保守主義の哲学シリーズⅢ-5‐‐‐「保守主義の父」エドマンド・バーク(その5:第2章-③)


 (バーク保守主義:その3-③)

第2章バーク「偏見(=古きものへの尊敬の念)」の哲学「理性の完成(完全)主義」の否定・「人間の意思(知力)=神託」主義の排撃

第三節「人間の意志の完全性」を「神託」とする「偽りの社会契約」

第四節「神の意志(神慮)」への畏怖/讃嘆/慎みの念―――「真正の社会契約」


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 第三節 「人間の意志の完全性」を「神託」とする「偽りの社会契約」

 デカルト流の「設計主義的合理主義」は人間の智力の数学的な完璧性を「妄想」するから、この智力から生まれた「人間の意志も完璧性があるという「人間の意志が神の意志」という“神と人間の主従関係の真理”を逆さに転倒した第二の妄想を発生させる。

「人間の意志」が「神託」であると見なすドグマ(教理)の誕生であるルソー(※1)の『社会契約論』は、ルソー自身の意志・言説を絶対神の神託とすべく、「一般意志」という概念を発明した。

 それは「人間の意志」を神として崇める妄想を精緻な詭弁で理論化するものであった。 しかもルソーは、この「一般意志」は神のごとき絶対独裁者である「立法者(=ルソーのこと)」しかわからないとしている。

 そして、「一般意志」を感知できない「立法者」以外のすべての人民は、“自由”を含めすべての権利を「立法者」に譲渡せよ、という。そしてすべての人民の権利を一手につかんだ「立法者」が「一般意志」を感知して人民に命令として強制する。しかしこの命令は、すべての人民の権利を集約した「立法者」の命令であるから、同時に「すべての人民」の意志であると言い、人民は自由の権利も「絶対者」に譲渡しているから、この命令に叛く権利はないとする。

 これが、ルソーの『社会契約論』の「人民主権」「人民民主主義」の本旨である。「人民主権」の概念の発生源は、このような「妄想」から発しているのである。

 しかし、日本では『社会契約論』の本旨を読解できない愚鈍な学者や教育者が、「人民主権」「国民主権」がさもすばらしい発明であるかのように喧伝する。

 そもそも、日本国憲法(憲法とは言い難いほどに誤謬・謬論・妄想の多い憲法だが)の存在する立憲主義(※2)の日本国において「主権」などという概念自体が自己矛盾である。

 なぜなら、“立憲主義”とは、米国で厳格に遵守されているように“あらゆる権力は憲法に制約され、権力の暴走に歯止めをかける”という意味である。

 一方、「主権」とは「あらゆるものに制限されない絶対的な権力」という意味である。 両者が両立しないのは明白であり、小学生でも解るのではないか

 しかし、日本の憲法学者は両者が両立すると妄説を説く。実際にも日本国憲法の中に「国民主権」の条文があること自体が“自己矛盾の憲法”であることの証左である

 米国憲法には「国民主権」の条文や概念は一切ない。「建国の父たち」が、両者が両立し得ないことを十分理解していたからである。

 なお、多くの日本人は“権力の源泉”と「主権」は全く異なる概念であることも解らない

 米国においても“権力の源泉は米国民にある。つまり、国民が持つ権力の代表者を選ぶ“選挙権”は米国民にあるしかし、米国民が“権力の源泉”であることは、米国民が、無制限の絶対的な権力=「主権」をもつことを意味しない。

 ゆえに米国憲法および米国民に「国民主権」などという条文も概念は一切ない。そのような概念の存在すら知らない米国民がほとんどである。彼らに言わせれば、「国民主権」などナンセンスであり、米国で「国民主権」を口にすれば、「日本では、国民一人一人が専制君主か?と笑われるくらいのことである。

 話を戻して、バークは若いころから「神の手」、「神の摂理」、「神の意志(神慮)(※3)をその哲学の中核に据えていたが、後年、それらは、ルソーらの「人間の意志の完全性を神託とする主義」に対する全面戦争のための“神秘で美しき武器”となった。 

