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保守主義の哲学---知っておくべき「ジェンダー」「男女共同参画社会基本法」の嘘

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 フェミニストが、男女の生物学的・医学的な性別による区別と性別役割を躍起になって否定するのは、男女の性別役割のすべては、出生後の子供の育て方、つまり子供の育つ社会的・文化的環境が子供に押し付けるものなのだ(だから、「男らしさ」や「女らしさ」を子供に教えてはならないのだ)、と決めつけたいからである。これが、フェミニストの好む性別論、ジェンダー(=社会的・文化的に形成された性別)である。

 これを端的に言い直せば、次のようになる。
 「人間の性別は、地球上の全生物に働いている自然の摂理には依拠せず、人間自身が意図的に操作・決定できるのだ」

 これが日本フェミニズムのジェンダー論の真意であるが、なんと欺瞞に満ちた思想であろうか。良識のある正常な人間からすれば、狂気としか言いようがない。彼らは、自然の摂理と人間としての良心に対して、もっと謙虚な態度になるべきではないか。

 例えばフェミニストが男女の脳の性差等を執拗に否定するのも、この狂気の思想を擁護したいがためにする議論であって、胎児の脳の形成過程において(解剖学的または機能的に)わずかでも男女の性差があると知られれば、彼らのジェンダー理論が破綻するから、必死になって否定するのである。

 しかし、彼らのジェンダー理論は、ジョン・マネーの「双子の症例」の虚構と欺瞞を、ミルトン・ダイアモンド博士の医学論文『小児および青年期医学の記録』とジョン・コラピント著『ブレンダと呼ばれた少年』とが暴いた時点で
 ---半陰陽でもホルモン分泌異常でもない、正常な男児として生まれたデイヴィッド・レーマーが、男性器を焼失する医療ミスに遭遇し、女児に性転換され、ブレンダと名付けられ、完全に女性として(の家庭環境で)育てられたが、15歳の時、彼は、自ら女の性に耐えられず、男性と性自認して再度男子への性転換を受けた時点で(人体実験された彼は、哀れにも38歳の若さで自ら命を絶ったのである。)---
とっくの昔に破綻しているのである。

 もし、先に述べたフェミニストのジェンダー論が正しいならば、ブレンダは生得的には、正常な男性として生まれたが性転換し、社会的・文化的には完全に女性として育てられたのだから、自分の性を女性であると自認するはずであったが、実際には、自らの意思で男性と自認したのだから。ちなみに、ブレンダが自分の出生が正常な男子であり、女子として育てられた生い立ちについての真実は、ブレンダがデイヴィッドに再度性転換する直前まで誰からも知らされていなかった。

 なお、フェミニストが生得的な性差を否定するのであれば、「ジョン・マネーの仮説では性自認の門の開放期間が一年半だったがブレンダになったのは一年九ヶ月の時で、三ヶ月遅かった」は全く反論になり得ない。自明ではないか。

 このように、ジョン・マネーが唱えた「社会的・文化的な環境が与えるジェンダー・ロール(性役割)が、ジェンダー・アイデンティティー(性自認)=性別を決定する」という仮説は破綻しているにもかかわらず、日本国の男女共同参画社会基本法と男女共同参画行政・教育は、このマネーのジェンダー論を肯定する日本フェミニズム・女性学に依拠してなされてきたのである。

 例えば、日本のフェミニズム研究の必読書である『女性学教育/学習ハンドブック』と『差異の政治学』では、マネーの破綻したジェンダー理論を否定することもなく、逆に喝采して次のように述べている。

 まず、『女性学教育/学習ハンドブック』には、こう書かれている。

 「社会的には、<女である>あるいは<男である>と認識することをジェンダー・アイデンティティー<性自認>という。解剖学的な性と性自認とが一致しない場合もある。J.マネーはその著『性の署名』の中で、長い間女の子として育てられた子どもは、たとえ解剖学的に男の子であっても女の子としての性自認が形成されているので、女としての役割を習得する。つまり性自認の方が解剖学的な性よりも強力である事例を報告している。性自認と解剖学的性を一致させるために性転換手術を受ける人もいる」(国立女性教育会館 女性学・ジェンダー研究会編著『女性学教育/学習ハンドブック』、有斐閣、2002年版、p103

 次に、上野千鶴子の『差異の政治学』ではこう書かれている。

 「マネーとタッカーは、生物学的性差のうえに、心理学的性差、社会学的性差、文化的性差が積み上げられるという考え方を否定し、人間にとって性別とはセックスではなくジェンダーであることを、明瞭に示した」、「セックスがジェンダーを決定するという生物学的還元説を否定した」(上野千鶴子『差異の政治学』、岩波書店、2002版、p10

 ※ なお、日本フェミニズムの依拠するジョン・マネー以外のジェンダー論としてマルクス主義フェミニストであるクリスティーヌ・デルフィ(仏)のジェンダー論があるが、要約すれば、
 「性別役割としてのgenderは、生物学的・医学的性別(sex)を基礎として構築されるのではなく、まず社会的慣行という抑圧があって、それがgenderを作りだし、genderが解剖学的sexを作りだしたのだ」

