保守主義の哲学シリーズⅢ-3‐‐‐「保守主義の父」エドマンド・バーク(その3:第2章-①) 


(バーク保守主義:その3-①)

第2章 バーク「偏見(=古きものへの尊敬の念)」の哲学

「理性の完成(完全)主義」の否定・「人間の意思(知力)=神託」主義の排撃

第一節 「共観妄想」の「設計主義的合理主義」


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「共観妄想」の「設計主義的合理主義」

 長くても80年程度しか生きられぬ、ある世代の、ある人間の知力(意志)など、たかが知れており、数百年の歴史をかけて祖先が蓄積した叡智に比すれば、塵ほどにもならない

 しかし、その程度の「人間の知力」が“神にも匹敵する”と傲岸にも思い上がった思想が17世紀に発生した。

 この思い上がりの先駆者はデカルト(※1)であり、その著書『方法序説』(1637年)こそは、近代における人間の理性万能主義の幕開けであった。

 フランスでは、このデカルトの思惟が主流となり、ルソーフランス革命を経てサン=シモンフーリエ社会主義となって世界に伝播していった。

 一方の英国においては、ホッブスが誕生したがエドワード・コークらの「コモン・ロー法曹家たちの「法の支配が力強く伝統となっていたこともあって、18世紀末までは、ホッブスの封じ込めにもフランス啓蒙哲学の流入阻止にも、完全に成功していた。

 英国ではデカルト/ホッブス的な思惟19世紀に入ってベンサム/J・S・ミル/オースティンらの活躍以前まで、傍流の中の傍流であり、世間の片隅でうごめく奇説珍説にすぎなかった。

 20世紀にハイエクノーベル経済学賞受賞・政治哲学者)は、このデカルト的思惟がマルクスらの「計画経済」の下敷きになっていたことから、それを批判すべくそれを表象する専門用語として「設計主義的合理主義」を考案した。

 なお、計画経済とは、一国の経済、特にその需要と供給が官僚の知力のみで計算された方が“市場”の智恵よりもはるかに無駄がないと考える、現実を無視した宗教的妄念の一つである。このため、ハイエクは人間の知力を無限だと過信するこのようなパラノイア的信条を「共観妄想」だと糾弾したのである。

 ちなみに、1925年から1945年の日本は、「計画経済」まで行かないが「統制経済」という「共観妄想」にどっぷり浸かった時代であった。

 以下、少し脱線するが重要なことなので、この話をしたい。

 昭和前期(192545年)とは、内政・外交の主要国策が社会主義・共産主義に呪縛された時代であった。

 つまり、「社会主義思想の全盛期」であったのだが、戦後になって、共産党(=コミンテルン日本支部)治安維持法(※2)1925年)をとてつもなく恐ろしい法律であったかのように、針小棒大に中傷と歪曲に精を出した効果もあって、「社会主義思想は弾圧されて逼塞させられた」との転倒した嘘の方が定説となった。

 治安維持法は、コミンテルン(ソ連共産党国際部=共産主義の対外輸出部)の命令に従った、天皇制廃止などの革命運動をする“団体”(コミンテルン日本支部=日本共産党を取り締まったが、社会主義思想・共産主義思想の“思想は全面的に放置した治安維持法は、(思想規制ではなく)団体規制/運動規制に絞る、立法上の一大欠陥を持っていたつまり、“思想自体”は野放し状態であった

 米国では、今も日本の治安維持法より厳しい「共産主義者取締法」が存在し十全に執行されている。英国でもドイツでも共産党は非合法である

 私有財産否定の思想に対し、米国民はすぐ怒り激昂し、排撃するように、米国は反・平等主義(=自由主義)が建国の血肉的な精神となった国家である「ルソー」という黴菌が完全消毒されているため、マルクスやレーニンの思想は自ら洗浄してほぼ完全に排撃してしまった

 一方、19201930年代の日本は、米国とは百八十度逆の方向―― スターリン型共産国家 ――に国づくりを目指した

 大東亜戦争とは、日本国民を共産主義思想に洗脳する、上(政府・軍部)からの革命であったが、それが八年間も続いたのである

 それを証明する、ほんの一例を以下に挙げる。

 ①マルクスの『資本論』を読まなかった帝国大学生はいなかった

 戦前日本では、政府も軍部も学会も、殺意がほとばしる人間憎悪に生きたマルクスを、経済を破壊するその反経済学を、転倒して経済的な利益を大いに日本にもたらす“世紀の賢者”だと見做していた。実際にも、マルクスの本はどれでもバカ売れするので、複数の出版社が競争するかのようにこぞって出版した。