 文明の社会は「人間の意志による政治」から「法による政治」を実現することで、文明の社会になった

 しかし、18世紀に「フランス革命」という、50万人の国民を殺戮する愚行を経験したのに、20世紀に入ってもなお、フランクフルト学派の社会学ハンス・ケルゼンの人定法絶対主義(「法実証主義」)(※4)など、未開・野蛮な「人間の意志神格化」という「妄想」の伝染力は衰えを見せることはなかった。

 「人間の意志」を「神の意志」の前に服従させるバーク哲学のほうが、“自由”の原理たる“法の支配”が“法=神慮”の論理から発展したように、我々の自由と倫理・道徳をより美しく、より確実にする。「神の意志=神慮」というバーク哲学は、文明の社会と文明人の“自由”にとって猛毒の腐食剤である「設計主義的合理主義」を滅菌する有効な原理の一つである。

 ホッブスやルソーが構想した社会契約の人工国家(ユートピア)が非であるのは、それが自由ゼロ・道徳ゼロの暗黒の非人間的体制(ディストピア)に必ずおちいる点で明白である。

 それは、レーニン/スターリンのソ連や毛沢東の中国や金日成/金正日の北朝鮮やポル=ポトのカンボジアなどの「実験」によって証明された

 自由と道徳が満ちる社会をいかにして創るかについての考察は、これまでエドマンド・バークを除いて、なされていないと言える。

 バークの「神の意志(神慮)」哲学は、人間の道徳を向上させる社会を擁護する、世界無比の哲学である。美徳ある人格完成への原理は、「神の意志」が支配する自然に成長し発展してきた文明社会(=国家)においてのみ存在し生命を得るということをバークが「発見」したのである。

 これに対し、ルソー的「社会契約」による未開の動物的生存を目的とした唯物論の「社会契約」では、人間が徳性における人格向上を図ることなど全く不可能である。ルソーの「社会契約」は、無道徳や背徳が支配する社会である

 ルソーを継承したソ連や中国や北朝鮮やカンボジアなどのような、「人間の意志」で「契約」され結合した人工国家――人民民主主義――が、野蛮へと退行し、非人間性を極める暗黒の社会、この世の地獄、となったことはいまだ記憶に新しいし、一部は現在も進行中である

 


 第四節 「神の意志(神慮)」への畏怖/讃嘆/慎みの念―――「真正の社会契約」 

 さて、バークの「神の意志(神慮)」哲学とは、我々の住む文明社会(=国家)は、「神に意志」で形成され存在しているものと観相することに始まる。

 バーク曰く、

「彼らは共に宇宙の秩序に合致して進みます。彼らは皆、古来の偉大な次の真理を知っているかまたは感じています。いわく『宇宙を見そなわし(=ご覧になり)給う至高の全能の神にとって、国家なる法の下に集う人間の一致と集いにも増して、嘉(よみ)す(=喜ぶ)べきものはこの地上には存在しない』・・・彼らは、なされるすべてのことは森羅万象(=宇宙に存在するすべてのもの)の志向すべき引照点(=物事の判断の基準点=神の意志)に関連付けられねばならぬと確信し、また実際そのように関連付けています」(『フランス革命の省察』、みすず書房、2009年、124頁)

 さらにバーク曰く、

「実際、この文明社会無しには、人間は本性上可能な完成の域(=人格・美徳の完成の域)に達する可能性が全くないばかりか、それに対して遥か遠い地点に微かに接近することすらできません。彼らの考えによれば、自らの美徳によって完成されるべきものとして我々の本性を与え給うた神は、また、その完成に必要な手段をもお与えになりました。即ち神は国家を欲し給い、また、その国家があらゆる完全性の源泉たり大原型たるものと結合することを欲し給うたのです。彼らは、これこそ神の意志であり、法の中の法、主権者中の主権者であると確信しています」(『フランス革命の省察』、みすず書房、2009年、125頁)

 国家という文明社会が「神の意志」で自然的に成長した制度として発展してきたとすれば、この自然に成長した文明社会は、「神の意志」と各世代の国民との間の、永遠に繰り返されてきた「真正の契約社会」と言い得る。バークはそう考える。

