保守主義の哲学シリーズ(閑話休題2-②)‐‐‐文科省・日教組の学校教育の嘘「フランス革命の真実②」


 (バーク保守主義:閑話休題2)

日本国の学校教育の嘘「フランス革命の真実②」

日本国のみで神聖化される「フランス革命」と「人権宣言」(その②)


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 読者のみなさん、お久しぶりです。

 私は現在、

 ①バーク哲学の最も重要な原理である「世襲の原理」の解説作成および、

 ②マルクス/エンゲルスの『共産党宣言』の虚言・妄説の洗い出しと理論的殲滅(①②は近々公開予定)、

 及び、

 ③ジェンダー・フリー教育の害毒、

 ④「性器・性交教育と売春教育の害毒」、

 ⑤デュルケームの「反道徳教育」、デューイの「個性重視教育の本質は社会主義化教育である」・JSミルの「自己決定論の誤謬」、

 ⑥「人権教育の害毒」、

 ⑦「平和教育の真の狙い」等の戦後文部省教育の過誤の洗い出しを行っています。(③以降については年明けになると思います。)

 のような状況ですので、暇つぶしに興味ある方は、世界中の自由主義国の中で、日本国でのみ神聖化されている「フランス革命の真実」について、中川八洋 筑波大学名誉教授 正統の哲学 異端の思想』(徳間書店、1996年)及び同、『正統の憲法 バークの哲学』(中公叢書、2001年)から部分抜粋し、私が再編成したものを以下に示しますので、時間の余裕のある方は、気軽な読書のつもりで読んでください。

 なお、ここで「フランス革命の真実」を取り上げる理由は、エドマンド・バークは、フランス革命の凶悪な思想的害毒が英国に流入するのを防ぎ、英国の国体(立憲君主制)を守護するために戦った「真正の勇者」であるのに、日本国の教育界においては「フランス革命の思想的害毒」を逆さに転倒して神聖化し、重度の統合失調症(=精神分裂病)であった、ジャン=ジャック・ルソーらの「狂気の啓蒙哲学」ばかりを教育しているという異常な現状を読者の皆さんにを知ってもらうためである。


 

 ③ フランス革命(理性教)の副産物──社会主義教

 フランス革命とは、宗教革命運動を「主」、政治革命運動を「従」とする複合革命であった。

 前者は、独裁者ロベスピエールの処刑をもって挫折した。かくして、革命の熱狂の源泉であり牽引力の源泉であった、あの「啓蒙哲学」という母体から生まれた擬似宗教でもある「理性教」は、革命期には「愛国者」「国民」「市民」「人民」「有徳者」などと称されたその狂信状態の“信者”の多くを、バブルの崩壊のごとくに急速に失っていった。

 「自由」「平等」「共和国」「祖国」「自然」などの、この「理性教」の「神々」もその半ばはいつしか姿を消していた。具体的に言えば、上記のうち「自由」「共和国」「祖国」「自然」の言葉から宗教性が忽然となくなり、それは「神」でなく普通の言葉に戻っていた。だが、「理性教」は消えなかった。

 「理性教」は昆虫が脱皮するごとくに変身して悪性のウィルスのように生き続けたのである。変身した「第二の理性教」、それが「社会主義思想」である。すなわち、「平等」と「人民」という「」だけは、フランス革命期のままに、秘めやかに崇拝され続け、これが「社会主義教」の「」となった。「社会主義教」とは、雑多な「神々」からなる「理性教」より生まれたが、これをより純粋化したものであった。なお、この頃より「デモクラシー」なる用語が、にわかに宗教性を帯びてきて、この「平等」と「人民」の、二つの「神」の戦列に、新たに加わったようである。

 本質において宗教である社会主義思想は、毎日のように「ルソーよ、ルソーよ」と念仏を唱えるほどに「ルソー教」を狂信的に信仰するバブーフの行動によって、後代において絶大な力と影響をもつ世界的宗教へと発展していくのである。

 「社会主義教」の開祖フランソワ・ノエル・バブーフ176097年)とは、「五人の子供を産まれると同時にすべて捨てたルソー」に似て「三人の実子を餓死させても」なお自分の信じる革命のための宣伝扇動活動をやめない、フランス革命が生んだ数々の狂人の一人であった。