という仮説である。しかし、これはデルフィ自身が、著書の中で「仮説」であり、「冒険的な企て」であり、「実証されるまでには数年かかるだろう」(デルフィ『なにが女性の主要な敵なのか』、勁草書房、183頁)と述べているが、それから約半世紀たった現在においても実証などされていない「仮説」である。

 だが、常識的に考えてみよ。人類社会を現在から、過去へと巻き戻せばよい。
 現在→約7500年前に数千人規模の首長制社会が誕生→約1万年前に農耕・牧畜による定住生活始まる→約7万~20万年前に言葉の使用始まる→約60万年前に脳の大きさが現代人並みになる→約100万年前に火を用いて調理を始める→約200万年前に狩猟・採集生活、50人規模の小集団→約700万年前に人類の祖先誕生・直立歩行、という風に。

 各々の時代で男女(雄雌)の社会的・文化的な性別役割(ジェンダー)は異なるとは言えても、どうして自然の摂理である男女(雄雌)の生物学的・医学的性別(セックス)が、ジェンダーによって作られた、などと断定したり実証したりできるだろうか。不可能である。

 また逆に、約700万年前から現在に向かって時間を進めてみれば、人類が、男女(雄雌)の生物学的・医学的性別(セックス)を基礎にして、試行錯誤を繰り返しながら、各時代の社会形態へと漸進的・連続的に文化を進化させてきたことがわかるだろう。しかし、もしも各々の時代において、その時代に生きる人々が、(現代のフェミニストだけが言うように)男女の性別と役割文化とを教えられなかった(学ばななかった)ならば、現在でも人類は、ただ1世代が生まれては死に、また1世代が生まれては死ぬということを繰り返すだけの、多くの下等な生物と何ら異なる所がなかったであろうと想像できよう。

 つまり、男女の性別を基礎にして進化する文化を学び、後代に伝え教えることの繰り返しが、人類を人類たらしめてきたのである。

 また、周囲の世界を見渡してみよ。セミやトンボのような昆虫をはじめ、多くの生物は、誰かに社会的・文化的に教えられなくても、生得的な本能によって雌は雌、雄は雄の行動をとるように作られ、行動しているのだから、地球上の生物の一員である人類も生得的性別をもっているはずだ、と考えるのが自然であろう(但し、人間行動の進化は、他の動物の行動とは異なり、遺伝的進化の影響よりも文化的進化の影響が大きいというのが生物学や文化人類学などで得られている知見ではある)
 

 長谷川真理子(進化生態学者、理学博士)氏は、著書『オスとメス=性の不思議』の最終章で、フェミニストの文化進化万能論を次のように批判している。


「誤った立場の二番目のものは、ヒトは他の生物とはまったく異なる存在であり、生物学的説明はヒトにはまったく通じない、生物学から学ぶものは何もないとする態度です。この立場は、とくに一部のフェミニストの間に見られ、生物学的説明は、この立場の人々からは、現状の社会悪を肯定する議論として警戒されます

 この立場の人々は性差などというものはほとんどが文化的に作られるもので、男女は生殖器以外には生物学的に差はないと考えているようです。

 私は、先日、このような立場のアメリカ人が書いた本を読んでいるときに、男女のからだの大きさの性的二型も、文化的に作り出されたものだと論じているのを見つけて驚きました。その人は、平均して男性の方が女性よりもからだが大きいのは、歴史的、地理的にほとんどの社会で、女の子は男の子よりも栄養価の低いものを食べさせられ、女の子の服装は、男の子の服装よりも非活動的、制限的であり、女の子は男の子よりもスポーツをすることを奨励されないことからくる文化的結果だと論じていました。

 私自身も、性差の多くは文化的に作られたり、または生物学的に存在するものが文化的に増幅されてできていると考えていますが、あらゆる性差が文化的に作られたもので、ヒトという生き物が他の動物とはまったく異なり、生物学的制約とはいっさい無縁のものだとは思っていません

 雄と雌のからだの構造、生理学、生化学は非常に異なるものであり、その究極的理由は、第1章から第7章までの間にくわしく検討してきましたように、雄と雌では受けている淘汰の種類が非常に違うからです。ヒトにいたって、その淘汰の様子はかなり変化しました。しかし、科学的に検証していくのではなくて、何もかもを文化と学習のせいだと強弁していくのも、非科学的な態度だと思います。」(長谷川真理子『オスとメス=性の不思議』、講談社現代新書、235頁)

 また、F.A.ハイエクが言うように、「文化は自然的なものでも人為的なものでもなく、また遺伝的に伝えられたものでも、合理的に設計されたものでもない。それは、学習された行動ルールの伝統である。文化的進化は、意識的に制度を構築する人間の理性(=意思)の結果ではなく、文化と理性が同時に発展した過程の結果である。」(『ハイエク全集Ⅰ‐10「法と立法と自由〔Ⅲ〕」』、春秋社、155頁)

