保守主義の哲学シリーズⅢ-4‐‐‐「保守主義の父」エドマンド・バーク(その4:第2章-②)  


(バーク保守主義:その3-②)

第2章 バーク「偏見(=古きものへの尊敬の念)」の哲学「理性の完成(完全)主義」の否定・「人間の意思(知力)=神託」主義の排撃

第二節 「偏見」の喪失は「知力の貧困」に至る

 

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「偏見」の喪失は「知力の貧困」に至る

 

 バークの「偏見」とは、前述したように、神への畏怖(宗教心)王への畏敬聖職者への崇敬判事たちへの服従・・・、というような「感情」のことを意味している。

 それは、フランス啓蒙哲学という、人間の理性(知性)万能無神論無道徳唯物論という「妄想」の学説で洗脳される以前の、自然な「感情」のことである。

 日本国において、人間の理性万能とか知性万能などの「妄想」が流入してきたのは、江戸時代後期から明治の思想家・政治家であり「東洋のルソー」と呼ばれる中江兆民ルソーを『民約訳解』(1882)などで日本に紹介した頃以降である。

 それまでの日本国の思想と言えば、神道・仏教儒家思想(中でも、朱子学古学など)の“道徳思想”(佐藤一斎の『言志四録』などが有名)が一般的であったが、中江兆民らの影響で陽明学水戸学などの「反道徳の革命思想」が跋扈し始めたのである。

 これらの流入思想と外圧の脅威が、「尊王攘夷運動」に始まり「明治維新」に至る、江戸幕府打倒の起爆剤となった。

 ただし、明治維新は、天皇を奉戴して行われたことにおいて「革命的」でありながら“王政の復古”であるから、キリスト教弾圧・国王殺しの狂気のフランス革命とは全く異種のものである

 近頃の政治家は事あるごとに「○○維新」という言葉を多発するが、「維新」という概念には元来、「革新」の意味だけでなく“復古”という意味が大きく含まれることを理解して使っているのだろうか・・・。

 さて、文明社会の人間はこのような「偏見」なしには健全に生きていけないが、バークは「偏見」が二つの機能を持つからだと観た。

 第一は「偏見」にこそ「潜在する深遠な智恵」が宿っていること、第二は「偏見」によって、「精神の腐敗」と、「道徳の損傷」と、「道理に適った(=道徳を伴う)自由からの逸脱」が防止されることである

 第一の点についてバーク曰く、

我々は、各人が自分だけで私的に蓄えた理性に頼って生活したり取引したりせざるを得なくなるのを恐れています。

 というのも各人のこうした(理性の)蓄えは僅少であって、どの個人にとっても、諸国民や諸時代の共同の銀行や資本(=祖先の叡智の貯蔵庫)を利用する方がより良いと我々は考えるからです。

 わが国の思索家の多くは、共通の偏見を退けるどころか、そうした偏見の中に漲る潜在的智恵を発見するために賢察を発揮するのです」(『フランス革命の省察』、みすず書房、2009年、111頁)

 この「偏見=深遠な智恵」論からすれば、明証性と確実性のみを信仰するデカルトらの「設計主義的合理主義」は単なる「裸の理性(=偏見の上着を纏わない、野蛮人の理性)」のレベルのものであるのが解る。

 僅かな智力しかない人間の裸の理性は、「偏見」という服を何枚も着て初めて、漲るほどに豊かな智恵を得ることができる自らの人格を高次の人間に向上させうる。

 美徳ある文明を創る真正の智力を大きく成長させることができる

 デカルトのごとく「偏見を欠く理性」は「智力の貧困」、「智恵の欠如」になるだけである

 “偏見をもつ理性”が本当の理性であって、“知力の豊饒”をわれわれに与えてくれる。もう一度繰り返すが、バークの「偏見」とは、前述したように、神への畏怖(宗教心)王への畏敬聖職者への崇敬判事たちへの服従・・・、というような「感情」のことである。

