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保守主義の哲学シリーズⅢ-6‐‐‐「保守主義の父」エドマンド・バーク(その6:第2章-④)


(バーク保守主義:その3-④)

 第2章バーク「偏見(=古きものへの尊敬の念)」の哲学「理性の完成(完全)主義」の否定・「人間の意思(知力)=神託」主義の排撃

 第五節 国家改造は非であり、「国家聖別」こそ、「是」である

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 私はここ数回にわたって、「保守主義の哲学シリーズ」から故意に離れて、鳩山政権の批判に専念してきた。

 それは、鳩山政権発足後、この政権のメンバーの多くが、非常に危険な極左思想の持ち主たちであり、鳩山内閣が打ち出す政策や閣僚が単独で口にする政策が、現在及び未来の日本国及び日本国民の“生命(安全)・私有財産・自由(道徳)”を擁護せず、逆にそれらの生存・存在そのものを危殆に晒す政策ばかりであることを確信し、これに大なる危機感を覚え、それを真正の日本国民の多くに訴え、警鐘を鳴らすためであった

 私の本心ではもう少し、鳩山政権批判に踏み込むつもりであった(特に、日米同盟の根幹を揺るがしかねない

 普天間基地移設問題

 アフガンにおけるインド洋給油活動問題

 オバマ大統領と鳩山首相の日米首脳会談とその後の鳩山首相のオバマ大統領及び米国への背信的発言

 岡田外相が為そうとしている過去の核密約の有無の調査

 鳩山由紀夫首相・管直人副総理・小沢一郎幹事長民主党の看板三人組の政治資金問題

 などに踏み込みたかった)が、この政権は、次から次へと最悪の政治問題を引き起こしたり、閣僚が虚妄発言したりするので批判してもきりがないのと、放っておいても近いうちに自壊するだろう見込みが大となってきたので、とりあえず鳩山政権批判に対する筆を置き、私のブログの本来の趣旨である「保守主義の哲学シリーズ」に回帰することにした。

 なお、私が気になるような「政治の大きな変動」があった時は、逐次、鳩山政権批判論を展開する。


 さて、『フランス革命の省察』で論じたバークの“神の意志は、英国の宗教(キリスト教)のもつ「国家聖別の感覚(=バークの意味する「偏見」)と同時に展開されている。

「バークの偏見の哲学」

 バーク曰く、

 我々は神を怖れます。畏敬の眼で王を見上げます。議会に対しては愛着の、判事に対しては服従の、聖職者に対しては崇敬の、貴族に対しては尊敬の、眼を上げます。なぜでしょうか。心の中に観念を前にする時、そのように心を動かされるのが自然だからです。それ以外の感情は嘘偽りであって、精神を腐敗させ、根本的道徳を失い、我々を道理に適った自由に不向きにさせるからです」(バーク『フランス革命の省察』、みすず書房110頁)

 「お判りのように、私は、この啓蒙の時代にあってなおあえて次のように告白するほどに途方もない人間です。即ち、我々(英国民)は一般に教わったことのない感情の持ち主であって、我々の古い偏見を皆捨て去るどころかそれを大いに慈しんでいる」(同)

 フランス革命が進んだ1795年の年頭のバークの書簡の一つで、「偏見」は次のようにも言及されている。

 バーク曰く、

 ジャコバン主義とは、人々の精神から偏見を一掃せんとしており、・・・古い社会の枠組み・組織全体を破壊せんと決意しています。・・・宗教こそ(ジャコバンが破壊せんとする)大偏見で、この大偏見が他の多くの偏見を統合しているのです。だから宗教はジャコバン主義が憎悪する最初の対象であり、最後の対象であり、その中間の対象でもある(=永遠でかつ絶対的の敵対対象です)」(Burke,op.cit,p.661.)

