保守主義の哲学シリーズ‐‐‐「エドマンド・バーク保守主義」VS『共産党宣言・共産主義の諸原理』(その6)


 エドマンド・バーク保守主義VSマルクス/エンゲルス共産党宣言・共産主義の諸原理

 正統の哲学・『エドマンド・バーク保守主義』による、

 虚偽・妄説の『共産党宣言・共産主義の諸原理』の理論的破壊宣言(PartⅥ)

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少々、遠回りしたが、本題に戻る。

 まず、第十二問について、虚言・虚構・妄言の類を指摘しておく。

 ①「この大工業から必然的にでてくる自由競争は、・・・もっともはげしい性格をもつようになった。」

 自由競争は大工業から出てきたものではなく、自由主義社会では大工業が発展せずとも自由競争は常に存在した。しかし、大工業下での自由競争の性格は激しいものとなり、内容も多様化するのは当然である。このような次元のことは、1776年のアダム・スミスによる『国富論』で自明なことであったのではないか。

 ②「その結果は、製造された商品がうれないということ、いわゆる商業恐慌がおこる」

 景気循環において「生産余剰」は経済を後退させる効果をもつが、いきなり経済不況へ落ち込むわけではない。マルクス経済学でいう商業恐慌(=恐慌)とは景気循環における経済不況のことであり、自由主義市場では景気循環において必然的に生じるものとされている。これは、19291024日の「暗黒の木曜日」に始まる世界恐慌(=世界規模で起こる大恐慌)とは全く異なる小規模の「経済不況」の意味であるから、これをもって、社会全体が「工場主は破産し労働者はくいはぐれた極度の窮乏が、いたるところにやってきた」というのは、あまりにも虚偽・虚構・誇大宣伝である。明らかにプロレタリアートを煽動するプロパガンダである。「社会のある程度の部分」ではそのようなことが起こったということはあり得る。 

 例えば、2008年末の世界金融危機は、100年に一度の経済危機と言われ日本でも多くの派遣労働者が解雇された。

 彼らを

 ()再雇用に導くように社会全体に働きかけ、同時にさらに高度な職業訓練の機会を与え、その間の最低限の生活維持費を保護することは日本国政府の重要な政策の一つであろう。

 ()しかし、だからといって、日本国政府が彼らにいつまでも長期間にわたって生活維持資金の保護をし続けることは、自由主義国家のすべき政策ではない。あくまでも彼らが自身の努力によって、再雇用に辿り着く支援をするという()が主目的で、()()が達成されるまでの補助的な目的にすぎない。あくまで個人の自助努力を支援する、これが自由主義国家の正しい政策の原則である。

 これは、失業者に対してのみならず、不況下の民間企業に対しても原則として同様である。そして、2008年末の世界金融危機は、100年に一度の経済危機と言われたが、そのような最大の経済危機の時でさえ、日本国全体で、すべての国民が「食いはぐれ、極度の窮乏がいたるとことにやってきた」であろうか。事実はいうまでもなく明白である。

 いわんや、定期的な景気循環の経済不況を意味するマルクス経済学の「(商業)恐慌」で上記のような状況が社会全体(=一部の大資本家を除くすべての国民)に発生することなど決してあり得ない。

 虚言・虚構で人間を欺き煽動することにしか自己の生きる価値を見いだせない、悪辣で貧困な知能の持ち主である「共産主義者」の真骨頂を発揮している。

 その直後の「しばらくして、過剰な生産物が売却され、諸工場はふたたび稼働しはじめ、賃金は上昇し、そしてしだいに、ふたたび景気はまえよりもよくなった」などの記述はその虚言・虚構の証左であり、諸工場は経済不況の間、工場稼働を一時休止したが、工場主が破産したわけではない。

 工場主の大部分が破産していれば、景気循環によるこのような経済回復および経済好況は起こり得ないのは明白であろう。

 ③「こうして、この世紀のはじめから、産業の状態はひきつづいて、好況期と恐慌期(不況期)とのあいだを動揺していたのであり、ほとんど規則的に、五年ないし七年ごとにそういう恐慌(=経済不況=不景気のこと)がおこったその恐慌は毎回、労働者の最大の窮乏、一般的な革命的騒乱、既存の状態全体にたいする最大の危険(=自由主義〈資本主義〉社会の破綻)と、むすびついていたのである」