 王に対して畏敬する「偏見」なくして王制の是非を論じるルソー的「裸の理性」の王制論は、“智力の貧困”に基づき、このために妄説以上のものになりえない。

 日本で言えば、天皇・皇后両陛下に対して、「偏見」である畏敬の感情に支えられていない、「裸の理性」での天皇制有用論や無用論すべては、「貧困な智力」がもたらした「貧困な妄説」となる。

 現に、「偏見」が欠如した「陛下」や「殿下」の敬称をすら、拒絶する朝日新聞NHKNHKの根拠法は放送法(※1)であり、放送法第3条違反の疑いが強い。なおNHK受信料はこの放送法第三十二条に基づいて徴収されている。己の設立根拠である放送法第三条を己が犯しておいて、その放送法第三十二条を根拠に国民から強制的に料金徴収するとは、モラルハザードにも限度があるだろう。)などの野蛮な「裸の理性」の眼には、天皇の制度が高貴な自由の淵源である(※2)ことすら見えない。

 日本国憲法の中で前文、第一条から第百三条のなかで、唯一、具体的に法律名が掲げられ憲法と同等の重みをもつ“法”である“皇室典範” 第二十三条の規定(※3)にさえも敬意を払うどころか、平気で無視して“法”を犯す。

 そもそも、これらの連中は、“法”と「法律」の区別もできない。

 19世紀英国のベンサムと同レベルの「貧困な智力」の持ち主である。ベンサムとは“憲法”の無い『憲法典』を書いて、「その『憲法典』の中に“憲法”が無い」ことにすら気づかない愚鈍な「裸の理性」の哲学者であった。

 このように、“豊饒な智力”をもたらす「偏見」について、バークは、幾世代をも経て民族・国家に蓄積された共同の銀行と資本のようなものだと考える。

 つまり、幾世代もの祖先が蓄えた“智恵の貯蔵庫”だと考える。だから、「偏見」を失った「裸の理性」の野蛮な人間とは、この銀行や資本(=“智恵の貯蔵庫”)を活用しないで自分の持っている僅かな蓄え(=「裸の理性」)だけで商売する(=文明社会を生きていく)ようなものである、と言うのである。

 しかし、文明社会とは、歴史の流れの中で自然的に成長し発展してきた祖先の智恵の積み重ねの産物であるから、その中を「裸の理性」だけで生きていくことは不可能であり、「裸の理性」の野蛮な人間は、文明の慣習や伝統や制度などと衝突し、社会に馴染めず、社会から嫌われる

 その結果、選び得る選択肢は二つであり、第一は、「裸の理性」のみでも当面の間生きていける他の社会(国家)へ亡命する方法である。

 第二は、文明社会を自分の「裸の理性」に適合する社会に「改造」「変革」「革命」する企てを為すことである。

 ルソーホッブスマルクスヒトラーレーニンも皆この点で共通している。亡命先でも、いつも祖国や亡命国の文明社会の「改造」「変革」「革命」の手段を思考し、実行の機を窺う野蛮な人間であった。

 第二点の、「偏見」と道徳/自由との関係については、バークは次のように述べている。

 バーク曰く、

我々は神を怖れます畏敬の眼で王を見上げます。議会に対しては愛着の、判事たちに対しては服従の、聖職者に対しては崇敬の、貴族に対しては尊敬の、眼を上げます。

 なぜでしょうか。心の中でそうした観念を前にする時、そのように心を動かされるのが自然だからです。

 それ(=これらの「偏見」)以外の感情は、嘘偽りであって、精神を腐敗させ、根本的道徳を失い、我々を道理に適った自由に不向きにさせるからです」(『フランス革命の省察』、みすず書房、2009年、110頁)