 このため、ルソーの『社会契約論』をバークは全面否定するが、「社会契約」という四文字はそのままにして、「悪(偽り)の社会契約」と「善(真正)の社会契約」とに区別し、ルソーのタイプは前者であるが故に否定されるべきだと論究するのである。

 ルソー的に、「人間の意志」による人間同士の「悪の契約社会」をつくれば、独裁者であれ、多数の人民であれ、この契約社会を「人間の意志」によって任意に改変(=改革・変革・革命など何でも)できる

 が、我々の文明社会(=国家)を、契約の当事者の一方が「神の意志」である「真正の社会契約」のものとすれば、それは聖なるものとなり、畏敬の対象となる。そのような文明社会を「人間の意志」のみで改変することは畏れ多いと考えるから、おのずから自制される

 また、「神の意志」と契約した当事者の一方である国民は、現在のある特定の世代の国民ではなく、過去の祖先や未来に生まれてくる子孫という国民も含むことになるから、現在の世代の国民のみに契約変更の権限はないことになる。

 この点からバーク的「真正の契約社会」の契約には、社会を改変する条項がない。逆に社会の改造はしません、社会の保守(※5)しかしません、という契約条項しかない。社会を改変しない、これこそが「真正の契約社会」である文明社会の、「契約第一条」である。

 なお、祖先も子孫も国民であることを考えれば、現在の日本の政治家は祖先も子孫も代表して現在の政治を運営しなければならないという責任意識をもたねばならない。多額の借金を子孫に残して、平気な顔をしていられる政治家は即刻辞表を提出するべきである。

 また、文明社会の現世代は全世代の両親から生まれ育てられた恩義とこの文明の恩恵に対して道徳上の“義務”を負う(「契約第二条」)のであるから、文明を勝手に改変するという「意志の行使」の行使という「権利」はない。なぜなら義務と権利は相克するから、この「真正の契約社会」に「人間の意志」が入る隙間はない。あるのは“人間の義務”のみである。

 これを逆さに転倒して、“人間の義務”を放棄して「人間の権利」を謳いあげた革命フランスの人権宣言は、「真正の契約社会」に対する暴挙であり、契約破棄の違法行為である。

 少なくとも、フランス革命でジャコバン党のロベスピエールらは国民約50万人を殺戮したが、処刑された国王ルイ16世は「自分の意志で」、おそらくその11000の国民も処刑していないであろう。

 いったい、どこが人権宣言(「自由」「平等」「博愛」)なのか?旧体制(アンシャンレジュームの打破)というが、こんなことなら、国民にとって旧体制の方がよっぽどましだったのではないか

 さらに、「テルミドールの反動」で、国民約50万人を殺戮したロベスピエールが処刑されたことについて、「フランス革命ではプロレタリア革命は達成できず、ブルジョア革命に終わった」と嘆く日本の学者が多いが、何を、寝言を言っているのか?

 そもそも“革命”自体が「旧体制」に対する“反動”そのものではないか。「テルミドールの反動」は、上記の国民殺戮の実態を見て「さすがに、こんなことはおかしい。こんな体制が続いたらフランスは大変なことになる」という人間道徳の観点から必然的に起こったものである

 であるから、本来「テルミドール回帰」とか「テルミドール人道」と言うのが適当でないのか。また、逆に「フランス革命」を「フランス反動」とか「フランス大虐殺」というべきはないか。

 そして現在、1789年からのフランス革命と革命フランスを称賛する国など世界広しといえど日本一ヶ国のみである。

 中国共産党(胡錦濤や温家宝)や北朝鮮労働党(金正日)などは、「国内にフランス革命の兆しあり」と聞いただけで震えあがるくらいのことであろう。

 そして、当のフランス共和国でさえ、革命200周年記念式典以降、ソ連の崩壊も重なって、記念行事の規模を徐々に縮小し、その記憶を自然消滅させたいと考えているくらいである

