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保守主義の哲学シリーズⅢ-3‐‐‐デカルトの合理主義の補足・修正・補強(その3:第2章-①-補足) 


(バーク保守主義:その3-①の補足および修正および補強

第2章バーク「偏見(=古きものへの尊敬の念)」の哲学

「理性の完成(完全)主義」の否定・「人間の意思(知力)=神託」主義の排撃

第一節「共観妄想」の「設計主義的合理主義」 


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(補足説明:デカルトの『方法序説』について)

 私は、上記ブログの(※1)デカルトの有名な文句「我思う(私は考える)故に我あり(ゆえに、考える私が存在するのは疑いようのない事実である)」について以下の説明をしたが、この有名なセリフは、デカルトの『方法序説』(1637年)、正確なタイトルは、『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(序説)。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学』の中での記述である。

 これについて少し読者の皆さんに若干誤解を与えた部分があるので、今回、補足および修正および強固な補強をさせて頂く。私の説明不足ゆえに、ほんの若干の誤謬(大筋は間違っていない)を皆さんに伝えたことをお詫びする次第である。


前回のブログの説明は以下の通り。

(※1)デカルト

 デカルトの『我思う(私は考える)、ゆえに我あり(ゆえに、考える私が存在するのは疑いようのない事実である)』は読者も皆知っているフレーズであろう。デカルトは数学者でもあり、数学の論理の明晰さを好み、曖昧なものを嫌った。

 何より彼が求めたのは、確実明快であることであった。彼は、物事の「良い」あるいは「正しい」考え方とは何か、を探求した。

 そして、次のように考えた。『世界万物から神/キリストの存在まで、あらゆるものに疑問を持ってみよう。もし、そのように一切のものを疑い尽くして、その結果なお疑えないものとして残るものがあれば、それこそが疑いなく確実なものであると言えるはずである』と。

 そしてたどり着いた結論が、上記の名セリフ『我思う、ゆえに我あり=今、私は考えているという事実は、私が疑いなく存在していることの絶対的証拠である)』である。

 そして、デカルトはここから、次のように結論する。『現在(中世のこと)では、世界の物事はキリスト教の大きな「物語」(神話)が絶対の前提で動いているが、これらが正しい言う確証はないのだから、そこを出発点として考え始めるのは確実な結論に至らない

 だから、世界のすべての物事に対する考えの出発点を絶対確実な自分の知力(理性)」として世界をとらえ直すべきである』というのである。

 つまり、彼の時代的に言えば、『キリスト教の“神の存在・神の創造した世界”などというのは、私に言わせれば迷信であって、私は神など信じないし、神の法則や慈悲なども信じない。

 唯一「絶対確実な自分の知性」のみを信じるのだ。そして人間は皆そうでなければならない。』というのである。

 しかし読者の皆さんはここで、「なるほど、そりゃそうだ、正しい」と納得してしまってはいけない

 デカルトの『我思う、ゆえに我あり(=今、私は考えているという事実は、私が疑いなく存在していることの絶対的証拠である)は絶対確実であって誤りはないか?と考えてみて欲しい

 実はこの「名ゼリフ」こそが、逆に「人間の知性(理性)」の限界を示しているのである。読者の皆さんは、この「セリフ」の論理矛盾が解りますか?

 つまり、「私は今、考えている故に考えている私は確実に存在している」とは結論できないのである

 なぜなら「考えている私は確実に存在している」と私は、まだ頭の中で考えている(考え中なのである)

 もっと噛み砕いて言うと、いくら自分の頭の中で何回も何回も・・・繰り返し、だから私は存在すると結論しても、その結論自体が頭の中の(考え)思考であるかぎり、まだ考え中なのであって、“実際に私が存在する”という最終的な「証明」は永遠にできないのである。だから

 「人間の知力」とはその程度のものであり、自分の存在の事実さえ、合理的にあるいは数学的に証明など出来ないのである。


今回の補足および修正および強固な補強説明。

 デカルトは言う、

 「私は、ただ真理の探究にのみ携わりたいと望んでいた・・・。ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、私の信念の中に全く疑えない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。

 こうして、感覚は時に私たちを欺くから感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。

 次に、幾何学の最も単純なことがらについてさえ、推論を間違えて誤謬推理(誤った推理)をおかす人がいるのだから、私もまた他の誰ともまた同じく誤りうると判断して、以前には論証とみなしていた推理をすべて偽として捨て去った