「火急に際しても偏見は即座に適用できます。

 それは、予め精神を確固たる智恵と美徳の道筋に従わせておきます

 そして、(火急の場合の)決定の瞬間に人を懐疑や謎や不決断で躊躇させたまま放り出すことはしません

 偏見とは人の美徳をしてその習慣たらしめるもの、脈絡のない行為の連続には終わらせないものなのです。

 正しい「偏見」(=神への畏怖、国王への畏敬等の偏見)を通して、彼の服従行為(=「偏見」の対象である神や王への服従行為=義務/美徳)は天性の一部となるのです」

 「偏見」なくして“道徳”および“道徳を伴う自由”は存在できない。

 また、「偏見」は常に、自分の「物事の考え方の判断基準」を“智恵”と“美徳”に置くことを習慣とさせるので、緊急時でも、自分の判断や決断に疑いや謎を抱いくことが無いので、決断に躊躇しない。

 つまり、日本国に当てはめて要約すると、バークの「偏見」である、“日本の神々や仏などへの畏怖の念”、“天皇・皇室への畏敬の念”、“国会等議会への愛着の念”、“裁判官(の判決)への服従の念”、“神官や僧侶や牧師などの聖職者への崇敬の念”を抱くことによって、正しい“道徳を伴う自由”を享受することができる。

 さらに「偏見」を持つことで、自分の物事の考え方の基準を“智恵”と“美徳”という“正しい基盤”に据えることができるため、ある物事に判断や決定を加える際に、不安や疑問を抱いて躊躇することなく、堂々と正しい決定を下す自信が持てるということである

 逆に、「偏見」という感情を人間から除去すれば人間は道徳を除去する。不道徳化、つまり、背徳に陥る。

 このことは、「偏見」という感情を全面排除することを論じたルソーやマルクスが、道徳を全否定したことでもわかるであろう。

 王制や既存宗教や貴族制を支える「偏見」を「裸の理性」において否定し排除したレーニンの革命ロシア(ソ連)は無道徳国家となった20世紀の社会主義の歴史は、バークの「偏見の哲学」の偉大さと真理性を力強く証明した。

 つまり、「偏見」こそが“道徳感情の温室”である。「偏見」が規制されて排除されれば、道徳は消えていくしかない。

 日本国においても、上記の「偏見」が一つずつ消えていくにつれ、“道徳”が消え“自由”が消えていくのである。

 読者の皆さんよく考えてみてください。現在、上記の日本の四つの「偏見」は、ほぼすべてが消えかかっていませんか

 とりわけ、日本の“法の中の法”である“天皇・皇室への畏敬の念”の最後の灯が消えてしまい、天皇制度の廃止や解体が起こった時、日本国は暗闇のどん底に滑り落ち、消滅する

 だから我々は天皇制度を死守しなければならないのである。天皇・皇室の消滅は他人事ではないのである。天皇・皇室の消滅=日本国・日本国民(自分や自分の家族など)の消滅に必ず至るのである。

 これについては後で、「君主制国家」から「君主を追放あるいは抹殺した場合」にその国民が歩んだ歴史の事実(※4)をもって説明する。

 革命フランスは、王への畏敬や教会への崇敬などの「偏見」を国家権力によって規制し禁止し処罰した。

 だからその後の英国政府は、そのような害毒の多い危険な思想の英国流入を徹底的に排除したのである。バークは1790年の時点で、英国人の「感情」がフランス啓蒙哲学に思想汚染されていないことに安堵する。

 バーク曰く、

(フランス)革新(思想)に対する我々(英国民)のかたくなな抵抗のお陰で、また、我が国民性の冷たい鈍重さのお陰で、我々(英国)は依然として祖先の刻印(王制)を持ち続けているのです。

 我々は、十四世紀の思想(=コモン・ロー思想)の持っていた高貴と尊厳を失ってはいません。

 今までのところは自らを洗練して野蛮人と化してもいません。我々はルソー(=理神論)への改宗者ではありません。ヴォルテール(=無神論)の徒でもありません。エルヴェシウス(=唯物論)は我々の間では少しも浸透しませんでした。

 (ヴォルテールのような)無神論者は我々の説教師ではありませんし、(ルソーのような)気狂いが、我が(=英国の)立法者(=国会議員)なのでもありません。我々は自分達が何も発見していない(=エルベシウスの唯物論のような論理は狂気である)ことを知っています。