 それ故に、男性(という階級)が、女性(という階級)を支配・抑圧するために、意図的・計画的に、文化や文化的性別(ジェンダー)を作り出して、女性に押し付けることなどできない。できると考えるのは、(フェミニストが)近代合理主義の最悪の誤謬である、デカルト的設計主義的合理主義(=ハイエク)の誤謬に陥っているからであるそして、文化や文化的性別(ジェンダー)が、誰の意図的設計による押し付けでもないとすれば、そもそも、男女がジェンダーから解放(=フリー)されなければならない根拠など何もないのである。男女間の差別の解消に必要となるのは、自生的に形成された文化からの解放(破壊)ではなく、文化の修正または改善なのである。

 また、男女共同参画基本法を審議した、悪名高い「基本法検討小委員会」第4回(平成10323日)議事録では、委員である文化マルキストたちによる(法律を通すための)国民・国会議員騙しの謀議が延々となされている(詳しくは、『男女平等バカ』、宝島社、p109p112および山本彰編著『ここがおかしい男女共同参画』、世界日報社、p101p110などを参照して頂きたい。)

 この議事録の中で、最も重要な部分は、当時、ジェンダーとかジェンダー・バイアスを規定した「国際条約」は一つもなく、また、ジェンダー・バイアスの撤廃(=ジェンダー・フリー)を目指すことを規定した諸外国の法律もない、ということを委員たちは承知していながら、最も過激な男女共同参画基本法の強引な成立を目指していた、という事実である。

 要するに、当時の日本国民と国会議員は、「日本は男女平等について遅れている」と文化フェミニストに騙されて、世界で最も過激で急進的な法律をまんまと成立させられた、ということである。

 ジョン・マネーのジェンダー仮説が破綻している事実を隠蔽した上、「日本は欧米諸国に比べて遅れているから」と日本国民と国会議員を欺いて成立させた法律「共参法」は、即抜本改正するか廃止するのが当然ではないだろうか。

 さて、ここまで述べると、左翼陣営やフェミニスト達から、男女共同参画基本法には「社会的・文化的に形成された性別」、「ジェンダー」、「ジェンダー・フリー」などの用語は規定されていないではないか、という反論がおこりそうなので、これに対して少々説明を加えておこう。

 男女共同参画社会基本法案(以下、「共参法」と記す。)に関する、1999513日の参院総務委員会において、「法律の<前文>は不要」と主張する政府委員を相手に、民主党の小宮山洋子参議院議員が<前文>挿入などの修正案を提出し、同年521日に協議修正された<前文>が提出された。この修正追加された<前文>とは以下のとおりである。

「少子高齢化の進展、国内経済活動の成熟化等我が国の社会経済情勢の急速な変化に対応していく上で、男女が互いにその人権を尊重しつつ責任も分かち合い、性別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮することができる男女共同参画社会の実現は・・・(以下省略)」

 問題は、この<前文>中の「性別にかかわりなく」の解釈である。男女共同参画ビジョン等の策定に関わった大沢真理をはじめとするフェミニストの多くは著書の中で、この文言を「ジェンダーにかかわりなく(=ジェンダー・フリー)」の意味だと強弁しており、実際にも、男女共同参画基本計画(平成12年策定)の中には、「ジェンダーに敏感な視点」という文言が挿入され、国及び地方の男女共同参画行政・教育の各機関は、「性別にかかわりなく」の意味を事実上そのように解釈して、これまでに日本全国で、過激な性教育、男女混合騎馬戦(組体操)、男女同室着替え、男女混合名簿、呼称の「さん付け統一」、あらゆるものに対するジェンダー・チェック、男女共学化、過激な地方自治体条例の制定・・・等々の数々の悪政を行ってきたのである(ちなみに、純粋な男女の区別は差別ではない。オリンピック競技を男女に分けて行うのは、世界中の国々・人々の合意事項であり、決して差別とは言わないのだから、自明であろう。)

 それでは、政府(行政)は、この「性別にかかわらず」をどう解釈しているのかと言えば、これがまたいい加減・出鱈目の極みなのである。

 内閣府男女共同参画局(『逐条解説 男女共同参画社会基本法』、ぎょうせい、p80)では解釈の参考として、次のように説明している。

「<参考5>『性別にかかわりなく』
 『性別にかかわりなく』との文言は政府原案の中にはなく、前文のみで使われている用語である。前文は前述のとおり参議院で修正されたものであり、この部分の解釈について国会審議でも明確にされていない。

 この用語についての解釈の参考としては、412日の参議院本会議では、男女共同参画社会と法案の意義について質問があり、『男であるとか女であるとかという性別にかかわらず、男女がお互いの個性や長所を認めつつ、かけがえのないパートナーとして喜びも責任も分かち合っている社会・・・』と小渕恵三内閣総理大臣が答弁している。」

 つまり、少なくとも小渕首相は、<男女がお互いの個性や長所を認めつつ>と述べているのである。

 ところが、平成161029日の衆院内閣委員会で、細田博之官房長官は、民主党・小宮山洋子議員から共参法<前文>の「性別にかかわりなく」の意義を質問され、「社会的、文化的に形成された性別、ジェンダーにとらわれることなく、一人一人の個性や能力が多様であるので、それを尊重し、多様な選択を認め合うという趣旨である」と答え、共参法<前文>における「性別」が「ジェンダー」の意味であり、「にかかわりなく」が「にとらわれることなく(=フリー)」であると明言したのである。

 我が国の政府(行政府)及び国会のこの出鱈目な、国民を欺き、嘲笑しているかのような態度は、一体何なのだろうか?

