保守主義の哲学シリーズⅡ-1‐‐‐「米国保守主義の父」アレクサンダー・ハミルトンの哲学と米国憲法


「米国保守主義の父」アレクサンダー・ハミルトンの哲学と米国憲法

本章の第一目的は、米国保守主義について、特に、米国建国の父/米国憲法起草の主要人物である、「米国保守主義の父アレクサンダー・ハミルトンの「政治哲学(ハミルトン哲学)」及び「米国建国における米国憲法の思想原理」について、中川八洋 筑波大学名誉教授著『保守主義の哲学』(PHP研究所、2004年)(※1)及び『正統の憲法 バークの哲学』(中公叢書、2002年)より、部分的に引用・再構成させていただき、読者にできるだけ解りやすく説明し、さらに「ハミルトン哲学」に照らして、現代日本政治の諸問題を取り上げながら、事実に即する範囲内において「実名」を挙げ、政治家、学者、マスメディア関係者等の虚妄の言説や行動について、批判的考察を行う

第二の目的は、米国憲法の最高無比の義解書である、A.ハミルトン/J.ジェイ/J.マディソン著(斎藤眞・中野勝郎訳)『ザ・フェデラリスト』(岩波書店、1999年)の中から、重要な「憲法思想」及び「統治機構論」を抜粋し、その原理に照らして、現代日本の政治社会の動向を概説し、米国憲法「原理」と日本国憲法「思想」との比較を試みるものである。

なお、米国憲法を「原理」とし、日本国憲法を「思想」としたのは、米国憲法が“英国コモン・ロー”を起源として明文化された“準コモン・ロー”であるのに対し、日本国憲法の多くの条文が正しい憲法原理でなく「フランス革命的異端思想」に基づいているからである。

以上は、恐らく非常に有益な試みであるが、壮大な試みであり、かなりの困難を伴うので、膨大な論文量となると思われる。大略の構想は私の頭の中で既に出来上がっているが、あとは如何にして皆さんに体系的に解りやすく構成し、解説できるかが不安の種である。

しかしこの試みは、必ずや私にとっても、保守主義の哲学「正しさ」を信じる読者の皆さんにとっても非常に有益な作業になると確信している。

なお、私のブログは、本来のあるべき、日常の政治的出来事に対する「批判日記的」な意味でのブログとは異なり、ある種の「学問のホームページ的」なものとなっている。

これは、このブログの目的が、日常的に起こる、各種の政治的出来事に対する批判を毎日、毎日感情論的に書くことでなく、そのような政治的出来事に、(私も含めて)皆さんが感情論でなく、「保守哲学」という「正統な哲学原理」に基づいて批判ができるようになってもらうために「保守哲学の概念」を習得してもらいたい趣旨で作成しているからである。

そのため、論文量が多くなり、読者が読破するのに苦労を要するであろうが、それが学問の本質である。ご容赦願いたい。

 

1)ハミルトン「自由の哲学」---「美徳に導き、悪徳を矯める」

  

保守主義の政治思想は、“美徳に満ちる自由社会”、つまり、“コインの表裏の関係にある道徳を伴う自由が、世襲の原理によって祖先から子孫に相続する間に、道徳が美徳へと昇華された自由社会”を創造し、子孫へそれを世襲(相続)することにある。

ハミルトンバークとともに、この原理原則に最も忠実であり、誠実であった。新しく生まれる米国の統治機構は、このような、国民全体の道徳性の向上と自由の擁護を同時に果たすものにしなくてはならぬとの、ハミルトン政治哲学は理論に終わるものでなく、絶えず実践された生きた哲学であった。

政府の政策は道徳的義務から逸脱してはならぬとのハミルトンの主張には、まるで「孔子の化身」かのごとき、ハミルトンの真骨頂がにじみ出ている。

ハミルトン曰く、

 「公共全体の美徳と公共全体の幸福とが密接に繋がっていると考えている人々の心情からしても、もし政府が道徳的義務の原理に背反する政策をとれば、国民の中に政府に対する強い嫌悪感情がまきおこるだろう 