 また、道徳に関して新発見などあり得ないと思っています。統治の大原則の多くや自由の観念についても同じです。そうした原則や観念は、我々が生れる遥か以前に理解されていましたし、・・・何時に変わらず同じであり続けるでしょう

 「設計主義的合理主義」という毒性の強い思想に汚染されぬよう「偏見」を防衛することによって政治に関する最高度の叡智を温存し、道徳と自由を擁護することができるのである

 「偏見」という真正の思惟と感性を防衛する問題は、二百年以上昔の英国で起きた、過ぎ去った問題ではない。

 革命フランス(1789年~1815年)をソフトに緩やかに再現しつつある21世紀日本が直面している問題なのである


 (※1)放送法

 第一章の二 放送番組の編集等に関する通則

 (放送番組編集の自由)

 第三条  放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。

(国内放送の放送番組の編集等)

 第三条の二  放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。

  一  公安及び善良な風俗を害しないこと。

 二 政治的に公平であること。

 三  報道は事実をまげないですること。

 四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 第六節 受信料等

(受信契約及び受信料)

 第三十二条 協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない

 ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であって、テレビジョン放送及び多重放送に該当しないものをいう。)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。

保守主義の父バーク ブログ用_image013.png

 上記の図のように、国民の①『自由/美徳ある自由/高貴なる自由』②『道徳(義務)/美徳(忠義)』③『“法”の中の“法”である天皇(皇室)/皇族』すべて繋がっており、この三者の“強固な鎖の結合”国家権力が専制主義化・全体主義化して「国民の生命(安全)・私有財産・自由の権利」を弾圧・圧殺するのを「防御する強力な砦」となる。

 ゆえに、“法”の下の天皇制は、国民の高貴な自由/美徳ある自由の淵源なのである。この自由の淵源なしに国家権力の暴走は止められないのである。

 「デモクラシー」は国家権力の暴走を促進することはあっても、決して止めることはできないそれがデモクラシーの本質である

 例えばヒトラーのナチ・ドイツはデモクラシー下の国民の民主的な選挙によって誕生したが、その政権の危険性について気付いた時、既にドイツ国民の力では、その権力の暴走を止められなかった


 (※3)皇室典範

 第二章 皇族

 第五条  皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃及び女王を皇族とする

 第六条 嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とする。

 第七条  王が皇位を継承したときは、その兄弟姉妹たる王及び女王は、特にこれを親王及び内親王とする。

 第八条 皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。

 第二十三条  天皇、皇后、太皇太后及び皇太后の敬称は、陛下とする。

 ○2 前項の皇族以外の皇族の敬称は、殿下とする。

 日本国憲法

 第一章 天皇

 第二条  皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する。

 第五条 皇室典範 の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

(※4)君主制の廃止・解体による国民の惨劇事例

 君主制が次の二つの機能を持つことは、「近代最初の血塗られた蛮行フランス革命で王制廃止後のギロチンによる人民の大量殺戮(約50万人に及ぶ)において、すでに十分証明されていた。

 加えて、皇帝一家を銃殺し6,600万人を殺戮したレーニン/スターリンのソ連(191791年)や、ハイレ・セラシェ皇帝の廃帝と殺害のあとのエチオピア共産政権による100万人以上の老幼農民に対する悪魔的な餓死処刑(1984年)、あるいは4年間弱で200万人以上を殺戮したカンボジアのポル=ポト政権など、20世紀における数々の人類史上の大殺戮も、反面教師的に、この君主制の機能を実証した。

 ①無神論・社会主義者による、国家に対する破壊と国民に対する大量殺戮から、君主制度(王制)は、法秩序の砦となって国民の自由と生命を守る

 ②永年の伝統と慣習を土壌として、そこから成長した高貴と美徳の品性の息づく精華な文明社会である国家を、君主制度(王制)こそは、さらに磨き、さらに輝かせる不可思議なる働きをもつ

