保守主義の哲学シリーズ(号外版)補足‐‐‐大東亜戦争(日支事変)における日本と中国共産党の関係 

 私の、先の2回のブログ記事「新ロシアの“核”脅威と日米安全保障条約の堅持について」において、私はロシアについて重点的に語ったが、中共(中国共産党)については、ほとんど触れなかった。

 そこで、少しだけ中共の成立過程(日支戦争の過程)について語りたい。

 大東亜戦争(日支戦争を含む193777日~1945815日までの8年間)の詳細は私のホームページエドマンド・バーク保守主義」の中の「7.大東亜(太平洋)戦争の歴史」篇で解説しているので、興味ある方はそこをご覧いただきたい。

 ここでは、大東亜戦争のうち日支戦争(日中戦争)の部分に焦点を絞って中川八洋 筑波大学名誉教授 著『地政学の論理』(徳間書店、2009年)の記述を拾って簡単に説明したい。

 なお、(  )内の緑書き部分が私自身の歴史研究により、付け加えた解説と意見である

 中川八洋 曰く、

 ●蒋介石政権への全面援助と毛沢東共産軍の殲滅――1928年~1945年の、唯一に正しい日本の対支外交

 19284月、国民政府といわれる、蒋介石政権が支那に誕生した。

1911年の)辛亥革命から17年間の“アナーキーな支那”を経て、支那にとって秩序の回復が期待できる久々にまともな政府が産声を上げた。

 これをもって日本は、1915年の対支(または華)21ヶ条要求などの強面の外交を、外務大臣・幣原喜重郎19246月~274月、19297月~3112月)がなしたように、賢明で先見のある「軟弱(=柔軟)外交」へと転換すべきであった。

 しかし、愚昧な国民大衆や血気にはやる浅薄な陸軍若手エリート将校たちは、情勢の変化や事の推移の裏に潜む危険な罠を、感知する知も深慮も真面目さもなく、日本経済を毀損する支那市場における人為的な撹乱行為――暴力的な「排日・排日貨」のボイコット運動――が、陸軍の武力的な介入による親日政権の誕生で解決できるという、能天気な妄想を弄んだ。

 いや、日本の対支行動の本質は、そのようなレベルにとどまらず、もっと深刻な病気に冒されていたことが主因であった。

 支那への日本陸軍の頻発した介入行為はソ連の使嗾(=スターリンの指示・命令)で実行された、“日本国不在”の行動だった

 具体的には、スターリンの操り人形として、スターリンの構想どおりに“赤い支那”づくりへの協力であった。

 親日政権づくりは表向きの名目で、実は幣原喜重郎などの賢明で合理的な対支外交つぶしが目的だった。

(しかし、)1931年の満州事変は、ソ連の影響が排除された日本独自の実行で、北満州への日本の勢力を伸張した「北進」だから、日本の国家安全保障にもその他の国益にも大いに裨益した。

(➡1907年の伊藤博文主導が主導した第一次日露協約~1916年の山縣有朋/井上馨らが主導した第四次日露協約で、日本が北満州へ侵攻しないことをロシアに誓約していた。

 つまり、北満州のロシアの利権を承認していた。であるから、ソ連の利権に背反するような「北進=満州事変」をスターリンが指示するはずがないのは明白である。

 ゆえに、満州事変は日本による独自行動であったと断定できる。歴史の経緯を素直に追っていけば自明である。)

 しかし、支那に沸騰する「排日・排日貨」の暴力的運動の黒幕がスターリンと“スターリンの子供”中国共産党なのを詮索もせず、それらが「一般支那人の反日ナショナリズム」だと軽佻浮薄にも勘違いし、日本政府は直情的に対支介入した。日本の愚鈍は底なしだった

 日本の重大な欠陥は、英米と異なり、インテリジェンス(諜報分析)力が潰滅的に貧弱だったことにある。

 また、帝国陸軍の若手将校のかなりの数がソ連のGRUNKGBの工作員でスターリンの命令で動いていたことにある。

 英米の諜報機関の協力なしに、日本は主権国家でありえない。

 当時のソ連は支那の赤化に、あらん限りの謀略を展開していた。が、日本政府も陸軍も、これを分析できなかった。陸軍には特務機関があったが、高度なインテリジェンスをする知力など存在しなかった。

