保守主義の父――エドマンド・バークの保守主義(2)

Ⅱ.哲人?狂人? ルソー(全体主義の祖)の『社会契約論』

 ① ルソーと全体主義思想の概要

 ジャン=ジャック・ルソーとは、文明の産物としての政治社会そのものを呪詛し、この政治社会で静謐に生を享受する人間すべてを憎悪し、みずからの妄念を実現すべく、政治社会の破壊と人間の殺戮が自動的に展開されていく新しい「政治体制」を創造すべく体系的な理論化を試みそれに成功した、稀有の大哲人である。かくも“天才の中の天才”であるルソーの真骨頂は、ルソーの著作を読む人をして客観的な観想も、神慮する沈思をも拒絶せしめ、ルソーの狂気に憑かれて社会と人間に対する破壊への停止なき衝動に駆りたててしまう、その麻薬的な魔性である。

 とすれば、これらの著作が存在する限り、ジャン=ジャック・ルソーの頭脳からうまれた、いわば猛毒の血は、悪性ウィルスのごとく幾世代にもわたって人類の体内に遺伝子となって継続されて未来永劫に人類を苛むことになる。現にルソー没から二百年後にあらわれたルソーの最も忠実な弟子たちであるポル・ポト派の、19751978年までの四年間になしたカンボジアでの破壊と酸鼻を極めた大量殺戮の事実は、ルソー哲学のその魅惑的で体系的理論が何であるかを無言の戦慄をもって証明していると言えよう。

 カンボジアのポル・ポト派とは、晩年マルクス・レーニン主義よりルソー主義(ルソー教)へとゆれた中国共産党の最高指導者である毛沢東の影響もあったが、パリのソルボンヌ大学でルソーを熱烈に学んだ共産主義者たちで組織化された政党(政治権力集団)であった。

 もともと、レーニンが構築した共産党による一党独裁という全体主義は、「マルクス・レーニン主義の政治体制」と称されているが、その実態はルソーの『社会契約論』などを教条的に体現した「ルソー主義の政治体制」にほかならない。レーニンの直弟子であるスターリンのさらなる弟子である(レーニンの孫弟子にあたる)毛沢東金日成、そしてホー・チミンなどの独裁体制も、ドイツ人のマルクスエンゲルスやロシア人のレーニンを経由しているにもかかわらず、フランスのルソーの『社会契約論』からいささかも逸脱していない。 要は、政治体制の教義(ドグマ)としては、ルソー主義と(このルソーから発展した)マルクス・レーニン主義との間には何らの差異はなく、同一であるということである。が、経済政策に関してはこれら二つの主義には顕著な相違が存在する。マルクス・レーニン主義とはフルシチョフ第一書記が1950年代に資本主義国との競争政策をぶちあげたことでわかるように、経済的発展(向上)を効率的かどうかは別として目標の一つとする。一方の、ルソー主義は「未開人の社会」「原始的社会」を理想として経済的発展そのものを「非」とする。 ルソー教義のままに、原始への回帰をもって理想の人間性が回復すると信仰するこのルソー主義者(ルソー教徒)の典型は、前述したようにポル・ポト派であろうし、また、「文化大革命」を推進した晩年の毛沢東であろう。ポル・ポト派が都市を憎悪してすべての病院を壊し電気の使用を禁じ郵便ポストまでことごとく破壊したのは、「反・文明」を宗教的理想とするルソーの教義(ドグマ)に忠実であったからである。この意味でカンボジアのポル・ポト派は「ルソー教」における原理主義者(ファンダメンタリスト)たちであった。

 こう言い換えてもよいだろう。ポル・ポト派や、全中国の大学を閉鎖し教育ある人間を山間僻地に流刑(下放)した「文化大革命」の毛沢東の方が「ルソー教」の正統派であり、ロシアにおけるマルクス・レーニン主義の方こそ、その亜流であり、変節的修正派なのだ、と。

 ルソーの哲学体系とは、真実を追求する学問とは次元を異にするのはもはや明らかであろう。それは学問の形式をもった本質的にはまさしく宗教そのものであって、(未開、原始)を信仰する狂った宗教、人類と文明にとっては「悪の宗教」としか形容できない。まさしく近代に生まれた野蛮の宗教、それがルソーの政治哲学のすべてであろう。