 「ルソー教」の信徒としては先輩であり、その「殉教者」でもあるロベスピエールとサン=ジュストの「遺業」の後継者たらんと欲して、「貧困の平等」「私有財産の否定」「労働の強制」などをもって完全社会だと夢想し、いわゆる「社会主義」の絶対的な政治権力を樹立するために武装蜂起〈反乱〉せんとした。そして、事前に発覚して処刑された。

 この「処刑」のために、逆にバブーフはイエス・キリスト的な「聖者」となった。ここにバブーフ主義の信仰が生まれたのである。バブーフの高弟(使徒)ブォナロッティの才と熱烈な布教によって、このバブーフ主義は次第に信者の勢力を大きくしていった。

 マルクスエンゲルスが執筆した『共産党宣言』はこのバブーフ主義の継承であり、バブーフ主義はレーニントロッキー共産主義理論やその革命戦略へと直線的につながっていった。ラスキも、「レーニンは大文字で書かれたバブーフ主義である」としている。

 「平等」を神格化した宗教革命運動であり、また「理性」への信仰が支配する国家への改造運動が178994年の五年間のフランス革命であった。

 一方、バブーフ主義つまり社会主義とは貧者(プロレタリアート)階級を救済するのではなく、この貧困階級こそが政治的な支配者となる階級独裁の国家への改造という別の宗教的ドグマ(教理・教義)であった。「社会主義教」である。

 バブーフ主義にしろマルクス主義にしろ、富者の絶滅や貧者の独裁とは、富者と貧者の「平等」を不可とする、貧者側の絶対性という「不平等」の論理である。

 “不平等”な封建体制を打破する「平等主義」思想が、五年間のフランス革命の騒乱を経て“不平等な”独裁の社会を理想とする「不平等(階級)主義」の思想へ転換したことになる。

 だが、「社会主義教」における「平等主義」のドグマと「不平等主義」のドグマは、いずれも同時にルソーが『社会契約論』等の同一の著作において展開したものであって、矛盾するものではない。

 なぜなら、ルソーは、ヴォルテールから「乞食の哲学」と揶揄されたように、全ての人間を(野獣に等しい)無産の貧者とする「平等」をもって平等社会の理想を描いたのであって、それはまた富者を絶対に許さない不平等の教理でもあり、ルソーはすべての人間の“平等”など論じたことは決してなかった。

 「階級主義(不平等主義)」とは「平等主義」の極端な形態であり「平等主義」の変種であって、その一つである。

 この「貧困の平等」のイデオロギー(社会主義教)としては、ルソー⇒(ロベスピエール)⇒バブーフ⇒ブォナロッティ⇒マルクス/エンゲルス⇒レーニン/トロッキー⇒スターリンと流れる系譜は、単線的であり直系である。階級独裁の「平等主義」がこの神学の根本規範である。

 このことは、私有財産へのこだわりと「理性教」に留まったロベスピエールとサン=ジュストは、「ルソー教」の信徒でありながら、ルソー以外の十八世紀フランス「啓蒙哲学」の影響をぬぐいきれなかった、と言えるだろう。

 ただ、ロベスピエールらが、この狂気の「平等主義」の宗教の信徒がいかに少数でも、国家権力を掌握しその政治体制を構築するのは可能であることを(失敗の教訓も含めて)実践したことは、この後の「社会主義教」の信徒の宗教・政治活動を鼓舞するものとなった。

 ①暴力による権力掌握、②「恐怖」による国家運営、③峻厳苛烈な独裁、④議会の否定、⑤宣伝(マスメディア)の独占、⑥教育の独占・・・・の「人民民主主義の独裁政治」については、レーニンではなく、遡ることそれより百二十年前、バブーフらが、ロベスピエールらを研究することによって既に理論化していたのである。

 無差別の逮捕・拷問と処刑、強制労働を課すチェーカー(秘密警察)による国家テロル、・・・・のレーニンのつくったソヴィエトの政治体制とは、ルソーの『社会契約論』に淵源を発するこの「ロベスピエール/バブーフ体制」にほかならない。

 なお、「理性教」と「社会主義教」との相違は「青は藍より出でて藍より青し」(荀子)と同じく、後者は前者から生まれたがより純化し、より先鋭化したものである。

 「理性教」とは人間の「理性は」ついに宇宙万物の哲理・真理(「自然」)を発見したと考える十八世紀「啓蒙哲学」を神学とするものである。そしてこの「啓蒙哲学」の主要な概念を神聖化して、その総体を「最高存在」と言い、これを祀り崇拝する教義である。