 また、先に述べた悪名高い「基本法検討小委員会」第4回(平成10323日)における、委員である文化マルキストたちによる(法律を通すための)国民・国会議員騙しの謀議

 →政府原案にはなかった共参法<前文>を1999513日の参院総務委員会で挿入するよう強固に主張したのは、フェミニスト(を代表しての)小宮山洋子であった。

 →この<前文>に対する解釈を平成11年の小渕首相の<男女がお互いの個性や長所を認めつつ>から、平成16年の細田博之官房長官の<社会的、文化的に形成された性別、ジェンダーにとらわれることなく>に変えさせる質問をしたのもフェミニスト(を代表しての)小宮山洋子であった。
 という流れを踏まえれば、ジェンダーという用語を直接使用しない共参法を成立させ、後になって、修正追加しておいた共参法<前文>中の「性別にかかわりなく」を「ジェンダー・フリー」に解釈させるというフェミニストらの謀略の筋書きに、日本国民及び国会議員は、まんまと騙されたと考えてよかろう

 しかし、共参法の成立と解釈の過程において騙されたこと以上に、日本国民にとって遥かに深刻なのは、共参法の施行が与えてきた日本国民へのダメージの方である。なぜなら、共参法の施行は、ジョン・マネーの破綻した<双子の症例>の日本国民に対する社会実験であると解するのが、正しい理解だからである。

 つまり、狂気の医学者ジョン・マネーが共参法・男女共同参画会議・内閣府男女共同参画局等に対応し、ジョン・マネーのデイヴィッド・レーマー(ブレンダ)への生体実験が日本国民への共参法の施行に対応するのである。

 ジョン・マネーは、(半陰陽でもホルモン分泌異常でもない)正常な男子を性転換手術と育て方(生育環境)によって女子(=人間)に変えられると信じた。

 それに対して男女共同参画会議や内閣府男女共同参画局等はどうか。

 彼らは共参法の成立以後、法律の強制力を盾にして(半陰陽でもホルモン分泌異常でもない全体人口の99%以上の)正常な男子または女子として生まれた日本国民に対して、「男らしさも女らしさも教えず、全否定するジェンダー・フリー教育」を子供たちに強制執行することによって、男女の性別意識すら持つことができない「人間未満の非人間」に改造しようと試みてきたのである。これが、フェミニズムの「男女の本質的平等」の本質であり、「性別にかかわらない個人」の本質である。ジョン・マネーよりも数万倍質が悪いと言えよう。

 このような所業(「共参法」)は、正真正銘の「狂気」である。

 冷静に考えてもみよ。生得的な生物学的・医学的性別(sex)を否定され、男らしさ・女らしさを後天的に教育することも否定された(=ジェンダー・フリー)子供たちが、一体如何にして「男女の性自認」をすることが可能なであろうか。

 家庭や学校や社会に対して「男性とは何か、女性とは何かを子供たちに一切教えるな」と政府(地方行政も含む)が法律によって強制するなどという施策は、まさしくレーニン/スターリンの共産主義やヒットラーの国家社会主義が行った社会実験の模倣であり、当該国民や民族を襲った悲惨な運命を真摯に受け止めるならば、決して許されるべきことではない

 共参法とそのジェンダー・フリーとしての解釈は、立法の仮面を付けた犯罪である。

 それとも、内閣府男女共同参画局は、個々の人間(日本国民)は、自分が男性であるか女性であるかを自認する必要はない、性別のない個人であれば十分だ、と言いたいのか。

 あるいは、性別のない個人の人生は、男女の性別をしっかり自認した個人の人生よりも、幸福で、生の充実感があり、自己の存在意義をより良く認識できると言いたいのか。

 どうであれ、兎に角、現在行われている男女共同参画行政は、至急ストップして、徹底的に見直しをする必要がある。

 さらに付け加えれば、共参法の成立過程に関して、酷く出鱈目なものが他にもある。

 審議会等の多数の議事録が紛失しているのである。

 当時、男女共同参画基本法案の国会上程前の審議は、「男女共同参画審議会(総会)」、「基本問題部会」、「基本法検討小委員会」の三つの会合で行われた。総会7回、基本問題部会12回、小委員会13回開催されたが、議事録が公開されたのは、そのうち、総会が2回分、基本問題部会が5回分、小委員会が6回分のみ。

 議事録の大半が存在しないことについて、質問された当時の男女共同参画局の回答(A)は、「現時点では存在しない」であったという。それで済まされたのである。

 Q:初めから存在しなかったのか?