 ルソーの主著は、政治哲学の分野においては、『学問芸術論』(1750年)、『人間不平等起源論』(1755年)、『政治経済論』(『百科全書』第五巻、1755年)、『社会契約論』(17624月)、『エミール』(17625月)である。 この五著作を通じてルソーは、深い造詣の学識をもって高邁な哲学的思惟を展開しているが、反体制・政府転覆のアナーキーな自らの政治的情念と、それに宗教団体的な全体主義国家の創造を、煽動的に宣伝(プロパガンダ)しているにすぎないから、これらの思惟全体のかいつまんだ単純化は次のように要約できる。

  A)   近代における「現在の人間」はすべて「悪」である。なぜなら、「悪」の塊である「現在の政治制度」のその「悪」に汚染されているからである。この「悪」となり果てた人間が「善」を回復して「善の人間」になる方法はたった一つしかない。まず、「現在の政治制度」を完全に破壊し尽くすことである。

  B)   次に、この破壊の後に新しく創造される「理想の政治体制」(理想の国家)は、国民すべてが思想・信条に至るまでその全人格を国家に奉納しなくてはならないし、個人的な意志はむろん良心すらも一切持ってはならない。すなわち、理想の国家は、すべての国民がそのすべての自由を放棄し、絶対的指導者(ルソーの言葉では「立法者」)の「法」(命令)にただ盲目的に隷属する、修道院的なあるいは宗教団体の共同生活と同じそんな国家としなければならない。なお、この「立法者」は国民に対して無制限に課罰(国外追放や殺戮)の権限を有してそれを行使できる。

  C)   この「理想の政治体制(国家)」にとっての「理想の人間」をつくるには、まず子供を親や「現在の社会」「現在の学校」(の教育)から分離して「孤児」にして、それをこの「立法者(独裁者)」が「教育(人間改造)」するしかない。しかもこの「教育」は、「現在の政治制度(国家)」と「都市文明」とそれに浸る「現在の人間」とに対する呪いという、憎悪の意識をまず形成することが必要であるとする。と同時に「立法者」の命令(法)に恍惚として従属する、顔のないロボットのごとき「新・人間」に改造するのを次なる目標とする。

 A)無政府主義のイデオロギーであり、B)とC)は全体主義のイデオロギーである。  

 大逆事件秋水1911年刑死)は上記のルソー教義の一側面である破壊主義・無政府主義イデオロギーに強く影響を受けた最初の日本人であった。日本の「ルソー教徒第一号」である。幸徳秋水はルソーについて、自分の師である中江(『社会契約論』を『民約訳解』として1882年に翻訳)から間接的に学んだのであるが中江兆民とは比較にならぬほど師を超えてルソーに迫真してルソー的であった。

② 野獣と原始人──ルソーの理想人間像

 理想の人間像を荒野の野獣(野生動物)または原始人に見出す、あるいは人間の本性に関する哲学的思惟を野獣(または原始人)との比較を通じて追求した哲学者は、人類史にルソーしかいない。これがルソーの『人間不平等起源論』の核心であり、全てである。あのヴォルテールですら、「いまだかつて人間をけだものにみせようとして、こんなに才智が用いられたことはありません。あなたの著作を読むと、ひとは四つ足で歩きたくなります」(1755830日)と素直な読後感を吐露している。ルソーはまた、人間の平等を主張するのにも、動物を基準(モノサシ)にして論じるのである。

 ルソーは言う、人間は、・・・・本来お互いに平等である。それはちょうど、どの種類の動物たちでもさまざまな物理的な原因によって、そのあるもののなかに、われわれが認めるような変種を引き起こす前には平等であったのと同じである」

 ルソーは理想とする人間像として、野生動物と差異のほとんどない「自然人」「未開人」描く。そして「自然人」しか存在しない、仮構上の人類のある原始段階をもって「自然状態」と定義する。つまり、迷信の仮構(ミュトス)にすぎない「自然状態」とは、人間でありながら人間が人間的関係・社会的関係がまったく成立していない状態のことを指しており、これをもってルソーは人間にとって地上の理想郷(ユートピア)と思弁した。