 五年ないし七年ごとの景気変動とは、経済学でいうところの「企業の設備投資に起因する約十年を目安に起きるジュグラーの波」のことであろう。これをもって、「労働者の最大の窮乏、一般的な革命的騒乱、既存の状態全体にたいする最大の危険(=自由主義〈資本主義〉社会の破綻)と、むすびついていたのである」などというのは、当時の経済学が発展段階にあった(現在においても、ケインズ経済学等の経済理論に対して賛否両論があり、様々な経済学理論の信頼性には疑問符が多いのが事実。ノーベル経済学賞も廃止された。)ことを考慮しても、極端な暴論であり、プロレタリアートへの誇大宣伝・革命への煽動以外のなにものでもない。

 しかし、そもそも当時の経済学でさえ、五年ないし七年の景気変動を見抜いていたのであれば、それに備えた経済運営を思考すればよいだけであって、経済不況の原因が自由主義(資本主義)社会の構造そのものにあるとして、短絡的に暴力革命による共産主義社会への移行を煽動するなどは、狂気の妄言であり、これらの虚言・虚構の真の目的が、プロレタリアートの貧困救済などではなく、既存社会への呪詛・憎悪による革命的転覆そのものにあったのは明白である。

 次に、第十三問について、虚言・虚構・妄言の類を指摘しておく。

 ここでは、共産主義社会の構造に関する上記の諸命題の一部が顔を出し始める。③私的営利の廃止・私的所有の廃止⑥生産のたんなる管理への国家の転化、計画経済などである。

 「大工業自体が、・・・まったく廃棄されなければならない」、「まったくあたらしい社会組織がどうしても必要」、「社会全体がひとつのしっかりした計画に応じてすべてのものの欲望に応じて、工業生産をおこなう(=計画経済)」などである。

 そもそも「社会全体で立案した一つの計画に応じて」とか「すべてのものの欲望に応じて」工業生産を行うことなど、バーク保守主義者に言わせれば、精神欠陥的な妄想・妄言さらに幻覚の類の空想・幻想である。

 「社会全体(=全国民)」でどのようにして、「一つの経済計画」を建てうるのか。「すべてのものの欲望」をどのようにして把握するのか。「すべてのものの欲望」を満たす「一つの経済計画」など、そもそも存在しうるのか。

 バーク保守主義者の答えは「完全なるNo」である。

 このような「経済計画」が「人間の意志」「人間の理性」で実行可能と考えるのは、「デカルト的な設計主義的合理主義」の最たる典型であり、人間の極度の傲慢にすぎない。

 確かに、自由主義(資本主義)社会においても、完全な市場競争経済を意味する「レッセ=フェール(自由放任)」状態では、市場は正常に機能しなくなるため、政府による適度な市場への介入(=「人間の意志」による行為)は必要であるが、それはあくまで自由市場の極端な変動に対応した最小限度の介入に留めるべきものであり、自由市場自体を廃棄して、計画的に市場を管理することなど決してできないし、すれば必ず経済は破綻に向かう。マルクス/エンゲルスはこのような自然的な経済原理を恣意的に無視している。

 このように、マルクス/エンゲルスは自然的な経済原理を恣意的に無視している(=実際には経済は破綻に向かうと知っていて隠している)から、彼らが目指している「共産主義社会」の真の正体とは“文明的な社会”ではなく、経済が破綻し、かつ私的所有のない野蛮な“非文明的な社会”ということになる。

 そして実際にかれらは、そのような“非文明的な原始社会”を理想の「共主義産社会」と考えていた。

 エンゲルスは、ルソー主義(=ルソーは1754年の著作『人間不平等起源論』で自然状態の野獣の社会を人間の理想の社会と妄想している)を継承しているし、反キリスト教運動家ヴォルテールの直系であるダーウィンが、「人間の祖先はサルである」と強調してやまない『人類の起源』正式名称は『人間の由来、ならびに雌雄選択』(1871年)に異常なまでの親近感を寄せている。

 つまり、マルクス/エンゲルスの理想の「共産主義社会」とは「非文明的な原始自然社会」のことであると言って間違いなく、ここに共産主義者の虚偽・虚構・妄言の究極の本質が見える。

 なぜなら、「非文明的な原始自然社会」とは簡潔に言えば「荒野の野生動物的な社会」のことである。

 そしてダーウィンの生物進化論は、その自然淘汰(natural selection 自然選択)説で成り立っており、その前提には「生存競争(struggle for existence 生存抗争、生存闘争)」によって最適者のみが生存(survival of the fittest)してその有利な個体差が遺伝して新種が形成されるという前提がある。

