保守主義の哲学シリーズⅡ-3‐‐‐「米国保守主義の父」アレクサンダー・ハミルトンの哲学と米国憲法


「米国保守主義の父」アレクサンダー・ハミルトンの哲学と米国憲法(其の3)

 

 「政治における自由なくして道徳はない」「道徳なくして政治社会の自由はない」という自由社会の一大原理とは、自由と道徳がコインの裏表であると認めることでもある。

 そしてハミルトンは、この自由を擁護すべく、「法の下の自由」「法の支配による自由」を呼びかけ、また自由とは、世界中の人類に普遍的に附与されるものではなく、「良き統治の国家」の国民に限定されて享受されうる国家単位のものであることをはっきり指摘する。

 

 バークは、自由とは「英国民が祖先より相続した権利」だとして、国家に限定されて存在すると正しく定義したが、同様にハミルトンも「ある政府下の国民が共通して享受する特権であると定義した

 ハミルトン曰く、

 自由の本当の意味は、同一の政府の下にある臣民(国民)が共通する特権を享受できることである

 

 こう考えるならば、自由は一国の統治の良し悪しに左右されることになるから、“良き統治こそ自由の砦”となる。

 ハミルトン曰く、

 我々の自由を永続させ、我々の幸福を保証するために我々は何をすべきか。答えは“宜しき統治”であろう。それによって、内なる不満と外からの敵意という恐怖から解放される

 むろん、自由の擁護の原理とは「法の下の自由」のことであるから、ハミルトンは“憲法の遵守”“法の遵守”を国民に呼びかけることも忘れない。そして、「人による政治」を排した「法による政治」こそ、自由であるという、英国の思想家・法曹家によって再認識され続けた普遍的な自由の原理(=法の支配)を、ハミルトンもまた述べる。

 このことは、米国建国の父たちのほぼ全員にとって、コモン・ロー法曹家であるエドワード・コーク『英国法提要』ウィリアム・ブラックストーン『英国法釈義』座右の書であったことからも当然の帰結と言える。

 ハミルトン曰く、

 政治には二タイプある。“強制力による政治(government of Force)”と“法による政治(government of Laws)”である。前者が専制体制であり、後者を自由の統治という

 また、自由擁護のために保守主義者がなべて拒絶する平等」についても、ハミルトンは自由の原理と平等・不平等の関係において、平等は自由を侵害すると述べている。

 自由とは自己に課す、他者との不平等の要求であり、自由社会とはこの個人の不平等への努力を擁護する社会である。例えば、金持ちになりたい、一流のスポーツ選手になりたい、音楽・芸術などのアーチストになりたい、俳優・女優になりたい、政治家になりたい、パイロットになりたい、宇宙飛行士になりたい、教師になりたい、医者になりたい、・・・などと夢を持ち、心に誓って努力し続けることは自由である。しかし、その結果は必ず他者との不平等を生じせしめる。自由と平等の不両立性はかくもはっきりとしている。

 ハミルトン曰く、

 財産の平等はありえない。自由のあるところに不平等が存在する。不平等はまさしく自由があるから不可避的に発生する


 つまり、もっとかみ砕いて説明すれば、自由主義社会では、不平等が認められる社会(国)であるから、国民はそれぞれの夢を持ち、それをかなえるために努力する自由が認められるのである

 逆に、国民に平等を押し付ける平等主義社会(国)においては、不平等であることが許されないから、国民にそれぞれの夢を持ち、それをかなえるために努力する自由を与えない。

 なぜなら、国民にそれぞれの夢とそれをかなえる努力の自由を与えれば、国民全体の平等が崩壊するからである

 

 この極めて単純な公理を見るだけでも、自由主義社会平等主義社会社会主義社会・共産主義社会)のどちらの国民が活力を持って生きられるか、生きることに喜び(価値)を感じられるか明白であろう。

 こういうと、日本の平等主義者はすぐに「格差社会」という概念を持ち出して、「勝ち組はいいけど、負け組はどうなるのだ」と反論する。

 これには、私が明確な答えを与えよう。

 あなた平等主義者)の言う、負け組とは何か。人生を通じて一生負け続ける人間のことを言うのか。それとも人生の中でほんの数回、勝負に負けた人間のことを言っているのか。

 そもそも、社会のどの階層と階層を比べて勝ち組とか負け組と言うのか。

 努力する“法の下の自由”が常に与えられている自由社会で、努力しても、しても、一生負けっぱなしの人生など絶対にあり得ない

 もし、そのようなことがあり得るとすればその人の努力が足りないだけでそれ以上でも以下でもない

 次に、人生の中で数回勝負に負けたことがある人をもって、負け組と言うなら、およそほとんどすべての国民が負け組である

 例えば、超一流の(成功した)スポーツ選手でさえ、プロ野球の清原選手やマラソンの高橋尚子選手など、他多数の選手を見よ、成功・挫折の繰り返しではないか

 

