保守主義の父――エドマンド・バークの保守主義(3)

Ⅲ.フランス革命の真実───人類の負の遺産

 ① 新宗教国家の創造運動──フランス革命の本質(Ⅰ)

 カール・ヤスパース曰く、フランス革命は、・・・・近代的自由の源泉ではない。むしろ近代的自由は、イギリス、アメリカ、オランダおよびスイスにおいて、連綿と伝えられた真正の自由にその基盤をもつものである。・・・・フランス革命は、・・・・近代的非信仰の表現であり、起源なのである

 フランス革命が人類と文明の発展に貢献したものは何もない そればかりか、人類は、フランス革命の遺したさまざまな後遺症(害毒)に、その後二百年にわたって苛まれることになった。 二十世紀には暗黒の全体主義の諸国家が簇生したが、その元凶はすべてフランス革命に萌芽したものである。フランス革命こそは文明を野蛮へと逆行・退行させるイデオロギーの起源であり、人間の自由を破壊する政治システムの起源であった。「全体主義デモクラシーの起源」(J・タルモン)であった。そして今日もフランス革命の害毒の菌は完全には除染されてはおらず、マルクス主義とともにそれと結合しつつ、残存して繁栄のための次の機会を狙っている。

 フランス革命に関する神話は、自己美化(ナルシズム)にしか能力のない民族たるフランスそれ自体と、社会主義思想の発祥となったそのことを神聖視するマルクス主義(社会主義者)とによって、人為的な宣伝が繰り返されたその結果であって、そこには真実はゼロほどに何もない。スローガン「自由、平等、博愛」のヴェールの下の革命フランスの実像は、プロレタリアートの天国」であるはずの共産主義国家の実際が「(人民の牢獄)プロレタリアート地獄」であったように、「不自由、不平等、憎悪」の巷であった。1789年から94年の約六年間だけでも概ね約五十万人が不毛の権力闘争と狂信からのテロリズムの犠牲となった。この内訳は、処刑(ギロチン)や牢獄での私刑などで数万人、ヴァンデ地方の「反乱」への報復四十万人以上などである。その地獄絵さながらの阿鼻の構図には、化粧と仮面の下のフランス革命の本当の醜悪な顔が垣間見られる。

 フランス革命は、人類史上最も残忍な権力を誕生させた。狂える“残酷な暴政”をうんだ。暴動、放火、略奪、虐殺、暗殺、処刑、密告、没収、陰謀・・・・など、あらん限りの狂気の暴政が、同一国家かつ同一民族内で生じたのである。国家権力の簒奪に成功した革命家の煽動と恐怖(テロル、殺人)下においてなされた暴政であった。 フランス革命の真の目的は何であったかのか。それは単に「旧体制(君主制)」を「新体制(共和制)」にする政治的変革の革命であったのではない。政治的な救世主思想(メシアニズム)を狂信する革命家たちによる政教一致の新しい宗教国家の創造、それが真の目的であったろう。新・宗教国家の創造とこの創造のための政治の大改造、これがフランス革命であるとすれば、革命期のフランスを覆って暴発し狂乱する暴力の際限ない行使の実態が初めて説明できるからである。

 政教一致の新・宗教国家を創造するためには、それは新しい政治体制と新しい宗教の合体によって創られるのであるから、まずもって、既存の政治体制を破壊すること、および既存の宗教(主としてキリスト教)を破壊することの双方が不可欠である。だから、前者は王制廃止となり、後者はキリスト教潰しとなった。

 とくに、政治分野である君主制の共和制への変革だけが目的であれば、宗教分野であるキリスト教の信仰や教会制度の存在はなんら障害となりえない点に留意すべきであろう。このことは、あくまでもキリスト教を尊重しキリスト教を大切にしたアメリカ独立戦争・建国の例を思い起こせば自明すぎることである。