 「自然状態」とは「現在の政治制度」「文明の政治社会」の対極であり、これらがゼロになった状態を意味する。だから、「自然状態」を最高・最善のものとルソーの妄想のままに軽信すれば「現在の政治制度」「文明の政治社会」は唾棄すべき最低・最悪のものに見えてくる。つまり、ルソーは読者をして「現在の政治制度(政治社会)」を嫌悪しそのすべてを破壊する運動に引きずり込む目的をもって「自然人」「自然状態」を理想とし美化する高度な洗脳力の高い政治宣伝のロジックを展開したのである。

 野獣(野生動物)が「自然人」という名の理想の人間であるとすれば、野獣には私有物はなく私有の格差もないのは当たり前だから、この「自然人」の相互間では富において、完全な「平等」が天与に存在する。このことは意味深長で、裏返せば、社会的な完全「平等」とは、人間が人間であることをやめ、野獣(野生動物)になることと同義語だということである。現に、「完全平等社会」を目指した「共産主義国家」において、ソ連であれ北朝鮮であれ、(権力階級を除く)人民はことごとく餓死スレスレに最小限の食糧(餌)にやっとありつく野生動物状態(貧困の完全平等)であったのが実態であり、人間的な尊厳ある生活とは一切無縁であった。

 ルソーは「平等」を志向するあまり結果として人間の尊厳や道徳がなくなる社会を理想としたのではない。全く逆であって、人間の尊厳とか道徳そのものを憎み、これらの存在しない社会を実現するために「平等」という概念を煽動の手段として、でっちあげたのである。 1750年出版の『学問・芸術論』とは、四年後に書き上げた『人間不平等起源論』の前編をなすもので、ルソーの政治哲学に関する処女作である。ここにおいてルソーは、「学問、文学、芸術は、人々がつながれている鉄鎖の上に花飾りをひろげ、・・・・彼らにその奴隷状態を好ませ」るものだ、と人類の文明と不可分にある学問や芸術を、あろうことか逆転させて激越に断罪し、人間の知性や美をことごとくゼロの水準にする未開化とその極限をもって人間の理想だと主張したのである。

 また、仁慈や礼儀あるいは節度などの人間の道徳(美徳)をもって、これこそが(疑心、冷酷、嫉妬、裏切り、・・・・などの)「悪徳」であり人間の「内的腐敗」であると、倒錯して糾弾したのである。つまり、ルソーは、「戦争は平和である」など転倒語法のもうひとりの名人であるレーニンと同じく、(一般通念上の)道徳の完全ゼロをもって「美徳」と定義するのである。(=「無道徳こそ美徳である」と言う。) また、ルソーが動物や原始人を賛美する理由の一つは、それらには善悪の区別が存在しないからであって、善悪の区別の否定をすれば道徳は存在しえないから、マルクスと同じく、ルソーは道徳否定主義・道徳破壊主義のイデオローグである。

 さて、ルソーが理想的人間を論じるに動物を範とするのは『エミール』においても人間の教育を「人間も乗馬のように調教しなければならないと馬の訓練と同一視して論じているから、『人間不平等起源論』だけではない。

③ 私有財産否定の宗教団体──ルソーの理想国家

 ●転倒語法「自由ゼロこそ真の自由」

 ルソーが全体主義国家を構想したのは、ルソー自身が超越的でかつ絶対的な独裁者になりたいというその妄想的な情念、それが原点であろう。この独裁者のもとで支配されるすべての人民がロボットのごとくただ盲目的にルソーのみにかしずく、そのような国家の政治制度を論じたのが『社会契約論』であり、また、そのような国家におけるあるべき個々の人民を論じたのが『エミール』である。だから、『エミール』と『社会契約論』とは相互に連携した、それぞれが主文と前文に当たり、このため同時に執筆されたのである。『社会契約論』は現在の政治社会を打破した後の未来に誕生する人類の理想郷(ユートピア)としての、人民の政治参加による「人民の国家」を装いながら、実は「人民の牢獄」を理想としたものである。