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 なお、マルクス/エンゲルスの『共産党宣言』の出版は、堺利彦幸徳秋水との共訳で『平民新聞』(19041113日付け)が掲載したのが最初であったが、直ちに発禁となった。

 だが、堺利彦はそのあとすぐ、全訳を『社会主義研究』創刊号(19063月)に掲載した。なぜかこれはなんらの処分もなかった。

 治安維持法の規制対象の筆頭であるべき『共産党宣言』は、治安維持法があるのに堂々と地下出版が相次いだ

 1932年には、河西書店が公然と出版した。

 1932年の五・一五事件という、海軍の赤い若手将校を中心とする軍部クーデターの檄文は、『共産党宣言』・レーニンの1917年ロシア革命を踏襲する旨の宣言であった。

 この事実は、陸軍や海軍の士官学校では、「共産党は至高の善である」との左翼革命思想が蔓延していたことを示している。

 さらに、犬養毅・総理大臣という、一国の首相に対する暗殺と大規模武力騒擾事件の主犯、三上卓と古賀清志に死刑判決を下せず、懲役十五年となった。当時の朝日新聞らのマスメディアが煽った、五・一五事件支持の過激な熱狂に、軍法会議を所管する海軍・陸軍が迎合したのである。

 1932年には、軍部もしくは霞が関官僚による「上からの共産革命」の方向を日本は選択していた。

 五・一五事件と二・二六事件はこの方向の暴発であったが、1937年の純度100%のコミュニスト近衛文麿内閣の誕生こそは、「コミンテルン32年テーゼ」を忠実に実行する共産党以上に共産党的な革命内閣であった。

 なお、レーニン、スターリンあるいはブハーリンはマルクス(学者・思想家)と違って暴力革命家である以上、これらの著作は必ずや日本の官憲が徹底的に取り締まったはず、と戦後の日本人は大いなる誤解をしている

実体はその逆で、マルクス同様、それらの著作の出版は全く放置されていた。この三名に関する厖大な量の翻訳出版の一部を以下に列挙する。

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 スターリンとブハーリン著作の邦訳版の一部は以下の通り。

 『レーニン主義の諸問題』は、丸山真男(まさお)の生涯変わらぬ座右の書だった。丸山は、自分が熱烈なスターリン崇拝主義のコミュニストであるのを隠したことはなかった

 日本人のスターリン崇拝が退潮したのは1968年の「ソ連軍チェコ侵攻」からであった。 

 1927年から1968年までの31年間、日本ではスターリンが信奉されていた。

 日本共産党を始め、さもスターリン崇拝でなかったとか、ソ連共産党とは違うとかの言辞をするが、虚言であり歴史の捏造である

 日本共産党の党中央委員長だった、ペンネーム不破哲三(ふわてつぞう)の「(てつ)」は、「」とも言われたスターリン、「不破(ふわ)」はブハーリンを指しているように、日本は濃淡には種々の意見はあろうが、紛れもない“スターリン崇拝国”であった。

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 上記のレーニン/スターリン/ブハーリンの著作に対して、1925年の治安維持法が施行されたあとも、政府は取り締まりを全くしなかった。

 官憲(内務省と司法省のエリート官僚たち)も、天皇制廃止を除けば、「ソ連=人民の理想の国」だと信仰していたからである。

 1927年、与謝野晶子は、学生が猫も杓子もマルクスとレーニンばかり読んで、それ以外の思考ができなくなった状況を新聞『横浜貿易新報』で次のように嘆いている。

 与謝野晶子曰く、

 マルキシズムよりレェニズムへと云ふのが、優秀な大学生間の近頃の研究題目であり・・・・それを人生の唯一の準拠として万事を批判し照準する傾向が著しい。この考え方は余りに冷たくかつ非人間的である・・・・人間が物質に負けて隷属した形である

 「唯物思想に偏することも一つの迷信である。・・・・目前流行の階級意識や唯物主義や過激な破壊思想を超越して大きく豊かに考へ得る人間であらねばならない。・・・・欧米の国民が日本の青年ほどにロシアから来た一つの思想に熱狂しないのを羨ましく思ってゐる