 国家聖別」もまた、ルソーの「社会契約」などの国家改造の革命教理とは、対極にある思想である。

 バーク保守主義が、既存の古い宗教を保守する哲学である理由はこれによってより鮮明になる。

 バーク曰く、

 「先ず最初に我が(=英国の)教会制度についてお話しするのをお許しください。これ(=教会制度)こそは、数ある我が偏見中第一のものであり、しかも理性を欠いた偏見ではなく、内に深遠宏大な叡智を内包している偏見なのです

 ・・・それ(=教会制度)は我々(=英国民)の精神の中では最初にあり、また、最後にも、中程にもあるもの(=教会制度はそれが始まって以来、常に英国民の精神の中にあるもの)なのです。

 というのも、自分達が現在所有しているあの宗教体系(=キリスト教)に根拠を求めることによって、我々は、人類が初期に感受して以来何時に変わらず引き継がれてきた感覚に即して行為し続けることになるからです。

 この感覚(=「偏見」)は、賢明な建築家にも似て、国家という壮大な建物を打ち立てましたが、・・・この建物があらゆる欺瞞、暴力、不正、専制などの不純さから浄められた聖なる神殿として瀆聖と破壊から守られるよう、国家組織及びその内部で職務を行う人々すべて(=国家)を荘厳かつ永遠に聖別(=国家はキリスト教によって、不純さから浄められた聖なる神殿であり、世俗的な建造物ではないと区別)しました」(バーク『フランス革命の省察』、みすず書房117頁)

 この「国家聖別」論は、当然のことであるが、国王を含むすべての国民をして、国家の改革や改造を妄想して、その狂気に走り出すのを抑制する

 フランス革命が、フランス国家の破壊となる自明性について、次のバークの有名な一節は、このような「国家聖別」論から導かれたのである。

 バーク曰く、

 偏見の害悪などよりさらに一万倍も悪い頑迷さや盲目極まる動揺と移り気(=フランス啓蒙思想)の害悪を回避するため、我々(=英国)は国家を聖別し、何人といえども然るべき注意なしには国家の欠点や腐敗を覗きに近づかないようにしました。

 また、何人も国家の改革をその転覆から始めるなど決して夢見たりせず、国家の犯した誤謬に近付くに当たってはさながら父の傷に対する如く、敬虔な畏怖と慄えながらの憂慮を以てするようにしました

 さる国のさる子供たち(=フランスの革命家たち)は、無鉄砲にも、年老いた親を瞬時に千々に切り刻み、それを魔法使いの薬罐(=薬を混ぜる釜)に投げ込んでおいて、後は自分達の毒草と野蛮な呪文の力で父親の肉体は再生し、生命が再び新たにされると期待しますが、右の賢明な偏見のお陰で、我々は彼らを恐怖の眼で見るように教えられているのです」(バーク『フランス革命の省察』、みすず書房122頁)

 ⇒私には鳩山政権が今からなそうとしていることは、この「子供たち」の所業の「上からの真似ごと」にしか見えないが、読者の見解はいかがか。

 万が一にも、日本が再生されると予想できるか。私には全く思えない。逆に日本を亡国の淵に追いやるだけである。

 さらにバーク曰く、

 「確かに社会とは一種の契約です。とは言え、単なるその時々の利益を目的とする二義的契約=解約相手が人間である契約ならば、好き勝手に解消もできましょう

 しかし、国家を目して、些細な一時的利益のために締結され、当事者の気紛れに任せて解消される胡椒やコーヒー、・・・その他これに類する低次元の物の取引における組合契約と選ぶところが無い(=全く同一のものである)、などと考えるべきではありません

 国家はもっと別の尊敬を以て眺められるべきものです。というのもそれ(=国家)は、一時の、朽ち去る性質をもった、低次元の動物的生存に役立つだけの物資(物質の取引)についての組合ではないからです。

 それ(=国家)は、(物質ではない)すべての学問についての組合、すべての技芸についての組合であり、すべての美徳とすべての完全さについての組合なのです。

 そうした組合の目的は多くの世代を重ねてもなお達成不可能な以上、国家は、現に生存している者の間の組合たるに留まらず(=現在、存在している世代の人間同士の契約だけでなく)既に逝った者(=過去の祖先)、はたまた将来、生を享けるべき者(未来の子孫)の間の組合(=過去・現在・未来に繋がる永遠の組合契約)となります