 つまり、文明社会で自然的に成長し発展した「経済の自由競争と私的所有の廃止」の後に出現する「共産主義社会=非文明的な原始自然社会」では、「生存競争、生存抗争、生存闘争」というさらに厳しい、まさに生死をかけた「競争・闘争」が待ち構えているということである。

 これが、共産主義の最大級の論理矛盾であり、自家撞着・パラドックスであり虚構の核心である

 バーク保守主義では、人間は、このような「自然社会的な生存競争・生存闘争」から自身の生命/安全を守る必要が生じ、様々な方法を試みながら歴史を積み重ね、自然成長・発展した「安全な文明社会」を築いてきたものと思考する

 逆に共産主義の唱える「階級闘争」の「革命」による既存の「文明社会の転覆」とは、まさに「歴史の逆行」・「人間の退行」・「文明の政治社会の退行」という「蛮行」にすぎず、それ以上でもそれ以下でもない

 結論的には、「バーク保守主義者は、真の文明社会人であり共産主義者は自然社会の野蛮人である」ということである

 次に、「第二に、大工業とそれによって可能になった無限の生産拡張とは、つぎのような社会状態を可能にするということであって、その社会状態においては、すべての生活必需品が、ひじょうにおおく生産されるので、それによって社会の構成員は、その諸能力と素質のすべてを完全に自由に発達させ、発動することができるようになるのである。そこで、今日の社会であらゆる貧困と商業恐慌をうみだしている、大工業のまさにこの特質が、別のひとつの社会組織(=社会全体がひとつのしっかりした計画に応じてすべてのものの欲望に応じて工業生産をおこなうような共産主義社会のもとにおいては、この貧困この不幸(=貧困)をもたらす変動(=七年ごとにくりかえされる商業恐慌とを、絶滅する特質そのものにほかならない貧困と商業恐慌を絶滅する特質に変化・変質する)ということ。こうして、つぎのことがきわめてあきらかに証明される

 という虚言・虚構・妄言はあまりにもひどく、全く根拠薄弱であり、論理となっていない。

 前段落で、() 大工業の発展は、商業恐慌(=経済不況)を生み、「プロレタリアを貧困に陥れるだけでなく、多数のブルジョワを破滅させる」と述べておきながら、一転して、() 大工業によって「すべての生活必需品が、ひじょうにおおく生産されるので、それによって社会の構成員は、その諸能力と素質のすべてを完全に自由に発達させ、発動することができるようになる」とまったく転倒した言説を展開する。

 つまり()では大工業による「害悪」を述べ、()では()とまったく背反・矛盾する大工業の「利益」を述べている。この時点で、正常な思考の持ち主であれば、論理矛盾を見抜き「階級闘争」による「革命的社会転覆」の必要性に疑問符が付くのであるが、マルクス/エンゲルスは何知らぬ顔で次のように言説を展開する。

 「そこで、今日の社会であらゆる貧困と商業恐慌をうみだしている、大工業のまさにこの特質が、別のひとつの社会組織(=社会全体がひとつのしっかりした計画に応じてすべてのものの欲望に応じて工業生産をおこなうような共産主義社会のもとにおいては、この貧困この不幸(=貧困)をもたらす変動(=七年ごとにくりかえされる商業恐慌とを、絶滅する特質そのものにほかならない貧困と商業恐慌を絶滅する特質に変化・変質する)

 つまり、「共産主義社会では、自由主義(資本主義)社会の特質である、()の「利益的特質」は存続したまま、()の「害悪的特質」を絶滅することができる」などと決定的な「虚構の社会」を創り出すのである。

 そしてその論拠とは、社会全体で立案した一つの計画に応じて」、「すべてのものの欲望に応じて」工業生産を行うということ「のみだけ」である。

 このような言説は、バーク保守主義者に言わせれば、精神欠陥的な妄想・妄言さらに幻覚の類の空想・幻想である。論理になっていない。「共産主義=科学的社会主義」とはよく言ったものである。これほどの「非科学」など聞いたことがない。まさに「絵に描いた餅」である。

 次に、第十四問について、虚言・虚構・妄言の類を指摘しておく。

 「工業およびすべての生産部門一般の経営を個別的な、たがいに競争している、諸個人の手からとりあげて、そのかわりに、これらすべての生産部門を、社会全体によって、すなわち、共同の計算で、共同の計画にしたがって、社会のすべての構成員の参加のもとに、経営される」は、「私的所有の禁止」と「計画経済」のことを述べている。