 『ビルマの竪琴』の竹山道雄もその著『昭和の精神史』で曰く、

 インテリの間には左翼思想が風靡して、昭和の初めは〈赤にあらずんば人にあらず〉という風だった

 小説家の杉森久英も曰く、

 私の学生時代は、昭和初年だが、思想界はマルクス主義一色に塗りつぶされていた

 このように、昭和の御代は、不吉にも、「悪の思想家」マルクスと「悪の革命家」レーニン/スターリンの著作の大洪水で始まった。

 “日本の共産化”が国是であると、学界と新聞・雑誌界と軍部と官界が合意していた時代、それが昭和前期であり、これが歴史の事実である

 ②バカ売れした「スターリン計画経済」礼賛本

 ●大嘘で「ソ連計画経済」を煽ったマルクス経済学者

 1929年の世界恐慌に直面して、日本では「資本主義の終焉」が経済学者のコンセンサスとなった

 九十九パーセントの学者が、「統制経済計画経済への移行がなければ日本は破綻する」と念仏のように国家・国民の不安を煽った

 「統制経済」「計画経済」のタイトル本は、世界恐慌から日本を救う“聖書”だと信仰され次々に大量に出版された。市場経済を是とする経済学のテキストは一冊もなかった。

 ソ連型計画経済に誘惑・洗脳するマルクス経済学のテキストが、1932年~34年に厖大に出版された事実を直視すれば、1930年代の日本の対外政策や内政がスターリン型計画経済の持つ麻薬的な魅惑に引きずられていった歴史の推移が見えてくる

 1937年からの大東亜戦争が、この背景において決断されたことも見えてくる

 マルクス経済学のテキストの例をあげる。

 )猪俣津南雄の著『統制経済批判』

 「統制経済批判」とは自由経済擁護論ではなく、「計画経済か、統制経済か」の選択における、計画経済の方を支持し、統制経済を批判するという意味である。

 猪俣は、私有財産を廃止し、日本が完全なソ連型の共産国になることを信条とする過激なスターリン主義者であり、その著はソ連の五カ年経済についてありもしない嘘成果を大宣伝した

 例えば、たった四年三ヶ月(192810月~1932年末)の第一次五カ年計画によって、 「ロシアは、農業国という旧態を脱して巨大な工業国に発展転化した」

「全発電能力は1928年の187万kwから、五年後の1932年には456万kwに増大した」

「播種面積は1928年に比し1932年には2,100万ha増加した」

12万台の新しいトラクターが供給された」

鉄道貨物輸送は41%増加した・・・・鉄道旅客輸送は243%増の約三倍反にも達した

航空輸送旅客数も三倍になった」等々、猪俣の「ソ連計画経済礼賛は嘘宣伝の枠を超えない、噴飯物の陳列館であった。

 特に輸出された農作物は、農民を大量餓死させるべく、種もみまで強制徴発するなど、人類史に残る悪魔の所業であったが、猪俣はこの事実を架空の物語にすり替えている。

「資本主義国では1930年から31年にかけて、旧速度の生産低下が起こり、失業者の数はむやみに増大していった。しかるにソ連では、同じ時期において旧速度の増大を続け、それとともに失業者は一人もいなくなった・・・・。1931年には作付面積は950万haも増加し、綿花の栽培は二倍になり、・・・・

 「飢餓に苦しみ崩壊し混乱しつつあるはずのロシアが、大量の小麦やその他の商品を輸出し始めた。・・・・赤色コロンブスは卵をまっすぐ立てたのだ

 スターリンレーニン同様、農民への憎悪は尋常ではなく富農であろうと貧農であろうと餓死させる方針を敢行した。

 実際には、兵士に銃口を突き付けさせ、農作物の私有と家族単位・村単位の伝統的な農業とを完全破壊して、「私有なき、農業の工場化」のコルホーズ(集団農場)ソフホーズ(国営農場)への改造を強行した。

 このため農民の多くは、餓死するにいたった。猪俣が礼讃する193233年にかけてウクライナだけでスターリンの無差別餓死刑で殺されたものはコンクエストによれば、500万人とされる

 これには、「富農=反革命農民」に対する処刑やシベリア送りは含まれておらず、最小推定値である。猪俣とはスターリンの大嘘をさらに拡声器で日本人に読ませた“嘘増幅屋”であった。

 なお、餓死処刑とは、コルホーズの農作物すべてを“国有”と定め、家の中の食糧をすべて強制的にとりたて、かくして、ひもじさと飢餓の余り、自分が耕作した畑の小麦一本でもジャガイモ一個でも食べると、その場で銃殺したこのため、農民は餓死を選択するしかなかった