 人民主権」という概念は、この政教一致の新・宗教国家の熱烈な信者よりなる国家を「人民主権の国家」とする宗教的な意味の言葉であった。政治上の概念ではなかった。

 聖職者を下級「国家公務員」に格下げしてその権威を全くなくしてしまうための聖職者民事基本法(17907月)や教会財産を没収する教会財産国有化法(178911月)の実施は、王制廃止論などがまだ萌芽の段階において開始されている。“キリスト教潰し”は、1792年夏の国王廃位や17931月の国王処刑よりも二年以上先行していた。このように教会の破壊と聖職者の権威の剥奪などを目的として、教会財産の没収と聖職者の追放・処刑および祭礼潰しは、計画的に実行されていた。フランス革命の目標の第一が(カトリックで何であれ)既成宗教を徹底して破壊すること、そのことにあった。たまたまカトリックが強力であったが故に“カトリック潰し”の状況となったが、革命は最終的にはすべての既成宗教の廃絶を狙っていた。

 なお、この「教会」破壊のドグマを理論構築した「啓蒙哲学」は、その急先鋒の一人であるヴォルテールらによるものであった。これは、「啓蒙哲学」がはたして哲学であったのか、それよりむしろ宗教革命の運動ではなかったか、を示唆するものであろう。しかも、詳細に見れば、フランス革命の宗教的教義(ドグマ)は、ヴォルテールらの無神論が主流ではなかった。

 無神論は、キリスト教潰しの弾丸とはなるが、その反宗教ドグマにおいて、新宗教の創造には逆効果(人民が無神論になれば新宗教自体が成立しないから)になる。「ルソー主義」の方がフランス革命全体を通して支配的であったし、革命はこれへの「信仰」をもって展開している。革命家のほとんどすべては、その狂信の度合いに差があっても、シェイエスロベスピエールサン=ジュストバブーフなどみな「ルソー教徒」であった。そしてルソーの哲学とは先に述べたように一般通念上の哲学ではなく、本質において宗教の教義であった。

 フランス革命のキリスト教潰し(非キリスト教化)は、無神論者と擬似宗教国家づくりを目指すものの二つのグループの暫定連合によって遂行された。政治的な救世主主義に立つ擬似宗教国家とはあくまでも宗教国家であるから、後者のグループ(派)にとって前者の無神論の方は最終的には有害でありその存在を許すことはできない。これが、ロベスピエール(ジャコバン党の指導者)が非キリスト教化の行き過ぎ(無神論の暴徒)を批判し(179311月)、また、「無神論」に立脚する革命家を「用済み」として次々に処刑していった理由であった。 ロベスピエールは、179457日、「ルソー教徒」としてついに自らの信仰の告白に至る。国民公会における「宗教と道徳に関する演説」であった。新しい政教一致の国家の宗教として、「最高存在」と「自然」とを神として崇拝する、(ルソーの提唱するままの)市民宗教を提案したのである。また、「最高存在の礼拝は人間の義務の履行」だとも宣言して、その信仰を強制すると布告した。単純化して言えば「ルソー教」の創設と布教(信仰強制)の公然たる宣言であった。全フランス人民に対して「ルソー教」への改宗と信仰を命じ、この信仰を拒否するものへ恐怖(ギロチンの処刑)をもって罰することの宣言であった。

 そして、現在エッフェル塔の建っているその地点で、179468日、国民公会議長にも選出されたロベスピエールは、政治的な独裁者であると同時にフランスの新・宗教団体の「大司祭」として、この「最高存在と自然」という「神」を祀る祭典を挙行したのである。これこそはロベスピエール個人にとっては栄光の絶頂であったが、宗教革命の運動であるフランス革命が大怪獣のごときその本姿をついに現わして、勝利の大吼をなした時でもあった。 それ故に、翌月の「テルミドールの反動」をもってロベスピエールがギロチンで処刑された1794728、フランス革命という名のフランスの宗教革命運動も終息に向かったのであった。半年後の1795221日、国民公会は信教と祭祀の自由を認める法令を布告した。

 *テルミドールとはフランス革命歴の熱月(第11月)のことで、1794728日は(テルミドール9日)に当たる。「テルミドール反動」とはロベスピエール派が反対派のクーデターで壊滅し、以後主導権を得たブルジョア党が反革命的社会秩序の形成を図ったことを言う。