日本の政治家、政府の政策、有権者(国民)、マスメディア等の「倫理性」「道徳性」 

日本では、政治家個人の汚職や不倫事件などに対して、鬼の首を取ったように「政治家の倫理はなっとらん!」との批判の声がすぐに上がるが、「政府の政策の倫理性」に対しては、ほとんど批判もなければ議論にもされたことがない。

そして、逆に、政治家を批判する側の、現在の日本国民の大多数に「政治家の倫理性」あるいは、「政府の政策の倫理性」を「判断する能力」があると言えるのだろうか。こと、政治に関しては、私にはとてもそうは思えない。

政治家に関して近時の例を挙げれば、なぜ、どのような倫理基準で、日本国民は、「愛や友愛」などという、感情論で物事を発言し、その発言がこれまで何度も二転三転して迷走し、挙句の果てに「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」などの暴言を吐く、鳩山由紀夫などを日本の総理に選ぶことができるのか?

日本列島は日本人だけの所有物じゃない」という発言を、仮にスターリン毛沢東が現在も生きていて、聞いたとすれば、即刻、日本はロシアか中国に占領されるだろう

なぜなら、この発言は、裏返せば「日本列島は、ロシアや中国の所有物でもある=好き勝手に占領することを認める」という意味になるからである。このような軽率極まる発言は、日本国民として、最も不倫理的・不道徳的行為であろう。

また、小沢一郎への西松建設からの政治献金問題然り

陸山会の資金管理は第一秘書に任せていたので、私はその中身について全く知らない」とか「西松建設がOBらを代表とした政治団体(「新政治問題研究会」・「未来産業研究会」)がどのような団体であったのかいちいち関知していない」。

このような屁理屈が、世間一般で通用するのか。政治家はいろいろと資金がいるのは分かる。だからこそ、資金が必要な時に資金管理者に「現在の資金状況はどうか」と確認するのが常識ではないか。そしてその問いに資金管理者は、「どこそこから、いくらの献金があって、現在残高はいくらです」と必ず説明するはずである。そのようにして政治家本人が、現在動かせる手持ち資金を確認し、把握していなければ、政治活動などできないであろう

われわれ一般国民が、なにかの行為にお金が必要になった時、自分の銀行の預金通帳を、たとえ妻(あるいは夫、親など)管理しているからと言って、口座の預金残高や入金先や振り込み先を自分の目で確認しないはずがないであろう。

例えば、私が、資金管理を妻に全面的に任せており、私は預金残高が400万円くらいあると想像していたとする。そして妻に「事業で300万円が急ぎで必要なのだが、預金残高は今いくらある?」と尋ねたとする。すると妻が通帳を見て「今、200万円しか残高がないから、300万円は調達できない」と答えたとする。私はどうするか。当然驚いて「ちょっと通帳を見せてくれ、そんなはずはないだろう。○月○日に100万円が●●会社に支払われているが、これは何のお金だった?」とか言う具合に必ず確認するはずである。いや、必ずしなければならないではないか。「関知していない、知らない」では、300万円の事業資金調達ができないではないか。

それを「いちいち関知していない」と平然と言いのけて、トカゲ(第一秘書)のしっぽ切りで済ませてしまう。そして、このような「最たる不倫理的、不道徳的行為」をマスメディアも世論もそれ以上追及もしない

子供たちがこれを見たらどう思うであろうか。

政治家は先生と呼ばれ、何でも秘書の責任にすれば、罪も問われずに何でもできる(お金も集められる)のか。自分もそんな政治家になってみたい」と思うのではないか

そして、このような人物を、国民は議員に再選させ、彼が民主党の幹事長に就任するのだから、日本国民の側にも総体的には道徳も倫理もないと言えるだろう

しかも小沢は、事件が発覚した時、検察の捜査について「不公正な国家権力、検察権力の行使」と述べ、検察を批判した。政治資金規正法違反の確固たる証拠を検察が掴めば、その捜査に入るのは法治国家として当然の司法行為ではないのか。そのような、法治主義の原則を理解できないどころか、「不公正な」とまで暴言する。一体、何を基準に「不公正」と言っているのか。