 エチオピアに狂信的共産主義者メンギスツ陸軍大佐が率いる、ソ連共産党直轄の傀儡政権が成立したのは1974であった。

 そのとき、世界的にも名君と高い評価のハイレ・セラシェ皇帝退位させられ、翌1975殺害された。

 そして革命10周年の1984メンギスツは、東北部のウォロ/キグレの2州の農民150万人の殺害を実行した。その方法が人工餓死であった。

 ところが、日本では人工餓死の事実が隠蔽され、「自然災害の飢饉」との偽情報が流され、「食糧を援助しようキャンペーンとなった。

 とりわけ(女優)K・T(原著では実名)が、この偽情報の先頭に立った。

 メンギスツ共産政権の“悪魔の餓死政策”を隠蔽して、それへの国際的非難を(飢饉による餓死への援助という)人道問題に逸らすために、メンギスツ政権と共謀した巨大犯罪であった。

100万人殺人の隠蔽工作に加担した(女優)K・T(原著では実名)」の罪は、永遠に糾弾されねばならない。

 ウォロ/キグレ州の農民に対し、共産政権はまず、働けるものすべてを銃口の恐怖下でエチオピア西部の湿地帯へ開拓と称して「強制移住」させ、そこで111時間、週6日半の強制労働の刑に処した。

 「強制移住」時に約束した家も農機具も種もみも与えられなかった。

 (働けるものが全くいなくなり、)老人と子供だけが残されたウォロ/キグレ州の農村は荒廃し、これらの老人と子供が飢餓に瀕した。彼らは食糧を求めて、首都アディスアベバを目指し、その路上、ばたばたと死亡した餓死である

 これが、エチオピア大量餓死の真因、しかも唯一の真因である

 エチオピアがいかに貧しくとも、ハイレ・セラシェ皇帝が在位していたら決してあり得なかった1984年の阿鼻叫喚の地獄は、皇帝制度の廃止によって発生したのである。

 忘れてはならない歴史事実である。

 現に19915月、ソ連からの援助が途切れた瞬間、メンギスツ共産政権は瓦解し、それ以降、エチオピアにはあのような飢饉は全くない

 1974年のエチオピア国民は、自らの自由と生命のために、そしてエチオピアの伝統と文化のために、それを擁護する唯一の“偉大な、古来からの制度”の皇帝制度を断固として守るべきであった

 地獄絵のごとき大量殺害の嵐に巻き込まれたロシア人民の惨たる歴史は、共産主義革命が成功した191711のその時から始まった。

 農民は、地主も小作人も無差別に殺害の対象になった

 「反革命的」と目されれば、当たり構わず逮捕状なき逮捕、無制限の拷問、無差別の処刑となった。

 そのための、裁判も訴訟手続きもないテロル機関ヴェチェカー(後のKGB)19171220日に創設された。人類史上最も凶悪な殺人鬼レーニンによってであった。

 スターリンはレーニンを継承し模倣しただけであり、その残虐性の「師」はあくまでもレーニンである。

 レーニンはまた、教会の破壊と消滅のために、ロシア全土を「人工餓死」による“生き地獄”にすることを考え実行した。

 それはまた、全ロシア人を「この世に神はいない」の、絶望と慨嘆の奈落に確実に突き落とすことができた。手の施しようのない大量餓死は、「教会は無力!」「信仰も無効!」だと体験させて棄教に至らしめる。

 そして信者から見放された教会に対しては、無制限の破壊と教会財産の没収が、抵抗する民衆がいないため、円滑に遂行できる。一石二鳥である。

(レーニンは言う、)

 飢えた人々が人肉を喰い、道に何十、何百という死体が転がっている今こそ、・・・容赦ない力で教会財産を没収することができる・・・我々は何億ルーブルもの宝を手に入れることができる」(19223月クルトワほか『共産主義国書』、恵雅堂出版、134頁)