 なお、日本では「西暦」という言葉を使うが、その正式名はキリスト教の「グレゴリオ暦」である。革命フランスはキリスト教を排除したので「革命暦」を創ったのである。

 話は戻るが、ヴァンテ地方やリヨン/マルセイユその他での「フランス共和国」の名においてなされた数十万人に及ぶ蛮虐極めた殺戮は、ゾロアスター教徒に対するイスラム教徒のそれに等しく、異教徒狩りそのものであった。邪教徒に悪魔払いするのに似た、神の意思に沿う「聖なる行為」という意識なしには不可能な残忍非道な殺戮のやり方であった。「非宗教から発生した宗教は狂気を極める」(ウィトゲンシュタイン)、というがそのとおりであった。

 大砲での処刑、船倉に閉じ込めたままの溺死刑、子供を馬で蹴り殺す刑、家々を焼き尽くす、・・・・フランス人のフランス人に対するあらん限りのその残忍非道、この事実は、少なくとも、フランス革命をもって旧体制の新体制への政治的変革であったとする通俗的理解がいかに実態とかけ離れた虚偽を弄ぶものかを浮き彫りにしてくれている。また、宗教的興奮のもとでの殺戮を可能としたことにおいて、この「共和国」とは、一般通念上の“共和国”とは異質にして異次元の価値を持っていたことを示すものであろう。つまり、政治制度上の“共和国”ではなく宗教国家としての「共和国」であった。

② 自国の征服と超中央集権化──フランス革命の本質(Ⅱ)

 フランス革命の政治的側面における“革命”の特性として、

 A)   自らの国家そのものを「征服」する形態となったこと

 B)   超中央集権化が進んだこと

 C)   歴史の切断と過去の抹殺が人為的に行われたことの三つを挙げることができよう。 

 ●A)及びC)について この革命が単に王制・貴族制の「旧体制(アンシャン・レジーム)」を打倒して民衆参加(=デモクラシー)の共和政体への移行、これだけを目的としていたならば、この三つのいずれも不要であった。だが、革命の目標の一つが新しい宗教国家を創造するための、その前提条件としての“国家改造”であるとすれば、この三つの特性はいずれも合理性がある

 フランス革命における王制から共和制への移行とは、この故に、権力の移譲とか政体の変更というやり方にならなかった。王制(旧体制)という旧い国家Aが、共和制という「新体制」の新しい国家Bに「征服」されるという形をとったのである。「征服」によって過去を歴史伝統とともにゼロに清算して、新しい国家の誕生を新生させる道を選択したのである。国体(国家)が連続したままでの、政体の変更や権力の移譲などの道を拒絶したのである。国家の切断(不連続)を積極的に“是”とした、いやむしろ、そのような過程こそが必要だとした異常なる革命であった。 つまり、フランス革命が「正義」のB国(新権力)不正義のA国(旧権力)を「聖戦」によって「征服(垂直侵略)」してこれを滅ぼすという形をとったのは、フランス人すべてに対してその意識において国家Aと国家Bとが不連続で切断された、という認識を持たせなくてはならないと考えたからである。この不連続なしには新生B国の理想国家が生まれないとする信条に基づいたからである。この信条こそ、新しい宗教国家づくりのための宗教的情念であった。

 1792810日の国王ルイ十六世に対する武力攻撃とその警護兵の皆殺し(「フランス革命第二幕」の開始)、牢獄(タンプル塔)への国王幽閉1792813日)、王党派への大虐殺179292日)、そして元女官長ランバル公爵夫人をバラバラに切断してその首を槍の先に刺してタンプル塔での王妃への示威国王の処刑1793121日)などの残虐極まる蛮行と暴力は、共和制の建国であればまったく不要で無用なものであったが、これらすべてが革命家たちの周到な計画と煽動によってなされたことは、彼らが目指す新・宗教国家づくりにとっては、「征服」と「聖戦」の形をとるための血塗られた儀式が不可欠であったからである。つまり、“国王殺し(処刑)”は革命の過程で偶発的に生じたものではなく、革命側にとっては、これ無しで済ますことのできない宗教的な供犠の儀礼であった。

 国王処刑は、王制とか共和制とかの一般通念上の政治制度の選択のためになされたのではない。この時のロベスピエールやサン=ジュストの演説(国民公会)で示されるごとく、フランス革命がつくる新しい宗教国家である「共和国」や「祖国」のその聖なる門出に捧げられるべき、またそれに宗教性・神秘性をさらに附与するための生贄であった。