 日本の社会科の教育は根本的に歴史歪曲の集積である日本人を根底から騙している。全面的に見直す必要がある。

 バーク曰く、

「革命フランスは、人民の多数が、自らの社会全体の枠組みを、今日は君主制から共和制へ、明日は共和制から君主制へと、好きな時に何度でも変革する権利を有するという。・・・とんでもない義務、信託、契約、責任に関わる事柄では、少数であれ多数であれ、彼らの意志のみで、そんなことをする権利など決してない。国の憲法(国体)が暗黙の形であれ表明の形であれ、契約で定まった場合、それを変更する強制力を持つ権力そのものはどこにも存在しない。そのような変更は、契約違反となる。すべての当事者の合意に対する侵犯となる。・・・義務は任意でない。義務と意志は相克する」(Burke,“Appeal from the New to the Old Whigs”(「旧ウィッグは新ウィッグを裁く」),Burke’s Works,Vol.6,Hatchhard,1815,pp201-204.

 既存宗教の否定論である、無神論や理神論(=人間の理性を最高神と崇める無神論の派生体)が危険で有害なのは、この「神の意志」の観相を不可能にしてしまうからである。

 「神の意志」への畏怖なくして、人間の道徳的な向上を可能とし、また、義務とする、正しい文明社会(国家)が生命を得ることはできない。

 バーク曰く、

「我々は、宗教こそ文明社会の基礎であり、すべての善、すべての慰めの源泉であると知っています。知っているばかりでなく、一層良いことに内的にそう感じています。・・・また、イギリスの民衆百人のうち九十九人までは、不信仰の方を好むなどしないのです。我々は何らかの体系の腐敗を除去し、欠点を補い、その構造を完全ならしめるためにその体系の中に敵(=無神論)を呼びこんで来る、といった愚か者には決してならない積りです。万一我々の宗教的教義が現在有る以上の解明を必要とするにしても、我々はその説明のため無神論に援けを求めることはしないでしょう。我々は自らの神殿を照らすのにそうした不浄の火(=無神論)を借りはしません」(『フランス革命の省察』、みすず書房、2009年、115頁)

 理神論を危険視するバークの理神論批判は、27歳の時の作品『自然社会の擁護』(1756年)で公然と展開され、生涯変わることなく激しいものであった。

 バーク曰く、

神の摂理を論破し、神は正義でも善でもないと主張して、我々の敬神性や神への信頼は高まるのだろうか。・・・このような宗教破壊に用いられた装置は、同じく政府を成功裡に転覆する道具となるだろう」(Burke, The Writings and Speeches of Edmund Burke ,Vol.1,Oxford ,pp.134-136.

すべての道徳的義務の実戦についても社会というものの基礎についても、(デカルトのごとく)その理由や根拠が人々に明証されねばならないとの説に従うならば、世界はどうなるのだろう」(Burke, The Writings and Speeches of Edmund Burke ,Vol.1,Oxford ,pp.134-136.

 バークの「神の意志」論は、「神の手」とか「神の摂理」とかの頻繁に用いられた言葉を通じて、その作品『イギリス史略』においても展開されている。不可知なものへの敬虔と謙虚、これがバーク哲学の底流にある。

 


(注)上記本文は、中川八洋 筑波大学名誉教授『保守主義の哲学』(PHP研究所、2004年)等および、エドマンド・バーク『フランス革命の省察』(みすず書房、2009年)を参考に記述している。

 


 (※1)ジャン=ジャック・ルソー

 ルソーの著書『人間不平等起源論』は、「野生動物たる自然状態の社会が理想の人間社会」と結論している。正常ではない

 また、ルソーの著書『エミール』では、教育論として「人間は馬のように調教すればよい」と人間を動物と同等に扱っている。これも正常ではないところが、この『エミール』が、多くの日本の大学の教育学部で「教育者の必読書」とされているというのであるこれは究極の異常である

 さらに、『社会契約論』も「立法者(絶対者・独裁者)による全体主義体制」を唱えたものでホッブスの『リバイアサン』と本旨は全く同じ。であるのに、この書をして「自由や平等や人民主権など近代政治の主要概念を唱えている」と読める人間が多い。読解力ゼロであり、正常でない

