保守主義の哲学シリーズⅡ-10‐‐‐「米国保守主義の父」アレクサンダー・ハミルトンの哲学と米国憲法


「米国保守主義の父」アレクサンダー・ハミルトンの哲学と米国憲法(其の10)


 さて、上記でハミルトン哲学の比較として、西郷隆盛の『南洲翁遺訓』を取り上げたこともあるので、少し脱線するが、わが国最初の成文『憲法』について面白い試み皆さんに披露してみたい

 

 それは、バーク保守主義あるいはハミルトン保守主義の視点で、西暦604年聖徳太子の『十七条憲法』を再解釈することである。

 

 戦前に白井成允がその著聖徳太子の十七条憲法』(1937年)で行った解釈は、当時の文部省思想局の「日本精神叢書」の一冊として刊行され、当時の「政府の公式見解」と言うべきものであった。

 

 その著書で白井は『十七条憲法』について、「既に第一絛の理想を掲げ、第二絛篤敬三宝の法を授けたまうた。是れ一切群生の究竟の理想とその理想を証せしむる唯一道とを示して、特に吾等日本国民を己の徳本に応しめんと思召したまひての事と窺(うかが)い奉った。その徳本を今此の第三絛に至って、太子は最も端的にお教えくださっておられる。すなわち『詔を承りては必ず謹(つつし)め』」と述べている。

 

 つまり、白井の解釈では、第一絛以和為貴」も第二絛篤敬三宝」も結局は第三絛承詔必謹」=「天皇の命令への絶対服従」が最終目標なのである。

 

 元に戻って、白井の「」の解釈の部分を見ると、「・・・而して其の初絛は即ち後の十六絛の源泉として是を窺ひまつるべき絛である、憲法全体の依って立つ根本精神の端的なる表現である。・・・即ちの理想である。・・・我が国体と不二なる実徳は即ち『』そのものなのである」

 

「即ち大御心(=天皇の御心)既に純粋なる親心として大なる和にましますのであるから、其に相応し随順し奉るところには吾等の徳本として顕はれ、此(=随順するか否か)によりて吾等の悪と徳が判別せられるのである。是が我が国体に相応する徳の認識である」

 

 上記の引用から明らかなとおり、白井は、第一絛の「」を「平和・融和」というよりは、「天皇の大和に随順すること=天皇に対する服従」の意味に解釈している。

 

」をそう解釈すると、必然的に、続く「忤(さから)うことなき」は「人間同士が抗争しないこと」ではなく、「天皇に叛逆しない」という意味に理解することになる。

 

 つまり、白井は『十七条憲法』の第一条から第三条の結論は臣民の徳行とは、天皇に対して絶対服従し、叛逆しないことにつきる」と言っているのである。出鱈目の解釈をしている曲解も甚だしい

 

 

 そしてまた、もう一冊、当時の文部省国民精神文化研究員であった五十嵐祐宏の『聖徳太子と十七条憲法』(日本放送出版協会、1941年)では、『十七条憲法』の第三条について、「この條は、文字の上我が国体が明徴にされた最初のものである。我が国体の大義、臣民の道の骨髄を明示あらせられたものである。天皇の詔は絶対である。自分勝手な考えや行動を恣(ほしい)ままにして国体の大義、臣民たるの道に背くが如きことがあってはならぬ天壌無窮の神勅によって君臣の分は永遠に定まり、君臣の秩序は厳として天地の秩序である。天皇は上に在しまして億兆の民をみそなわし大御親でいらせられる。私共臣民は下にあって各々そのつとめとするところに励み、数ならぬ身を捧げ名もなき民の心をつくして皇運を扶翼し奉るのである。・・・皇国体の本義はこの一條(=第三絛)の仰せにきはまるものである

 

 などと、やはり同じく、第一条から第三条までの結論は臣民たる道は天皇に対して絶対服従し、叛逆しないことである」と出鱈目の曲解をしたために、それらが「滅私奉公」から「現人神である天皇陛下の命令は絶対である」「天皇陛下の命令であれば、どんな命令にも従い、戦争で死ぬのは国民の名誉」などにまで歪曲・拡大され、それが、国民に徹底教育された。

 

 そして多くの国民が大東亜戦争の大惨劇の中に散って行った。

 

 大東亜戦争に正当性があったか否かは別問題として、祖国を守らんとして戦争で命を失ったすべての祖先の英霊に謹んで哀悼の意を表したいと思う

 