 個別的国家各々の個別的契約は、永遠の社会における大原初契約(=神と、過去・現在・未来すべての人間との間の契約)――物質的自然(=物質)と道徳的自然(=人間)を各々定められた位置に保つ不可侵の宣誓(=神の言葉)が裁可(=裁決し許可)する確定済みの取り決めに則って、低次の自然(=物質的自然=物質)と高次のそれ(=道徳的自然=人間)とを繋ぎ、かつは可視(=物質的な人間世界)と不可視の世界(=神の世界)を結びつける(人間と神との間の)契約――の一条項にすぎません

 この法(=人間と神との間の契約)は、上なる者――無限に上なるもの(=神)――に対する義務のため、自らの意志をその法に服従させなければならない存在(=人間)の意志のごときに従属するものではありません(バーク『フランス革命の省察』、みすず書房123頁)

 つまり、バークは真の社会契約なる国家」とは、「人間同士の間の契約」で成立するものではなく「神の法(=神の意志)と人間の契約」であって、人間はこの契約を遵守する(=契約に従属する)義務しかない

 人間は、この契約(=「神の意志」)を「人間の意志」に従属させる権利など存在しない、と言っているのである。

 国家は、「神の意志と人間の契約」による聖なる生命体である。しかも、悠久の未来に連続する世襲の、聖なる生命体である。

 国家という生命体に、修理・修繕・補強・改良などの保守は好ましいが、バークは、英国が自ら改革・革命(大手術)への狂気の道に迷いこまぬよう、多くの英国民には自覚されていない「国家聖別」という、英国の伝統的な良き憲法原理の一つを説いたのである。

 英国の「国家聖別」の原理は、キリスト教の国教会制度から形成された、天才バークによって発見された、「偏見」(正常な感覚)に基づくものである。

 宗教否定の思想は、「国家聖別」を転倒して「国家破壊」を導くことについても、バークは前述(私のブログ――バーク保守主義次回その3-③)のとおり、二十歳代で発見していた。

 実際に、フランス革命という「国家破壊」の暴力は、フランスの「国教」カトリック教会に対する蔑視から始まり、次に既存宗教を絶滅する運動へと拡大して、ついにはフランス国民約50万人を殺戮する大惨劇となった

 民主党が政権を奪取した日本国において、このバークの「国家聖別論」は、これからの日本国民が日本国を、「上からの社会主義革命」の破壊運動から守るために、拳々服膺すべきものである

 なぜなら、日本では今、革命フランスのキリスト教撲滅という宗教内戦の暴力破壊のための詭弁にすぎない血塗られた出生をもつ「政教分離(※1)」という“悪魔の教理”によって、民主党が無宗教で、宗教性の無い「国立追悼施設」なるものを造ろうとしている。 

 この「靖国神社つぶし」の影には、「日本つぶし(=コミンテルン32年テーゼに基づく、「天皇制」破壊運動)」の狙いがちらついている

 国家には迷信と奇蹟と神秘のある伝統的な宗教礼拝と儀式が満ちていなければならない。そして政府は、「国教の樹立の禁止」と「国民の信教の自由」は遵守しつつも、このような「国家聖別」に基づく礼拝と儀式を宗教否定の邪教的イデオロギーから守る権力でなければならないのであって、自らが権力によって宗教否定する存在であっては決してならない。


 

(※1)日本人が全く誤解している「政教分離」についての真の解説

 (誤解1)「政教分離」とは、1789年のフランス革命で、無神論の「理信教(=人間の理性を最高神とみなす邪教・無神論の派生体)」を掲げたジャコバン党がカトリック絶滅の論理としてつくった概念であり、血塗られた出生を持つ。

 なお、フランス革命は国教であるカトリック教会に対する蔑視から始まり、カトリック及び他の既存宗教の絶滅運動へ拡大し、最終的にフランス国民約50万人が殺戮された

 フランス革命とは、日本の歴史教育で習うような神聖なものではない。例えば1例。1789714日のバスティーユ牢獄襲撃について、この牢獄は“貴族専用型刑務所”であるのに、日本では、ルイ16世の政治弾圧で多くの政治囚が閉じ込められていた、という全くの嘘が流布している