 A:「わからない」

 Q:当初存在したものが、その後に失われたのか?

 A:「それもわからない。とにかく現時点では存在しない。」

(なお、この議事録関連については、『男女平等バカ』、宝島社、p113や山本彰編著『ここがおかしい男女共同参画』、世界日報社、p101などを参照して頂きたい。)

 兎に角、このようにとんでもなく出鱈目かつ国民騙しの過程を経て成立したのが、天下の悪法「共参法」であり、その悪法の効力の下で、男女共同参画会議、男女共同参画局の文化マルキストたちによって、日本国民を強制手術的に改造する目的でなされてきたのが、「ジェンダー・フリー」、「男女の本質的(or実質的)平等」の美名による、
男性と女性を区別しない過激な悪徳行政・教育だったのである。

 さて、このような極悪法「男女共同参画社会基本法」をこのまま無制限に放置しておいてよいものだろうか。良いわけがない。放置すれば、現在および将来の日本国・日本国民は、回復不能な致命的損傷を被ること間違いないだろう。

 良識ある日本国民は、我われ真正保守(自由)主義グループとともに、共参法の抜本改正または廃止のために、大きな声をあげて頂きたいと切にお願いするものである。

補足とお願い】以上の問題は、過去の問題ではなく、現在まで変わらず引きずっている問題であることに注意せよ!

 おそらく、人によっては、上記の問題は過去に生じた問題で、既に是正されているはずであり、何を今更?というかもしれないが、根本的には今でも何も是正されていない。その理由を以下に簡単に記しておく。

 (1)共参法から、ジェンダー・フリーの思想は未だに<消えていない>。
 平成16年(2004年)4月に、内閣府は、「ジェンダー・フリー」は男女共同参画社会が目指すものではないこと、それぞれの地方公共団体における「ジェンダー・フリー」の用語使用についても、今後条例等を制定する場合には、敢えてこの用語は使用しない方がよいとの考え方を示した。だが、現在でも共参法の前文中の「性別にかかわりなく」は消されていない。そして上記の細田博之官房長官の答弁と合わせれば、「ジェンダー(性別に)・フリー(かかわりなく)」という解釈が共参法から消え去っていないのである。また共参法の第4条などは、明らかに実質上のジェンダー・フリー規定である(これについては、私の前回の論文良心の務めとしての反フェミニズム論(PDFを参照されたい)。

 (2)内閣府の使用する用語「ジェンダー」は、マネーやデルフィの定義ではないとは言えない。

 また、同時に内閣府は、国及び地方行政が使用する「ジェンダー」という用語の定義について、1995年の第四回世界女性会議(北京会議)で採択された北京宣言および行動綱領において示された≪生物学的な性別を示す「セックス」に対する「社会的・文化的に形成された性別」≫であると述べた。

 しかし、用語「ジェンダー」の出所を述べたからと言って、何の意味もなく、それが、ジョン・マネーやクリスティーヌ・デルフィなどの定義する「ジェンダー」の意味とは異なるものであるという根拠には一切ならない。

 なぜなら「ジェンダー」概念において最も重要なポイントは、「ジェンダー」と「セックス」との相互関係の定義部分だからである。

 すなわち、

 ①男女の性別は生得的な「セックス」の影響を全く受けず(あるいは生得的な「セックス」など存在せず)、完全に「ジェンダー」によってのみ決定される(→この場合、人間の性別は、自然の摂理に無関係に、生後に人間の意思で決定できることになる。仮にそうだとしても、文化的進化は、あらゆる時代を通じて、すべての人々による自生的過程による形成物であり、誰かの意図的な設計物ではない以上、文化や文化的性別を破壊してもよい、次代に教えなくてよい、男女を中性化しても個人はうまく生きて行ける、などいう狂った結論は決して出てこない。

 と(狂気的に)考えるのか、

 ②先ず、生得的な「セックス」が性別の基礎に存在し、その上に「ジェンダー」が形成されつつ、両者が相互作用しながら性別が形成される(→この場合、人間が生得的な性差を持っている以上、ジェンダーから解放されなければならないとか、男性らしさや女性らしさを教えてはならない、という屁理屈は成立し得ない)

 と(正しく、常識的に)考えるのか、についての説明がされなければ、「社会的・文化的に形成された」などという文言には、ほとんど何の意味もないのである。自明であろう。

 しかし、政府(男女共同参画局)は、共参法の成立以来、このことについて日本国民に一度も真摯に説明することもなく、①の(狂気的で誤謬に満ちた)前提の下で、様々な悪政策を撒き散らして、現在に至っているのである。

 すなわち、(日本フェミニズムの)共参法とそのジェンダー概念の狂気は、決して過去に解決済みの問題ではなく、現在の問題なのであって、一度、けじめ(区切り)をしっかりと付けなければならないのである。