 ルソーの思惟するこの「社会契約」の理想国家(ルソーはしばしば「共同体」ともいう)では、「各構成員(国民)は自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡す」ことになっている。みずからの生命の自由も含めて個人の権利を「すべて譲渡」させられる共同体(国家)をなど、宗教団体か厳格な修道院、あるいは暗黒の暴力団などの特殊な組織以外に存在しえない。例えば、私有財産すべてを入信と同時に寄付することが義務づけられている麻原彰晃の「オウム真理教」はこのルソーの言う「共同体」に酷似してた。 ルソーが、個人がそのすべての権利をも共同体に譲渡することをもって「契約社会」と定義しこれを政治社会の理想としたのは、それが究極の平等社会の現実だと考えたからである。「各人はいっさいを譲り渡すので万人にとって条件は平等となる」と。すなわち、無(無所有・無権利)における完全平等が達成されることをルソーは理想としたことになる。

 「社会契約」の国家において国民はすべての権利を国家に譲渡するのであるから、国民は全体の「不可分の部分」をなすのであり、これをルソーは「結合行為」という。一つの国家におけるすべての国民が「個人の顔」を失って隙間なく「結合」している状態、それは人間の社会ではなく工場における機械であって、個人個人がこの機械のパーツになっていることではないか。「人格の放棄」である。つまり、このパーツとなった人間には自由はゼロである。完全平等の追求は自由ゼロと人間性の喪失という代償を払うことになることを、平等社会を理想とするルソーは正確に洞察していたのであり、自由ゼロもまたルソーの理想であった。やはり、完全平等社会(「社会契約」の社会)とは、よく言って「人民の牢獄」であり、「民主主義の修道院」なのである。

 ルソーは『社会契約論』において。われわれの一般通念上の個人の自由を全否定している。「自由ゼロへの強制」=「服従の強制」を絶対不可欠なものとしている。ルソーはこのような過激な自由の喪失をもって社会契約による「市民的自由の獲得だと、倒錯的に明瞭に定義している。

 そればかりか、ルソーはさらに、一般通念上の自由を喪失した極限を追求し、自由ゼロにおいて、“非抑圧感ゼロ(=自由の喪失による虚無感を通り越した宗教的恍惚感)”となる心理状態のことを「道徳的自由」と称している。「市民的自由」とは強制を伴ったもので自由が実際には侵害されているのだが「一般意志」の名において甘受させられている自由喪失状態を指す。だが、「道徳的自由」はこの「市民的自由」のさらに過激な自由ゼロを指していて、この理想国家の個人(国民)がこのようにすべての自由を国家に貢いで無になって自由の完全なる喪失をしても感情的抑圧感や不満もなくなって逆に至福の宗教的恍惚状態になる時、それこそを「道徳的自由」を獲得した、「真に自己の主人」になること、とルソーは定義している。

 自由ゼロを国民に強制できるとすれば、それは生命の自由についてもゼロであるから、国家が自由に人間を処刑(殺戮)してもよいことになる。ルソーはまさしくそこまではっきりと明言し、理想国家は恣意的に国民を殺してもよいと論述している。国家テロルによる統治方法、それこそルソーのルソーらしい政治哲学の重要な柱である。

 ルソーは言う、執政体が『お前の死ぬのは、国家のためになる』と言えば、市民は死ななければならない。それまで彼が安全に生活できたのは、そういう条件下においてのみであり、その生命はもはや単に自然の恵みでもなく、国家の条件付きの贈り物だからである」

 「もし何人かが公然とこれらの教義を認めながらそれらを信じないかのような行動をするとすれば、死をもって罰せられるべきである」

 ルソーは理想国家において宗教は必要だと考え、それを市民的な信仰告白とか、市民に義務を愛するようにしむける宗教とか、あるいは「市民宗教」と名付けている。この国家権力が人為的に「市民宗教」をつくり共同体に強制・導入すると考えるルソーの真意は、一般通念上の“宗教”の必要性を訴えているのでは断じてない。国家の権力が国民に対して法によらない殺戮を行使するのを正当化する手段としての宗教である。ソ連において北朝鮮において、「反革命」つまり「共産主義(コミュニズム)を信仰しない」のを理由と唯一の根拠にして強制収容所送りだけでなく無差別に殺戮が実行されたが、それはこの教義を信仰しないものを反市民・反国家、あるいは「公敵」とするこのルソー的「市民宗教」の理論の敷衍されたものであった。「共産主義」はルソーの言う「市民宗教」の典型的なものである。