 例えば、1928年の張作霖爆殺事件は、ソ連のGRU機関員サルヌイニとNKGB機関員エイチンゴンが実行犯だと推断した方が(瀧澤一郎「張作霖を殺ったロシア工作員たち」『正論』、20065月号参照)、河本大作(関東軍参謀、大佐)とするより信頼性は高いが、当時の日本は、こんな簡単な事件すら、インテリジェンスできなかった

 張作霖は、「反共・反ソ」だから、ソ連が満州工作をするにはその抹殺は欠かせない。

 加えて、日本が殺害したとなると、満州の漢民族は「反日」感情を昂ぶらせるし、息子の張学良は、本人の「反共」信条を超えて、必ず「抗日」一本槍となる。

 張学良が、中国共産党の罠にはまって、蒋介石を監禁し、その「剿共(そうきょう)」(備考)戦を棄てさせる誓約をさせた西安事件193612月)は、「日本が張作霖を殺した」との怨恨なしでは万が一にもなかっただろう。

(備考)「剿共」とは、中国共産党とその紅軍を殲滅的に叩き国家統一する内戦のこと。「反共」であっただけでなく、共産主義者の怖さを知る蒋介石は、「抗日」よりもこの方を優先課題とした

 一方の日本は、余りの「排日」に血が上り、蒋介石こそ信頼できる「親日」なのに、蒋介石よりもっと傀儡的な親日政権を砂漠の蜃気楼に求めて樹立せんものと、蒋介石つぶしに邁進したのだろうか。

 そうではあるまい蒋介石が「反共」であるが故に、スターリンらと通牒しつつ、蒋介石を叩き潰し、紅軍に支那全土を支配させる“支那赤化”のために軍事介入した、と考える方が、矛盾がない

 蒋介石は、19335月末の「塘沽停戦協定」で、満州国を、事実上、承認している。

 これは、満州と支那との間に、支那側に軍事中立地帯を設けるという、蒋介石の国民政府が一方的に譲歩したもので、これ以降に日本が、支那に軍事介入する理由は全く無いしかし、軍事介入のペースを止めなかったのは、他に秘めた目的があったからである。

 塘沽協定は、1935610日、「梅津美治郎(支那駐屯軍司令官)・何応欽(国民党軍事委員会北平分会会長)協定」でさらに強化されていた。

 スターリンのアジア共産化に従って中国共産党を支援するための、蒋介石に対する攻撃を本格化したのが、193777日の盧溝橋事件に対する、日本側の異常な過剰反応だった。

 それは、日本の天津軍(備考)の演習中に、機関銃の実弾をその上空に撃っただけの、明らかに謀略的な威嚇で、一人の死者はむろん一人のけが人も出ていない、採るに足りない(どこにでもあるような唯の一つの)事件であった。

(備考)日本の「天津軍」とは、1900620日に発生した)義和団の乱の鎮圧に伴う、1901年(97日)の講和議定書(※1北京議定書 第九条)に基づく駐兵権による、河北省天津の「支那駐屯軍」のこと。

 だが、これに対して、シビリアンの近衛文麿(=純度100%の共産主義者の総理大臣近衛は、東京帝国大学で哲学を学んだが飽き足らず、共産党員でマルクス経済学の狂信的な革命家であった河上肇=コミンテルン32年テーゼの翻訳者に学ぶため、京都帝国大学法学部に転学したほどの共産主義信仰者であった。)は、現地の日本部隊が驚愕した陸軍4個師団の出兵を命じたのである。

 しかも、いっさいの調査をせずに、この実弾発砲の容疑者は国民党軍の方だと決めつけての独断専行であった。“シビリアンの大暴走”であった。

 さらに、その翌八月、上海で日本海軍の中尉1人と水兵1人が殺された(=89日大山事件のこと。国民党軍に潜入していたコミュニストで毛沢東軍に本籍を置く張治中が、上海に駐留していや日本の海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉と斎藤要蔵一等水兵の二名を射殺)

 これに対して、米内光政・海軍大臣は、陸軍をけしかけて上海出兵を強行させた(※2)

 だが、この上海殺人事件は、日本軍を上海に引き摺り出すための、スターリンと毛沢東(と米内光政)の謀略だった(可能性が非常に高い)