 逆に読解力があった悪漢どもは、ルソー(全体主義)(フランス革命)ロベスピエール(全体主義)/バブーフ(社会主義・平等主義)ヘーゲル(弁証法・歴史哲学)フォイエルバッハ(唯物論)社会ダーウィニズム(進歩主義)マルクス/エンゲルス(共産主義・マルクス経済学)マルクス・レーニン主義(全体主義・共産主義)の系譜で明らかなように、ルソーの著作の本旨を捉え、自己の学問の基礎の一つとした。これらが、ルソーの系譜上の悪漢どもの、一例である。

 


(※4)「法治主義」と“法の支配”・“立憲主義”

 日本の憲法学界の特徴の一つは、戦前戦後を通して、“法の支配を理解できた憲法学者がほとんどいないことである。しかも知らないのであれば言及しなければ良いのに、ごく個人的な思い付きの解釈を持って、これが“法の支配”だ、とばかりの珍説奇論的な記述が憲法教科書にあふれている。

 近代ドイツ産の「法治主義」「法治国家」をもって中世英国の(ブラクトン)/エドワード・コーク/ブラック・ストーン産の“法の支配と同一視する、信じ難いほどの誤解すら、ごく当たり前のように記述されている。

 “法の支配”とは古代ゲルマンからの法思想が、中世において英国で発展し憲法原理になったものである。米国憲法の起草者たる「建国の父」たちはブラック・ストーンの『英国法釈義』を座右の書として英国コモン・ローから憲法原理を発見し米国憲法に明文化し、制定した。この意味で米国憲法とは“準コモン・ロー”であり、米国は“立憲主義”国家である。

 一方、ローマ法を受容する中で、中世ゲルマンの法思想を一掃してしまった近代ドイツには、それに近似する思想すら消滅してまったく存在しない。

 「法治主義」と“法の支配”は似てもおらず、本質的に非なるものであり、根本から相違する。

 「法治主義」「法治国家」の「」は人間の意志制定された「法律」を指す。“法の支配”の“”とは人間の意志から超越した古来からの“神聖な真理”のことを意味する。

 つまり、“”は「つくり出す(制定する)」ものではなく、祖先から世襲(相続)した叡智の集積の中から“発見するもの”であったから、「つくり出す(制定する)」ものである「法律」は“法の支配”の“にはなり得ない

 つまり、“日本国憲法”=“日本国の国体”とは、本来、我々現世代の日本人が、過去二千年間の歴史を通じて祖先から世襲(相続)した叡智の集積(=日本国の“法”)の中から、“発見した”固有の原理/原則を明文化したものでなければならない

 だから、“the Constitution”は“憲法”とも“国体(国柄)”とも訳すのであり、他国の“憲法”や「国際条約」の条文をいくら寄せ集めても日本国の“憲法”とはなり得ない。なぜならそれは、日本国の“法”の中にある国体の明文化ではないからである

 この正統な“法”と“憲法”の概念の観点からすれば、明らかに、現在の「日本国憲法」より「明治憲法(大日本帝国憲法)」の方が真の“憲法”、真の“国体”と言わざるを得ない前者の「前文」後者の“上諭”の現代語訳を比較しただけで、どちらが“日本国の国体”として正統かは、中学生以上ならすぐわかる

 さらに“法の支配”や“憲法”は、国会の「立法」という立法権力の暴走を古来からの“法”で制限をかける、枠をはめるという重要な機能も持っている

 日本の憲法学者がいかに“法の支配を知らないか、その実態を示す一例をあげる。

「本来の<法の支配>は、個人の尊厳を最高の価値と認め、法(法律?)も国家もそれに仕えるものとみなし、それにもとづいて、個人の基本的人権を憲法で保障し、・・・裁判所の権威によって、右の保障を確保しようとする」(清宮四郎『憲法Ⅰ』、有斐閣)。