 簡単に言えば、人間の「理性」が人間の「幸福」を確実にすると信仰する教義である。だから、しばしば革命時にその騒擾の広場などで朗読されたように、ルソーの『社会契約論』は、キリスト教の聖書と同一レベルのものとされた。つまり経典であった。

 「社会主義教」とは、「理性教」の「神」の数をかなり整理して、つまり「平等」と「人民」にほぼ限定して、またヴォルテールディドロコンドルセその他数多くの「啓蒙哲学」は原則として排除して「ルソー」だけを突出させたものである。

 しかもロベスピエールらによる「理性教」による国家樹立(とその失敗)の過程で、国家権力の握り方と社会主義(共産主義)国家づくりのノウハウを身に付けた、厄介な害毒の教義であった。

 十九世紀のマルクス主義、あるいは二十世紀のマルクス・レーニン主義の、その起源もしくは始祖はルソーとロベスピエールであると言いきってよいことになる。

 とすれば、「マルクス/レーニン主義」とは「ルソー/ロベスピエール主義」の別名だということになる。

 ところで、「啓蒙哲学」は政治社会の漸進的発展や改良に対する憎悪をこめて、反対し否定する。漸進と中庸の排除を絶対的な信条とする。十八世紀のフランス「啓蒙哲学」には、至福千年の地上の楽園を現世でかつ直ちに実現できるとする信仰が背景にある。

 未来は征服できると考えている。それはまさしく宗教(信仰)であって、哲学でも政治学でもありえない。やはり、フランス「啓蒙哲学」とは、哲学と近代という二つの衣をまとったメシアニズムの宗教であった。

 さてロベスピエールらのフランス革命がその後の社会主義の猖獗にとって源流となった原因にはもう一つある。フランス革命が、実際に社会主義経済の、いわば実験をなしたからであった。

 食料品の最高価格の設定(179211月)

 穀物・小麦粉の特別最高価格令(17935月)

 生活必需品の一般最高価格法(17939月)

 などは自由市場経済から計画経済化への明確な第一歩であった。ならず者を使って計画経済化を強制していくための、また、富裕者に対する暴力的略奪をなすための「革命軍」の創設(17939月)も、革命が王制・貴族制潰しから富裕層破壊の段階に既に進展していたことを示すものだろう。

 フランス革命とは、政治分野における単なる「旧体制」変革ではなく「貧者の天国」を妄想する狂気の社会主義革命であったのである。「貧困者への、没収した反革命者の土地無償分配」(ヴァントーズ法、17943月、施行せず)も同様に社会主義的な富の配分であるし、富者のいない「平等」社会づくりの熱狂のうんだ社会主義的暴力であった。

 それ以上に富裕層に対する憎悪とその破壊が革命の主たる目的の一つとなりつつあったことは、ジャコバン独裁下の社会主義化の急激な進展を示している。

 例えば革命軍のリヨン市破壊は貧困者の家のみを残すという方針で数千戸の高級住宅が十月末だけでも敢行されている。

 もしジャコバンの独裁体制があと数年続けば「貧困の平等」の教義がフランス全土に適用されて、レーニンやスターリンによる数千万人規模のあの残忍な「富農(クラーク)」抹殺と同じくフランスから富裕者数百万人が抹殺されていたはずである。

 フランス革命をもって「ブルジョア革命」であり真正の革命である「プロレタリアート革命」に至らなかったとする説はマルクス主義に汚染された誤った観察である。真実を歪曲した嘘である。

 マルクス主義がルソー主義の盗用であり模倣にすぎない、そのことが露見しないようにするための宣伝である。

 「プロレタリアート革命」という用語を美化し聖化するための嘘宣伝である。そもそも資産をもったブルジョアが革命などするはずはなく、「ブルジョア革命」という用語自体が形容矛盾である。

 フランス革命こそは百二十年前にロシア革命を先取りしたロシア革命そのものであって、この二つの革命は本質において何一つ違いはない。

 別の表現をすれば、ロシア革命こそは、忠実なコピーのような「第二のフランス革命」であって、そこにはフランス革命と異質である何物も発見することはできない。


④ 水と油──全く異質のアメリカ建国とフランス革命

 フランス革命(178994年)は、アメリカ「革命」とも呼ばれる独立戦争(177583年)やその建国(177688年)に遅れること数年、これに刺激されてそれを模倣し、かつ凌ごうとした側面が存在するのは事実である。