(なぜなら、米内光政が812日、近衛文麿首相の支援を受けて、近衛私邸での四相会議で陸軍出兵を再び強く要請し、二個師団出兵が決定した。

 そして、まさにその翌日の813日に「第二次上海事変」=「中国軍が日本軍陣地に対し機関銃による射撃」が突然開始された。

 しかも、この時日本の陸戦隊は応戦したが不拡大方針に基づいて可能な限りの交戦回避の努力を行い、また戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、防衛的戦術に限定した。

 にもかかわらず、815日、米内大臣は、長谷川清(第三艦隊司令官)に長崎県大村と台湾から、海軍機(九六式陸上攻撃機、通り名:中攻)などの渡洋爆撃を命じた。

 これらの周到に計画されたごとくの米内と中共の行動の共鳴性は彼らの共同謀略を強く匂わせるものである。)

 米内光政が、仮にNKGBの工作員だったとするならば、「スターリン/毛沢東/米内光政(+近衛文麿)3(または4名)による大謀略事件」である。

 ともあれ、米内光政に騙されて帝国陸軍が上海出兵した瞬間、「(盧溝橋の)北支事変」は支那全土に広がり、「支那事変」へとエスカレートした。

 ユン・チアン著『マオ』は、ソ連の工作員で毛沢東に直属する紅軍幹部で共産党員の張治中(京滬警備司令官として蒋介石軍に潜入)が、日本を上海戦に引っ張り出したと、かなり詳しく解説している(ユン・チアン『マオ』上、講談社、3415頁参照)

 米内光政は、(大使館員のほとんどがNKGBGRUの機関員であった当時の在京=駐日ソ連大使館を通じて、この張治中に連動したと考えられる。(=考えるのが最も事実と符合する。)

 米内は、サンクト・ペテルブルク駐在その他でのロシアとの関係は5年半と長く、ロシア語が飛びきり堪能で「帝国海軍きってのロシア専門家」である単純で明白な事実を、戦後に旧海軍関係者がいっせいに口を閉ざして徹底的に秘匿したことは、米内光政が「NKGBの工作員」だったからであろう。(=と考えるのが自然である。)

 そして極め付きは、ドイツのトラウトマンが調停して(=トラウトマン和平工作:1937112日から始まったトラウトマン駐華ドイツ大使による和平工作。※3)、蒋介石が日本の要求を全部呑んだ瞬間、近衛文麿は「蒋介石(=国民政府)を相手とせず」と、日本は蒋介石政府とはいかなる講和にも応じずに、“無期限に支那と戦争をする”旨を世界に発信した。

 1938116日)だった。(=第一次近衛声明)

 この時日本は、日支戦争は盧溝橋事件とは何の関係もないことを闡明した

 表面的には、日本は無目的に“戦争のための戦争をする”戦争好きの国の道を選択したが、日本の戦争目的は明確だった。

 まだ弱体であった毛沢東(の共産党)が支那全土を支配できるよう、蒋介石の軍事力を抹殺する、その代行であった毛沢東のために、日本が支那全土の共産化を目標とする代理代行戦争、それが、日支戦争の真実だった

 (=弱体の毛沢東の共産党の勢力を拡大し、支那全土を支配できるように、日本の総理大臣である純度100%の近衛文麿やソ連のNKGB工作員の疑いの強い米内光政・海軍大臣、その他の日本の共産主義者またはそのシンパらがモスクワの命令で、毛沢東の代理代行戦争を蒋介石に対して行った、それが日支戦争の真実である※4。)

 後年、毛沢東は、この事実を次のように語って、日本に感謝している

(毛沢東は言う、)

 「(「日本軍国主義の中国侵略」について質問がありましたが、日本が何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民(中国共産党)に権力を奪取させてくれました皆さんの皇軍(日本陸軍)なしには、われわれ(中国共産党)が権力を奪取することは不可能だったのです

(東京大学近代中国史研究会(代表は衛藤瀋吉)訳『毛沢東思想万歳』下巻、三一書房、187頁 参照)

 「拡大ハートランド」づくりと、ハートランドのリムランド併吞への協力、これこそが、蒋介石の国民党政府ができた1928年以降の、日本の対支軍事介入の隠された中核方針であった。また、1937年以降の、大東亜戦争の戦争目的だった


(※1)北京議定書(部分抜粋)