 また、バブル景気で一時的に大金持ちになった人間ですら、バブル崩壊後、何人の人間が自殺したことか

 

 芸能界も同じで、アイドルやモデルや芸人を目指して努力しても表舞台に立てるのはほんの一握りであり、その栄光も長続きする者はさらに一握りである。

 

 しかし、あきらめずに努力すれば、復活する者もいるし、エド・はるみのように20年間努力し続けて、やっと日の目を見る者もいるではないか

 

 政治家も当選・落選の繰り返しであるし、故・中川昭一氏のように落選した挙句、その疲労と持病の悪化が原因で若くして亡くなる政治家もいる。彼のような、有能な保守政治家を失ったことは、日本国・日本国民にとって大いなる損失である。ここに深く、深く哀悼の意を表したい

 最後に、そもそも、平等主義者は勝ち組と負け組とをどのような階層の区別をもって言っているのか何を持って勝ち負けの判断としているのか

 少なくとも現在、日本の平等主義者が言う勝ち負けの判断基準は、私有財産(特に俸給)の多少(=不平等)であるとしか考えられないが、それは自由主義社会における自由と個人の才能と努力の当然の結果であって否定されるべきものではない

 そして、各分野で最も成功している人間の間でさえ、獲得する私有財産量(俸給)は大きく異なる

 例えば、スポーツで言えば、メジャーリーグのイチロー選手もプロゴルファーの石川遼選手もアイススケートの浅田真央選手皆、その分野でトップクラスの成功者であるが、獲得している俸給は、全く異なる

 平等主義者のいう俸給(私有財産)的な勝ち負けを適用するなら、おそらく、イチローが勝ち組、石川遼は中間組、浅田真央は負け組になる。

 しかし、彼ら三人は、一般サラリーマンの俸給からすれば、トップクラスの勝ち組になる。

 

 超一流のスポーツ選手の中だけでもこのような不平等があるのだから、スポーツ界、芸能界、音楽界、会社サラリーマン、自営業・・・からなる社会全体においては、「誰と誰を比較する」のか、「どの分野と分野」を比較するのか、という組み合わせ方によって、ありとあらゆる、無限の不平等が存在する

 そのような社会において、どの分野のどのグループを「勝ち組グループ」と区分するか、逆にどの分野のどのグループを「負け組グループ」として区別するかなど不可能である

 それらを単純に、例えば、年俸1,000万円以上の人を勝ち組、未満の人を負け組と線引きして「格差・不平等」と非難するのであれば、余りにも下賤で愚劣な乞食の発想である

 それは、結果の「不平等」だけを見て、結果に至る過程にある“自由”と“自由の下での個人の努力(の不平等)”を全く無視した暴論である

 以下に私が「平等主義」の本質を定義する。

 『平等主義』とは、自由主義社会における“法の下の自由”と“その自由の存在においてのみ許容される、個人の「能力の開花」と「不断の努力」”によって勝ち取られた“個人の成果”に対して、恣意的に“個人の「能力の開花」や「不断の努力」”を無視し、“個人の成果”の“不平等”のみを嫉妬し、非難する『下賤な嫉妬の哲学』にすぎない。

 さらには、その下賤な嫉妬の矛先を「個人の能力や不断の努力」向ければ、逆に「自己の人間性・道徳性の賤しさ」を他者から攻撃されるために思惟的にそれを避け、そのやり場のない矛先を卑怯にも「個人の能力や不断の努力」の土台となっている“自由主義社会”の“自由そのもの”にすり替えて非難・罵倒するという人間性・道徳性の腐敗の極みである。

 つまり、適確に表現すれば、『平等主義』とは、『下賤な嫉妬から発する苛立ちや憤慨の自己責任を放棄し、その責任を“自由”に転化する人間性・道徳性の腐敗イデオロギー』である

 自由社会に生きるなら、夢を持ちそれに向かって努力せよ。一度や二度夢に破れても何度でも挑戦せよ。そこに人間の生きる価値と美徳が開花するのであるそれが自由主義の本質である

 平等主義とは、人間の生きる価値を略奪する凶悪イデオロギーである。平等主義社会の行き着く先は、生きる価値を喪失し、活気も無く、夢も無く、ただ国家の平等命令に従って働く、ロボット化された人間の社会である。ロボットの体内には魂はなく、寿命が切れるのを待つ電池があるだけである。