 例えば、米仏同盟(17782月)により、前者の独立戦争に参加し自分の長男にジョージ・ワシントンと名前を付けたフランスのラファイエット侯爵はカムフラージュしたフランス革命宣言である「人権宣言」の草案を議会に提出した最初の人であったし(1789711日)、またこのアメリカ建国の興奮から醒めないラファイエットが革命の初期にあって非・国王軍であるパリ国民衛兵隊司令官として英雄的な指導者の一人であった。

 だが、フランス革命はアメリカ「革命」とは対極的な方向に走ることとなった。

 フランス革命は個人の自由の制限もしくは圧搾をもたらし、一方のアメリカ「革命」はその逆に個人の自由の拡大の保障であった。あるいは前者は「(貧困の)平等」を神聖視しそれに絶対性を附与したが、後者では社会的「平等」は重視されなかったし、むしろかなり積極的に無視された。「平等」は「自由」と対立する概念だからである。逆方向に革命が展開したのである。

 フランス革命とアメリカ「革命」の極端な相違の一つを、F・ハイエク(ノーベル経済学賞受賞・政治哲学者)は次のように述べている。

 ハイエク曰く、

 「多くの点で、フランス革命は、アメリカの革命によって鼓舞されたとはいえ、後者の主要な成果──立法の権力に制約を課す憲法──であったものを決して達成しなかった」

 ハイエクの指摘するとおりに、アメリカ「革命」では法秩序(「法の支配」)が重視され立憲主義が強く指向されたのに対し、フランス革命では逆に、“法”の無視が革命手段として正当化されて憲法の不在と無法そのものが政治を支配した。

 暴力革命が凶暴に荒れ狂ったそのままに、法に対する尊敬を崩壊させてしまったのである。国家権力の制限でなく国家権力の肥大化だけが志向されて、国家権力の制限という自由のための制度や法のすべてが放棄された。野蛮への回帰、文明の退行、これらが生じたのがフランス革命であった。

 アメリカ「革命」が法と正義への文明的な発展への顕著な一里塚となり、フランス革命がその逆となった最大の原因は、フランス革命は“法による支配”ではなく“人による支配”と考え、人民(国民)が主権者なのだから、この人民(国民)に対して国家権力がいかに肥大化しても人民(国民)の権利に対する侵害は生じないという、仮構もしくは“迷信”あるいはルソー的詭弁を信じたことにある。

 かくして、フランス革命は、この人民もしくは国民の代表である「国民議会」であれ「国民公会」であれ、これらの立法の議会をもって国家の絶対権力としてしまった。

 これらの立法議会を拘束する上位の“法”(すなわち憲法)は何もなかった。立憲君主制の政体を定めた「1791年憲法」(93日成立)は、翌年1792810日の「暴動」をきっかけに政治的に息の根を止められ、その憲法の生命は一年足らずであった。

 すなわち、この1792810日の王権停止も、1792921日の国民公会の設立も「1791年憲法」に違反し憲法を無視する無法が暴走し、無法が支配者となった結果だった。そして無法から生まれたこの国民公会は超越的な絶対権力を行使して、王制を廃止し(1792921日)、「共和国宣言」(1792922日)をなしたのである。すべて立憲主義に逆行していた。

 だから、この憲法無視の思想・信条に従って、国民公会は1793年に「ジャコバン憲法」を成立せしめたが、その施行はみずから棚上げして“憲法不在”を選択した。

 ジャコバン党のロベスピエールは憲法にいささかの関心すらなかった。そればかりか、このジャコバン憲法の起草者である自らの同僚であるエロー・ド・セシェルをロベスピエールはダントンやデムーランとともにギロチンに送り殺害したのである(179445日)。

 フランス革命家たちの憲法無視を具体的にいくつか見て行こう。

 まず、1791年のフランス初の憲法つまり「1791年憲法」は国王の職務上のいくつかの問題に対して“退位(廃位)”を定めているが(第二章第一節第五条など)、そのことは(その他の職務上の国王の権限は認めていることであり)国王の処刑など決してできないことの憲法の明文規定でもあった。ゆえに「犯罪」の立証もない以前に行われた179289月の王権停止と王制廃止は明らかな憲法違反であった。