 「共和国が生きんためには国王は死ななければならない」(サン=ジュスト

 「祖国のためにはルイは死ななければならない」(ロベスピエール

 要するに革命家たちは「共和国」や「祖国」が王の血を欲しているから、王の血を流せと叫んだのである。王制とか共和制とか政治の次元の問題などひとかけらも言及してはいない。 さて、同じ国家であるのにその国家の中で、(現在の)国家Aを「征服」しない限り全く別の(未来の)国家Bは新生しない、と考える神話的・迷信的な仮構のロジックはこの国家が“あるべきではない民族”がそれと血の異なる“あるべき民族”を支配している支・被支配の植民地のような国家の場合には成り立ちうる。この場合のみは、“あるべき民族”が“あるべきでない民族”の方を「征服」し追放すれば、それが新しく「正義」の国家誕生となるからである。 実際に、フランス革命もそのような仮構のロジックを作為して宣伝した。例えば、『第三身分(階級)とは何か』の著者で1789年革命の戦端を切らせるその煽動において最大の功労者であるシェイエスも、そんな詭弁を展開した一人であった。

 シェイエスは言う、フランスの「国民」(=「第三階級、第三身分」)とは文明のゴール人とローマ人の末裔であるのに、一千年以上も前に野蛮なゲルマン人のフランク人に侵略され征服された。王侯貴族とはこの侵略の民たる蛮族フランク人の末裔であるから、「第三階級は、・・・・征服者たる人種の末裔だとか、その権利を継承しているとかいう馬鹿げた主張をするような家族どもを十把一からげにして、フランコニー森(フランク族の故郷)に追い払ってしまうべきである」と。

 シェイエスはさらに続ける、「(このときに)初めて国民は清められて、自分たちがもうゴール人やローマ人の(貴い)子孫からしか成り立っていないと・・・・かえって心が慰められる」のであり、また、 「今度は第三階級が征服者となって、貴族の身分に立ち戻るべきである」と。

 シェイエス的な理論は、「他民族に征服され束縛され圧迫されているのだから、“自由”のためには征服者を逆に征服・追放しなければならない!!」という情念へと民衆を暴発せしめるアピール力抜群であった。新・宗教国家の建国運動に誘導するには最も効果的な麻薬となった。 1789714日のバスチーユ牢獄襲撃からまだ、三か月ほどの間もない、1789年の106日に、脅迫下の拉致というべき国王一家(王室)をヴェルサイユからパリまで連行したあの蛮行も、ジャングルで捕えた野獣の見せ物興行と等しいやり方であったが、これも「征服」という狂気の感情なしには不可能であったろう。 このように、フランス革命の本質の一つは「征服」である。そう考えない限り平凡な言葉にすぎない「祖国」「愛国的」「国民」「市民」などが、なぜ激越な煽動性をもつ革命用語となりうるかの説明はつかない。 一国内での政治的改革や改良であれば、それがいかに大規模で劇的なものであろうとも、同一の国、同一の国民、同一の市民に対して、「祖国」とか「国民」とかの言葉によって、改革支持派と改革反対派とが峻別され血塗られた対決へとエスカレートしていくことはない。改革支持派だけは「祖国」と聞いて体中が熱くなり暴力をふるいたくなる、人を殺したくなる、などということは起こり得ない。

 ところが、「旧国家」が宗教的な革命によって「征服」されて「新国家」に再生するとなれば、革命支持派にとってはこの「新国家」は「祖国」である。革命支持派のみがこの新しい「祖国」の真の「国民」であり、正しき「市民」である。だから、フランス革命家が多用したスローガン「祖国」がこの言葉を発しただけで、「新国家」をつくれ、「旧国家」を征服せよ、と同じ意味の煽動用語となり得たのである。

 日本の明治維新鳥羽伏見の戦いや、会津城攻撃などあれほど激しい軍事衝突(内戦)と血の犠牲を出しながら、しかしフランス革命の「革命」と全く異質なのは「征服」的な形態が全く存在しないからである。日本の明治維新とは、江戸時代からもそれ以前からも国家元首の天皇が連綿として存在されて連続している以上当り前なのだが、一国における国体(国家)を“連続”させつつこの国体の枠内での政体(政権)だけの交替───形式的には幕藩体制から「王政」の復古、実際的には薩摩・長州藩連合への交替───をしたものだった。

