日本国民よ、困難なる時も、美徳ある自由の伝統を忘れ給うこと勿れ

  私〔=ブログ作成者〕は日本国民として、


 東日本大震災で犠牲になられた方々に深く哀悼の意を表するとともに、被災者の皆様に対し心よりお見舞い申しあげ、避難所での私的自由空間なき極めて厳しい生活環境が早急に改善されますように願ってやみません。


 また、地震・津波による被災地の救援活動と原発事故という未曽有の難題の処理に携わるすべての人びとに深く敬意と謝意を捧げたいと思います。


 なお、読者の皆さまには、いつも〔=ブログ作成者〕の稚拙な小論をお読み頂き、深く御礼申し上げます。


 さて、今回は真正の自由主義について、我々日本国民最低限知っておくべき政治の原則のいくつかを述べたいと思う。


 というのは、東日本大震災とそれに起因する原発事故復旧・復興のために政府及び国会及び日本国民ができる範囲で最大限協力して、最善を尽くすことは当然のことであるとしても、そのことは政府及び国会などの政治権力が、復旧・復興の名目どさくさに紛れて法の支配”と“立憲主義”を超越した無制限の権力日本国民民間企業に対して行使して、自由を制限してよいということを全く意味しないのだ、ということを日本国民及び民間企業経営者などに再認識し、警戒していただきたいからである。


 ところで
、私〔=ブログ作成者〕の説明よりは、ノーベル経済学賞受賞者
20世紀最大自由主義政治哲学者であるFA・ハイエクの言説を引用させてもらって説明する方が普遍的な説得性を持つであろうと思われるため、今回も前回と同じく、そのようなブログ形式にさせて頂いた。


 ただし、エドマンドバークを信奉する保守主義者である〔=ブログ作成者〕は、ハイエク自由主義政治哲学全体を概ね把握した上で、ハイエク哲学主旨一切枉げぬように引用かつ補足説明していることを御了解いただければ幸いである。


 ―――権力の制限こそ“法の支配”の眼目である『隷属への道』春秋社、
104106―――


 「法の支配」は自由主義の時代に初めて、意識的に発展させられたものであり、その時代が達成した最大の偉業の一つである。


 …立法者の権力にはどんな制限もないという考えは、部分的には、主権在民主義(=国民主権)と民主主義政治(=デモクラシー)がもたらした結果である。


 この考え方は、国家によるあらゆる活動が立法によって正当に権威づけられたものであるかぎり、「法の支配」は維持されうるという信念によってますます強化されてきた。


 だが、その信念は、「法の支配」の意味を完全に誤解している。


 このルールは、政府の一切の活動が司法上の意味において合法的かどうかという問題(=法治主義)とは、ほとんど関係がない


 政府の活動は、合法的でありながら「法の支配」に背くことがありうる。


 ある者の行なっている行動が完全な合法的権威を持っているということは、法律が彼に勝手に行動していい権力を与えているということなのか、それとも法律が彼の行動を前もって明白に規定しているということなのか、全く答えていない。


 また、例えばヒットラーは、厳密に合憲的な方法でその無制限の権力を手に入れたのだから、彼がどんなことを行なっても司法上は合法である、ということは言えるかもしれない。


 だが、だからといって、誰が(ナチスドイツで「法の支配」がいまだに堅持されていると言うだろうか。


 したがって、計画化社会では「法の支配」は維持されえないということは、政府活動は合法的でなくなるとか、その社会は必ず無法社会となる、ということを言っているのではない


 それ(=「法の支配」が維持され得ないということ)が意味しているのは、政府による強制権力の使用がもはやどんな制限も受けないようになり、前もって制定されたどんなルール(=「伝統的ルールという形態でのみ伝えられてきた経験のすべて」、「所与の諸価値」とか「自生的な自由秩序」のこと、『ハイエク全集』)にも縛られなくなる、ということである。


 もし、法律が、ある委員会ないし当局に好きなことをしてもいいと決めたとしたら、それが行うどんなことも合法的となる。@しかし、その活動が「法の支配」に従っていないことは確かなことだ。