 ①最後に・・・私は、自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。

 しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。

 すなわち、このように②すべてを偽と考えようとする間も、③そう考えているこの私は必然的に何物かでなければならない、と。

 そして『私は考える、ゆえに私は存在する(ワレ惟(おも)ウ、故ニワレ在リ)』というこの真理は、懐疑論者(=神や存在の確かさをも疑う主義の持ち主)たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理(=他の如何なるものより良く知られ、他を知るのに役立つ原理)として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。」(方法序説、岩波書店、1997年、第四部4546頁)

(デカルトの誤謬)

 ①「最後に・・・私は、自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。

 ➡自分の精神のなかに入っていたすべては、真でないと仮定するなら、歴史も過去も現在あるものもすべて真でないと仮定することである。ならば、自分を生んでくれた両親や自分の祖先の存在も真でないと仮定しなければならない。ここから出る結論は、自分の存在(=精神)も真でないと仮定することでしかありえない。つまり、何も存在しない「無の状態」を仮定することである。少なくとも自分を生んでくれた両親の存在を真でないと仮定すれば、自分の「身体」であろうが、「精神」であろうが、真でないと仮定することにほかならない。よって、自分の存在(精神)だけが残ることはありえない。ここにおいてデカルトの思考は完全停止するはずである。

 ②「次にすべてを偽と考えようとする間」

 ➡「すべてを偽と考える」ということは、偽と考える対象(すべて)が存在していることを前提していなければならない。

 なぜなら、自分の存在(=精神)以外の、他のすべてのものが何も存在しない「無」の状態なら、自分の存在(=精神)が「偽と考える(=仮定する)」対象そのものが存在しないから、「偽と考える(仮定する)」こと自体が不能となる。

 つまり、偽と考える(=仮定する)ことが不能になる。であるのに、あえて「すべてを偽と考える」ということは、「われ、すべてを疑うことができる、ゆえに、(我も含めて)すべて在り」が真理ということになる。

 ③そう考えているこの私は必然的に何ものかでなければならない、と。

 そして『私は考える、ゆえに私は存在する(ワレ惟(おも)ウ、故ニワレ在リ)』というこの真理

 ➡ここまでの私(ブログ作成者である私)の論理から結論すれば、「そう考えている(=私の精神のなかに入っていたすべてのものを偽と疑い続けている)この私は必然的に何ものかでなければならない」=『私は考える、ゆえに私は存在する(ワレ惟(おも)ウ、故ニワレ在リ)』正確には『私は自分の精神のなかに入っていたすべてのものを偽と疑い続けている、ゆえに私は存在する』は、全く真理ではない。

 デカルト自身の言葉を借りれば、「明晰」でも「確実」でもない。

 「私の精神のなかに入っていたすべのものを偽と考えている」ゆえに「私は存在する」とは結論できないこのような論理は傲慢な暴論以外の何ものでもない

 「ゆえに私は存在する」と考えている、すなわち、まだ考え中であって、「私という考える主体としての存在」の明晰性や確実性には至らない。

 「私は考えている、ゆえに、私は存在する、と私は考えている、ゆえに私は存在すると、まだ私は考えている、ゆえに私は存在すると、・・・(無限に考え続ける)」という「私が考え続けている状態」が無限に循環するだけである。

 デカルトの大好きな数学をモデルにして言えば、無限級数や関数の「発散」状態、正確には「振動」状態であって、ある値に「収束」しない状態である。これを可視的に説明すれば下図の通りとなる。 

保守主義の父バーク ブログ用 その2_image001.png

 つまり、「私は考える」と「私は存在する」の繰り返しである思考の連続を、縦軸にY軸、横軸にXにとったSin関数の波形曲線だと思えばよい。

 上限値の+1を「私は考える」下限値の-1を「私は存在する」としたSin関数の波形曲線が「私の思考」の繰り返しだと思えばよい。

 このSin関数の波形曲線は無限に振動し下限値の-1「私は存在する」で停止する(収束する)ことは決してないこれは数学の明晰な原理である。

 であるのに、これを「(それが精神であっても身体であっても)考えている主体としての私が存在する」と下限値の-1に「収束」させるのは数学的に全く明晰でも確実でもなく、明らかな論理エラーである

 また、「-1の『私は存在する』に収束はしないが『振動し続けるSin曲線自体』は、存在しているではないかこれこそが私の存在証明である」というのも完全な論理エラーである。

 なぜなら、「考え続けている私の思考」は、Sin曲線自体の中を流れているのであって、Sin曲線そのものから離れられない

 つまり、Sin曲線に思考を縛られている限り、曲線から思考は離脱できず、曲線の外側から、波形曲線を眺めることは、できないのであり、「私が考えている」=「Sin曲線の中を流れている私の思考」からは「私の存在」=「Sin曲線の波形の姿(存在)」見ること、確認することは絶対にできない