 どうか良識ある日本国民は、現状をこのように正しく認識・理解した上で、共参法の廃止(または抜本的改正)、男女共同参画会議、男女共同参画局の廃止(あるいは抜本的な権限縮小)に向けての運動を拡大して頂くよう、ご協力をお願いしたい次第である。

平成3095補足追加】社会的・文化的性差の解体の危険性の意味について。

 あらゆる社会的・文化的諸制度(とその中に組み込まれた男女の役割)は、過去の人間が意識的に設計したものだから、それを望み通りにつくりかえる(=制度を中立化する)完全な能力が現在の人間にもあるはずだという信念は、「制度」というものの本質を理解し損ねた謬論である。社会的・文化的諸制度は、人間の意識的設計の産物ではなく、自生的に成長した形成物であり、それによってのみ自由社会の秩序は維持され得るのである。

 すなわち、日本フェミニズムによる、自生的に成長した社会的・文化的諸制度とその形成過程で漸進的に組み込まれてきた男女の役割分担や男性らしさ・女性らしさを安易に解体・破棄する行為は、日本文明の解体行為であり、また文明人としての日本国民の国民性(民族性)のみならず、人間性の抹殺行為であって、人道に対する犯罪と言っても過言ではない。

 ハイエク曰く、

 「人間の文明をすべて意識的理性の産物ないし人間の設計の産物と見るならば、あるいは、自分の行為が知らぬ間に築き上げたものを意図的に再創造したり維持したりすることが必ずや可能であると想定するならば、われわれは分不相応に自惚れている文明は個々の知識が累積した結果であるが、社会の中の人間が、自分も他の誰も完全には所有していない一連の知識から常々利益を得ることができるのは、これらすべての知識がいずれかの個的頭脳の中に明示的・意識的に組み合わされることによるのではなく、われわれが理解せずに用いているシンボル、つまり習慣や制度、道具や概念のうちにその知識が体現されることによるのである。人間が成し遂げた最も偉大なことの多くは、意識的に指導された思考の結果ではなく、ましてや多くの個人の意図的に調整された努力の産物でもない。そうではなくて、それは個人が決して完全には理解し得ない役割を果たしている過程の産物なのである。それがどんな個人よりも偉大なのは、まさしく、それが単一の精神の管理しうるのよりも広範な知識の組み合わせに由来するからなのである。」(『ハイエク全集Ⅱ-3「科学による反革命」』、90頁)以上。

 以 上、反日本フェミニズム論の序章として記す。

【平成30年9月9日補足追加】フェミニストは、自然の摂理---それは敬虔な信仰心を持つ人間にとっては、神の摂理である---に謙虚になるべきである。

 次に掲げるのは、ジェンダーの概念が登場した1995年の第四回世界女性会議(北京会議)に向けてマザー・テレサが送った書簡である。しかし北京会議でこの書簡が取り上げられることはなかった。

 なお、私はキリスト教徒ではないし、キリスト教の宣教師でもないから、本ブログの読者に対して、キリスト教の見解を押し付ける意図は全くない。

 しかしながら、一つだけ確実に言えることがある。それは、古今東西の世界の真正保守(自由)主義の哲人達は、一人の例外もなく、

 「この世界には人智を超越した、人智では動かし難い秩序(摂理)---それを自然の秩序(摂理)と呼ぶか、神や神々の秩序(摂理)と呼ぶか、自生的秩序と呼ぶかは別として---が、実在している

 ことを洞察したがゆえに、人間はそうした秩序(摂理)の存在に対して、畏敬し、謙虚であり、保守すべきである、と説いてきたのである。

 そうした意味において、キリスト教徒ではない日本国民も、このマザー・テレサの書簡に謙虚に耳を傾けて欲しいと願うものである。

 1995年第4回世界女性会議(北京会議)へのマザー・テレサの書簡

 親愛なる皆様へ

 第4回世界女性会議で北京にお集まりの全ての方々に神の祝福のあらんことをお祈り申し上げます。私は、この会議によって、あらゆる人々が、神の計画において女性だけに与えられた役割を知り、それを大切なものと受けとめ、さらに尊厳を与えること、それによって、ひいては女性達が一生のうちにこの神の計画を実現できることを希望します。

 私には、なぜ男性と女性は全く同じだと主張し、男女の素晴らしい違いを否定しようとする人々がいるのか理解できません。神より授けられたものは全て善きものでありながら、全てが同じものであるとは限りません。私はよく、私のように貧しき人々のために尽くしたいとおっしゃる方に対して、「私にできてあなたにはできないこともあり、あなたにできて私にはできないこともあります。しかし、ともに力を合わせれば、神にとって何か素晴らしいことができるのです。」と申し上げます。男性と女性の違いとは、これと同じようなものなのです。