 つまり、政府に無制限の権力を与えることは、どんな恣意的なルールも合法的だとされうる、ということである。


 このようなやり方をしていけば、民主主義(=デモクラシー)は、想像しうる最も完全な専制政治(=多数者の専制デモクラシーの専制)を作り上げることさえできるのである。


 ・・・「法の支配」は、上記のことからわかるように、立法の範囲を制限することを意味するものである。


 それは、立法を形式法として知られる種類の一般的なルールに限定するものであり、特定の人々を直接の目標とした立法や、そういう差別のために誰かに国家の強制権力を使用できるようにさせる立法を不可能にするものである。


 それは、すべてのことが法によって事前に明らかにされている場合のみ使用可能とされること、しかもその際には、どのようにそれが行使されるか予測できるような方法でなされること、を意味する。


 したがって、(特定の)目的(=特殊利益など)や対象(=利益団体など)についての具体的内容を持った立法を行なうことは「法の支配」を侵害する可能性を持っている。


 この命題を否定したい者は、現在の(ナチスドイツ(=国家社会主義)やイタリア(=ファシズム)やソ連(=共産主義マルクス・レーニン主義)で「法の支配」が堅持されているかどうかは、それらの独裁者(=ヒットラームッソリーニスターリンら)が合憲的な手段でその絶対的権力を手に入れたか否かによって決まる、と主張しなければならなくなるだろう。


 ―――権力の制限こそ“法の支配”の眼目である『隷属への道』春秋社、
104106―――

 


 ―――集産主義は排他的な権力賛美へと向かう『隷属への道』春秋社、
183頁、185186―――


 集産主義哲学がその成立において抱えている矛盾の一つは、個人主義(=全体主義に対して個人的自由を有する「個人主義」の意味であり、「利己主義」の意味ではないハイエク全集』)が育んだ人間主義的道徳の上に立脚しつつも、その哲学は限定された集団の中でしか実現化されない、という点である。


 社会主義
は理論の次元に留まっている限り国際主義(→例えば「労働者は祖国を持たない」『共産党宣言』など)だが、実践に移されるや否や(共産ロシアでも(ナチスドイツでもそうだったように、激しい国粋主義なってしまうという事実を直視するならば、西洋の人々が想像しているような「自由主義的社会主義(→例えば「社会民主主義」など)は、純然とした理論(=机上の理論)的なものでしかなく社会主義実現(=社会主義政党政権掌握すること)は全体主義以外の何ものをも導かないということが明らかになるだろう。


 ・・・社会主義計画主義者たちの国粋主義的帝国主義的性向は、一般に認められているよりはるかに普遍的ではあるが、例えば(「フェビアン協会」の創設者であり、「福祉国家」の提唱者である)ウェッブ夫妻やその他何人かの初期フェビアン主義者の場合ほど、どう見ても明らか(に国粋主義的帝国主義的)だと言えるケースはない。


 彼らの計画化への情熱は、強大な政治単位(=大国による世界分割支配)への崇拝小国への軽蔑が、特徴的な形で結びついていた。


 歴史家エリー・アレヴィは、
40年以上前初めて出会った頃のウェッブ夫妻のことを、こう書き留めている。


 《 彼らの社会主義心底から反自由主義であった。彼らは保守党のトーリー党を憎んではおらず、むしろ異常なくらいに寛大であったが、「グラッドストーン流自由主義」(→バーク真正保守主義ハイエク真正自由主義もこの系譜に分類される「旧ホイッグ主義」である)に対しては、どんな慈悲心も持っていなかった


 それはボーア戦争の頃で、進歩派の自由主義者ならびに労働党を結成し始めていた人々は、「英国帝国主義」に対して戦ったボーア人の側に、自由人間性との名において高潔に味方していた。


 ところが、ウェッブ夫妻とその友人バーナードショウは、まったく対極の立場に立った。


 彼らはあえてあからさまに帝国主義者として振る舞った。


 小国の独立
は、自由主義的個人主義には、少なからぬ意義を持つものであった。


 だが、彼らのような集産主義者には、何ものをも意味しなかった。


 シドニー・ウェッブ
が私に、未来は世界を管理するいくつかの大国のものであり、そこでは官僚が支配し警察が秩序を維持するのだ、と説明した声は、いまだに私の耳の奥に響き続けている 》


 (→日本国の社会科教科書で教えられる夜警国家から福祉国家へ」という崇高な理念は、どうやら「福祉国家」の提唱者であるウェッブ夫妻理念とは全く異なり、事実は「世界夜警国家化を目指していた」ということのようだ)