 明治三十四年義和団事変ニ関スル最終議定書

 千九百一年(明治三十四年)九月七日北京ニ於テ調印a同年十二月二十八日公示

 ・・・

 第五条 清国ハ兵器弾薬及専兵器弾薬ノ製造ニ使用セラルヘキ材料ヲ清国版図内ニ輸入スルノ禁止ヲ承諾シタリ而シテ二箇年間該輸入ヲ禁止スル為メ八月二十五日ノ上諭 附属書第十一号 ヲ発布セラレタリ嗣後尚ホ列国ニ於テ之ヲ必要ト認ムル場合ニハ更ニ上諭ヲ以テ前記ノ期限ヲ引続キ二箇年宛延長スルコトヲ得

 第七条 清国政府ハ各国公使館所在ノ区域ヲ以テ特ニ各国公使館ノ使用ニ充テ且全然公使館警察権ノ下ニ属シメタルモノト認メ該区域内ニ於テハ清国人ニ住居ノ権ヲ与ヘス且之ヲ防禦ノ状態ニ置クヲ得ルコトヲ承諾シタリ此ノ区域ノ境界ハ別紙図面 附属書第十四号 ニ示ス如ク定メラレタリ即

 西方ハ 一、二、三、四、五線a北方ハ 五、六、七、八、九、十線

 東方ハ 「ケツテレル」街ノ十、十一、十二線

 南方ハ 韃靼城壁ノ南址ニ循ヒ城垜ニ沿フテ画シタル十二、一線

 清国ハ千九百一年一月十六日ノ書簡ニ添付シタル議定書ヲ以テ各国カ其ノ公使館防禦ノ為メニ公使館所在区域内ニ常置護衛兵ヲ置クノ権利ヲ認メタリ

 第八条 清国政府ハ大沽砲台並ニ北京ト海浜間ノ自由交通ヲ阻害シ得ヘキ諸砲台ヲ削平セシムルコトヲ承諾シタリ而シテ右ニ関スル処置ハ実施セラレタリ

 第九条 清国政府ハ千九百一年一月十六日ノ書簡ニ添付シタル議定書ヲ以テ各国カ首都海浜間ノ自由交通ヲ維持セムカ為メニ相互ノ協議ヲ以テ決定スヘキ各地点ヲ占領スルノ権利ヲ認メタリ即此ノ各国ノ占領スル地点ハ黄村郎房、楊村、天津、軍糧城、塘沽、蘆台、唐山、濼州、昌黎、秦皇島及山海関トス

 千九百一年九月七日北京ニ於テ


(※2)大山事件(89日)から第二次上海事変勃発(813日)まで、及びそれ以降の米内光政の不審な行動

 上記、大山事件と第二次上海事変に対し、海軍大臣の米内光政の行動は常軌を逸していた。通常であれば、蒋介石の意図を確認・確定する情報作業を、外務大臣に要請するとともに、海軍独自でも行うはずである。しかし、外務省や海軍がそのような作業をできないよう、米内は独断専行して、間髪をいれず、軍事的反撃の即時実行に全力を挙げた。

 ①まず、大山事件の翌810日の閣議で、米内・海軍大臣は、上海への陸軍出兵を強引に要請した。しかし、たった二名の死亡でかくも迅速に全面戦争に訴えるのは常識ではありえない杉山・陸軍大臣は、消極的な反応を示した

 ②しかし米内は812日、近衛文麿首相の支援を受けて近衛私邸での四相会議(総理大臣、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣)で陸軍出兵を再び強く要請し、二個師団出兵が決定した近衛文麿は、重要国策の決定を官邸でなく、私邸でするなど、公私の峻別をしないことが日常で、この性向は近衛が国家を私物視していた証左である。815日、米内大臣は、長谷川清(第三艦隊司令官)に長崎県大村と台湾から、海軍機(九六式陸上攻撃機、通り名:中攻)などの渡洋爆撃を命じた

 ③814日の閣議で米内大臣は「南京占領」を口にしたこれが、閣僚で最初の「南京占領」発言である。このとき、外務・海軍両大臣はこれに反対した

 このように南京占領に至る上海戦を推進した筆頭が米内光政であった。しかも総理でもないのに815日午後730分「頑迷不戻な支那軍を膺懲する」と、支那への宣戦布告と見做しうるラジオ演説までした

 上記の89日大山事件から815日宣戦布告ラジオ演説までの米内の行動は、米内と中国共産党との共同謀議及びその背後で操る巨大な赤い影を想像させるが、これはあくまで想像の域をでず、歴史事実とは言えない