 また、第二章第一節第二条に、「王の身体は神聖にして不可侵である」とあることから、裁判にかけることは憲法違反である。

 さらに憲法上の最高罰を実態的に強制されてすでに退位したあとに在位中の行為に対して裁判にかけること自体、憲法にもいかなる他の法にも基づかない無法(暴力)以外の何物でもなかった。

 フランス革命は、その17898月末の人権宣言(人間および市民の権利の宣言)において「人類の進歩」とばかりに評価されている。

 しかしフランス革命はこの人権宣言に一度として敬意を持ったこともないし尊重したこともなかった。百パーセント無視したのである。

 「何人も犯罪に先立って制定公布され、かつ適法に適用された法律によらなければ、処罰されない」(第八条)も、

 「何人も法律に規定された場合で・・・・なければ、追訴され、逮捕され、また勾留されない」(第七条)

 も、プロパガンダ以上の何物でもなかった。

 だから、フランスは1793917日の「反革命容疑者法」などによって無差別逮捕・無差別処刑の流血の巷と化していったのである。

 フランス革命とは、立憲主義・法治主義の否定こそ絶対的に正しいものとした。同時に、権力のチェック・アンド・バランス、つまりモンテスキュー的な三権分立をも否定した。

 限りなき権力の一点集中である。国民公会という非合法議会が独占的に権力を掌握し、その後はこの国民公会のつくったその一部局にすぎない公安委員会(179346日設立)にこの独占的権力が移動して独裁政治の体制がより強固になっていく。

 ここにおいても「権力の分立」に腐心して国家権力の制限と“主権の分散”を不可欠なものとみなした、アメリカ「革命」とは対照的であった。

 二十世紀のソ連共産党の独裁体制がこの共産党の政治局と党書記長による独裁であったのと同じく、十八世紀の、最高執行機関として公安委員会による独裁は、国民公会におけるジャコバン党の優勢の確立とほぼ同時に生じている。

 公安委員会のロベスピエール/サン=ジュスト/クートンの三頭独裁体制は17931010日の「革命政府宣言」に始まり、憲法を含む“法の支配”はここに名実ともに死に至った。

 そして、無差別の大量殺戮の恐怖政治へと、フランス革命はますます野蛮なものとなって激越になっていった。独裁体制と法治主義の否定とは、離れられないコインの裏表である。

 暴力と無法の信徒であり大量殺戮の煽動家であるデムーランですら、死の直前に「人間がかくも残忍に、かくも不正になるとは、・・・・」(179444日処刑)と嘆く最悪の政治が、フランス革命が理想だと追求したその結果として創造されたのである。

 “法による政治”を否定した“人による政治”は、最終的にはこの最悪の政治に行き着くしかない。また「大衆」や民衆が根源的に暴虐な性質を持っている事実を転倒させ、この下劣で破壊的な民衆を「人民主権」などとして神聖化したことが、この最悪の政治の最大の元凶であった。

 アメリカ「革命」とは、その広大な土地に入植してきた、無法状態におかれた見知らぬ人々から成り立つ国家を創造することであった。

 だから、その建国に際して法秩序の具現する政治社会の建設こそが最優先となった。

 また、法秩序と自由とはコインの裏表であるから、母国からの独立という自由への悲願そのものが、法秩序の重視を優先させた。

 そればかりか、一瞬の油断も病気も人生の終わりを意味する荒野への入植という厳しい原初的な社会の故に個人の労働と智恵によってつくり出された富や財産(私有)はおのずから「生命に匹敵するもの、もしくはそれ以上の価値」であった。

 また「財産(私有)が人間の自由にとって不可欠な基盤」という政治社会の原則も体験によって容易に理解できた。このため、財産(私有)の保護が法秩序なしには困難であるが故の、法秩序の重視、という健全な意識をもつくりあげたのである。

 また、荒野の厳しさは“自然”と闘うことを日常の生活にしたから「自然」を崇拝するようなルソー的妄想の入る余地をゼロにしていた。アメリカは、フランス「啓蒙哲学」を読んだが、受容しなかった。

 労働(勤勉)とそれによる財産(私有)とを絶対視する思想からは「富の平等化」とか「私有を否定する考え方」は万が一にもうまれえない。アメリカ「革命」が「平等」のイデオロギーを排除したのは当然であろう。また、王侯貴族が存在しないことも「入植」「移民」という出自において初めから平等であったことも、「平等」への関心を著しく低いものにした。