 しかも薩長の維新側が、この“連続”をより確実にするために、天皇を奉戴して京都から江戸に遷都までしたし、幕府の中堅官僚をそのままに残置させ採用するなど、さまざまな工夫と努力をしたのである。フランス革命が革命側の拠点パリに、旧政権側(ヴェルサイユ)を「強制連行」したのとは全く逆であった。アメリカ「革命」は、この日本の明治維新に類似しており、やはりフランス革命とは本質を異にしている。

 フランス革命の国内での「征服(垂直侵略)」がほぼ鎮静化したに見えた、ちょうどそれを境にしてフランスは「対外征服(水平侵略)」を展開する。ナポレオンの指揮の下に大規模に遂行されたヨーロッパ制覇とはそれである。「国内征服」の垂直のエネルギーが「対外征服」という水平のエネルギーへと方向転換されたのである。

 同様に1917年のロシア革命も、約二十年に及ぶ「国内征服(垂直征服)」がほぼ完了した1930年代より「対外征服(水平侵略)」へと転じている。その最初が共産ロシアの(ソ連)のフィンランド征服(193911月)であった。当初「一国社会主義」であった、スターリントロッキー化であり、「武力による共産主義の輸出」路線への転換であった。フランス革命ロシア革命とは一卵性双生児のごとく何から何まで極度に極似している。

 B)について

 フランス革命のもう一つの重要な特性は極端な中央集権の政治体制への改造であったことだろう。スローガン「一にして不可分の共和国」は何もジャコバン党の専売ではなかった。この特性はフランス革命の本質をえぐる「キー・ワード」の一つである。

 トックヴィルはフランス革命を回顧して次のように指摘している。

 トックヴィル曰く、「・・・・或る民族が自らのうちで貴族制を打破した時には、その民族はおのずからそうなるかのように中央集権化に向かってすすんでいくものである。・・・・中央集権化は、この(フランス)革命の業績の一つとして容易に誤解されうるほど自然に、革命によって形成された(新しい)社会の中に、その地位をみつけたのであった」

 王(君主)制の破壊は、革命家たちがこの中央集権国家が不可欠だと信じるのであれば、不可避的に達成すべきものとならざるをえない。

 なぜなら、王制は時間的・歴史的な経過とともに権力の分散をもたらすからであり、王制こそは分権の慣性力を無限にもつからである。中央集権を企図するなら王制ほどの障害はない。

 王制とは、歴史の年輪を経たその時々の政治的妥協、試行錯誤、王の気まぐれなどの集積の上に乗っかっている政治制度である。例えば、さまざまな特権を地方(町や村)や組合や特定の家系に不平等ではあったが、網の交錯する如くに与えた。このため、王は、そのさらなる代償として、これらを附与した臣下(貴族)や地方の特権、慣習・慣例、古文書などに逆に拘束されるコストを払うはめになった。すなわち、君主(王)の権力とは、歴史(時間)がたつに従って制限が加わっていく。地方や各層・各団体にその権力が分散されてしまう。「中間組織」への分権である。君主制とは、その本質において「絶対王政」というイメージとは逆に現実には、権力の弱体化と権力の喪失の歴史をたどる。 このことは、一千数百年もの間、国家の元首であり続けている日本の天皇の権限の著しい縮小と衰退の歴史を振り返れば容易にわかることである。奈良時代から平安時代、平安時代から鎌倉時代、鎌倉時代から室町時代、・・・・と天皇の歴史とは天皇の政治権力の弱体化・喪失の歴史であった。このような天皇の分権的体質は、王と貴族が政治権力を占有するヨーロッパ封建体制においても全く同様であった。ブルボン朝のルイ王家が消失したことも、王権は分権化され弱体化されていくという、この原則の存在を実証していよう。

 要するに、王制という政体は、それが「絶対王政」と呼ばれようと、コンスティチューション(憲法、国体)の制限を受ける「立憲君主制(王制)」であろうと、過剰な分権化の過程をたどる。このために、時間が経つにつれて、絶対的な権力となることは万が一にもない。専制的な王制」は時にはありえるが絶対的な王制」は存在しえない。「絶対王政」という概念それ自体、形容矛盾であって存在しえない。