 「個人の尊厳」を最高の価値と認めるとか、「個人の基本的人権を憲法で保障する」とかいったことは、“法の支配”と全く別次元の出鱈目である

 東京大学法学部美濃部達吉門下で宮沢俊義とともに戦後の憲法学界をリードしたと言われる、清宮四郎の教科書でさえこのザマである。全く何も解っていないか、故意に歪曲しているかのどちらかだが、恐らく前者であろう。

 “法の支配”は全体主義を防止するが、「法治主義」は全体主義と結合する“法の支配”のある自由主義国家では「法治主義」は必ず正しく機能するが、“法の支配”なき「法治国家」は、時には“自由”を襲う、両刃の剣となる

 「法治主義」とは19世紀末の近代ドイツで完成されたもので、法律(=国会の制定法)が国家権力の行使を厳格に定めとくに行政と司法を法律に厳格に従って行わせることを言う(=いわゆる国会制定法である法律絶対主義と言ってよい)。

 ドイツにおけるこのような「法治主義」が「人定法主義(法実証主義)」と結合するとき、ヒトラー・ナチズムが誕生したのである。

 ユダヤ人を絶滅する反倫理/反道徳の極みである1935年の「人種法令」という法律を含め、独裁者のあらゆる命令が法律として施行されれば、この法律を忠実に執行せざるを得なかった「法治主義」行政こそが、反倫理/反道徳の国家をつくり得ることを証明したのではないか

 手続きがルールに合致してさえいれば、いかなる反倫理的/反道徳的な内容のものも法律として制定できるというのが「人定法主義(法実証主義)」である

 そして、手続き上、合法的に制定された法律に従がわざるを得ない行政は、ユダヤ人大量虐殺のように、その法律が法律である限り、いかに常識において非倫理/非道徳なものであっても、この“合法”であることにおいて、その執行に何ら非はないと考えるのが「法治国家」の思想である

 しかし、確固たる“法の支配”が存在していれば、無差別殺戮を意図した、明らかに“法”に反する法律は制定することはできない。また、仮に制定されても、裁判(司法)において争い、それを“無効”に至らしめることができる。法律が“法”の支配下にあってその制限を受けて却下されるからである。

 さらに“法の支配”がなければ、「悪法」に対して司法の救済を受けることもできない。なぜなら、「法治主義」の本質から考えれば、裁判所はその「悪法」に従うことが義務なのであって、この「悪法」を無効にすることなど決して行えないからである

 そもそも“法の支配”が存在すれば、「人定法主義(法実証主義)」という、手続きが合法であれば、自ら(=人間)の信念と意志に従って大量殺戮を「是」とする法律を制定してもよいなどとの、神をもおそれぬ“主義”は認められず存在し得ない。

 ケルゼンらの「人定法主義(法実証主義)」とは、“法の支配”を否定し一掃した悪魔の殺人イデオロギーである

 


(※2)立憲主義---外国人への参政権附与問題

 現在、鳩山政権外国人に地方参政権を付与するという、狂気の法律を提出しようとしている。

 米国の政府関係者が「鳩山首相(政権)は分裂症だ」と酷評したが、私もすべての点についてそう思う。はっきり言って、民主党など政権が担える政党ではない。憲法や条約の何たるかの基礎もさっぱり分かっていないど素人の集団である。何が「官主導から政府主導へ」なのかと言いたい。

 来年度当初予算額が90兆円を超えるなど狂気の沙汰である。このような馬鹿げた政治しかできない民主党に数年も政権を任せたら日本は破壊される。まあ、来年の春くらいになれば、国民も鳩山政権と民主党の無能さに嫌でも気付くことになるであろう。気付かない国民は気の毒だが、愚国民としか言いようがない。

 外国人への地方参政権付与に話を戻す。

 外国人とは、日本国民でない。これは自明であろう。

 しかも、外国人は無国籍ではなく母国(祖国)の国籍を持っている

 日本国の統治機構は「国―都道府県―市町村」の全体から構成されており、地方であれ何であれ、日本国にかかわる統治機構への外国人参政権附与とは、その外国人に、日本と母国での二重の参政権を与えることである