 さらに、これらの『十七条憲法』の曲解が原因で、戦後、進歩主義者マルクス・レーニン主義者ら)から聖徳太子の『十七条憲法』は、「天皇絶対主義のイデオロギーの文献にすぎない」とか「あらゆる権力は民衆を抑圧するための暴力装置にすぎない。したがって、権力者が作った文書はその暴力装置としての権力を合理化するイデオロギーにすぎない。よって、権力者が作った文書に意味のあることが書いてあるはずがない」と罵倒されることとなった。

 

 しかも歴史の現実は、御前会議前日の194195日に昭和天皇総理近衛文麿陸軍参謀総長 杉山元海軍軍令部総長 永野修身に直接「(対英米戦争の)開戦に反対である」旨を“はっきりと申し渡され96日の御前会議でも、明治天皇の御製を拝誦され、対英米開戦反対の意思を示されたにもかかわらず、それを嘲り笑うかのごとく無視し、「対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意のもと・・・戦争準備を完整す」を御前会議の決定としたのは、純度100%の共産主義者である近衛文麿総理を筆頭とする、赤色政府高官赤色官僚帝国陸海軍赤色将官らであったのである。

 

 しかし戦後、「開戦責任の張本人」であるマルクス・レーニン主義者らは、戦争の全責任を昭和天皇に押し付けようとし(それが、コミンテルン32年テーゼに忠実に従った彼らの目的だったのだが)、併せて、聖徳太子の『十七条憲法』までも「天皇絶対主義のイデオロギー文献」だと罵倒され続けて現在に至っている。

 

 そして最近では、「聖徳太子は実は、存在しなかったかもしれない」などと記述する歴史書籍まで出現し、完全に「聖徳太子」と『十七条憲法』を日本史上から抹殺しようと企図する輩がいる。

 

 二千年の歴史をもつ由緒ある文明国家日本に日本国民として生まれながら、何とも哀れな連中であろうか、と思うのであるが、まあ、戦前・戦中に『十七条憲法』が上記のように曲解されて教育されていた事実を考えれば、やむを得ない面もあるとも思える

 

 しかしながら、仮に戦前の上記白井や五十嵐の『十七条憲法』の解釈が聖徳太子の真意でないとすれば、その解釈のまま放っておくわけにはいくまい

 

 なぜなら、これを放置することは、わが国の偉大なる賢人「聖徳太子」「わが国最初の偉大なる成文憲法」に対する大いなる侮辱行為になるからである

 

 ゆえに、“法の支配”、“立憲主義”を思想の支柱とする保守哲学の視点から『十七条憲法』を解釈し直し、本当にそれが「天皇絶対主義」の『憲法』であるか、否かをここではっきりと確定させたいということである。

 

 なお、この考察をおこなうに当たっては、岡野守也 著『聖徳太子 「十七条憲法」を読む』(大法輪閣、平成15年)が非常に良書と思われたので、これをベースに第一条から第三条まで一条ずつ考察した後、この三条の真意を結論をづけたいと思う。

 

 まず、『日本書紀』によれば、聖徳太子は自ら講義するほど『勝鬘経』と『法華経』などの大乗仏教に通じていた。

 

 また、小乗仏教経量部説一切有部という、二つの部派の教えるところを知り、また、中国の思想である三玄(荘子・老子・周易)五経(周易・尚書・毛詩・礼記・春秋)の述べるところを知り、同時にまた、天文とか地理をも学んだ。

 

 つまり、思想的には、国家の伝統である神道と外来の仏教・儒教に精通していた。このため、『十七条憲法』は各条文からも解るのだが、「神仏儒習合の憲法」である

 

第一条】「一に曰()わく、を以()って貴(とおと)しとなし、(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れる者少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず。また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、(かみ)(やわら)ぎ下(しも)(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」

 

)「第一条  平和(融和)をもっとも大切にし、抗争しないことを規範とせよ。人間には(私も君主も含め)みな無明(=人間の不完全さ・根本煩悩)から出る(私利・私欲によって)党派・徒党を組む。そして(多くの人が不完全であるが故に、物事の真理を)悟っている者は少ない。そのために、(利害が一致しなければ、)君主や父親にも従わず、近隣同士で争いを起こすことになってしまうのだ。しかし、上の者も下の者も融和して睦まじく話し合えば、物事の真理(に近い妥協点)が解り、利害が調整される。そういう風にすれば、実現できないことは何もない」

 

 さて、ここで戦前の白井五十嵐のように」を「天皇の大和への随順=天皇に対する服従」、「(さから)うこと天皇に叛逆すること」と訳せるであろうか。結論は絶対に無理である。

 