 事実は、たった7人の貴族が受刑中であっただけである。(セディヨ『フランス革命の代償』、草思社、95頁)

 (誤解2)このように血塗られた「政教分離」を近代の憲法原理と考える国家は、その発祥の国であるゆえ、恥ずかしげに小声でつぶやく程度のフランス共和国1ヶ国を除けば、日本だけである。それ以外の世界190ヶ国において全く存在しないという事実 

 1989年にフランス革命二百年を迎え、政府主催の行事は大幅に縮小され、それ以降フランスは、フランス革命を忘却の彼方におしやろうとしてきた

 フランスでも、この大革命を「非」と考える常識派の方が圧倒的多数となった

 『人権宣言』についても有害なものとみなすフランス人の方がほとんどになった

 フランス人権宣言を肯定的に捉え、時には「憲法原理」=「日本国憲法第二十条 政教分離など」として神聖視すらするのは、当のフランスも含めて、世界中で日本一国だけであるという事実

 (誤解3)つまり、世界の常識から言えば日本国の論理が逆さに転倒しているのである。

 本来は、政治は、「悪魔の教理」である「政教分離」など無視する方が“正しい”のであって、“悪魔の教理”ある「政教分離」を規定しているとされる日本国憲法第二十条第三項の解釈方に問題があるのである

 つまり、政府は、「国教の樹立の禁止」と「国民の信教の自由」を保証しさえすれば、アメリカの大統領就任宣誓式がキリスト教牧師立ち合いの下で聖書に手をおいて為されるように、あるいは、米国連邦議会議事堂にキリスト教の礼拝堂があるように、あるいはドル紙幣にIN GOD WE TRUSTと明記してあるように、宗教(⇒宗教団体ではない、あくまで宗教である。)と関わりをもっても何も問題は生じないのである。

 (誤解3)そもそも憲法第二十条は、それを起草したGHQ民政局の作業において次のように記録されているように、“教会(宗教団体)と国家の分離を定めた条項であって、“宗教と国家の分離ではない

 「本条は、運営委員会により、簡略化され、修正され、信教の自由を正面から保証しa straight forward guarantee of freedom of religion)、かつ、教会と国家の分離the separation of church and state)を規定するものとなった」(高柳賢三ほか『日本国憲法制定の過程Ⅰ』、有斐閣、202203頁)。

 つまり、憲法第二十条第三項とは、例えば、小泉総理の靖国神社参拝について言えば、政府の予算で国民に靖国神社参拝を呼びかけるパンフレット三千万部ほど印刷し全世帯に配布したりすること(⇒これは明らかに靖国神社という宗教団体の宣伝に国が関わっている)を禁じていると解釈され得るかも知れないが、天皇陛下の御幸(御親拝)や総理や他の大臣が靖国神社を参拝する行為が憲法違反と解されるような文言は一切存在しない

 「政教分離」という日本で発明された共産革命のための政治的用語は、「政府と教会(宗教団体)の分離」という米国憲法の修正第一条の「国教の樹立の禁止および信教の自由」的な意味から、日本の憲法学者によって「政府と宗教の分離」へとすり替えられ、歪曲されたのである。この憲法第二十条第三項は削除されるべきある。

 ゆえに、靖国神社への天皇陛下の御幸(御親拝)や総理や他の大臣の参拝はなんら、憲法違反ではなく、「特定の宗教性をもたない新たな国立追悼施設の設置」など必要もない。

 (誤解4)A級戦犯」の問題。東京裁判で死刑となった「A級戦犯」を「法務死(=政府が犯罪と認めていない戦犯裁判による刑死者や収監中死亡者を指す用語)」と処理したのは正しいが、これを「戦死」と見做して靖国神社に祀ったことが問題を複雑にしている