一般国民の場合、ある人物の犯罪容疑の確固たる証拠を警察が掴めば、すぐさま家宅捜索令状や逮捕令状が発せられ、警察は問答無用で家宅捜索に入り、容疑者の身柄を拘束する。容疑者の証拠隠滅や逃亡を阻止するためである。警察の当然の司法行為である。というより、それが警察権力の存在理由そのものである。一体、小沢の場合に限って何が、どのような基準」で「国家権力の不公正な権力行使」なのか。これだけ見ても、小沢一郎の政治道徳とは限りなくゼロに近い。

そして、事件発覚後、彼を批判すべきであるはずのマスメディアは「朝日」を中心として逆に検察批判に力を注いだ

この事実を見れば、マスメディアにも、それに煽動されるままに行動する日本国民にも総体的に政治的「倫理性」も「道徳性」も皆無である

倫理的・道徳的な政治を体現する」、「国民の世論を倫理性・道徳性へと指導するのが有能な政治家の条件である」という概念が現代日本人には全くない。

日本社会はもうすでに無神論/唯物論/道徳否定主義の「共産主義社会」に近付いている

 

ところで、私は、多くの日本国民に問うてみたいが、あなた方が主張する政治的な「倫理性」とか「道徳性」の「正しさの判断基準」とはいったい何なのか、答えられますか

つまり、あなた方が、「私の政治判断は正しい」、「あの政治家の言っていることは正しい」、「この政策は良い政策だ」、「自民党は正しい」、「民主党は正しい」、「マスメディアの意見(テレビの司会者や新聞の社説等)が正しい」と言う時の「正しさ」の「根拠(拠り所)」、「判断基準の出所」を答えられますか。

それは、

論語」ですか?

仏教」ですか?「キリスト教」ですか?「その他の宗教」ですか?

何か自分が信念として持っている政治的イデオロギーとか哲学」ですか?

親や学校から学んだ道徳」ですか?

いや、戦後、学校では「道徳教育」など一切行っていませんよね。

では、「テレビのワイドショーの論評」ですか?

テレビのニュースの解説」ですか?「テレビの政治討論番組」で すか?

週刊誌のネタ」ですか?「新聞の論評・社説」ですか?

マスメディアの行う世論調査」ですか?「国民の多数意見」ですか?

世論の雰囲気」ですか?「その時の一時的な世間の流行」ですか?

有名人(旬の人)の言うことだから」ですか?

自分の直感」ですか?

自分の利益の損得勘定」ですか?

公共の善」ですか?「国家・国民の利益」ですか?

これら以外の何か」ですか?

残念ながら、大多数の国民が、

テレビでそう言っていたから

新聞にそう書いてあったから

そんなことよく解らない

そんなこと深く考えたこともない

その政治家が単に有名人だから、芸能人だから

みんな(世論)がそう言っているからなんとなく

流行現象が正しいと思ったから

その場の雰囲気

そんなこと真剣に考えていられるか!

単に天才のオレの頭脳が正しいと思うから正しいんだよ!