 アメリカ「革命」でなされた「平等」の主張としてはジェファーソン起草の独立宣言の「平等」の狙いがそうであったように、あくまでも「英国の本国人」と(アメリカ大陸の)「英国から来た移民人」間の“平等”だけであった。

 しかも、これは後者の独立とともに完全に達成されたから、「平等」はついぞほとんど関心にすらならなかった。

 フランス革命の方は、一国内における政治的・社会的な「(貧困の)平等」を図るという、それが革命の理念であった。

 一国内における国民間の憎悪と嫉妬の熾烈な闘争をもたらす「(貧困の)平等」思想であった。アメリカ「革命」とフランス革命とは、「平等」のドグマにおいてこれを“非”とするか「是」とするかの対極的な相違をなしていた。

 そもそも英国という本国から米国に入植した、英国の一部である英国人たちの独立は、戦争を伴ったが故にのちのカナダやオーストラリアとは異なって、王(君主)や貴族からの訣別を不可避としてしまった。政体としては共和制のみの選択以外に何らの余地のないものになった。だから、建国に際しての議論としては、逆に、この新しい共和制にいかにして英国の旧い君主制的要素や貴族制的要素を遺すかという問題の方が真剣かつ深刻に考慮された。

 これが、1787年に制定された憲法のあの大統領や上院の規定でもあった。

 また、王制や貴族制でなく民衆参加制(デモクラシー)で政治的安定化がもたらされるのかと悩み、民衆参加に制限を加えることにした理由でもある。

 大統領選挙が、その選挙人団が選出する間接選挙としているのも、デモクラシーにおける民衆に対する制限の思想から考えられたものであった。

 また、この大統領選出について、現在では一般有権者の投票で州ごとの「選挙人」を決定する以外の方式をとる州はないが、建国当初は、この財産と教養のある「選挙人」を選ぶために州議会だけで選出する方が多かった。つまり一般有権者の大統領選出への参加を排除していたのである。

 さらに上院議員の選出は州議会が行うこととし、一般有権者が参加し投票することを禁止した。英国の貴族院の議員は国民が選べないが、この方法を踏襲したのである。いずれも「英国王=米大統領」「英貴族院=米上院」と英国の君主制をモデルとする制限デモクラシーの原理であり、これは民衆参加(デモクラシー)における「一般大衆」の「政治的無知」に対する警戒感・不信感の基づくものであった。

 しかしながら、日本では、愚かにも「独立戦争は、・・・・より広く旧体制一般、君主制を否定し、共和主義の原理を主張し、それを現実の制度として定着せしめるための戦争であった」などと、フランス革命と同一視した、反王制(反君主制)のマルクス主義的なドグマに毒された牽強付会がなされている。

 米国は独立に際して、君主国のフランス王国と同盟条約を締結したのであり(17782月)、またスペイン王国にも同盟を求めたのである。

 また、フランスのルイ十六世国王陛下の軍隊の協力なしには、米国の独立を確実なものにした、英軍を敗北せしめたあのヨークタウンでの大勝利はなかった(1781年)。独立のために便宜的(戦術的)に反・ジョージ三世国王のキャンペーンはしたが、米国は一度として反・君主制のイデオロギーを形成しなかった。

 むしろ米国は建国以来、英国の君主への強烈な憧憬と敬崇の念を懐き続けた。それは今日においても弱まっていない。

 以上のような事柄を踏まえると、アメリカ「革命」とは、海を隔てた遠くの本国政府を自前の政府に置き換える、いわば政府の交替にすぎなかった。日本の明治維新に似ている。

 明治維新が慎重な熟慮のもとに国体を変えずその枠組みを維持して政体の変更だけをしたように、米国も、国体も政体も新しく創造しながら、そのいずれも英国をあくまでも模倣し英国の基本的な伝統から逸脱することに小心なほど慎重であった。大胆に新しい国家を創造せんとしたフランス革命とは、似て非なるものであった。

 このようにフランス革命と相対的な比較をすると、アメリカ「革命」という「革命」の表現は、不適切であるのがわかる。アメリカ独立戦争とアメリカ建国はあったが、「革命」はなかった。

 そのように考えると、英軍を降伏せしめたヨークタウンの戦いは将軍・徳川慶喜の遁走となった鳥羽伏見の戦いであったし、独立承認のパリ条約(1783年)は勝海舟と西郷隆盛の合意による江戸城無血開城であった、となぞらえることもできよう。