 この“農民大虐殺”の方法を初めて考案したのがレーニンである。

 また、コンクエストは、次の指摘もしている。「計画経済であればインフレが起こらない」などとは、現在の北朝鮮を見ればすぐわかる神話だが、ソ連でも「1933年の労働者の実質賃金は、192627年のそれに較べると約十分の一に減っていた」ようにインフレは市場経済よりもひどい水準で発生していた。

 )向坂逸郎の著『統制経済論総観』

 『統制経済論総観』も残忍で反人間的なスターリンの計画経済を讃美し嘘宣伝する。

「ロシアにおける五カ年計画は、全世界の恐慌の嵐の中に、成功をもって終わった

「計画経済は社会主義の社会の存在形態である。・・・・土地、工場は言うに及ばず、すべての銀行、交通機関、外国貿易、そのほか商業等が社会化されていることである」

 )ボハノフスキーほか共著『ソヴェート同盟(連邦)計画経済』

 コミンテルンの対外情報工作員が書いた、嘘の洪水である悪書、計画経済バラ色論の『ソヴェート同盟(連邦)計画経済』は1932年に早々と邦訳出版され、かなり読まれた。そこでは次のようなべらぼうな虚偽が書かれている。

ブルジョア的生産諸関係、生産手段の私有は生産力の発展を拘束し、これを破壊しさえする。しかるにソ連で支配的かつ優越的な社会主義的生産諸関係は生産力の向上を可能とし、その未曾有の急速な発展・・・・を積極的に促進する

「両三年中(1936年頃か?)には米国と世界第一位を争う闘争を開始するだろう

 日本の学界と雑誌・出版界は、1930年代、ソ連計画経済について、超架空の嘘を徹底的に日本人に刷り込んだのである。

 そして、1930年代に入り、その思想汚染の影響が政治社会に現実の事件として次々と発生していくのである。もちろん、大東亜戦争もこの延長線上にある

 1931317日の3月事件(未遂)(※3)

 ➡1931918日の満州事変)

 19311017日の10月事件(未遂)(※4)

 ➡193231日の満州国建国(※5)

 ➡1932515日の五・一五事件(※6)

 ➡1936226日の二・二六事件(※7)

 ➡193764日の第1次近衛内閣(=日本の歴史上最大の不幸の発生):近衛文麿(※8)という純度100%の共産主義者が総理大臣の職に就いた。つまり、日本共産主義政権の誕生である。

 この「日本史上最大の悪漢」が193777日の盧溝橋事件から1945815日大東亜戦争終戦までの8年間のうち3期も内閣総理大臣を務めたのである。

 大東亜戦争の歴史事実を考察する時、上記の、当時の日本社会における「共産主義信仰」と「近衛文麿・共産主義政権誕生」に関する「事実」を無視することは、大東亜戦争の歴史事実を歪曲する行為であり、そのような歴史書・歴史教科書の類は、すべて真実を隠蔽した虚構の「大東亜戦争・歴史物語」にすぎない。


 だいぶ脱線したが、話をバークの「偏見(=古きものへの尊敬の念)」の哲学に戻す。

 バークは、まだ若い二十歳代1750年代、すでに「設計主義的合理主義」の非を確信していただけでなく、それが、政府転覆の暴力革命へと繋がっていく危険な思想だと考えた

 バークのこの予見は、1789年、フランス革命の勃発によって的中した。

 人間の知力を過信する理性万能主義を排撃し否定するため、バーク哲学は「偏見(prejudice)=古きものへの尊敬の念」という概念を用いるが、この「偏見」という、美しい宝石のような哲理を秘めた思想は、ハイエクの「設計主義的合理主義」批判に先駆けること二百年以上も早く、フランス革命思想の英国上陸を水際撃退するに絶大な力を発揮した

 古い偏見こそ叡智である幾何学を「万能の科学」と信奉するデカルトホッブスにとって、数学の定理のごとき「明証」された確実なものだけが「真理」「信ずべきもの」であった

 この考え方では、「明証」されない無数の「真理」「信ずべきもの」すべてを排除し、遺棄することになる。

 極端な例を挙げれば、「人を殺してはいけない」とか「親孝行しないといけない」とか「友達は大事にしないといけない」とかの「道徳的真理」は、数学的(論理的)には明証されないが、正常な人間であれば、社会生活を営むのに当然必要な「真理」「信ずべきもの」である

 これらを数学的(論理的)に明証できないから、「真理」「信ずべきもの」でないという理由で、排除し棄却すれば、人間の文明社会が成立しないのは明白であろう

 ところが、デカルトは「蓋然たる(=ある程度確かそうである)にすぎぬすべての認識を斥け、完全に認識せられ疑いえないもののみを信ずべし」(デカルト『精神指導の規則』、岩波文庫、十二頁、十五頁)と、不明証のものをすべて「排除」するやり方を、さも「神のお告げ」のごときものだと正当化する詭弁を展開した。