 フランス革命ジャコバン党の指導者であるロベスピエールも実際に「市民宗教」を創設し、また、あの血なまぐさいギロチン殺戮を敢行した。それはロベスピエールがあの「ルソーへの賛辞」においてルソーの哲学に忠実に行動することを誓約した「ルソー教徒」としての、ルソー思想のこの地上での実現をめざしたおぞましき結果であった。

 なお、ルソー教義のままに自由ゼロを自由と信仰するロベスピエールらが創生しようとした「理性」を御神体とする「市民宗教」の偶像の一つが、自由を正しく理解している米国のニューヨークにそびえ立つあの「自由の女神像」として残っているのは何という皮肉(アイロニー)であろうか。

 ●国家の宗教団体化と富・人民の私物化

 現在の政治社会を根底から打倒して、そのあとに未来の政治社会を新しく建設することを夢想したルソーの、この妄念上の国家(=「社会契約」によって成立した国家、「共同体」)は、本質において「暴力装置つきの宗教団体」と言うべきものであって、一般通念上の国家とは全く異なっている。端的に言えば特性が二つある。

 A)   第一の特性は、ルソーの理想国家は、すべての法(命令)を与える「立法者」と、この法に従うことのみを強制される人民からなっている点であろう。人民はこの法の制定にはほんのわずかも参加できない。「平等主義者」のルソーは、立法者と人民の関係について「極限の不平等」を設定している。ルソーはこの「社会契約」の国家は「人民主権」だと言いつつ、この「人民には一切の権利がない」としている。このことは特筆に値する。

 B)   第二の特性は、この「共同体」において、人民の生命の自由は、権利がゼロであるから当り前であろうが、一切認められない。国家の法に違反するものはすべて国外追放もしくは死刑に処せられる。前にも述べたが、何とも血塗られた血まみれの国家体制ではないか。フランス革命時のジャコバン党によるギロチン処刑台のフル稼働とは、名実ともにルソー主義であった。

 とすれば、ルソーが諄々と説く「社会契約」によって成立する理想国家とは、その第一の特性は人民に対する究極の圧制の政治(全人民の完全奴隷化)であり、第二のそれは人民に対しあくことなく国家テロルが無差別に実行される恐怖政治であって、それ以外ではない。 また、ルソーは(自分を除く)すべての人間は自分の幸福すら分からない、と蔑むのである。そして人間がそのような動物並みに馬鹿であるなら奴隷以下の動物として扱う政治体制下で苦しみうめけばよい、とルソーは心底から考え、すべての人間への復讐としたのである。だから、人間を野獣や未開人になぞらえることができたのである。『人間不平等起源論』とは、冷酷な愚民意識の産物でもあった。

 ルソーは言う、盲目の群衆は、何が自分たちに利益になるのかをめったに知らないために、しばしば何を欲するのかわからないのであるが、彼らはどのようにして、立法組織のような、大規模な困難な事業を自分で行うのだろうか」

 「個々人は利益がわかってもこれを排斥し、公衆は利益を望んでも、それがわからない。両者とも等しく指導を必要としている個々人については、彼らの意志を理性に合致させるように強制し、公衆については、何を望むかを知ることを教えなければならない

 このことはまた、人民を教導し人民に強制する「立法者(独裁者)」なしには、「人民主権」の国家は存立できない、とルソーは主張しているのである。「人民主権の国家」=「独裁者による人民に対する独裁体制」だと、得意の転倒語法を用いてルソーは主張しているのである。

 「立法者」について、ルソーは次のように定義する。

 「立法者はあらゆる点で国家の非凡な人間である。立法者が才能によって非凡であるべきならば、職責によってもやはり非凡でなければならない。立法者は、施政者でも主権者でもなく、その職責は国家を組織することであり、国家の構成の中には位置を占めないそれは特別な高級な機能で、人間の支配と何の関係もない

 国家の統治機構の枠外から絶対者として法の制定を専横にできるとするのは、それは、“神の啓示”を受けた者にほかならず、「立法者」として、ルソーは宗教的な神か超天才をイメージしている。

 しかもルソーは、実は、この「立法者」としてルソー自らをイメージしている。ルソー自らが「教師」を演じている大著『エミール』においても、「教師」=「立法者」とさらりと吐露している一節がある。つまり、「立法者」=「教師」=ルソーなのであり、ルソーは自らをモーゼなどに幻覚している。