などとしか答えられないのではないか。

そのようなものは、政治的な「倫理性」や「道徳性」の「正しさの判断基準」とは決して言わない

なぜなら、テレビの政治討論番組の司会者やコメンテーターの解説や新聞の社説や有名人の発言が「政治的に正しい」という根拠など、どこにもないからである。

そのような類のものは政治や政策の正誤・善悪の判断基準にするべきものではない。すべて、彼らの個人的な「参考意見」にすぎない

それらの媒体が企図していることは、国民に「正しさの判断基準」を与えるのではなく、国民に「自局の、自社の、自分の考える“正しさらしき、個人的見解すぎないもの”」を押し付け、社会(国民)をその方向に誘導し、煽動したいだけである。その煽動に国民が幻惑された結果が、一時的な流行現象(熱情や衝動)や世論として社会の表層に出現するのである。だから、この一時的な流行現象(世論)もまた、「正しさの判断基準」とはなり得ない。

こんな有様だから、上記のような「不道徳極まる政治家」が平然と国会にのさばる結果になるのである

そして、もしそれらマスメディアや特定の個人が国民に押し付け、あるいは煽動する「政治的“正しさらしき個人的意見”」の中に「何らかの悪意」が混入されていたら、どうなるであろうか。

その国家・国民は、その悪に煽動され、間違いなく亡国へと直進するであろう

私が、繰り返し述べている、政治的な「倫理性」や「道徳性」の「正しさの判断基準」とは、一見正しく見える、ある言説(個人的見解)の中に、この「何らかの悪意」があるか否かを見抜く能力・洞察する基準のことを言っているのである。これを真の「政治的判断基準(判断力)」と言うのである。

真の政治的「倫理性」や「道徳性」の「正しさの判断基準」とは、自国あるいは他国の過去の政治的経験の積み重ねを詳細に観察し、考察することによってのみ、見出されるものである。

そして、そのようにして見出された「正しさの判断基準」で政治の良し悪しを考えるのが「保守主義の政治哲学」なのである。

しかし、「政治哲学」には、他にもさまざまな「イデオロギー」がある。「社会主義(平等主義)」「共産主義(マルクス主義)」「マルクス・レーニン主義」「アナーキズム(無政府主義)」等々がある。

これらの政治哲学は、「人間の理性の完成性」あるいは「完成された、誤謬を犯さない人間理性(=自分の頭脳の完璧な数学的論理証明能力)」を唯一政治的な「正しさの判断基準」とするため、過去歴史や祖先の叡智など一切顧みない逆にそれらを「悪」として切り捨てる。極論すれば、「ルソーの考えのみが正しい」「マルクスの考えのみが正しい」「レーニンの考えのみが正しい」など、まさしく「単に天才のオレの頭脳が正しいと思うから正しいんだよ!」的な、傲慢極まるイデオロギーである。

過去の経験(=歴史・伝統・慣習などの祖先の道徳基準の叡智の集積である“法”、“コモン・ロー”)を政治的な「正しさの判断基準」とする、政治思想は唯一「保守主義(自由主義・伝統主義)」のみである。そこには、必然的に「祖先及びその遺産への崇敬の念」、「子孫の繁栄への責任の念」が発生する。まさしく、バークやハミルトンの言う、「道徳的責任(義務)感」の政治哲学である。

よって、私は政治的「倫理性」や「道徳性」の「正しさの唯一の判断基準」である「保守主義」、特に英国の「エドマンド・バーク保守主義」及びアレクサンダー・ハミルトンに代表される、「米国保守主義」の哲学を広く日本国民に知ってもらうためにこのブログを作成しているのである。

この「保守主義」の物事の見方・判断の基準を身につけると、テレビのニュース司会者の言説がいかに左翼的な偏見に偏っているか、ある種の政治討論番組の司会者の言説がいかに左翼への世論誘導的な言説か、ワイドショーのコメンテーター(評論家・学識経験者・タレント等)の言説が如何に根拠薄弱でかつ世論煽動的かあるか、政治家の言説を少し聞くだけで、その政治家の思想本籍が何であるか、等々を判断できるようになる。少なくとも、私は判断できるようになってきた。それを皆さんに、このブログの「保守主義の哲学シリーズ」で、中川八洋先生の著作群と世界の保守主義者たちの著作群の総力を借用しながら、伝えていきたいと思っている。