 また、ルソーの『社会契約論』における「一般意志」とは、ルソー自身が「絶対神の神託のようなもの」と説明したように、「意志神格化」の妄想が、最も精緻に理論化されたものであった。

 しかし、ドイツの哲学者カントが、「神の存在(実体)は人間理性では明証不可能である(明証できる限界を超えている)」と明証したのであるから、理性の完全性を説明するのに「神」とか「絶対神」とか「神託」などを持ち出すこと自体が、そもそも究極の「論理矛盾」である

 実際、人間の智力は貧弱で乏しい。明証力などそもそも初めから人間にはほとんどない。

 つまり、デカルト的「設計主義的合理主義」に従えば、文明社会の全容はまったく「明証」できないから、文明社会を成立させ、機能せしめている数々の蓋然的な「真理」「信ずべきもの」の方を捨て破壊することになる。

 デカルト的理性主義に依拠する人間が、必ず野蛮人並み、幼児的知力水準の狂った行動をするのはこのため(無神論・無道徳などのため)である

 一方、明証性の論理を危険と考える、「偏見」を重視するバーク哲学には、「共観妄想」にすぎない「設計主義的合理主義」というウィルスを除染する、強力な消毒効果があるから、われわれは祖先から世襲(相続)し、伝えられてきた無数の「真理」「信ずべきもの」を保存して、その叡智を頼りにして堅実にして賢明に生きていくことができるのである。

 バークは1789年のフランス革命を全否定するのに、次のように「偏見の哲学」を展開した。

 バーク曰く、

我々は神を怖れます。畏敬の眼で王を見上げます。議会に対しては愛着の、判事に対しては服従の、聖職者に対しては崇敬の、貴族に対しては尊敬の、眼を上げます。なぜでしょうか。心の中でそうした観念を前にする時、そのように心を動かされるのが自然だからです。それ以外の感情は嘘偽りであって、精神を腐敗させ、根本的道徳を失い、我々を道理に適った自由に不向きにさせるからです」(バーク『フランス革命の省察』、みすず書房110頁)

お判りのように、私は、この啓蒙の時代にあってなおあえて次のように告白するほどに途方もない人間です。即ち、我々(英国民)は一般に教わったことのない感情の持ち主であって、我々の古い偏見を皆捨て去るどころかそれを大いに慈しんでいる」(同)

 フランス革命が進んだ1795年の年頭のバークの書簡の一つで、「偏見」は次のようにも言及されている。

 バーク曰く、

ジャコバン主義とは、人々の精神から偏見を一掃せんとしており、・・・古い社会の枠組み・組織全体を破壊せんと決意しています。・・・宗教こそ(ジャコバンが破壊せんとする)大偏見で、個の大偏見が他の多くの偏見を統合しているのです。だから宗教はジャコバン主義が憎悪する最初の対象であり、最後の対象であり、その中間の対象でもある(=永遠でかつ絶対的の敵対対象です)」(Burke,op.citP661)

(※1)デカルト

 デカルトの『我思う(私は考える)、ゆえに我あり(ゆえに、考える私が存在するのは疑いようのない事実である)』は読者も皆知っているフレーズであろう。

 デカルトは数学者でもあり、数学の論理の明晰さを好み、曖昧なものを嫌った。何より彼が求めたのは、確実明快であることであった。

 彼は、物事の「良い」あるいは「正しい」考え方とは何か、を探求した。そして、次のように考えた。

世界万物から神/キリストの存在まで、あらゆるものに疑問を持ってみよう。もし、そのように一切のものを疑い尽くして、その結果なお疑えないものとして残るものがあれば、それこそが疑いなく確実なものであると言えるはずである』と。

 そしてたどり着いた結論が、上記の名セリフ『我思う、ゆえに我あり=今、私は考えているという事実は、私が疑いなく存在していることの絶対的証拠である)』である。

 そして、デカルトはここから、次のように結論する。

『現在では、世界の物事はキリスト教の大きな「物語」(神話)が絶対の前提で動いているが、これらが正しいという確証はないのだから、そこを出発点として考え始めるのは確実な結論に至らない。だから、世界のすべての物事に対する考えの出発点を絶対確実な自分の知力(理性)」として世界をとらえ直すべきである』というのである。