 ところで『エミール』について、必読の教育論として教授されている日本の大学の教育学部(人間学部)における、戦後六十年以上も続いているその狂気は、将来の教師を「ルソー教徒(=マルクス教徒)」に洗脳し、それを通じて次世代の生徒にマルクス主義を注入して時間はかかるが血を流さず日本共産化革命を達成するのを目的としている。日教組が多くのマルクス主義者で構成されるのはこのためである。『エミール』とは、二十世紀の全体主義がすべて導入した、あの児童・生徒に対する政治洗脳教育を論じたその先駆的な教科書と位置付けられるものである。健全な知育と徳育を目指す教育の原点を否定して、教育を政治のみに奉仕させることを論じた「人間の政治化」のための「教育の政治化」論にほかならない。どうしてこのような図書を自由主義国である我が国で教えるのか?日本の大学の「教師教育」とは、何をもくろんでいるのか?ぜひ教えてほしい。

 ルソーがかくも人間の教育を政治の手段とすることができるのは、「人間も乗馬のように調教しなければならない。庭木みたいに、好きなようにねじまげなければならない」と、人間を馬や植木と同列に扱う反人間観を有しているからである。『エミール』の本質を理解する一助として、共産主義イデオロギーを「市民宗教」あるいは「国教」と信奉する、二十世紀のいくつかの国家における「立法者」(=独裁者)に関する賛辞を紹介する。『エミール』が「立法者」という名の独裁者を崇拝するための洗脳教育の教科書であることがすぐわかるだろう。特に、これらの賛辞において、この絶対権力者が「教師」と呼ばれているのに留意して欲しい。

 「おお、最愛の(中国共産党主席よ。あなたはわれわれの心の紅い太陽だ。われわれは、日々歓び、日々歌う。・・・・偉大な教師、偉大な指導者、偉大な司令官、偉大な舵手、わが毛主席万歳と!」

 「われわれは、わが愛する指導者であり、教師である、偉大なスターリンを先頭にして、・・・・」

 全体主義体制下の共産党は絶対権力者でありながら国家の政治機構の枠外にある。よってこの党であれそのボス(書記長、主席)であれ、政治システムの位置としては、『社会契約論』の言う「立法者」に当たる。ルソー流に言えば「一般意志」は人民にはわからないのだから、この「一般意志」を感知できる党だけが「立法者」となるべきであり、人民はこの法となった「一般意志」の強制に対して絶対的に従順に受容しなければならない。そうしてこそ「良き公民(市民)」「革命的人民」「真の愛国者」たりうるのである。 教育もこの立法と同様に、ソ連であれ北朝鮮であれ、共産党だけが「教師」を担当して他の容喙を一切排除する制度になっている。これも『エミール』のとおりである。中国では毛沢東共産党主席)は、「文化大革命」と名付けたみずからの政治権力を回復させるための奪権闘争のために、および反文明化という自らの狂った信条のために、一千万人以上の「紅衛兵」という名を冠した児童・少年に毛語録を暗記させ毛沢東のみを狂乱的に礼讃する大動員をなした。自分の権力闘争の道具に使ったのである。権力闘争に勝ち対抗勢力の追い落としに成功すると、毛沢東はこの「紅衛兵」を用済みの粗大ゴミとして全国広くバラバラにして寒村その他に追放した。使い捨てであり、「下放」という。また、この「文化大革命」で犠牲になった中国人民は最低約二千万人、最大五千万人に達すると推定されている。

 北朝鮮においても1994年の死去に至る戦後半世紀の間、学校における児童・生徒・学生は、金日成を讃えて金日成を崇拝する教育だけに缶詰にされた。例えば、幼稚園には「金日成の幼い時の話」の科目があり、人民学校(小学校)一年生の社会科教科書には「金日成首領さま」の章がある。大学では金日成の著作の暗記や、「朝鮮労働党(共産党)政策史」などの政治科目が重要視されている。 このような実態は、北朝鮮における、マルクス・レーニン主義(独自性を持っているかに見せるために「主体思想」と名称している)の残酷かつ強権的な教育のなせるものだが、その根源は全体主義国家の政治教育の教科書たる『エミール』に発祥している。ルソー⇒マルクス/エンゲルス⇒レーニン⇒スターリン⇒金日成の系譜である。