 この世を“生き地獄”にする、レーニンの「人工餓死」という処刑方法は、農民からの生産量以上の食糧徴発であった。

 それは、銃殺という殺戮の手間を省くだけでなく、この徴発した食糧を海外に売って外貨を手にし、武器の大量購入を可能にした。一石二鳥である。

 革命5年目1922に入ると地主と小作人の差はなく、ロシア全土の農民で食糧を持っているものは皆無となった。

 大量処刑方法の「人工餓死」を実行するための食糧徴発を完遂せよと、レーニンが発した檄は、次のごとく、農村ごとにまず農民10人につき1人ずつ殺戮して恐怖のどん底に突き落とすことであった

 「座食行為者(=働かずに食う者)」とは、共産党員以外のすべての人間を指す。彼らの隠語であった。

 (レーニンは言う、)

 社会主義社会の規則にすこしでも違反したならば、容赦なく制裁しなければならない。この点で手ぬるさ、動揺、穏やかすぎることはすべて、社会主義に対する最大の犯罪であろう。・・・<働かざるものは食うべからず>――これが社会主義の実践的戒律である。・・・座食行為を犯した10人のうちの1人をその場で射殺するだろう」(1918110日脱稿、『レーニン全集』第二十六巻、大月書店、420423頁)

 レーニンの独裁はその19241月の死没をもってわずか6年余で終わったが、レーニンが殺戮した数は、人工餓死農民500万人を含めれば、1,000万人に近いだろう。「年平均100万人以上の殺害」と見てよい。

 が、スターリンの殺戮は問題としても、レーニンのそれは美化して、レーニンの残酷残忍性を隠すのが日本の学界の通弊である

 それはともかく、“最後の皇帝ニコライⅡ世の治世(1894年~1917年)において、レーニンのような空前絶後の“国民殺し”はあったのか、と問うて見るがよい。

 全く無かった。皇帝は、反乱者を弾圧しても流刑にしても、レーニンに比すれば、その苛烈さは無きに等しいものであった。

 皇帝に処刑されたものの数を仮に数百名とすれば(レーニンのそれの)1万分の1であるから、0.01%である。

 レーニン/スターリンの統計「6,600万人」に比すれば0.001%である

 現にレーニンは、ニコライ皇帝下の1897年から1900年にかけての3年間、シベリア流刑(エニセイスク県シュシェンスコエ村)となったが、労働はせず読書の日々であり、レーニンが創った(何割かが餓死・凍死・拷問で必ず死ぬ)強制重労働収容所に比すれば、天と地の差どころではない、文字どおりの天国であった。

 そればかりか、婚約者のクループスカヤの流刑地をシュシェンスコエ村に変えてもらい、そこで結婚し、借家住まいの新婚生活に入った。そして『ロシアにおける資本主義の発達』(1899年春)という本まで出版した

 皇帝制度のもとでの流刑とは、かくも温和であった。刑務所すらなかった。重労働などは想像外のことだった。(メリニチェンコ『レーニンの生活と人間像』、新読書社、271276頁)

 国王制度(皇帝制度)は、いかなる国王(皇帝)でも国民を罰することは好まない、必ず出来るだけ穏やかな措置で済まそうとする。

 いかなる犯罪者もいかなる叛逆者も、国王の慈しみを受ける赤子(せきし)だからである。

 国王は歴史と伝統と慣習のしがらみに拘束され、恣意的な、感情的な、イデオロギー的な、そのような範疇の行動や結論を下すことは制限される。

 王制がもたらす“必然の自由”は、自由ゼロの人民主権国家の地獄性に比すれば、極度に天国的である論ずる前に明らかなことである。

 社会主義というカルト宗教に魅せられたロシア人は、1917年を機に、皇帝の下での「優しい人間的な政治」から逃走し、「残忍で陰惨で血塗られた“悪魔の監獄”」レーニンの暗黒体制に直行した。