 つまり、彼の時代的に言えば、『キリスト教の“神の存在・神の創造した世界”などというのは、私に言わせれば迷信であって、私は神など信じないし、神の法則や慈悲なども信じない。唯一「絶対確実な自分の知性」のみを信じるのだ。そして、世界はこの絶対確実な知性で理解されなければならない。』というのである。

 しかし読者の皆さんはここで、「なるほど、そりゃそうだ、正しい」と納得してしまってはいけない

 デカルトの『我思う、ゆえに我あり(=今、私は考えているという事実は、私が疑いなく存在していることの絶対的証拠である)は絶対確実であって誤りはないか?と考えてみて欲しい

 実はこの「名ゼリフ」こそが、逆に「人間の知性(理性)」の限界を示しているのである。

 読者の皆さんは、この「セリフ」の論理矛盾が解りますか?

 それは、「私は今、考えている故に考えている私は確実に存在している」とは結論できないということである。なぜなら「考えている私は確実に存在している」と私は、まだ頭の中で考えている(考え中なのである)

 もっと噛み砕いて言うと、いくら自分の頭の中で何回も何回も・・・繰り返し、「だから私は存在すると結論しても、その結論自体が頭の中の(考え)思考である限り、まだ考え中なのであって、つまり、いつまでも考え続けるだけであって、“実際に私が存在する”という最終的な「明証」には永遠に到達できないのである。

 だから「人間の知力」とはその程度のものであり、自分の存在の事実さえ、合理的にあるいは数学的に明証など出来ないのである。

 現実世界で、「自分の存在の確かさや目の前にある物が本当にあるのか」などは、合理的に明証すべき問題ではない自分の存在は、両親から生まれ、兄弟がいて会話して、鏡を見て自分を確かめ、友達と遊んだり・・・して当たり前のこととして考えればよいのである「本が目の前にあること」など、疑う必要も無い。「あるものはある」のである。逆にそれを疑ってみて、現実の生活に何か意味をなすのか「人間の知性や合理」などは、自然科学・各種工学などの分野で数学/化学/物理学として活用するだけでよいのである

 そんな現実世界に、一生のほとんどを研究室に閉じこもって暮らす孤独で、陰気で、世間知らずで、気難しい「哲学者」が、数学的明証性・合理性をあてはめようとする(=世界を合理・理性で証明できるとか、世界は合理的・理性的に設計できる)とか言い出すから、世界におかしな歪が起こるのである

 だいたい、「哲学者」と言うのはこんな変わり者が多い自分の思考の中で物事の確実性や合理性を追求するあまり、逆に現実世界に存在する不確実性や不合理性が全く見えない

 世界をすべて疑ってみる?そして最後に確実なものとしてたどり着いたのが自分の知力?

 普通の冷静な人間が聞いたら、ただの馬鹿というか、精神的欠陥者の妄言としか聞こえないだろう

 だが、哲学者はそれを逆転して、そのような知的なことは自分のような天才的な哲学者にしか理解できないことで、凡人には解るまいと、われわれを見下すのである

 特に私が「哲学者」を嫌う要因は、その専門用語や文章(表現法)の難解性である。

 そもそも哲学とは現実の社会に生きる普通の平凡な人間にも分るように説明し、その人の人生に有用で、役立つものでなければ何の意味もない

 しかし、実際は凡人の理解できぬような意味不明の言語や表現をいかにも高尚かのようにふんだんに用いて、哲学者同士の仲間内だけで、ああだの、こうだの言って満足している

 このような日本の大学の哲学講座のごときものは、私には、百害あって一利なしだと思われる。廃止すべきである

 精神的欠陥者から生まれる哲学など、ろくなものはない。そのような哲学を信じて、すばらしいという人間もまた、精神的欠陥者である。次の系譜を見れば一目瞭然である。

 デカルト(フランス合理論)➡ルソー(フランス啓蒙哲学)➡ヘーゲル(ドイツ観念論)➡(フォイエルバッハ・唯物論)➡マルクス/エンゲルス・無神論+ドイツ観念論+唯物論+マルクス経済学+階級闘争論=共産主義)➡レーニン/スターリン(ソ連74年間で6,700万人の自国民大虐殺)がこの系譜上の哲学者・政治屋である。

 みな精神的欠陥者である。正常な読者の皆さんは、これらの哲学者あるいはこれらから分派した哲学者(およそ、フランス/ドイツ系哲学者の著作はやめた方がよい。トックヴィルやモンテスキューや(カント/フッサール)など例外はあるが)の著作は読まないように