 つまり、「考え続けている私(Sin曲線の波形の中を流れている私の思考)」「私の存在(それが、精神であろうと、身体であろうと、なんであろうとも)=Sin曲線の姿(存在)」を見る(確認する)方法はない

 結論は、「我思う、故に我あり」は「我の存在」を決して証明できない。「真でない」ということである。デカルトの言う、「哲学の第一原理」とはならはない。全くの虚偽である。

 もし、先に述べた、Sin曲線の姿(考えている私の存在)を見よう(証明しよう)と思うならば、Sin曲線の波形に沿った思考から、思考を脱出させて、外(=「私の存在」を確認/証明できる何かほかの哲学原理)から眺めるしかない。

 Sin曲線の波形に沿った思考から、思考を脱出させて「考える私の存在」眺めることは、「我思う故に我あり」という哲学原理を離れなければ「考える私の存在」が証明できないということを意味し、「我思う故に我あり」という哲学原理が「真でなく偽である」ことを証明することに他ならない。

 さらに、デカルトは言う、

 「①どんな身体も無くどんな世界も、自分のいるどんな場所もないと仮想できるが、だからといって、(仮想している、考えている)自分は存在しないとは仮想できない

 反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、極めて明証的に極めて確実に、わたしが存在することが帰結する(なぜなら、我考える故に我ありの哲学の第一原理があるからだ)

 逆に、②ただ私が考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、私が存在したと信じるいかなる理由もなくなる。これらのことからわたしは、次のことを知った。

 ③私は一つの実体(=存在するために他のいかなるもの必要とせず存在するもの)であり、その本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。すなわち、私をいま存在するものにしている魂(=「考えるための原理」のみを有する「精神」)は、身体(物体)から全く区別され、しかも身体より認識しやすく、たとえ身体が無かったとしても、完全に今あるままのものであることにかわりはない」(方法序説、岩波書店、1997年、第四部4647頁)

 デカルトの「考える存在としての精神」への信仰は異常であり、狂気である。私(ブログ作成者である私)が上記で示したように「我思う、故に我あり」は虚偽であり、真でない。

 であるのに、「①どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所もないと仮想できるが、だからといって、(仮想している、考えている)自分は存在しないとは仮想できない反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、極めて明証的に極めて確実に、わたしが存在することが帰結する(なぜなら、我考える故に我ありの哲学の第一原理があるからだ)

 という、自分以外のものはすべて無いと仮想できるが、自分は存在しないとは仮想できない、などというのは何と傲慢で、自己過信であろうか。正常でない。単なる馬鹿である。

 しかもその根拠である「我思う故に我あり」が「真ではなく、全くの虚偽である」ことに気付いていない。「愚鈍の極み」たる人間である。

 また、他のものの真理性を疑おうと考えること自体から極めて明証的に極めて確実に、私が存在することが帰結する、という。

 他のもの(世界や他のすべての人間などや自分の身体までも)の真理性を疑おうと考えることが、私が存在することを明証するなどというのも、異常であり、デカルトが何らかの精神的疾患を患っている証左である。

 先に述べたように「他のものすべてを偽と考える」ということは、偽と考える対象(他のものすべて)が存在していることを前提していなければならない。

 なぜなら、「他のものすべて」つまり、疑う自分の存在(=精神)以外の、他のすべてのもの何も存在しない「無」の状態なら、疑う自分の存在(=精神)「偽と考える(=仮定する)」対象そのものが存在しないから、「偽と考える(仮定する)」こと自体が不能となる。

 であるにもかかわらず、あえて「すべてを偽と考える(疑う)」ということは、「われ、すべてを疑うことができる、ゆえに、(我も含めて)すべて在り」が真理ということになる。

 これが、真の「哲学の第一原理」ではないのだろか。

 しかし、このような難しい哲学的思考をしなくても、ごく普通に考えてみて、「私が私以外のすべてを疑ってみることによって、私のみの存在が明証できる」というのと、「私は世界のすべてのものを疑ってみることができる。つまり、それは世界のすべてのものが存在していることの証左である」というのと、どちらが真実であるかなど、子供でも分かるのではないか。

 いや仮に真実かどうかがわからなくても、この現実社会で生きていくのに、どちらの考え方が有用であるか、社会に適応するか、は必ず理解できるであろう。


 デカルトはさらに続けて言う。

 「『わたしは考える、ゆえに私は存在する』というこの命題において、わたしが真理を語っていると保障するものは、考えるためには存在しなければならないことを、わたしがきわめて明晰にわかっているという以外にまったく何もないことを認めたので、次のように判断した。