 フランス革命とアメリカ独立戦争の決定的な相違はこのほかにも三つある。

 キリスト教に対する考え方の相違@連邦主義(アメリカ)と超・中央集権主義(フランス)の相違

 建国に際しての民衆参加の是非の考え方の相違

 A)について

 米国はキリスト教信仰を大切にして尊重した。フランス革命のキリスト教潰し(抹殺)の蛮行などは、アメリカでは断じてしなかった。

 だから、独立戦争の煽動的パンフレット『コモンセンス』を著したトマス・ペインが、一旦、反キリスト教の『理性の時代』(179495年)を書くや米国全体はこのペインを許さず、徹底的に排斥した。トックヴィルは十九世紀初頭のアメリカにおけるキリスト教について、次のように明快に指摘している。

 トックヴィル曰く、

 「アメリカは、世界中ではキリスト教が人々の魂の上に真実の力を最もよく及ぼしているところである。今日キリスト教が最大の支配を発揮している国は、同時に最も開花しているし、最も自由であるからである」

 B)について

 フランス革命は、中央政府(パリ)の権限の強大化・肥大化をもたらし、過激な中央集権化という変革で終わった。そればかりか、米国の建国に際しての理念である「連邦主義」と呼ばれる地方分権的な思想も制度もすべて決して許さなかった。

  一方アメリカの建国は連邦制となったこともあいまって分権色の強いものとなり、中央政府の権限はより小さく制限されることとなった。しかも米国の建国における「小さな政府論」は、連邦制の結果のみでなく、根源的には国家権力に対する性悪説に立脚していたからである。

 この点は「国家が理想の国家に改造されれば、これに没我するすべての人間は必然的に至上の幸福に到達する」と信仰し、超強大なる権力の国家を創ろうとしたフランス革命とちょうど逆転した発想であった。

 また、「平等」に対する過度の偏重と信仰は、この平等化を神聖視するが、それは国家権力の強制を持ってするしか実現しない。だから、社会的・政治的な「平等」の追求は、そのための手段として中央集権化を強行的に選択していく。一方、「自由」重視の思想は、政府の権力からの自由を志向するが故に、「小さな政府」を求める。

 C)について

 アメリカは独立戦争と建国に際して、「大衆(民衆)」やならず者を参画させることを極力避けたことを挙げねばならない。入植者という出自は同じであっても一定以上の資産を持ち「エリート」となった者だけが建国の指導を担ったのである。これらの米国の「エリート」は、民衆参加(デモクラシー)のもたらす弊害と危険性を充分に了知していた。

 この民衆排除の「エリート」のみによる建国は、日本の明治維新と同じである。維新の中枢の主体は下級武士出身の若者とはいえそれでも日本の上位六パーセントを占めるにすぎない武士階級の出身であり、吉田松陰の松下村塾の出身者や薩摩藩などの藩校出身者などで構成された学問的教養においても意識においても真正のエリート集団であった。

 フランスの革命家たちは、ジャコバン党のリーダーをはじめ「ならず者」あがりが数多く権力の座に就いた。フランス革命家たちは醜悪で劣等な人格の持ち主が多数を占めていた。

 また、バスチーユ牢獄襲撃にしても179292日の大虐殺にしても、あるいはジロンド派の逮捕でも革命を成功させるため、手段を選ばずに、公然と最下層の民衆を暴力装置として(金銭を渡して)参画させたものであった。暴徒と化す民衆の活用、それは無法と破壊の社会しかつくらない。自由なき社会しか構築できない。

 しかし、フランス革命は、これを中核的な手段としたのである。だからフランス革命は、正しく「プロレタリアート(下層民衆)革命」なのである。そればかりか、フランス革命では、「人民主権」(実際は革命の煽動用語で人民主権など皆無であった)などと、この「下層民衆」を逆に神聖視する「人民崇拝教」のドグマが熱狂的に信仰されていた。このような現象はアメリカ建国には一切見られなかった。

 以上のことをまとめると、「文明からの退行」“文明的な発展”との両極に相違する「フランス革命」“アメリカ独立革命”とを、同じ言葉である「革命」において同一の範疇に括ることは決してなしてはならない、のである。


 

保守主義の哲学シリーズ(閑話休題2-③)‐‐‐文科省・日教組の学校教育の嘘「フランス革命の真実③」へ続く。


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