 が、加えて、共産主義思想の最も重要な命題が二つ隠されており、

 第一は、「(自由)競争は害悪である=平等主義の信仰」という命題であり、

 第二は「共同」という命題である。

 ○第一の「(自由)競争は害悪である=平等主義の信仰」という命題が現代日本に引き起こしている社会問題の実例。

 日教組の赤い教師が、「子供の競争を嫌悪する」のは、この共産主義の「第一の命題」に忠実に従っているからである。

 ・全国学力テスト実施と試験結果の公表の反対(=競争の廃止)

 ・運動会での競争による順位付けの反対/徒競走で手を繋いでみんなでゴール(=競争の廃止・平等化)

 ・内申書(通知表)の点数付けの嫌悪/内申書オール3点(過去にあった事実)(平等化)

 ・受験競争(戦争)反対(⇒ゆとり教育:三木内閣の永井道雄・文部大臣〈朝日新聞社出身の共産主義者〉の下での197612月の教育課程審議会の答申⇒19967月第十五期中央教育審議会の第一次答申「ゆとり教育」⇒19976月第二次答申「個性尊重」⇒1998622日教育課程審議会「教育内容の三割減」(全共闘系のマルキストである、赤い文部官僚寺脇研の暗躍)

 ・詰め込み教育反対(=国民の愚民化政策⇒共産主義に洗脳し易くする効果)

 ・少人数学級への固執(=30人学級制度の固執に本当に意味があるのか。私の学生の頃は1クラス40人以上いたが、1クラス1名の教師(先生)が各々の生徒に充分に接していたし、生徒の学力も現在の生徒よりはるかに高かった。「少人数学級」とは、大人数学級では、個々の生徒の差異が目立ちすぎるので、それを隠したい〈=平等化〉のと、教員数を増やしたい〈=自己の職務の軽減〉のが真の目的であり、あくまで教師のためであって生徒のためでない。)

 ・習熟度別授業(競争の嫌悪、平等主義)

 ○第二の「共同」という命題が現代日本に引き起こしている社会問題は深刻である。

 問題の発端は、「男女共同参画社会基本法」=「日本の共産革命推進法」である。(村山富市 社会主義政権の産物

 『この、日本の“上からの共産革命法”である「男女共同参画」の始まりは、村山内閣の成立の一週間前の1994年6月24日の男女共同参画審議会の設置と、それに続く712日の「男女共同参画推進本部」の設置によってである(閣議決定)。

 この男女共同参画審議会は、メンバーの過半が共産党系の活動家と全共闘系の活動家であり、マルクス・レーニン主義者が2/3以上を占めていた

 そして、19967月にこの審議会は「男女共同参画ビジョン」を答申し、日本の革命運動は全速前進となった。そしてこの「ビジョン」に基づき、「推進本部」は199612月に、「2000年プラン」を決定したのである。・・・男女共同参画基本法とは、徹底した全体主義の、中央命令型の法律である。“地方自治”を全面的に無視し否定する法律である。

 例えば、第四条で日本の伝統と慣習の全面破壊を定めたその延長線上に、第十四条で、地方に対してこの国の定める「男女共同参画社会基本計画」に従って、日本の伝統と慣習を破壊せよと定めている』(中川八洋 筑波大学名誉教授 著『国民の憲法改正 祖先の叡智・日本の魂』、ビジネス社、2004年、241243頁)

 この「男女共同参画社会基本法」=「日本の共産革命推進法」によって、「家族解体(=家庭崩壊)」「地域社会共同での子育て」「ジェンダー・フリー教育」「学校での過激な性教育(性器・性交教育)」など様々な害悪が社会に巻き散らされている。

 これらの個々の問題についての詳細は、別の機会に、項目毎にブログに掲載することし、ここでは説明を割愛する。

 次に、第十四問の「すべての生産用具の共同利用とすべての生産物の共同の合意による分配あるいはいわゆる財産共同体があらわれる」についても、机上の空論であり、現実の歴史においてソ連共産党は「すべての生産用具の共同利用とすべての生産物の共同の合意による分配」に失敗し、数百万人以上の国民を凶悪な餓死刑に追い込んだ

 そして最後に「しかし、私的所有の廃止は、産業の発展から必然的に出てくる全社会秩序の改造の、もっともみじかく、もっとも特徴的な、要約であり、したがって、共産主義者によって、主要な要求として強調される」と述べているとおり、「全社会秩序の改造のための共産主義者の主要命題が「私的所有の廃止」であることを強調している。ただし、「産業の発展から必然的に出てくる」は虚偽・虚構であるのは言うまでもない。


次回、保守主義の哲学シリーズ‐‐‐「エドマンド・バーク保守主義」VS『共産党宣言・共産主義の諸原理』(その7)へつづく。


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