保守主義の哲学シリーズⅡ-5‐‐‐「米国保守主義の父」アレクサンダー・ハミルトンの哲学と米国憲法


「米国保守主義の父」アレクサンダー・ハミルトンの哲学と米国憲法(其の5)

ザ・フェデラリスト』(続き) 

 「私は、派閥(=党派・政党的の意味合い)という言葉を全体中の多数であれ少数であれ、一定数の市民が、他の市民の権利に反する、あるいは共同社会の永続的・全般的利益に反するような感情または利益といった、ある共通の動機により結合し行動する場合、その市民たちをさすもの、と理解している。

 派閥の弊害を匡正する方法には二通りある。その一つは、派閥の存在にとって不可欠な自由そのものを破壊してしまうことであり、他はすべての市民に同一の見解、同一の感情、そして同一の利害を与えることである。

 第一の方法については、それが、病弊そのものよりももっと悪いとしか、真実のところ言いようがない。

 派閥にとって、自由とは・・・それなくしてはただちに息絶えてしまう栄養分のごときものである。とはいえ、政治生活にとって不可欠な自由を、それが派閥を育成するからといって廃棄してしまうことは、動物の生活にとって不可欠な空気を、・・・一掃してしまうことを願うのに劣らず愚かなことであろう

 第二の手段は、・・・実行不可能なことである。およそ人間の理性が誤りうるものであり、人間がその理性を自由に行使しうるものである限り、相異なった意見が生ずるのは当然であろう

 人間の理性とその自愛心との間につながりがある限り、その意見と感情とは互いに影響しあう。

 意見には感情がつきまといやすいものである。人間の才能が多様なものであるところから財産権が生じるのであるが、それと同様、人間の才能が多様であることにこそまた人間の利害関係が同一たりえない基本的原因がある。

 そして、こうした人間の多様な才能を保護することこそ、何よりも政府の目的なのである

 (政府が)財産を獲得する多種多様な才能のどれをも等しく保護する結果、その(才能の)程度と種類とを異にするさまざまの財産の所有(という不平等)がただちに生ずる

 これらの事情が、・・・その結果として、社会はさまざまの利益群と党派とに分裂することになる

 ・・・以上述べてきたことの結論としては、派閥の原因そのものは除去し得ないものであり、したがって(派閥の暴威に対する)対策はただその効果(=害悪の程度)を抑制する方法の中に求められるべきだということになる(=自由主義社会においては、派閥は当然生ずるものであり、派閥を無くすことなどできないのであるから、派閥の暴威による害悪の程度を最小限に抑制する手段を考えるしかない。それが憲法であり立憲主義である。)」

ある派閥が、・・・この(米国の共和政)憲法形態の下では(=立憲主義の下では)、その暴威をふるうことも、それを仮面の下に隠しとおすことも不可能なのである

 これに反し、(法の支配、立憲主義のない)人民による政治(=人間の理性にのみ依存する共和政)の下で多数者が一つの派閥を構成するときには、派閥が、公共の善と他の市民の権利のいずれをも、・・・犠牲とすることが可能になる

 それゆえに、人民による政治の精神と形体とを保持しつつ、このような派閥の危険性から公共の善と私的な権利との安全を図ることがわれわれの探求すべき重要な課題となる。

 ・・・それは、(法の支配、立憲主義のない)人民による政治形体(=共和政)が(世界史上)きわめて長い間こうむってきた非難(=多数者の専制)からそれを救い出し、人類にそれ(=法の支配、立憲主義による共和政)を尊重し採用することを推奨しうるためにもぜひ必要なことなのである。

 ・・・この目的は明らかに次の二つのうち一つによってのみ可能である。

 すなわち、まず、同一の感情あるいは利益が、多数派のうちに同一時に存在することを防がなければならない

 あるいは、多数派がかかる同一の感情あるいは利益を既に持っている場合には、・・・圧制の陰謀を一致して実行することができないようにしなければならない

 かりにも衝動と機会とが一致するようなことになれば、それを適当に抑圧するものとしては、道徳的な動機も、あるいは宗教的な動機も頼りにならないことをわれわれはよく知っている。

 そうした動機は個々人の不正や暴力に対してもそれを抑制できないが、ことに一致団結する多数派に対しては、効果がない

 つまり、その効果が必要となる度合いに応じて、逆にその効果を減ずるのである。このような見地からすれば、直接民主政(ピュア・デモクラシー)、つまり少数の市民から構成されており、その全市民がみずから集会し、みずから統治する社会を意味する直接民主政は、派閥のたらす弊害に対してこれを匡正することはできないのである。

 というのは、(直接民主制では)ある共通の感情あるいは利益が、ほとんどあらゆる場合に全員の過半数のものの共鳴するところとなるだろうからである。

 また、相互の意思の疎通と行動の一致とが、その政治形体そのものから容易に可能となるからである。したがってまた、弱小の党派や気に入らない個人は、これを切り捨ててしまうという誘惑を抑えるようなものは何もないからである。

 それゆえに、直接民主政諸国家は、つねに混乱と激論との光景を繰り広げてきたのであり、個人の安全や財産権とは両立しがたいものとなり、また、一般的にその生命は短く、しかもその死滅に際しては暴力をともなうものとなってきたのである

 この種の(直接)民主政形体を支持する理論好きな政治家は、人間をその政治的諸権利において完全に平等なものとすれば、ただちにその財産・思想・感情においても完全に平等なものとなり、かつ相互に同一化されるであろうと考える誤りを犯してきたわけである。

 共和政国家という言葉で、私は代表という制度をもつ統治構造をさしているのであるが、このような共和国こそ一つの新しい展望を開き、われわれが探し求めてきた匡正策を約束するものなのである。」