 (きわめて明晰に存在している)わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることは、すべて真である、これを一般的な規則としてよい、ただし、わたしたちが判明に捉えるものが何かを見極めるのは、いくらかの困難がある、と

 ・・・わたしの存在よりも完全な存在の観念については、それを無から得るのは明らかに不可能だし、また、わたし自身から得ることもできなかった。

 完全性の高いものが、完全性の低いものの帰結でありそれに依存するというのは、・・・矛盾しているからだ。

 そうして残るところは、その観念が、わたしよりも真に完全な、ある本性によってわたしのなかにおかれた、ということだった。

 その本性はしかも、わたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自体のうちに具えている、つまり一言でいえば神である本性だ。

 ・・・わたしは幾何学者たちのもっとも単純な証明のいくつかに目を通して見た。

 そしてすべての人がこれらの証明に帰するあの大きな確実性は、わたしが先に述べた規則(=わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることは、すべて真であるという一般的な規則に従って明証的にとらえるということにだけ基づいているのに気がつき、また、それらの証明のなかには、その対象の存在をわたしに保証するものは何もないことに気がついた。

 というのは、たとえば三角形を想定して、その三つの角の和は二直角に等しくなければならないことはよくわかるが、しかしだからといって、この世界にこうした三角形が存在することを保証するものは、この証明のなかには何も認められなかったのである

 これにひきかえ、完全な存在者(=神)についての観念の検討に立ちもどると、(すべてのものの)存在が(神の)観念のなかに含まれていることをわたしは見出した。

 ・・・したがって、あの完全な存在者である神があること、存在することは、少なくとも、幾何学のどの証明にも劣らず確実であるのをわたしは見出した

 ・・・すなわち、われわれがきわめて明晰かつ判明に理解することはすべて真であるということ自体、次の理由によって初めて確実となるからである。

 神があり、存在すること、神が完全な存在者であること、われわれのうちにあるすべては神に由来すること

 その結果として、われわれの観念や概念は、明晰かつ判明であるすべてにおいて、実在であり、神に由来するものであり、その点において、真でしかありえないことになる

 ・・・われわれのうちにあって、実在であり真であるすべてのものが完全で無限な存在者(=神)に由来することを、もし知らなかったら、われわれの観念がどんなに明晰で判明であっても、それらの観念に真であるという完全性が具わっていることを保証するいかなる理由も、われわれにはなくなってしまう」(方法序説、岩波書店、1997年、第四部4755頁)

 すこし、難解でわかりにくいかもしれないが、デカルトの言いたいことを簡潔に要約すれば、

 ①例えば、三角形を想定して、その内角の和は180°であるということを、私たちは明晰かつ判明に証明できる(よね?できてよね。)

 しかしだからといって、この数学の証明は、この世界にこうした「三角形が存在すること自体を保証(証明)してくれない

 ②しかし、デカルトは、完全な存在者である「神」という観念(=物質ではないが、主観によって心に直観する意識、理念、想念)のなかには、世界のあらゆるものの存在が含まれていることを見出した。

 ゆえに、完全な存在である「神」があり、存在することが確実でなければ、世界のあらゆるものが存在すること自体が保証できなくなってしまうとデカルトは結論したのである。

 逆にいえば、現実世界のあらゆるものが存在することの保証を与えられているのは、完全な存在者である「神」が確実に存在している証拠である、とデカルトは言っているのである。

 このように、デカルト人間の理性(=明晰かつ判明に理解する智力)の完全性の根拠としてのみ「神」の存在を利用している

 つまり、人間理性の完全性は、完全な存在者である「神」のお墨付き、というわけである。

 デカルトに“神”を畏敬したり、崇敬したりする精神など微塵もない

 彼にとって「神」は、単に人間理性の完全性を証明する道具である

 デカルトの『方法序説』等の著作の学問的方法論が、数学や物理学や化学などの自然科学の発展に大きな貢献をしたのは、私も率直に認める

 しかし、デカルトの方法論は、あくまで、物体的(物質的)本性の自然科学系の学問に適用可能なのであって、知性的(精神的)本性の人文系の学問(=人間や人間集団、社会、国家などの人間精神や人間心理に関係する学問)には、適用不可能あるいは適用に慎重な態度をとる必要があると考える方が無難である。