 その第一の理由は、「人みな党あり」である。十七条憲法の全十七条を通じて、単に「」という時は、(君主も太子自身も含めた)すべての人間」という意味でしか使われていない。

 

 ということは、君主といえども、無明(人間の不完全性)のために党派や徒党を組む可能性があるということであり、白井の「天皇の純粋なる親心としての(完全な)大和」などは論理的に存在しえず、彼の「和」=「天皇の大和への随順=天皇に対する服従」は明白な誤訳である

 

 そして「和」が「天皇(人間)に対する服従」でなければ、次に続く「(さから)うこと天皇に叛逆すること」と訳すことは不可能である。

 

 ゆえに「和」とは国家の目的である「平和・融和(=公共の善/国家の繁栄)」を表し、「忤(さから)うこと」は「平和・融和」(=公共の善/国家の繁栄)に逆らうこと、つまり「抗争をすること」としか解釈できない

 

 第二の理由は、「ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず」である。

 

 ここで、「人間は皆、その無明性・不完全性のために党派・徒党を組み、利害が一致しない場合には、君主や親にも従わない」とはっきりと明言している。そして、この解決策として、「上の者も下の者も融和して睦まじく話し合え」と「合議制」を訴えているのである。

 

「上の者も下の者も融和して睦まじく話し合う、合議制」をして、「下の者が上の者に服従するとか叛逆するとか」と言わない

 

 つまり、第一条とは、保守主義的に言えば、国家の目的を「平和・融和(=公共の善/国家の繁栄)」と定め、それを阻害する「人間の不完全性に発する党派対立」を「上下を問わず(=立憲君主制の下で)広く合議制で解決せよ」と定めたものである

 

 なお、(=立憲君主制のもとで)と書いたのは、この『憲法』の第一条や他の条に『』が明記されていることから、単純に、立憲君主制と読んだだけである。

 

『十七条憲法』が制定されたのが西暦604であることを考慮すれば、第一条の「人間の不完全性考察」と「党派間抗争の合議制による解決法」の提案は、聖徳太子の驚くべき政治的天才性と言えるのではないか。

 

第二条】「二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おおむね)なり。(いず)れの世、何れの人か、この法を貴ばざらん。人尤(はなは)だ悪()しきもの鮮(すく)なし、()く教(おし)うるをもて従う。それ三宝に帰(よ)りまつらぜば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん」

 

)「第二条 まごころから、三宝を敬え。三宝とは仏とその真理の教え(=法)とそれを体得して教え説く人々(=僧侶)のことである。それは生命(いのち)あるすべての生き物の最後のよりどころであり、あらゆる国の究極の規範である。どんな時代でも、どんな人でも、この真理(=法)を貴ばずにいられるだろうか。人間には(いくら不完全であっても)極悪の者は少ない。よく教えれば(真理=(仏)法に)従うものである。もし、三宝をよりどころにしなければ、他に何によって曲がった心や行いを正すことができようか(さらには国家の「平和・融和」を達成できようか)」

 

 第一条では、「人間の無明性・不完全性による「党派間抗争」を前提として「合議制」による解決法を国家の目的である「平和・融和(=公共の善/国家の繁栄)への道と規定している。

 

 第二条では、さらに進めて、人間の無明性・不完全性自体の矯正策を「宗教に求めているものと考えてよかろう。

 

 聖徳太子は、憎み合い争い合っている人間の現実を直視しながらも、大乗仏典、例えば、『勝鬘経』の学びを通して、そうした悪の起源が「無明・人間の不完全性」であることを洞察し、その解決は非常に困難ではあるが、克服できると信じていた。

 第十条の「ともにこれ凡夫のみ」第七条の「世に、生まれながら知る人なし。よく念(おも)いて聖(ひじり)となる」とあわせて理解すると、そのことはより明確となる。

 

『勝鬘経』には、すべての人間は煩悩にまみれた存在であるが、そこには、「仏・如来の本性・真理」が隠されているという「如来蔵」の思想があり、聖徳太子の根本的な人間観はそこに起源がある。

 

 この観点からみれば、「()く教うるをもて従う」を「人民は良く教導すれば『権力』に従順に服従する」こととする戦前の解釈は大曲解であろう。

 

 ここは、「無明・不完全の人間も、よく教え、良く学び、よく念(おも)えば、『真理(=法)に従って行動できる」という意味である。

 

 そして、「よく念う」「よく学ぶ」「よく教え」の理論と方法論がそれぞれ、「仏(の本性)」「法(=法)」「僧(=仏と法を教え説く人々)」に相当するのである。

 