 1918年に入るや、ロシア人の多くは、皇帝の政治の方がはるかに素晴らしかったと後悔したが、もう遅かった

 皇帝政治がロシアでは手にし得る最高最良のものだと気付いた時は、もう遅かった 

 社会主義革命家は必ず“殺人狂の狂人”である、とロシア人が悟った時は、もう遅かった

 そして王制こそが、このような野獣以下の大量殺人教徒(レーニン)の独裁を阻止する砦であるとロシア人が知った時は、もう遅かった

 国民の自由と生命と財産において、国王制度はそれを擁護する

 一方、フランス革命が証明したように、人民主権・国民主権の体制は、それを破壊・奪取する

 社会全体の美と品位においても、国王制度はそれを維持し向上せしめる働きがある。が、ロシアがソヴィエト体制で証明したように、人民主権・国民主権のドグマ(教義)や社会主義体制は、国王制度を憎悪のなかで解体し、必ず社会を暗黒の世界に導いていく

 このような王制の働きは、エチオピアロシアに限ったことではない。

 1975年~79に、ポル=ポト共産政権が支配したカンボジアでも、王制が転覆された1973年以降のアフガニスタン(以下アフガン)でも絵に描いたように、証明されている。 

 アフガンソ連軍の侵略を受けて戦場となり、亡国寸然とした未曾有の悲惨と悲劇と荒廃を蒙ることになった原因の全ては、19737月に王制が廃止されたそのことのみにある

 王制の廃止は平和の崩壊と国民の自由と財産の喪失に繋がるが、それは1973年から今日に至るアフガン30年史が証明した。

 国王モハメッド・ザビル・シャー193311月即位)が、社会主義思想にかぶれた王族のダウドのクーデターで追放され、アフガンが共和制になったのは1973717日であった。

 アフガンが亡国への坂道に転落した日である

 ダウド政権は、19774に、ソ連と経済協力協定を締結して、アフガンはソ連の衛星国に堕した。社会主義とは国家主権まで喪失するのが常である

 こうなれば、ソ連としては自分の言いなりになる完全傀儡政権の方がよく、ダウドを追放しタラキに変え(19784月)、次にアミンに変え(19799月)、次にもっと極端なイエスマンであったカルマルを形式的権力者に選んだ。と同時に、10万人のソ連軍をアフガンに進攻させ占領した197912月末)。

 国王追放から僅か6年有余であった。

 米国とくに19811(バーク保守主義者である)レーガン政権の誕生により、アフガン・ゲリラは米国の軍事協力によってソ連軍を1989年に撤退させるのに成功した。が、国内を戦場とした対ソ戦の丸10年でアフガンは瓦礫と化した。

 しかも、新たな悲劇がポスト・ソ連軍のアフガンを襲った。

 カルト的なイスラム原理主義タリバン勢力の猖獗(しょうけつ:はびこり、勢力が盛んなこと)であり、ゲリラ軍閥の群雄割拠である。幸運にも、国際テロ組織アルカイダを交戦相手とする200110月からのブッシュ大統領の決断による米軍進攻とそれが全面支援するカルザイ政権の誕生によって、ようやく国家再建の途上に辿り着いた。それでも1973年までの王制時代の平和と安寧はまだ戻っていない。

 カンボジアの亡国的悲劇は、自国民の4分の1以上をたった4年間で殺戮したルソー/毛沢東主義のポル=ポト派による大量虐殺において、アフガン以上かもしれない。

 その酸鼻を極めた悲劇は、国家元首のシアヌーク殿下社会主義・共産主義者になったことに始まる

 反共のロン・ノルが、1970年にシアヌーク殿下の追放を決行したからである。

 しかし、共和制になったカンボジアを襲ったのは内戦であり、中国共産党を背景としたポル=ポト派の(国民騙しとしてシアヌークを担いでの)ロン・ノル追放と権力の掌握であった。

 さらに、19754月に権力を掌握したポル=ポトは、ルソーの『人間不平等起源論』(=この著作の要旨は、野獣あるいは原始人の未開社会を平等社会として理想の社会とすることである。)を経典として、カンボジアから全ての文明社会的なものを破壊した

 郵便ポストも病院もことごとく破壊された。そして人口約800万人(1975年年頭現在)のうち少なくとも200万人以上を4年間弱で殺害した1979年末は約600万人となった。むろん政権掌握とともに、シアヌークは“ポイ捨て”された。