 読むのであれば、バーク保守主義の著作を先にしっかり読んで、バーク保守主義で自身を理論武装した上で、批判的に読むことを勧める。決して、上記のデカルトの詭弁(トリック)が見抜けないような状態で読んではいけない彼らの仲間入りをしてしまう

(※2)治安維持法

 第一條 國体ヲ変革シ又ハ私有財制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情(=事情・情報)ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 2 前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

 第二條 前條第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ爲シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 第三條 第一條第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ヲ煽動シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス

 第四條 第一條第一項ノ目的ヲ以テ騒擾、暴行其ノ他生命身体又ハ財産害ヲ加フヘキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 第五條 第一條第一項前三條ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財産上ノ利益ヲ供与シ又ハ其ノ申込若ハ約束ヲ爲シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス情ヲ知リテ供与ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ爲シタル者亦同シ

 第六條 前五條ノ罪ヲ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ減軽又ハ免除ス

 第七條 本法ハ何人ヲ問ハス本法施行区域外ニ於テ罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス

 附則

 大正十二年勅令第四百三号ハ之ヲ廃止ス

 たった七条のこの治安維持法をどう読めば、個人の思想や言論や出版を取り締まり弾圧した極悪法だなどと、戦後の教科書や教師は教えることができるのだろうか答えは極めて単純明快である戦後の教育界の大部分が、「この法律に嫌悪せずにはいられない思想」に汚染されているからである。

 読者の皆さんは、この治安維持法を読んで“恐怖”を覚えますか?そんなに恐ろしい悪法に思えますか?社会主義・共産主義思想を持つことなど一切禁止していない。

 その思想に基づいて、結社を組織するか、そのような結社だと知って参加したり、革命を協議・実行したり、事件を起こして社会秩序を乱したり、そのような行為を煽動したりする行為を禁止しているだけである。

(※3)三月事件(未遂)

 桜会(=「親ソ・反米・反中」)橋本欣五郎中佐、長勇少佐、田中清少佐らは、「我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよ」との主張の下、軍部による国家改造を目指して国家転覆(クーデター)を画策した。

 これに小磯國昭軍務局長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長ら当時の陸軍上層部社会民衆党赤松克麿亀井貫一郎右翼実体は反資本主義の左翼)の思想家大川周明や右翼活動家・清水行之助らも参画。

 また、活動資金として徳川義親20万円を出資(戦後返還)した。宇垣一成陸相を首班とする軍事政権を樹立させるという運びであったが、直前の317日に撤回された。

 本件は、本来ならば軍紀に照らして厳正な処分がなされるべき事件である。にもかかわらず、計画に関与した者の中に陸軍首脳部も含まれていたことから、事件を知った陸軍は、首謀者に対して何らの処分も行わず、緘口令を布いて事件を隠匿した。

(※4)十月事件

 十月事件の計画概要は、軍隊を直接動かし、要所を襲撃し、首相以下を暗殺するというもので、決行の日を1024日早暁と定め、関東軍が日本から分離独立する旨の電報を政府に打ち、それをきっかけにクーデターに突入するというものであった。

 具体的には桜会の構成員など将校120名、近衛歩兵10個中隊、海軍爆撃機13機、陸軍偵察機、抜刀隊10名を出動させ、首相官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部を襲撃、若槻禮次郎首相以下閣僚を斬殺および捕縛。

 その後閑院宮載仁親王や東郷平八郎・西園寺公望らに急使を派遣し、組閣の大命降下を上奏させ、荒木貞夫陸軍中将を首相に、さらに大川周明を蔵相に、橋本欣五郎中佐を内相に、建川美次少将を外相に、北一輝を法相に、長勇少佐を警視総監に、小林省三郎少将を海相にそれぞれ就任させ、軍事政権を樹立する、という流れが計画の骨子となる。

 しかし、計画に挙がっていた新内閣の構想は単なる目標に過ぎず、その先の日本の政治や経済についてどのようにするかについては無計画であった。17日早朝に中心人物が憲兵隊により一斉に検挙される。

 十月事件首謀者に対する責任の追及は、さまざまな裏工作により結果的には曖昧なままにされることとなった

 しかし、この事件をきっかけとして桜会は事実上の解体を余儀なくされた。

 これら、三月事件(未遂)十月事件(未遂)の発生は、「軍事クーデター(=暴力革命)によって社会主義政権を樹立することは正義である」という宗教的世界観(=マルクス・レーニン主義)が1931年当時、すでに陸軍全体の脳細胞を侵食していたことを明瞭に示す事実である。