 日本人は、この「平等」とか「平等主義」という精神疾患哲学者ルソー考え出した魔語に非常に弱い。

 しかし、この「平等主義」を国家が国民に強制した時に起きる恐怖には、ほとんど無関心である

 国家が「国民に完全平等を強制すること」は、端的に言えば、「国民に自由を全く与えない」ということである。

 それでは、「国民に自由を全く与えない」とはどのような社会形態か。

 これがいかに恐るべき社会形態であり、多くの他国で過去に起こった、そして現在も他国で起こっており、そして近い将来日本にも起こりうる社会形態であることを心において以下を読んでもらいたい。

 まず、それは国家が個々の国民を常時監視するという状態である。家庭内の行動もすべて監視カメラなどで監視することから始まるだろう。なぜなら、こっそりと家族の間で、特に親と子、祖父と孫の間で、国家の命ずる平等の概念以外の会話をしたり、教えたりすることは国民の平等を破壊する可能性があるからである。

 同じ理由で、家庭内のテレビ番組も、ラジオ放送も、インターネットも内容が制限されるだろう。

 表現や出版の「自由」など決して認められないだろう。理由は述べるまでもない。

 次に近所への外出も監視され制限されるだろう。なぜなら、公園に近隣の主婦が集まったり、公民館で町内の人間が集まったりして、国家の平等政策を批判したり、破壊するような談合をされては困るからである。

 次に食糧は配給制になるだろう。なぜなら、どの家庭も毎日食べる物は平等であり同じであらねばならないからである。ある家庭に贅沢を認めれば、他の家庭も真似をし、平等が破棄されるからである。

 次に、奢侈品などの買い物も制限されるだろう。贅沢品の買い物は、平等にとって害悪そのものであるからである。同じ理由で、商品を売る側も売ってよい商品を国家に指定されるだろうし、商品に利益を付加することも制限されるだろう。高い利益は、不平等を生む根源だからである。

 次に、旅行も制限されるだろう。特に、自由主義国への旅行は禁止されるだろう。なぜなら、自由主義国の人々が享受する自由と活力と繁栄を見聞して帰ってくる人間は、その情報を他者にも知らせるだろうからである。

 次に、仕事も自分のしたい仕事はできないだろう。俸給も国家が指定することになるだろう。仕事で能力を発揮して、他者より高給を得ることは、不平等を生むからである。

 次に、宗教もすべて禁止されるだろう。宗教の教えが平等を批判する可能性があるからである。

 また、多数の宗教の存在を認め、信教の自由を与えることはそれ自体が個人に自由を与えていることになるからである。

 宗教が禁止されることによって、国民の道徳のよりどころは無くなるであろう。

 よってこの国家は必然的に無神論・無道徳国家になる。さらに、無神論・無道徳となった国民は平等主義の拘束性(自由の無さ)に怒りを抑えられなくなり、犯罪や暴動を頻繁に起こすようになるだろう。

 そして政府は、無神論・無道徳の国家は、神を恐れることもなく、道徳心による罪悪感もないから、これらの犯罪者や暴徒を平気で国家の邪魔者・叛逆者として殺戮するであろう。

 国家が強制する完全平等とは、かくも恐ろしいものなのである。 

 このような、国家を皆さんは、どこかで聞見したことはないか?

 そう、旧ソ連、旧東欧諸国、毛沢東の中国、金日成/正日の北朝鮮などの共産主義諸国である。そしてソ連は崩壊したが、共産主義は死んでいない

 日本でこんなことが起きるわけがないと考える人は政治を理解していないし、考えが甘い。現代日本が、もうその寸前まで近づいていることが解っていない。

 日本国内では1990年代以降つまりソ連崩壊以降、つまり細川政権/村山政権の成立以降、世界の流れと逆行して共産主義がウィルスのごとく増殖している。

 日本の共産主義者は、ソ連崩壊後、かつての安保闘争や学生運動ように表立った行動にはでない

 ソ連崩壊後、各種の報告でソ連の上記のような国内事情が白昼の下に晒されたため、表立った共産主義運動ができなくなったからである。

 だから、日本共産党員を除く、隠れ共産主義者たちは自身の共産主義を隠すため、洋画の「プレデター」あるいは動物の「カメレオンのごとく赤色無色に変色させた。

 そして重要なのは、これまでの下からの革命(暴力/言論による国家への突き上げ)ではなく上からの革命(共産主義要素を立法の中に仕掛けて社会を変革する革命方法)に戦略変更していることである。