 19791月、ベトナムを背景とし、社会主義者ヘン・サムリンがポル=ポト派の地獄からカンボジアを解放したが、それが目指す東欧型社会主義経済はうまくいかず、経済破綻した。

 ついに国連に国家再建を委ねることにした。国連は自由社会(市場経済)への復帰と王制の復活によるカンボジア復興の道を採り、19939月「カンボジア王国」が蘇った

 20世紀における王制復活では、スペインに次ぎ、二つ目のケースとなった。

 シアヌークは、この時やっと目覚めて、その社会主義思想を捨てて、初めて正しい国王になった。そして11年後の200410月、シハモニ皇太子王位を継承して、のどかで平和な本来のカンボジアが完全に戻った。

 このロシア/アフガン/エチオピア/カンボジアの4カ国のケースで明らかなように、秩序破壊と自由簒奪に抗ってそれを排除する、王制がもつ機能文明社会における人間の美徳を形成し維持していく王制の機能について、日本では意図的に教えられることがない(教えない)

 つまり、小学校から大学までの日本の学校教育は、次の2分野の知識を日本人から完全に奪う「検閲」を実行してきた。今もしている。

 ①王制廃止後のフランス革命やロシア革命の阿鼻叫喚の惨状。あるいは王制廃止後のエチオピアやカンボジアでの大量殺人の歴史事実(真実)。

 ②フランス革命の王制廃止の非を、人類史に遺る世界的古典となる文藝において理論化した、エドマンド・バークの『フランス革命の省察』などの作品やその哲学思想。

 現在の学校教育において、これらの知識を学童・学生に全く教えず、「フランス啓蒙哲学とフランス革命の讃美」や「絶対王政による人民の弾圧」や「封建制度による階級差別と弱者からの搾取」などという歴史事実を全く転倒した虚構ばかり教育するという「根底的かつ精神的欠陥」がある。

 例えば、日本の封建社会であった飛鳥・奈良時代(天皇親政)の白鳳文化」「平安時代(摂関政治)の国風文化や奥州平泉の黄金文化」「鎌倉時代の武家文化」「室町幕府の北山文化や東山文化」「戦国時代の織田信長による楽市楽座による商人文化の発展・安土桃山文化」「士農工商という身分階級を定めた、江戸幕府の260年間の江戸文化・上方文化は総体として文化と国民の自由の全盛期」という文化的繁栄を観察すれば、「封建社会=自由の簒奪」などというのは全くの虚構である

 なぜなら“国民の自由”が棲息できない社会には決して文化は開花・発展しないからである

 逆に、上記の日本文化の開花・発展の観点からすれば“封建制度=真の自由(道徳を伴う自由)の成長・発展”と見る方が正しいのではないか。

 読者の皆さんも歴史教科書や歴史書の各時代の文化の記述をもう一度読み返してみるとよい。

 如何に日本人が厖大で多様かつ高度な文化を発展させてきたかに改めて気づくはずである

 この事実は、日本国の二千年の歴史を通じて、大局的にみて、日本人が、いかに真の“自由”を享受してきたかの証拠である。『日本人は封建体制下においても常に真正の“道徳を伴う自由”“美徳ある自由”を謳歌していた』これが歴史事実である。


 (注)上記本文は中川八洋 筑波大学名誉教授『保守主義の哲学』(PHP研究所、2004年)および、エドマンド・バーク『フランス革命の省察』(みすず書房、2009年)を参考に記述している。

 また(※2)天皇(皇室)と自由/道徳/美徳の関係図は私の創作図である。

 さらに(※4)君主制の廃止・解体による国民の惨劇事例は、中川八洋 筑波大学名誉教授『女性天皇は皇室廃絶』(徳間書店、2006年、244253頁)の抜粋と私の意見附与で構成している。


 (バーク保守主義 次回その3-③へ続く)


 


 


 (※2)天皇(皇室)と自由/道徳/美徳の関係図


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