 “二重の国籍”をとしておいて、“二重の参政権”をとするのが、「外国人にも参政権!」の運動の核心である。

 しかし、鳩山政権は外国人という「非・国民」に対してこの“二重の参政権”を与えようとしている。ここでいう外国人とは、出入国管理特別法に規定されている「特別永住者」などであり、主として、在日韓国人や在日朝鮮人をターゲットとしている。

 「外国人にも参政権!」の運動は「反日運動」の一環となっているのが事実である。 

 そもそも、日本国憲法において、統治機構に参加する選挙権・非選挙権は、ともに第十五条で「国民の権利」と定められている当然に、外国人という「非・国民」が除外されている日本国が“立憲主義”の国であるのであれば、この時点で既に外国人参政権附与は違憲であると確定しているのである。

 


日本国憲法

 第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である

 ○2  すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。

 ○3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

 ○4  すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

 


 

 この単純なる憲法条文と、国際的にも“二重参政権”の禁止という普遍的なルールがあるのに、さも当然のごとく外国人参政権附与の問題が取り上げられるのは、1995228日の最高裁(第三小法廷)判決文にある「盲腸意見(傍論)」で生じた、大きな誤解である

「憲法第九十三条第二項は日本国籍を有さない在日外国人には参政権は与えられないと解するべきである」が主文でありながら、その主文と極度に齟齬をきたした「盲腸意見」が、判決文にくっついていた。むろん「盲腸意見」は、判例として法的拘束性を有さないが、そんなことは一般の人にはわからない

 この「盲腸意見」とは、「特別永住者」の外国人に参政権を付与する法律をつくれ!というものであった。

 司法が立法府に対して、ある特定の政策を選択せよと煽動する、三権分立違反の内容のものである。

 つまり、外国人参政権は憲法違反としながら、「この憲法を無視した法律を新しく制定し、この憲法違反を可能にしてやれ!」という「とんでも判決」であった。

 しかも、この判決は憲法第十条で定められた国籍法には一切言及していない。初めから極めて政治的なものであった

 


日本国憲法

第九十三条  地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。

 ○2 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民、直接これを選挙する。

第十条  日本国民たる要件は、法律でこれを定める

 外国人という「非・国民」が「日本国民」と同等な権利を行使することは、逆にいえば、「日本国民」をして「非・国民」並みにすることであり、「日本国民」としての存在価値/存在理由そのものを否定することにほかならない日本国における日本国民の存在価値の否定とは、日本国という国家の否定である

 我々日本国民の祖先が守り続けてきた国家を選挙権と共に一部の外国人に売り渡す売国行為である

 私に言わせれば、在日外国人は、日本国で選挙権が得たいならば、国籍法第4条~第9条の帰化により、日本国籍を取得すれば済むことではないのか。ただ、それだけのことである

 なぜ、日本国の政治に関与する権利を“正統な日本国民”の側が、帰化はしたくない、日本国民にはなりたくない。だけど参政権だけは欲しいと駄々をこねる反日の“在日外国人”の側に、譲歩してまで与えないといけないのかさっぱり解らない

 しかし、いずれにしても1995228日の最高裁(第三小法廷)判決文の主文「憲法第九十三条第二項は日本国籍を有さない在日外国人には参政権は与えられないと解するべきである」が最高裁の判決であり、「盲腸意見」などは法的拘束性がないのだから我々は無視すればよい

 つまり、上記の違憲判決を出している以上鳩山政権が、もし外国人に参政権を附与する法律を国会決議した時は最高裁判所は、即座に憲法第八十一条に基づいて、「違憲立法審査権」を発動しなければならない

 もし、最高裁判所がそれを為さないとすれば、1995228日の最高裁(第三小法廷)判決がある以上、最高裁判所がその法律が違憲であると知っていながら、憲法第八十一条違反を故意に犯したという前代未聞の展開になるであろう。

 「最高裁判所の憲法違反」など前例がないため、誰かが騒ぎ立てれば、日本中が大騒ぎになるであろう。そのように考えれば、外国人参政権附与法案はいくら国会が議決しても廃案となる運命しかない