 1990年代から盛んに唱えられる、改革、改革、改革の呪文とその実行はこの顕著な現れである。

 共産主義者は「公共の善」や「国民の幸福」のために改革を唱えるのではない

 彼らは、非暴力で日本に共産革命を起こすため(=日本を国家が国民に「平等」を強制する共産主義国家に変革ため)に継続的な改革を唱えているだけである。

 なぜなら、共産主義とは極左の「完全平等主義」だからである。

 

 私が先に述べた、平等主義の本質からして、共産主義者が「公共の」や「国民の幸福」など思考できるはずがないであろう。

 ただ単に、「改革の積み重ね=共産革命」という図式で「改革」を唱えているだけある。

 つまり、国家の高級官僚や内閣の閣僚とその下に設置される各種戦略会議や審議会や委員会の委員として、共産イデオロギーを持つ無色化した学識経験者ばかりを意図的に選出し、内閣が国会に提出する法律案の中にこっそりと日本を共産化するための要素を組み込んでいくという戦略に変更しているのである。

 これまで、自民党の国会議員も法律の趣旨を詳細に検討もせず(無能のためできず、が正しい)、自民党の内閣が提出した法案だからということで賛成して国会を通過させてきた罪は重い。

 しかし、民主党の連立内閣には、社会主義者自身が閣僚として入閣しているのだから、さらに危険度は高い。

 例えば、小泉純一郎元総理が、隠れ共産主義者でないのは間違いないと思われるし、そう思いたい。

 しかし、彼がおこなった、日本史上に一人も存在しない「女系天皇」へ向けての「皇室典範見直し論議」などは、その有識者会議8人のメンバーのうち、天皇制廃止論者が5名天皇制護持論者が2名思想不明者1名という内訳である。

 また、廃止論者5名の全てが共産党系か共産党シンパの学者である。

 有識者会議のメンバーの実名を挙げると、天皇制護持論者は大原康男/八木秀次であり、天皇制廃止論者は高森明勅/横田耕一/鈴木正幸/高橋鈜/山折哲夫である。護持論か廃止論かよく解らないのが所功である。

 共産党の「天皇制廃止」やその同調者は、国民の約6%程度と言われているから、8人×0.06=0.48人だから、有識者会議の総数8名のうち、天皇制廃止論者の数はせいぜい1名入れるのが限度である。

 しかし、実際は5名も入っている。このような偏ったメンバー選定をした責任者とその選定理由を良識ある日本国民は政府に問いただすべきである。

 もし、この会議の結果が法案化して皇室典範が女系天皇容認へと改悪されれば、天皇制は廃止に向かって進むしかないところであった。

 しかし神々の御加護と祖先の御霊の総力のおかげで、悠仁殿下が誕生され、とりあえずこの問題は先送りされ、回避された。が、遠くない将来に同じ問題がまた浮上するであろう。

 そして、それまでに日本の保守主義者は皇室を守るため、充分な対策を練っておく必要があるだろう

 そして、良識ある国会議員は、このような「上からの共産革命」の実態を認識し、ある法案が内閣から提出された時、その法案の発出もとの省庁/局/部/課及びその法案を審議した下部組織の委員会や審議会の構成メンバーらの選定基準などを情報公開請求するなどして、その法案の目的と内容を国民に広く知らしめ、それが、共産革命法である場合には、国会通過を断固阻止する必要があろう。

 それができて初めて「有能な政治家」と呼べるのではなかろうか。


 ハミルトンは、若い時から、財産の擁護を自由の擁護と不可分のものとしてとらえていた。

 道徳、自由、財産は、分かち難い三位一体のものであり、この三つの柱があって正しい自由社会が成立する。

 とすれば、このすべて(道徳、自由、財産)の破壊を目的とした1789年のフランス革命は、ハミルトンにとって許容できないものとなるのは当然だろう。

 ハミルトン曰く、

 フランス革命とは、刑務所や牢において、男・女・子どもに関わらず、彼らへの無差別大量殺戮でなかったかそれは革命裁判所の血に飢えた正義、あるいはギロチンによる、おそるべき殺戮ではなかったか」「革命フランスは巨大な怪獣

 とフランス革命を鋭く観察していたハミルトンにとって、フランス革命は生命、名誉、個人の民事上の権利、宗教上の権利を保護し守る法的な安定性を持った効率とバランスのとれた政府を通じての、穏和で合理的な自由の支配体制」とは対極的であるが故に、断固として排除すべきものであった。

 


 

ハミルトン保守主義は、次回Ⅱ-4へ続く

 


 

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