ちょっと、一例。田母神論文が問題になった時の「朝まで生テレビ」の討論中、あるゲストから「コミンテルン(=ソ連共産党国際部)」という言葉が出た。

「日本共産党」の正式名称は「コミンテルン日本支部」というのが正しい。この時、司会者の田原総一郎の反応は、一瞬ためらって、「コミンテルンって何?」と白々しく知らぬふりをした。

朝日テレビの司会者がコミンテルンを知らないわけがなかろう。この意味で彼は国民を騙したと言える。

しかし、この推論が間違っていて、本当に彼がコミンテルン(政治学の基礎中の基礎。というよりこれ知らずして昭和・平成日本の政治など一切語れない)を知らなかったとすれば、その時点で「彼は政治討論の司会者の資格・能力は全くない」ことになる。コミンテルンを知らずして、何が政治討論番組の司会者かと言いたい。

私は瞬時にそう感じたし、私がその場にいれば、すかさず、彼にそう言って、その場から退場するように促したであろうが、愚かにも、誰もそのような反論ができなかった。

私が言いたいのは、つまるところ、田原総一郎などはその程度の人間であり、彼の言説など信用するに値しないし、司会者としての能力もないのだから、くだらない政治討論番組の司会者など止めてしまえ、ということである。

ちなみに、小沢一郎のことを「ぶれない政治家」などといって国民に虚偽のアピールをし続けたのも田原総一郎である。

極左」の中曽根康弘をテレビ番組に頻繁に出演させ、さも「保守の哲人」であるかのように国民にアピールし、中曽根に左翼的主張をさせることによって「極左思想」を「保守思想」にすり替えて国民を欺くといった手法のも彼の常套手段である。

しかし、実際の小沢一郎の政治経歴をみれば、「ぶれまくりの政治家」というのが真像であろう。

例えば、1993年の細川政権誕生の時の例を一つとっても、小沢一郎(当時、新生党党首)は社会党と手を組んだではないか。

一時期「自由党」を結成した小沢が、なぜ「社会党(平等主義)」の土井たかこや「新党さきがけ(リベラル=左翼)」の武村正義などの極左人と手が組めるのか。

「自由」と「平等」は二律背反、水と油である。そのような人物をよくも「ぶれない」などと言えたものである。

なお、英米では真正自由主義のことを「conservatism(保守主義)」、左翼的自由主義1980年代以降は蔑視的ニュアンスで左翼という)のことを「liberalism(リベラリズム)」という。日本でも「リベラル」とは自由主義でなく左翼のことである。

中曽根康弘も彼の憲法改正案や総理時代の数多くの行動が証明している通り、まぎれもない「極左思想家」であるのが真実である。

※1)保守主義の哲学を「概観」したいならば、中川八洋先生の上記『保守主義の哲学』を読むのが、最短コースであろう。

 しかし、そこに私は二つの注意を読者に促したい。

 一つは、上記『保守主義の哲学』を読む前に、①中川八洋(敬称略)著『正統の憲法バークの哲学』(中公叢書)②中川八洋(敬称略)著『正統の哲学 異端の思想』(徳間書店)の二冊は必ず読んでおく方がよい。

 『保守主義の哲学』の中には、いろいろな政治哲学用語(思想)が出てくる。例えば、デカルトの「設計主義的合理主義」、ルソーの『社会契約論』、フランス革命、全体主義、主権、社会主義、進歩主義、ヘーゲル哲学、共産主義・・・等々である。

 これらの定義は、電子辞書やインターネット(フリー百科)でさえ、その意味を定義する人物の「思想偏向」によって「歪曲した定義」がなされているのもが非常に多い。

 しかし、中川八洋先生は、私が先生の著作を読む限りにおいて、ある一つの政治思想を定義し解説するために、膨大な著書の読破し研究し考察をされた上で、きわめて現実的で適確な定義をされている。

 例えば、「ポストモダン思想」という「アナーキズム、ディアスポラ(祖国なき地球放浪者)、廃墟思想」である現代哲学思想を解剖し、批判するために、その関連図書を「千冊近く」読まれたそうである。