 日本国憲法

 第八十一条  最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

(※5) “社会の保守しかしない”という真正の契約社会の「契約第一条」

 社会の改変、改造はしない。社会の保守しかしない。と聞くと“保守主義”とは守旧的で、古い制度を何も変化させないのか、と疑問を持つ読者が多いと思うがそういう意味ではない

 “保守主義”は、歴史の流れに沿って変化していく文明社会に対応して制度に変更を加えることを認めるそうでないと、文明社会は前進しない

 つまり、“保守主義”においては、文明社会の前進に伴う制度の「改善」「補修」「補強」という変更は認めるが「神の意志」と「人間(国民)」との間の“契約の根幹”を覆すような「改革」・「変革」・「革命」のような改変、改造は認めないという意味である。

 つまり、社会の制度(国体)の保守(改善・補修・補強などの変更)はするが、国体を全く別のものに変化させてしまうような改変/改造(改革・変革・革命)はしない、させないという意味である。

 このことについてバーク曰く、

「旧い制度の有益な部分が依然維持されており、しかも、付加されたものが、保存されているものにうまく適合しそうな時こそ、溌剌たる精神、着実で忍耐強い注意力、比較総合する様々の力、機略に富んだ判断力が繰り出す諸手段等々が発揮される」(『フランス革命の省察』、みすず書房、2009年、213頁)

 バーク曰く、「わが国の人々は、真に愛国的で自由独立な精神にとっては、自分達が所有しているものを破壊から守るべく、なすべきこと(=変更すべきこと)が幾らでもある、と思うに違いありません。

 私は変更をもまた排する者ではありませんしかしたとえ変更を加えるとしても、それは保守するためでなければなりません。大きな苦痛があれば、私は何か対策を講じなければなりませんが、いざ実行の段には、我々の祖先の実例に倣わねばなりません

 私は修繕をする場合にはできる限り建物の場合のような方法を取る積りです。賢明な注意、綿密周到さ、気質的というよりはむしろ善悪判断をわきまえた小心さ、これらが、最も断固たる行為をする際に我々の祖先が則った指導原理の中にはありました。

 彼ら(=英国の祖先)はあの光(=フランス啓蒙思想)――つまり、フランス人の紳士諸君が自分達はそれに大いに与っていると我々に吹聴するあの光(=フランス啓蒙思想)――に照らされていなかった(=汚染されていなかった)ために、人間とは無知であり誤り易いものである、という強い印象の下に行動したものでした。

 そして、彼らをそのように可謬の存在として作り給うた神は、彼らがその行為において自らの性質(=可謬性)に従順であったことを嘉し給うたのです」(『フランス革命の省察』、みすず書房、2009年、313頁) 


(※3)「神の摂理」、「神の意志(神慮)」について

 おそらく、読者の皆さんは、バークの言う「神の摂理」とか「神の意志(神慮)」とは人間に感知できるものなのかそもそも、そのようなものが存在するのかと疑問を抱くであろう

 また、英国にはキリスト教プロテスタントの「聖書」があり、「神の教え」が書いてあるから理解できるかもしれないが、日本にはそのようなものがないから、日本人には「神の摂理」とか「神の意志(神慮)」という概念が理解できないではないか、と考える人も多いだろう。しかしそれは全くの誤解である。

 日本には、聖書の創世記に相当する書物として『古事記』『日本書紀』の神話がある。

 これらの神話はあくまで“神々の物語”というフィクションであるが、うまく読めば、極めて奥深い日本固有の「神々の摂理」や「神の意志(神慮)」が満載しており、それを実感することができる

 それをこのブログの読者の皆さんに実感してもらいたいので、以下に『古事記』のほんの序章の部分だけだが、記載する。ぜひ全文読んで戴きたい

 『古事記』『日本書紀』は皇統を正当化するためだけに書かれたのではない。日本の神々の心と神々を畏敬する日本人の清き心の原点を表現した価値ある貴重な書物である 


  (バーク保守主義 次回その3-③-2『古事記』へ続く)

 

 


 



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