 唯一の絶対的権力者なくして「平等」を体現する全体主義体制は維持されないから、全体主義体制のためには絶対権力者への服従と崇拝が不可欠である。絶対権力者への服従と崇拝は、強制とともに狂信的な洗脳教育(ブレーンウォッシング)が有効となる。この洗脳教科書、それがルソーの『エミール』なのである。このことはとりもなおさず、子供たちをこの絶対権力者(「立法者」)が「私物化」していることにほかならない。

 先にも述べたが、全体主義国家の洗脳教科書であるルソーの『エミール』が日本の大学の教育学部(人間学部、人間科学部等)で戦後六十数年間、必読の教育論として教授されているのである。この狂気の沙汰はいったい何であろうか。先の戦争で日本が全体主義的な軍国主義に至ったことへの反省は本当にこの国にあるのか。中国や韓国に戦後六十数年間、先の戦争について謝罪を繰り返しながら、その対外姿勢とは裏腹に国内では学校教師を育てる大学で全体主義養成の教科書『エミール』を必読の書として教授するなど、自己矛盾・自己撞着も甚だしい。狂える戦後日本人よ、いいかげんに眼を覚ましたらどうか!『エミール』など即刻、教育現場から焼き捨てろ。

④ 不平等こそは人類破滅──煽動家ルソーの魔の囁き

 ルソーは「不平等」を持って悪の根源、いやそれ以上の人間を地獄に導く根源だと大上段に構えて「不平等」の除去を訴えているのだが、その末尾でさらりと暴動という暴力で王制を打倒せよ!王を殺せ!王殺しは合法だ!とも呼びかけているのを見落としてはならない。「不平等」を持って腐敗と破壊の元凶と断じてそのもたらす地獄を仮構した、ルソーの論理体系とは、王制打倒の詭弁であった。

(ルソーの詭弁)

(国 家)【不平等】が→→【王・貴・商工農階級間対立】を高める←←【王】は専制強化により腐敗し、ついには「国家」を破壊する

 (ルソーの狙い・・・【不平等】など煽動のための道具、どうでもよい)

【王の専制強化や国家破壊という虚言により、貴・商・工・農 階級を恐怖させ煽動する】→→【王制の打倒】

 「不平等」の行き着く最終地点では、王制は倒されるべきだと、

 ルソーは言う「政府の契約は専制主義によって破棄されているので、専制君主・・・・を(人々が)追放(しても専制君主)は抗議することができない・・・・サルタン(王)を殺したり、王位から退けるにいたるような暴動も、・・・・法律的な行為なのである。ただ、力のみが彼を支えていたのだから、ただ力のみによって彼は倒されるのである」

 ルソーの「平等」論は、近代政治哲学において、“正統”なものではなく、異端である。しかも異端の説ののなかでもただ過激なだけの極端の位置にある暴論の類である。私有とその不平等に対して、ルソーはただひたすら、「平等=善」「不平等=悪」の善悪二元論でもって煽動キャンペーンに終始するのみ。私有(富)」についても、「私有は横領したからだ」と「私有が富める者の横領と貧しい者の強奪を引き起こし、人々を強欲で野心的で邪悪にした」と煽動する。(あまりにも短絡的で稚拙な論理である) 私有(所有)と法によるその保護こそが社会の安定と秩序を広範にもたらしているのである。現実に、社会主義国のソ連や中国におけるように私有否定の社会では横領や強盗がとめどなく横行するが、私有を大切にする自由主義社会における犯罪は(相対的には)桁外れに少ない。私有を保護することによって、それなしには横領や強奪などの弱肉強食が多発するのを、極小化するからである。

 私有制度こそは、富の実在と富の増大する文明社会がその秩序を維持する最善の方法として考えついたものである。 私有なき社会とは、それこそ人間の権利の保障がない社会であるから、ソ連や北朝鮮の人民のごとくに独裁者への隷属のみが強制された全体社会への重労働と悲惨なる水準の生活が強要される。ルソーは論理を転倒させて虚偽を弁じているのである。