 このようにして、19378月から上海戦が開始されたが、上海戦は壮絶・熾烈を極め、日中ともに大ダメージを受けたことはあまり語られない

 イ)日本軍の損耗は絶大なるものとなった。たった三ヶ月で戦死傷者は(死者9千人以上を含む)4万人を超えた。

 ロ)蒋介石の国民党軍も支那での情勢が一変し、毛沢東の人民解放軍と国共合作せざるをえない状況に追い込まれた。まず、共産主義者三百余名が釈放された。

 ハ)毛沢東の人民解放軍は、形式的には、国民党軍の一部となり、「八路軍」と称し正規軍となったかくして毛沢東の共産軍は好き放題にその勢力を支那全土に伸長していった

 近衛文麿と米内光政の、19377月から19381月にかけての対支那軍事・外交政策のすべては、(意図するとしまいと)結果として、毛沢東の“赤い支那づくり”に決定的に貢献したのは歴史事実である。

 ⑤米内の「罪」は、何といっても、日中戦争の無期泥沼化にあろう。南京陥落直後の19381月、蒋介石が出してきた対日講和の提案を、近衛文麿と共謀して蹴ったのは米内・海軍大臣であった。

 “日本史上、例のない悪の巨魁”近衛文麿が考案した「国民政府(蒋介石)を対手(あいて)とせず(=この発言は、裏返せば、国民政府を交渉相手としない、つまり、毛沢東の人民解放軍も交渉相手の対象となる事を意味する。あるいは、誰も交渉相手とはせず、日支戦争は日本が支那占領するまで終わらない。とする世紀の愚行であった)の声明1938116)を断固阻止しようとして食い下がる陸軍参謀本部の参謀次長・多田駿を「内閣総辞職になるぞ!」と恫喝して黙らせたのは、米内光政であった。


(※3)中支(華)ドイツ大使 オスカー・トラウトマンによる日支和平工作の過程

 【1937年(昭和12年)】

 112 - 交渉開始。第1次和平案が日本より駐日ドイツ大使に連絡される

 113 - ブリュッセル会議(15日迄)

 115 - 国民政府に和平案が伝えられる

 119 - 上海陥落。

 121 - 大本営が南京攻略を正式に発令。

 122 - 蒋介石が第1次和平案受諾の意向をトラウトマンに伝える

 127 - 蒋介石の和平案受諾の意向が日本政府に伝わる

 1213 - 南京攻略戦終結。

 1221 - 2次和平案閣議決定、翌日駐日ドイツ大使に連絡

 1226 - 2次和平案が蒋介石に伝えられる

1938年(昭和13年)】

 112 - 日本政府、回答を督促。

 114 - 国民政府より、和平案に対する問い合わせ。

 115 - 大本営政府連絡会議の場で交渉打ち切りを決定。

 116 - 日本政府、交渉打ち切りの声明蒋介石(=国民政府)を相手とせず


(※4)「マルクス・レーニン主義」と「コミンテルン32年テーゼ」の概説

マッキンダー地政学(ブログ用2)_image019.jpg

 ●コミンテルン32年テーゼより抜粋

 「日本の共産主義者の行動スローガンは、〈(共産党支配の)中国の完全な独立のための闘争〉でなくてはならない」

 「日本の共産主義者は敗戦主義者(=日本を敗戦に導くこと)であることにとどまらないで、さらにソ連邦の勝利(=対日戦争でのソ連の日本占領)と中国人民の解放(=支那全土の共産党支配)とのために積極的に戦わなければならない

 つまり、近衛文麿が国民党軍に対してなぜ戦争を開始したかは、弱小の軍隊にすぎない毛沢東の共産党軍に代理として中国共産党が単独でも対国民党戦争に勝利し、全支那征服ができるまで、蒋介石の国民党軍を潰してあげることであった。

 だから、当然に蒋介石との講和はありえず、「国民政府(蒋介石)を相手とせず」の声明を出すのである。汪兆銘という傀儡政権までつくり、支那全土を毛沢東の手に渡すまで、日中戦争を継続するのが近衛の堅い信条であった。

 ●コミンテルンの天皇制廃止テーゼ

天皇制は、国内の政治的反動と封建制のあらゆる遺物との主柱である。・・・・革命の来るべき段階の主要な任務は、次のとおりである。(1)天皇制の打倒・・・・ 

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