 また、別の書でアレヴィはバーナードショウがその頃議論していたことを引用している。


 いわく、「世界必要上いくつかの強大国のものとなる。そして小国強大国に吸収されるか、さもなくば存在を抹殺されざるを得ない」と。


 長い引用になってしまったが、これらの文章は、後に国家社会主義を生み出すこととなったドイツの思想家を描いたものだといって差し出されたとしても、誰も驚かないだろう。


 ここにきわめて典型的に見られる権力の賛美は、社会主義から国粋主義までを導いているものであり、すべての集産主義倫理的見解に大きな影響を与えているものだからだ。


 ちなみに、小国の権利という問題に関するかぎり、(マルクス主義の)マルクスエンゲルスも、大半の他の首尾一貫した集産主義者に比べてほとんど優れていたとは言えない

 彼らがチェコスロヴァキアやポーランドに関して時折表明した見解は、現在の国家社会主義者の見解とほとんど変わりがないのである。


 ―――集産主義は排他的な権力賛美へと向かう『隷属への道』春秋社、
183頁、185186―――


 ―――英国の自由主義的伝統の復興を『隷属への道』春秋社、
295296頁、301―――


 集産主義
前進することによって引き起こされた、道徳観における変化の一つの面で、現時点でとりわけ考えさせられるものがある。


 それは、次第に尊重されなくなり、その結果ほとんど見られなくなってきたいくつかの美徳は、実を言えば、かつての英国人自負していたものだ、ということである。


 彼らの自負間違っていなかったし、他国の人も、その点で彼らが勝っていることは認めていた


 彼らは、スイスオランダといった小国の少数の人たち除けば、他の大半の国々の人よりはるかに高い程度にまで、それらの美徳を身に付けていた。


 それは、個人の自主独立性自立の精神、あるいは個人的なイニシアティヴやそれぞれの地域社会への責任感、様々な問題をうまく解決しうる個人の自発的な活動に対する信頼隣人に対する不干渉、普通と異なっていたり風変わりな人々に対する寛容習慣(=慣習)や伝統に対する尊敬、権力や政府当局への健全な猜疑心、などといったことである。


 英国
国力特性、そして成功は、各個人の自発性養成されてきたおかげによるところが大きい。


 ところが、英国人のこのような偉大な道徳が、その最も特徴的な表現として生み出してきた伝統や制度のほとんどすべてが、そしてまた、ひるがえって、英国国民性を形作り、英国道徳的風土の全体を形成してきたそれらの伝統や制度のほとんどすべてが、集産主義の発展と、それに本質的に内包されている中央集権的傾向とによって、次から次へと破壊されてきているのだ。


 ・・・イデオロギーの戦争で成功を収めて、敵国の高貴な市民たちをわれわれの味方とすることができるようになるためには、英国過去においてその確立と維持のために闘い抜いてきた伝統的な価値観に対するわれわれ自身の信念を、何よりもまず回復しておかなければならない。


 そして敵が攻撃してきても、これらの理念をびくともせずに守り抜いていく道徳的勇気持たなければならない


 ・・・重要なのは、英国自由で高潔な国家とし、英国人たちを寛容の精神満ち自主独立の精神溢れさせる人々としてきた、これまで述べた様々な伝統に対する、英国人たち自身による揺るぎない信念なのである。


 ―――英国の自由主義的伝統の復興を『隷属への道』春秋社、
295296頁、301―――


 以上、引用文中の( )内は私
〔=ブログ作成者〕の補足説明である。


 私
〔=ブログ作成者〕の意見


 『隷属への道』からの上記三つの引用文ハイエクが説いている内容は、すべて
21世紀現在の日本国及び日本国民に対してそのまま当てはまるのではないか。


 特に、三つ目の引用文は「英国人」を「日本国民日本人」に置き換えて読めば、現在の日本国民遠い過去に置き忘れてきた大切なこと」を思い出させてくれるのではなかろうか。


 と、〔=ブログ作成者〕は思うのである。


【平成
23年(2011年)58日】


エドマンド
バーク保守主義者(神戸発) 

 
スポンサーサイト

テーマ : エドマンド・バーク保守主義
ジャンル : 政治・経済

コメント

Secret

プロフィール

バーク保守主義(広報部)

Author:バーク保守主義(広報部)
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。