 第二条は、ハミルトンが、美徳・道徳という華を国家社会の中で咲かせてくれる土壌が「宗教」であると言ったのと全く同一の思想ではないか。

 

 例えばハミルトン曰く、

 

「国民的道徳が宗教的原理を排除しても維持できるとは、頭で考えても、経験からしても、思えない」

 

 ところで、執政者である聖徳太子にとって仏教は、あくまで国家の目的である「平和・融和(公共の善/国家の繁栄)」を達成するための、良い意味での「方便・手段・対策法」であって、仏教自体が自己目的ではなかった。

(➡仏陀も自らの教え、つまり仏教は自己目的・的なものではなく、人々を融和させるための手段・方便であるとはっきり言っている。つまり、仏教の信仰は個々の人間が仏の本性を悟ろうとすることにあるのだが、実はそのこと自体が本来の目的ではなく、個々の人間がそう努力することによって、人間が相互に融和できるようにすることが本来の目的であるということ)

 

 だから、『十七条憲法』には、仏教絶対主義などではなく儒教的概念仏教的概念統合的に使われているし、『日本書紀』によれば、聖徳太子は推古天皇の意向に従って従来の「神道の儀礼」もしっかりと遂行している。

 

 ゆえに、聖徳太子の宗教的立場は「神仏儒習合」であり、それは以後現代に至るまで日本精神性の伝統の基本線(=精神の形)であり続けている

 

 ゆえに聖徳太子は、この第二条をもって「仏教絶対主義」を押し付けたのではなく、むしろ、仏教の尊重を説きながらも、個人の信教の自由は認めていたと考えるのが妥当である。

 

 これは、保守主義的に言えば、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり」と「国家と仏教の関わり」を認めながらも、仏教を「国教」とはせず、「個人の信教の自由」も認める(=政教分離ではない)という「正統な憲法原理」であると言える。

 

 これは、米国憲法の修正第一条の「国教の樹立の禁止」と「個人の信教の自由」という憲法原理に極似している。

 

 また、この聖徳太子の「神仏儒習合」思想(=信教の自由)および「政教分離の否定」は、伝統的な日本国の“コモン・ロー”であると言えよう

 

 この事実からしても、国教としての「国家神道」日本国憲法の「政教分離」規定日本史上の例外中の例外(異端思想)であることが、解るであろう。

 

第三条】「第三条、(みことのり)を承(うけたまわ)りては必ず謹(つつし)君をば天とす。臣(しん)をば地とす天は覆(おお)い、地は載す四時(しじ)順い行いて、万気(ばんき)通うことを得()地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊(こわ)るることを致さん。ここをもって、君言(のたま)うときは臣承(うけたまわ)る。上(かみ)行なえば下(しも)靡(なび)ゆえに詔を承(うけたまわ)りては必ず慎め謹まずば、おのずから敗れん。」

 

)「第三条。(法を貴ばれる)天皇の詔を受けたならば、かならず謹んで受けよ。君主はいわば『(仏)法』であり、臣下は『地=(仏)法の下にあるもの』のようである。天(=君主)地(=臣民)覆い=(仏)法に従って統治し)、地(=臣民)天(=君主=(仏)法)載せる=君主に従い支える=(仏)法に従う)。このように四季が順調に移り行くことによって(=(仏)法の下で君臣関係が継続していく(世襲/相続されていく))ことによって、万物の生気がかよう(=国家の活力が育まれる)。それが逆に地(=臣下)が天(=君主)覆う=臣下が(仏)法の支配を侵して君主に叛逆する)とすれば、(仏)法の支配する国家は当然破壊に至るのである。こういう理由により、((仏)法の支配の下で)君主が命じた時には、臣下は承るべきである。同様に((仏)法の支配の下で)上の者が事を行う時には、下の者はそれに従うべきなのである。それゆえ、((仏)法の支配の下で)君主からの命令を受けたならば、必ず謹んで受けよ。謹んで受けなければ、おのずから(仏)法の支配は消え去り、『平和・融和』の国家は自壊するであろう」

 

 さて、これが問題の第三条である。

 

 これら第一条~第三条は、保守主義的に読めば、聖徳太子は、まさに英米保守主義の「核心」を先取りしていると言える。

 

 なぜなら、第一条で国家の目的を「平和・融和(=①公共の善/国家の繁栄)」とし、それを妨害する「②人間の不完全性による③党派性」を「④合議制」によって解決せよとする。

 