 神は、私達ひとりひとりをお造りになりました。そして、更にありがたいことに、全ての人々を、愛し、愛される存在にして下さっているのです。では、神はなぜあるものを男性に、またあるものを女性にお造りなったのでしょうか。それは、神の愛のひとつの形が女性の愛で表わされ、別の形が男性の愛で表わされるからです。どちらも愛するために造られていながら、それぞれの愛し方が違うように、男性と女性は互いを補い合って完成されるものであり、神の愛を体現するには、どちらか一方よりも両方そろった方が、より神の愛に近づくことができるのです。

 女性特有の愛の力は、母親になったときに最も顕著に現れます。母性は神から女性への贈り物。私達は、男女を問わず世界中にこれほどの喜びをもたらしている素晴らしいこの神の贈り物に、どれだけ感謝しなければならないことでしょうか。しかし、私達が、愛することや他者のために尽くすことよりも仕事や社会的地位の方を大切だと考えたり、妊娠中絶をしたりすれば、この母性という神の贈り物を破壊することにもなりかねません。仕事も、夢も、財産も、自由も、愛に代えることはできません。母性を破壊するものは全て、神から女性への最も大切な贈り物―女性として誰かを愛する力―を破壊するものなのです。

 神は私達に「汝を愛するがごとく隣人を愛せよ」とおっしゃいました。だから、私はまず正しく自分を愛し、それからそれと同じように隣人を愛します。しかし、神が自分をお造りになったことを受け入れないとすれば、どうして自分を愛することなどできるでしょうか。男女の素晴らしい違いを否定する人々は、自分たちが神によって造られた存在であることを認めようとしませんし、それゆえに隣人を愛することもできません。彼らがもたらすものは、対立と不幸と世界平和の破壊でしかありません。例えば、私がこれまで再三申し上げてきたように、妊娠中絶は現在の世界平和にとって最大の破壊者であり、男女の違いをなくそうとしているのは皆、妊娠中絶に賛成する人々なのです。

 死と悲しみの代わりに、世界に平和と喜びをもたらしましょう。そのためには、神に平和という贈り物を願い、互いに神の子の兄弟として愛し合い、受容し合わなければなりません。子供達が愛することと祈ることを学ぶのに最もふさわしい場は家庭です。家庭で父母の姿から学ぶのです。家庭が崩壊したり、家庭内に不和が生じたりしていれば、多くの子供は愛と祈りを知らずに育ちます。家庭崩壊が進んだ国はいずれ多くの問題を抱えることになるでしょう。私は、とりわけ裕福な国々で、愛情不足と疎外感から逃れるために薬物に向かう子供達を幾度となく目にして参りました。

 しかし、家族の絆が強く、家庭が円満であれば、子供達は父母の愛の中にかけがえのない神の愛を見ることができ、自分の国を愛と祈りに満ちた場にしていくことができるのです。子供は神から家族への最高の贈り物ですが、子供にとっては父と母の両方が必要です。なぜなら、父親は父親らしいやり方、母親は母親らしいやり方で神の愛を体現して見せるからなのです。ともに祈る家族が離れていくことはありません。そして、家族がひとつであり続ければ、神がそのひとりひとりを愛してこられたように、互いを愛し合っていけるでしょう。愛のあるところには常に安らぎが生まれます。

 心に愛の喜びを抱き続けましょう、そして、出会った全ての人々とその喜びを分かち合いましょう。北京会議の全ての出席者と、この会議によって救われようとしている全ての女性が、ともに愛と安らぎの中で暮し、それぞれの家族とこの世界を神にとって美しいものにするために、おひとりおひとりがマリアのように慎ましく、清らかであることをお祈り申し上げます。

 ともに祈りましょう。
 全てを神の栄光と御心に捧げて。
 神の祝福あらんことを。

 マザー・テレサ MC

 ※ 書簡中の青色の文字着色は、私。

 【補足】神や神々などに関する「一つの見解」程度のくだけた話として読み流してください。

 科学主義が浸透した現代の人々に対して「あなたは神や神々の存在を信じますか?」と尋ねるならば、大多数の人々が確信を持って「存在するはずがない。存在することなど証明できないのだから存在しないと思う」などと即答するだろう。

 ところが、その同じ人々に対して別の質問、「あなたは死後の世界(霊的な世界)が存在すると思いますか、それとも人間が死ねば無に帰するのだから、死後の世界は存在しないと思いますか?」と尋ねた場合には、彼らの確信は一気にトーンダウンして「多分ないと思う、そんなことは死んでみないとわからない」という風な回答に変化する。

 なぜだろうか?