(※5)満州国建国

 「満州国」建国宣言の日193231日は、本国日本では自由主義を捨て社会主義に移行する、革命を決意した日となった。

 満州国は、「満州人の溥儀を戴く満州人の国家」という仮面をかぶっていたが、仮面の下の実体は“関東軍(陸軍)が全権を掌握した、社会主義実験国家”であった。

 関東軍を「経済参謀本部」とするソ連型計画経済(私有財産制は承認)を実験する国家であった

 実際に溥儀が皇帝となり「満州国」が「満州帝国」になったのは、「満州国」建国から2年後の19343月であった。

 「満州国」が「社会主義実験国家」であったことは、関東軍がその経済政策の立案南満州鉄道株式会社(満鉄)に要請した事実から明白であり、議論の余地は全くない

 満鉄での経済政策立案の中核は、満鉄調査部-経済調査会であった。

 満鉄調査部のメンバーは、東京帝国大学新人会(=社会主義者・共産主義者輩出のメッカ)出身者企画院(スターリン型計画経済政策の推進本部)からの出向組である革新官僚大川周明笠木良明など後に右翼(=当時は左翼)団体結成に向かう者等から構成されていたからである

(※6)五・一五事件

 1932年の「五・一五事件」は大川周明の指導であるが、大川にとって「三月事件十月事件五・一五事件」は、社会主義軍事政権づくりの連続的な試みであった。

 ◎裁判について

 海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締罰則違反・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。

 元陸軍士官候補生の池松武志は陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。

 ところが、一国の総理大臣たる犬養毅首相を暗殺した大事件に対して“革命だから合法”との論調を朝日新聞その他のマスメディアが大キャンペーンしたため、犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。

 このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われるすでに国民の間でも、無法が拍手喝采されるという“法治国家の自壊”が始まっていたことを示している

(※7)二・二六事件

 北一輝の「十月事件二・二六事件」も日本の社会主義化を実現する革命の試みであった。

 【襲撃決意の背景】

  革命的な国家社会主義者である北一輝が記した『国体論及び純正社会主義』『日本改造法案大綱』の思想の下、天皇を手中に収め、邪魔者を殺し皇道派が主権を握ることを目的とした「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三野中四郎香田清貞栗原安秀中橋基明丹生誠忠磯部浅一村中孝次らを中心とする一部の青年将校は、政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破する必要性を声高に叫んでいた。

 反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書」にまとめ、天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書野中四郎名義になっているが、野中四郎がしたためた文章を北一輝が大幅に修正したといわれている。

 この事件も表向きは「反ソ・反共」を掲げているが、実態は北一輝の思想に通底しており、日本の社会主義化の妄想を実現する革命の試みであった

 この事件の後、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機ら統制派「反英米・親ソ」の政治的発言力がますます強くなった。

 さらに、「二・二六事件」の決起趣意書には、「五・一五事件」の遺志を継ぐ後継クーデターであると明記してあるから、1930年の「桜会」という軍隊内の「狂った社会主義のカルト集団」は、1936年の「二・二六事件」の暴発まで一直線に繋がっていたのである。なお、治安維持法は、上記のごとく、コミンテルンの指揮下にない組織や「軍隊内の共産主義団体」を取り締まれなかった。

(※8)近衛文麿

 近衛とは、東京帝国大学で哲学を学んだが飽き足らず、共産党員でマルクス経済学の狂信的な革命家であった河上肇(=コミンテルン32年テーゼの翻訳者)に学ぶため、京都帝国大学法学部に転学したほどの共産主義信仰者であった。

 このため、組閣直後には、「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、治安維持法違反の共産党員や二・二六事件の逮捕・服役者を大赦しようと主張して、周囲を驚愕させた。


(注)以上の私の説明は、真正バーク保守主義者である、中川八洋 筑波大学明教授の著作群の中から、特に①『保守主義の哲学』(PHP研究所、2004年)、②『山本五十六の大罪』(弓立社、2008年)、③『正統の憲法 バークの哲学』(中公叢書、2001年)の思想をベースにしながら、バークの『フランス革命の省察』(みすず書房、2009)等の私の研究も付加して、まとめたものである。

 大東亜戦争の真実については、②『山本五十六の大罪』(弓立社、2008年)が非常に面白い。ほんの若干、推断と見受けられるような部分もあるが、全体としては、歴史事実として筋の通った、真の「正論」であると思われる。「大東亜戦争の真実」に興味ある方は、そちらを参考に。 

(バーク保守主義 次回その3-②へ続く)











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