 「(直接)民主政国家共和政国家との間の二大相違点は、第一に共和政国家においては一般市民によって選出された少数の市民の手に政治が委ねられることであり、第二に、共和政国家がより多くの市民と、より広大な領域とを包合しうることである。

 この第一の相違点の結果として、(共和政においては)一方では世論が、選ばれた一団の市民たちの手を経ることによって洗練され、かつその視野が広げられるのである。

 その一段の市民たちは、その賢明さゆえに、自国の真の利益を最もよく認識し、また、その愛国心と正義心とのゆえに、一時的なあるいは偏狭な思惑によって自国の真の利益を犠牲にするようなことが極めて少ないとみられる。

 このような制度の下では、人民の代表によって表明された公衆の声の方が、民意表明を目的として集合した人民自身によって表明される場合よりも、より一層公共の善に合致することになろう。(=全民衆参加の民主政よりも、選出された少数の政治的エリートによる共和政の方がよりよく公共の善に合致する政体である)

 第二の相違点は、共和政においては(直接)民主政におけるよりも、より多数の市民と、より広大な領域とをその範囲内に含みうるという点である。

 (直接)民主政におけるよりも共和政のほうが党派的結合の危険性を少なくできるのは、主としてこの事情に基づく

 社会が小さくなればなるほど、そこに含まれる党派や利害の数も少なくなり、党派や利益が少なくなればなるほど、多数派が同一党派として形成されることが多くなってくる。

 また多数派を形成している個人の数が少なくなればなるほど、また、彼らがおかれている領域が小さくなればなるほど、彼らが一致協力して、他を抑圧する計画を実行しやすくなる。

 しかし、領域を拡大し、党派や利益群をさらに多様化させれば、全体中の多数者が、他の市民の権利を侵害しようとする共通の動機をもつ可能性を少なくすることになろう

第十篇 派閥の弊害と連邦制による匡正より

 「立法・行政・司法の権限がすべて一つの掌中に帰することは、それが単数=例えば一人の君主など)であれ、少数=例えば少数の貴族や民衆に選挙された少数の代表者)であれ、多数=例えば、民衆全体・大衆)であれ、あるいは世襲であれ、僭主(=身分を超えて帝王や君主の称号を勝手に名乗る者)であれ、選挙によるものであれまさしく専制政治の定義そのものであるといえよう。(専制政治は君主政によらず、貴族政、民主政、共和政でも起こりうるものである

 ・・・この権力分立の問題について常に参照され、利用される権威としてはかの有名なモンテスキューがいる。

 ・・・まず、モンテスキューが権力分立制をもって何を意味していたかを確かめる必要があろう。

 イギリス国制とモンテスキューの関係は、いわばホメロスと、叙事詩について説明する作家たちとの関係のごときものである。

 これらの作家たちは、この不滅の詩人ホメロスの作品を、そこから叙事詩学の原理、原則が引き出され、それを基準としてあらゆる叙事詩が評価されるべき、完全無欠の模範とみなしてきた。(=モンテスキューは、立憲君主制のイギリス国制を、そこからあらゆる国制の原理、原則が引き出され、それを基準としてあらゆる国制が評価されるべき、自由主義の完全無欠の模範とみなした。)

 評論家モンテスキューは、イギリス国制を、政治的自由を図る基準、彼の表現を使えば、政治的自由をうつす鏡とみなし、イギリス固有の制度に特有のいくつかの原理を一般的な基本的真理として論じてきたように思われる。

 ・・・これらの事実(=モンテスキューが参考にしたイギリス国制では、三権は決して明確に分離されていない事実)からしても、はっきりと推察されるように、モンテスキューが立法権と行政権とが同一人あるいは同一の機関に集中されている時には、自由は存在し得ない』とか、あるいは『裁判権が立法権や行政権から分離していない時には、自由は存在しえないとか語る時彼はこれらの各部門が他部門の行為につき、部分的にも代行機関であったり、いささかなりとも抑制権をもったりすべきではないことを意味したのではなかった

 モンテスキューが真に言おうとしたことは、彼自身の言葉から察せられるように、また彼の眼にした事例(=明確に権力が分離していない立憲君主制のイギリス国制下で国民の政治的自由が繁栄している事例・事実)によってさらに決定的に示されているように、ある部門の全権力が、他の部門の全権力を所有するものと同じ手によって行使される場合には、自由なる憲法の基本原理は覆されるということ以上には出ないのである。(=モンテスキューの権力分立論とは、立法権、行政権、司法権のいずれが一つの権力が、他の一つの権力の全権を掌握した時、自由なる憲法原理が覆されるのであって、部分的な権力の代行や権力の抑制権を否定するもではない。

 例えば、彼が検討したイギリス国制の場合についていえば、もし唯一の行政首長たる国王が、立法権のすべてを把握したり、司法権の最高執行権を所有していたならば、あるいは、立法機関全体が最高の司法権を所有したり、最高の行政権を所有していたならば、この言葉がそのまま当てはまっていたことになろう。

 しかし、こうした完全な権力集中はイギリス国制の欠陥の中には無かったのである。」

第四十七編 権力分立制の意味

 つまり、立憲君主制の英国は、君主の専制も貴族の専制も国民の代表者による専制も、裁判所の専制も存在せず、政治的自由が繁栄していたのである

 この事実は極めて意味深長であるつまり、専制政治とは君主や貴族にのみよって引き起こされるものではなく、国民の代表者(共和政=間接民主政)や国民自身(=直接民主政の場合)によっても、モンテスキューの指摘する条件さえ揃えば、必然的に起こりうるものであるということである


ハミルトン保守主義は、次回Ⅱ-6へ続く


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