 「法務死」は法務死であり、「戦死」は戦死である。混同してはならない。

 こんなとんでもない混同をしたことが、今や、戦死した軍人の英霊を弔う靖国神社そのものを根底から揺るがすものとなっている。

 マルクス主義の反宗教で唯物論の近隣諸国からは、「A級戦犯の合祀を許さず、総理の靖国神社参拝を許さず」との野蛮きわめる内政干渉/宗教干渉がある日本は主権国家として、このような近隣国の野蛮人(=マルクス主義は反宗教で無神論であるから、英霊や霊魂のなどの概念も解らないはずの人民)たちの狼藉は断固拒絶しなければならない

 しかし、それで何もかも解決するわけではない。

 まず、(1)法務死は戦死でないので「祭神(=神社に祭られる神)」にはなれない。これを「祭神」とすれば、実際の戦場で戦死した真の「祭神」を冒瀆することになる。

 (2)BC級戦犯の「法務死」は皆、戦場の勇者(=軍人)であるからよいが、A級戦犯の中には、戦場の勇者とは見做し得ない非軍人も多い。

 例えば、白鳥敏夫(外交官)松岡洋右(外交官)文官であり、戦場に行ったことは一秒もないし、銃を担いだこともない。軍服を着たこともない。

 靖国神社には、このような文官を祀る謂われはない

 彼らを祀れば、国家のために殉じた純粋の“戦場の勇者(軍人)”を弔うことにならない

 さらに、白鳥/松岡の両外交官は、日独伊三国同盟に日本を引きずり込み、国家・国民を滅亡の危機に導いた「叛逆者」である。両名の霊を慰むことは、亡国を神前にて誓うに等しい。

 (3)戦死したのは事実だが、山本五十六は、ミッドウェー島攻略の発案者で最高指揮官でありながら、しかも戦艦大和に坐乗しているにも関わらず、ミッドウェー海戦場の空母4隻の前方2kmにいるべき山本の「大和」が、あろうことか、この空母4隻よりはるか後方540kmに「逃亡=職場放棄」していた事実等々、海軍艦隊を指揮したこともない、戦闘機で戦ったこともない生粋の軍官僚(遠隔地点から指揮のみして、自身は戦場で戦わない)である。

 このような人物を「国家のために殉じた英雄」だと、事実を逆さにして祀るのは、他の「祭神」全員に対する冒瀆ではないか。

 靖国神社は、戦死者の霊を祀り、戦死者の魂を鎮める神社である分をわきまえず、「反・東京裁判闘争」とか「大東亜戦争正義論」とか、法律家や歴史家あるいは政治運動家の領域に、越権を自覚せず、深く介入してしまった。

 祀られている真正の「祭神」を冒涜する靖国神社の大罪は、靖国神社の存立を、今や危うくしている

 (誤解5)民主党は、「何人もがわだかまりなく戦没者を追悼し、非戦・平和を誓うことができるよう、特定の宗教性をもたない新たな国立追悼施設の設置に向けて取り組みを進めます」というが、そもそも、宗教性の無い追悼施設とは、何を追悼するのか?

 宗教性がないということは、「無宗教」「無神論」「仏教の仏も存在せず」の“宗教の排斥・排除”を意味する

 まさにマルクス・レーニン主義の思考そのものである。

 このような宗教性の無い施設には、弔うべき「戦士の英霊・霊魂」などは、万が一にも棲息できない

 仮に無宗教の英霊や霊魂が存在したとしても、無宗教ゆえ、英霊の行く「あの世」も「神の世界」も「極楽浄土・仏の世界」も存在しない

 このような施設に総理大臣が参拝して、一体「何を弔い、何を祈り、何に非戦・平和を誓う」のであろうか。意味不明である。

 そのような宗教性の無い施設の方が靖国神社より、「何人もがわだかまりなく戦没者を追悼し、非戦・平和を誓うことができる」などという民主党の主張は、党である以前の、生ある人間として、完全な精神疾患的な妄言・妄説でしかないのではないか。 


(注)上記本文は、中川八洋 筑波大学名誉教授『保守主義の哲学』(PHP研究所、2004年)、『正統の憲法 バークの哲学』(中公叢書、2001年)等および、エドマンド・バーク『フランス革命の省察』(みすず書房、2009年)を参考に記述している。


 (バーク保守主義 次回その3-⑤へ続く)


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テーマ : エドマンド・バーク保守主義
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