 上記の二著書は、これらの政治哲学用語(思想)が解りやすく厳密に定義してあるので、『保守主義の哲学』を読む前に是非読んでおくべきである。

(注)私は、中川先生の著書の宣伝をしているのではない。読者が真の「保守主義」を理解するためのアドバイスをしているだけである。

 二つ目は、上記の中川先生の著作を三冊、読んで「保守主義」が解った、と自信をもつのは愚か者である。

 なぜなら、「保守主義を頭で理解したということ」と「その保守思想を生かして、社会で起こる様々な事象に対し、その事象が、正しいか誤っているか、判断し意見できること」とは全く別だからである。

 「保守主義」が解ったというのであれば、ある社会的・政治的事象に対して、自分の判断を下す時、その「判断の基準・土台」が「保守主義の哲学の中」になければならない。

 「AはBである」が正しいか、誤りであるか、の「判断基準」を「自分が身に付けた保守主義の原理の中から、引き出せるか、見つけ出せるか」が重要なのである。

 そのためには、上記の中川先生の三冊の著作だけ読破して充分とは決して言えないであろう。

 大胆に言わせてもらえるならば、中川先生の著作から学ぶ「保守主義」は「真正の保守主義」であろうことは、90%以上間違いないと確信するが、それは、あくまでも中川先生が研究し解釈された「90%真正保守主義」である。残る10%の真贋は自力で、探求し続ける努力が必要であろう。そこには、新しいコモン・ローの発見があるかもしれない。

 また、逆説的であるが、保守主義は「人間理性の不完全性」を前提とするから、完璧な「真正の保守主義」が存在すると言うのは自己矛盾である。

 しかし、他の「似非保守主義」と比べれば、より「真正の保守主義」に近い「保守主義」は必ず存在するはずである。

 私は、その「真正の保守主義」の基準と言えるであろうものが、「エドマンド・バーク保守主義」及び建国時の「米国保守主義」にあると信じる。

 さらに、日本の歴史と国体を考慮すれば、「英国のバーク保守主義」の方が、より日本に適するであろうと考える。

 だから、その研究の第一人者である中川八洋・筑波大学名誉教授の「バーク保守主義」を信頼するのである。

 中川八洋先生の著作群が「バーク保守主義」の政治哲学の正しさを90%程度まで証明してくれているので、残り10%を自分で探求し続けることが、重要なのである。

 しかし、「人間理性の不完全性」故に、その探求に終わりはないであろう。が一歩一歩、前進するしかない。

 そのための方法としては、バークやハミルトンを含む世界の保守主義者の原著(邦訳版)を読み、そこに共通する保守主義の原理を発見することである

 バジョット(彼は保守主義者かどうかは少し疑問だが、間違いなく保守的である。)の『英国憲政論』、ハミルトンらの『ザ・フェデラリスト』、バークの『フランス革命の省察』、・・・これら「良書」は、中川先生の上記三冊の著作のなどの中に一覧表があるので、参考にすれば良いと思う。私も現在、これらを一冊一冊読破中である。

 中川先生の著作はかなりの数を読破した。が、それでも、このブログで自分が書いている考察が、バーク保守主義から乖離していないか、読者に誤謬を伝えていないか、誤解を与えていないか、繰り返しチェックし三省し続けている。

 最後に、ある程度の量の良書を読み、保守主義の考え方が解ってきたら、逆に「悪書(これも中川先生の上記三冊の中に一覧がある)」も読んでみて、私が前回ベンサムの『憲法典』に対して行ったような批判を「保守主義の判断基準」で書いてみるのも面白い。

 こういう練習によって、バーク保守主義による左翼(極左)勢力の言説への論駁力が身につくと思う。 

  

 


 


 ハミルトン保守主義は、次回Ⅱ-2へ続く


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ジャンル : 政治・経済

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