 この点で、日本の教科書は虚偽を教えている。何か「君主制」や「王制」が常に暴君のように権力をふるい、国民を好き放題に虐殺できる制度であるかのような印象を植え付けている。これは、日本の「天皇制」憎悪への意図的誘導ではないか?日本の約二千年の歴史で天皇が国民を好き放題に虐殺したことが、一度でもあるのか。あれば教えてほしい。

 逆に、先の大東亜戦争(特に対英米戦争)開戦においても最後の最後まで、昭和天皇のみが反対の聖慮を示された。それをあざけり笑うように無視して開戦の決定をしたのは、共産主義者の近衛文麿や反米狂の東條英機らの政治家や永野修身軍令部総長や山本五十六連合艦隊司令長官らの帝国陸海軍将官たちであったではないか。

 また、大戦中も、昭和天皇は、「このままでは、多くの罪のない日本国民が戦死し、日本国が滅んでしまう」との悲しみの御製を何度も詠まれている。日本の天皇とは皇祖以来、日本国民と日本国の安泰を祈祷されてきた存在なのである。これが「天皇制」の真実である。

 現に、王制の時代には、フランスの司法権は王権より事実上独立していて、高等法院(最高裁判所)は王に対していつも傲然として卑屈になったことはなかった。フランス革命のそもそもの発端は、課税をめぐって、この高等法院や「進歩的」貴族が国王に抵抗したことによって火がつけられたのであった(17871788年)。それほど王制の王権とは制限され権力は広く分散される分権状態であった。王制とは時間(歴史)が経てば経つだけ、「専制的な王制」すら、不可能にする政体である。(これが王制の実態であり、真実である。繰り返すが、日本の歴史教科書は「絶対王政」などという虚偽を教えている

 中央集権化のレベル(高低)は、国民一人一人に対する中央の国家権力の直接的な支配のレベルが評価基準の根本であるとするならば、フランス革命とは「分権的な王国を超集権的な共和国に改造した」ことになる。なぜなら、王権や貴族権は国家(政府)の権力直接的に個々の国民に力を及ぼすことを阻む、いわば「中間組織」の役割を果たしていたが、新・宗教の信仰を強制するという聖なる使命を果たしたい熱情に駆られた狂信状態のフランス革命家たちは、国家権力が個々の国民に直接的に到達する、直接支配の政治機構を欲したのである。 だから、長い王制に育まれた伝統と慣習に裏付けられ強い自治権を持つ州や、あるいは同業組合などがフランス革命において、破壊と絶滅の対象となった。州は廃止され、新しい地方行政機構は、県→郡→小郡→郷→自治体の軍隊式に組織された。そして、パリの中央政府が、県知事を派遣してこれらに対する絶対的な支配権を行使することができるようになった。

 人間も社会も、過去をひきずり過去を背負って存在しうる。また、いずれも根源的には過去の産物であり過去から生成されたものであるから、それらを過去と切断し分離することは決してできない。

 歴史において生成されたものは、歴史なしにはその生命は息づくことはできない。

 しかし、歴史伝統を憎悪し過去のすべてを破壊し現在とぷっつりと切断されたとき理想の未来が到来するのだと信仰し、また理想の未来をつくるために過去の破壊が不可欠だと狂信するフランス革命家たちは、人間と社会とを、過去から切断することを決断し実行した。その結果、法秩序が崩壊し、自由がフランスから消えたのである。 歴史からの切断→法秩序の崩壊→自由の喪失、という文明の政治社会について、フランス革命家は知っていて実行したのだろうか。それとも知らずして実行したのだろうか。彼らがルソー教徒であったのであれば、当然答えは前者である。

  なお、「エドマンド・バーク保守主義」とバーク的観点からの「日本国憲法の問題点」および、いわゆる“東京裁判史観・自虐史観”とは異なる、バーク保守主義的観点からの「大東亜戦争観」を一気に知りたい人は、次の私のホームページへジャンプしてもらっても結構です。驚くような面白い話満載です。ぜひ一度ご来場ください。リンク先:http://www.geocities.jp/burke_revival/index.htm

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