 そもそも一定以上の世代を経た歴史をもつ同民族による国家で全体の富が増大しているのであれば、富は富裕層・貧困層を問わず増大しているし、また、富裕層から貧困層へと富が還流している。この逆は虚構(フィクション)であって、現実を転倒し真実を逆さにしている。貧困層から横領(搾取)するから富裕層の富があるなどは悪い冗談である。富裕層がいるから貧困層に富が還流するので貧困層が徐々に中流層に推移して生活水準も向上するのである。

 「不平等」は美しき政治社会をつくりえるが、その逆にソ連や北朝鮮などの共産主義の諸国家の実証するように「平等」を理想とする社会は「貧困の平等」の代償に「自由ゼロ」の暗黒の政治社会に転落するしかない。だが、「平等」という言葉は人間の野卑な獣性をむき出しにする媚薬であり、人間の美徳を麻痺させる反倫理的な麻薬であるから、スローガン「平等」を繰り返してがなりたてられると、「大衆」はスローガン「平等」を煽動する政治勢力を支持しそれに共鳴して暴徒と化す。暴力革命を夢想するルソーはこのことを熟知していたのであり、そう認識できた最初の哲学者であり、その意味では「悪の天才の中の天才」であった。 ルソーの「不平等」論理が暴論に過ぎないことは、日本の歴史が十分に証明している。天皇親政または摂関政治の貴族階級中心の奈良・平安時代は合わせて約480年間、武家中心の鎌倉幕府時代は約140年間、京都に幕府が移り武家・貴族の融合的な室町幕府時代約240年間、戦国・下克上時代の1590年豊臣秀吉天下統一を経て1603年から約260年間の徳川家の江戸幕府(士農工商身分制度)を通じて常に日本には支配・被支配階級の「不平等」が存在したが、小規模な土一揆などは頻繁にあったものの、フランス革命のような全国規模の悲惨な歴史的事件は全くというほど起こらなかった。

 逆に、支配・被支配関係が不安定になった時代(支配の「不平等」が崩れ、力の均衡「平等」が高まった時代)、例えば室町時代末期の土一揆・徳政一揆・山城国一揆・加賀の一向一揆などの集中的発生に始まる1467年の応仁の乱や支配・被支配の関係がくずれ群雄割拠となった下克上の戦国時代の戦乱、徳川幕府の支配力が衰えた明治維新の戊辰戦争、そして薩長土肥の下級武士で構成された明治政府の「四民平等」政策の結果もたらされた自由民権運動を装った社会主義革命運動の嵐、軍部の台頭・共産主義思想の蔓延による大東亜洋戦争と、国家的危機が起こっているのが厳然たる歴史的真実である。

 つまり、日本国民は古代から近代に至るまで常に天皇・貴族・武家・農民・職人・商人らがその時代ごとに何らかの身分制度(「不平等」)の中で生きてきた。しかし身分制度の階級間対立というよりは階級間の信頼関係の中で、上位身分の者は下位身分の者に支えられ、下位身分の者は上位身分のものに守られるという共助関係を維持してきたのである。それは、忠誠と信義/御恩と奉公などの信頼関係で結ばれた社会であった。 従って、ルソーの「身分と財産の不平等論」はそもそも暴論であるが、こと、日本国という国家の歴史と国民精神については全く当てはまらない論理である。

 最近の中・高校生の歴史教科書は、日本史をマルクスの階級闘争史観で記述している教科書が多いと聞くが、何という無教養・無知であろうか。

 日本では、江戸時代末期以降ルソー思想が流入し始め、1920年代~1930年代にマルクスレーニンスターリンらの思想が蔓延し、それらが日本人の「健全な精神」を蝕んでいった。日本国の歴史が世界に汚点を晒すのも1930年代頃以降である。いわゆる「幕末期」以前の「日本の歴史」及び「日本国民の精神」にマルクス史観の入り込むような隙間は一切ない。それをマルクス史観で書こうとすれば、虚偽の歴史を書くことに他ならない。次回はフランス革命の真実を掲載します。

  なお、「エドマンド・バーク保守主義」とバーク的観点からの「日本国憲法の問題点」および、いわゆる“東京裁判史観・自虐史観”とは異なる、バーク保守主義的観点からの「大東亜戦争観」を一気に知りたい人は、次の私のホームページへジャンプしてもらっても結構です。驚くような面白い話満載です。ぜひ一度ご来場ください。リンク先:http://www.geocities.jp/burke_revival/index.htm

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