 第二条で、「③党派性」を抑制する理論と手段として三宝「仏・法・僧」(=⑤宗教)を敬いなさいと言い、特にその中でも⑥(仏)法は、すべての時代のすべての人が貴ぶ重要な真理であるとする。また、先述のとおり、聖徳太子の思想は、実際には「神仏儒習合」であるから、この「仏教」の(仏)法は、統治上は「神仏儒習合」の中に発する⑦“法”に昇華される。事実、この『十七条憲法』では「儒教的概念」も「仏教的概念」も統合的に使われているからである。

 

 とすれば、必然的流れとして第三条で述べられている統治論(=君臣関係)とは、⑧“法”の支配の下の君臣関係論という意味で理解すべきである。

 

 要約すれば、聖徳太子の『十七条憲法』とは、国家の「平和/繁栄」のために、国家の統治(君臣関係)は、神仏儒習合の中に発する“法”の支配の下に行われるべき旨を、明文化した成文憲法と言える。

 

 そして『十七条憲法』は「成文憲法」であるから、聖徳太子は「憲法」に基づいて統治を行う“立憲主義”の概念を西暦604年に既に確立していたのである。

 

 英国のマグナ・カルタ(大憲章)が1215年制定、米国憲法が1787年制定であるから、日本の歴史の深淵さは、ただならぬものであろう。

 

 われわれ日本人は、もっと、もっと祖国の歴史の深淵さに誇りを持つべきであるし、その資格が十二分にある。

 

 支那事変を含む八年間の大東亜戦争(特に対英米戦争)の惨劇による歴史的ショックは当然のトラウマであろうし、もちろん同じ過ちは繰り返してはならないと子孫に語り継ぐべきであるが、その八年間の戦争を理由に、約二千年間の誇りある崇高な歴史を「階級闘争の歴史」などとして全否定するのは狂気である。

 

 もっと自国に誇りと自信をもつべきである

 

 さて、戦前の五十嵐祐宏第三条の解釈は「この條は、文字の上に我が国体が明徴にされた最初のものである。我が国体の大義、臣民の道の骨髄を明示あらせられたものである。天皇の詔は絶対である。自分勝手な考えや行動を恣ままにして国体の大義、臣民たるの道に背くが如きことがあってはならぬ。天壌無窮の神勅によって君臣の分は永遠に定まり、君臣の秩序は厳として天地の秩序である。天皇は上に在しまして億兆の民をみそなわし大御親でいらせられる。私共臣民は下にあって各々そのつとめとするところに励み、数ならぬ身を捧げ名もなき民の心をつくして皇運を扶翼し奉るのである。・・・皇国体の本義はこの一條(=第三絛)の仰せにきはまるものである」である。

 

 どう読めばこのような解釈ができるのか、さっぱり解らない。

 

 日本の国体が当時(聖徳太子の時代)から、天皇制であったことは間違いない。聖徳太子が推古天皇の摂政であったのは事実であるし、それ以前もその後の万世一系の天皇の系譜もはっきり解っているからである。

 

 しかし、『十七条憲法』の第二条では、「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とはとなり」とあり、三宝の中に“天皇”という「文字」など入ってないではないか。

 

 そして「(いず)れの世、何れの人か、この”を貴ばざらん」とある。つまり、すべての時代、すべての人は“仏法”実際には、神仏儒習合の中に発する“を貴ばずにはいられないと「文字で書いてある

 

 だから、第三条で最も重要視されたのは、明らかに天皇でなく“法”であるあるいは、天皇の“法”による支配(統治)である

 

 エドワード・コークの言葉を借りるなら、「天皇でさえ、神仏儒と“法”の下にあった」のである。

 

 だから、少なくとも、聖徳太子の時代は、日本の天皇は“法”の下にあり、“立憲君主”であったのである。

 

 ゆえに、「“法”に反する天皇の詔は、却下されるか、無視されるべし」が正解である。

 

 しかし、「天皇が“法”の下に国家を統治し、臣民が“法”によって擁護されている限りにおいては、臣民は天皇の命令を謹んで受けるべきであり、臣民全体で天皇を支えて国を盛り上げるべきである。逆に、天皇の“法”の下の統治にも関わらず、臣民が天皇の命令を謹んで受け入れないような態度であれば、おのずから“法”の支配は消滅し、平和は崩れ、国家は自壊するだろう」というのも正解である。

 

 以上が、聖徳太子『十七条憲法』の保守主義的解釈であるが、これが「聖徳太子の真意」に極限まで接近した解釈だと確信するものである。読者の皆さんはどう思われるでしょうか。


ハミルトン保守主義は、次回Ⅱ-11へ続く


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