 デカルトの言うような「人間理性の完全性」などは現実には虚構・妄想だからである。

 なお、これほどに神を冒瀆したデカルトが「近代哲学の祖」などと言われているのだから、「近代哲学」とは、「神を冒涜して喜ぶ学問」なのだろうかと疑いたくなる。

 私はデカルトのことを「近代哲学の祖」などと思わない。

 私は、デカルトを「近代の“神”冒瀆の祖」としか考えない。


 最後に、デカルトの『方法序説』における、彼の「個人の理性の完全性」に関する傲慢不遜な言説をいくつか抜粋し、紹介しておく。

 デカルトは言う、

 「たくさんの部品を寄せ集めて作り、いろいろな親方の手を通ってきた作品は、多くの場合、一人だけで苦労して仕上げた作品ほどの完成度が見られない

 ・・・一人の建築家が請け負って作りあげた建物は、何人もの建築家がもともと別の目的で建てられていた古い壁を生かしながら修復につとめた建物よりも、壮麗で整然としている

 同じく、はじめは城壁のある村落にすぎなかったのが時とともに大都市に発達していった古い町は、一人の技師が思い通りに平原に線引きした規則正しい城塞都市(=新しく建設された幾何学的構造を持つ都市)に比べると、ふつうひどく不揃いだ

 ・・・建物がここに大きいの、あそこに小さいのと立ち並んで、曲がりくねった高低の多いものになっており、それを見ると、こんなふうに配置したのは、理性を具えた人間の意志ではなく、むしろ偶然なのだ、と言いたくなるほどである。」

 「半ば未開だった昔、わずかずつ文明化してきて、犯罪や紛争が起こるたびにただ不都合に迫られて法律をつくってきた民族は、集まった最初からだれか一人の賢明な立法者の定めた基本法を守ってきた民族ほどには、うまく統治されないだろう」

 「唯一の神が掟を定めた真の宗教のあり方は、他のすべてと、比較にならぬほどよく秩序づけられているはずなのは確かである」

 「むかしスパルタが隆盛をきわめたのは、その法律の一つ一つが良かったためではない。というのは、ひどく奇妙な法律や、良俗に反する法律さえも多かったからだ。そうではなく、それらの法律が、ただ一人によって創案され、そのすべてが同一の目的に向かっていたからである」

 「書物の学問、少なくともその論拠が蓋然的なだけで何の証明もなく、多くの異なった人びとの意見が寄せ集められて、次第に嵩を増してきたような学問は、一人の良識ある人間が目の前にあることについて自然(生まれながら)になしうる単純な推論ほどには、真理に接近できない

 「われわれはみな、大人になる前は子供だったのであり、いろいろな欲求や教師たちに長いこと引き回されねばならなかった。しかもそれらの欲求や教師は、しばしば互いに矛盾し、またどちらもおそらく、つねに最善のことを教えてくれたのではない。したがって、われわれの判断力が、生まれた瞬間から理性を完全に働かせ、理性のみによって導かれていた場合ほどに純粋で堅固なものであることは不可能に近い」(方法序説、岩波書店、1997年、第二部2022頁)

 このような思想をハイエクが「設計主義的合理主義」と定義したが、読者の皆さんも何となくその感覚が感じ取れるだろう。

 デカルトによれば、「理性の完成に近づいた、あるいは完成した、一人の人間が設計したもの」の方が、「多くの人間(過去の祖先も含む)が叡智を積み重ねつくり上げたもの」よりも完成度が高いというのである。

 それなら、歴史事実で検討してみよう

 デカルト流の合理主義を最初に、学問的に論究したのが、ホッブスの『リバイアサン』やルソーの『社会契約論』である。彼らは、自ら一人の理性・智力で、彼らの理想社会(国家)を設計した。

 これを実行に移したのが、ロベスピエール(独裁者)らの「フランス革命」である。

 同様に、マルクス/エンゲルスも学問的に『資本論』や『共産党宣言』や『家族・私有財産・国家の起源』等で「共産主義社会」を理想社会(国家)として描いた。

 これを実行したのがレーニン(独裁者)ロシア革命であり、レーニンをスターリン(独裁者)が引き継いだ。

 また、ドイツでは学問的にヘーゲルルソーを引き継ぎ『歴史哲学』等を著作し、ヒトラー(独裁者)がそれを実行した。

 結果は何が起こったか

 フランス革命ではフランス国民約50万人の殺戮レーニン/スターリンのソ連では自国民6,600万人の殺戮ヒトラー/ナチス・ドイツ600万人のユダヤ人殺戮/非ユダヤ人約500万人の殺戮である。

 一人あるいは数人の「人間の理性完成」主義者が設計できる合理的な理想社会(国家)とは人類史上、最悪の社会(国家)でしかなかった。


 

(バーク保守主義次回その3-④へ続く)


 

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