 おそらく、多くの人々は、自分が自分の死(やその予感)から遠く離れている時には、神や神々が存在するか否かという問題についてどんな考えを持っていても(無関心であっても)、現実の生活に何ら不都合を感じないのである。しかし、死後の世界の存在の有無について考える時はいつでも、「どんな人間でもいつかは必ず死を迎えるのだ、自分もその例外ではあり得ない」という不可避の現実が意識の中に呼び覚まされる。だから強い確信を持って「死後の世界は存在しない」とは言い切れない(言いたくない)心境に陥るのであろう。

 神や神々に対する信仰の問題は、自分とは無関係の他人事の問題ではあり得ず、自分の臨終の際には、死後の世界の有無に関する問題と不可避的に統合されて、どんな人の心の中にも立ち現れて来る問題なのである。ゆえに、「何人も決して軽視すべからず」ということなのである。

 以 上。

 ≪平成30年9月12日≫重要補足

 ☆ 生物学的決定論と文化的決定論の大論争とその帰結について

 19世紀後半から20世紀前半において行われた、人間行動や人間社会の形成に関する「生物学的(遺伝的)決定論(=極端な進化生物学)」と「文化的決定論(=極端な文化人類学)」の論争は既に過去のものとなり、現在では、霊長類の一種であるホモ・サピエンスが、他の生物と同じく自然淘汰による進化の所産であることは明らかであり、しかしまた、人間の場合には、これに成長に応じて学習する言葉や文化的プログラムとが加わることになる。そして、この文化的プログラムは、遺伝によって準備される脳や神経組織が存在するからこそ、可能となるのであることが明らかになっている。

 つまり、人間行動や社会の進化とは、生物学的な遺伝的要素と文化的な外遺伝要素という別々の部分が一つのシステムの中で相互に作用し合っている、というのが、長い論争の末の知見のようである。

 そしてこの歴史的論争の観点から考えてみると、現在の日本フェミニズムが主張している「ジェンダー」や「ジェンダー・フリー」の概念は、男性性や女性性などの性別の自認(形成)が、生物学的・医学的性別(sex)に依存せず、生後の社会的・文化的な環境によってのみ決定する(gender)というものである。

 これらのフェミニズム思想が依拠しているのは、ジョン・マネー著『性の署名』、『男と女、男の子と女の子』やマーガレット・ミード著『サモアの思春期』などの既に論争・反駁済みの(非科学の)「世紀の2大虚構論文」であるが、それらは虚偽であったことが反駁さた(=全世界の研究者の常識)、上記論争における「文化決定論」の側に属する誤謬である。
 すなわち、人間の男性性や女性性が、生後の社会的・文化的な環境によってのみ決定する、という「ジェンダーの前提」は、上記の両陣営の科学者が総力を挙げた大論争の末の知見を完全に無視したものであり、何の科学的根拠もない虚構であると断言してよかろう。
 このような時代遅れの、既に全世界から虚偽報告として棄却された考え方・思想を似非根拠に据えた、日本フェミニズムの“誤謬・虚構・欺瞞”の「ジェンダー」、「ジェンダー・フリー」概念に基づき行われている、現在の男女共同参画行政(と男女共同参画社会基本法)は、即座に停止(廃止)し、抜本的に見直さなければならないのは自明ではないか。

 以 上。


  ≪平成30829日(水)【閑話休題】男女関係の心温まるアニメネタ

 ここで私のお薦めアニメを再掲(一部追加)しておきます。

 ジャンルは「恋愛・ドラマ・学園系アニメ」(2018春アニメまで)です。

 アニメ選択の基準は、「男性は男性らしく、女性は女性らしくありながら、男女が互いに尊重し合うことができる時こそ、一人一人の個人にとって、友情、恋愛、仲間、結婚、家族などの人間関係が生まれ、人生のドラマが展開していくのだ」という私の観点から、観るのに良い、観れば心が温まると思われるアニメを厳選しています。(なお、下記作品はすべて良く出来ていて、心温まる作品ばかりです。ですから、順位付けはできません。)

 興味と時間のある方は、DVDレンタルやアニメ動画配信サイト等でご視聴ください。

 ※ ただし、あくまでも私個人の価値観により選んでおりますので、皆様のアニメ(またはアニオタ)感覚とは非常に異なるかもしれません。その点、あらかじめご了承ください。

 〇 花咲くいろは(P.A.WORKS

 〇 多田君は恋をしない(動画工房)

 〇 四月は君の嘘(A-1Pictures

 〇 君に届け シーズン1,2(Production I.G
 
 〇 サクラクエスト(P.A.WORKS
 
 〇 赤髪の白雪姫シーズン1,2(ボンズ)
 
 〇 ちはやふるシーズン1,2(マッドハウス)
 
 〇 響け!ユーフォニアムシーズン1、2(京都アニメーション)
 
 〇 僕らはみんな河合荘(ブレインズ・ベース)
 
 〇 言の葉の庭(コミック・ウェーブ・フィルム)
 
 〇 TARI TARIP.A.WORKS
 
 〇 ゆるキャン▲(C-Station
 
 〇 凪のあすから(P.A.WORKS
 
 〇 映画 聲の形(京都アニメーション)
 
 〇 映画 君の名は(コミック・ウェーブ・フィルム)
 
 〇 映画 心が叫びたがってるんだ(A-1Pictures

 ※ これらのアニメ制作会社のアニメ自体は、本ブログの記事内容とは一切関係がありません。私が個人的に良いと感じたものを自由選択しただけですので、これらの会社に迷惑のかかるヘイトな政治行為等は厳に慎んで頂きますよう、お願いいたします。

 閑話休題、以 上。
 
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