保守主義の父――エドマンド・バークの保守主義(7)

Ⅴ-2.進歩主義とマルクス・レーニン主義──「宗教・神話主義」

 ②最悪の「進歩」の宗教──社会主義教(マルクス・レーニン主義)

 「進歩の宗教」(進歩教)のなかで最悪かつ猛毒なドグマをもつのは、社会主義であり、そのなかでもマルクス・レーニン主義という共産主義思想である。マルクス・レーニン主義ルソー/ロベスピエール主義の土壌に誕生し成長したものであるが、後になって加味された、いくつかの肥料によってさらに強度の毒性を持つに至った。この肥料とは、「進歩」の教理(ドグマ)のことであり、「進歩」の狂信のことである。

 マルクス・レーニン主義は「社会の進歩」とそれによる「人間の進歩」の信仰を絶対とする宗教であって、この教理からの逸脱は万に一つも認めない。しかも、マルクス・レーニン主義は、人間と社会それぞれについての「進歩」の関係も明確に定める。

 『共産主義と哲学』(1975年)において、フェードセーエフは言う、「共産主義社会の進歩は、個人の全面的発達なしには考えられず、個人は社会の進歩なしに開花しえない」

 人間の進歩については「創造的人格」という言葉で表わされるような指標において測られており、また社会は経済的な産業生産力でもってその進歩の度合いを測定している。

 「社会主義の偉大な進歩的役割は、・・・・個々人としてのすべての人々・・・・を、創造的人格に転化させる」 「社会進歩の主たる基準をなすのは、生産諸力の発展である。歴史上のそれぞれの時代にとって進歩的とされるものは、生産諸力の発展にもっと好都合な社会構成体(=共産主義社会)である そして、社会の進歩が先か、人間の進歩が先か、の「鶏と卵」問題については、前者だと簡単に割り切っている。

 「社会主義こそが科学=技術の進歩という条件のもとで、そしてこの進歩の助けをかりて、・・・・人格の発達(=進歩)にとってこのうえもない好条件を保障することができる

 マルクス・レーニン主義に限らず、マルクス主義者や社会主義者はすべて、人間が進歩するとの絶対的な信仰の前提に立っている。だから、社会主義者とは皆、現在から見ればマンガ的水準の夢想にすぎない「人間の進歩」信仰を持っていた。ダニエル・ベルはこれを次のように描いている。

 ダニエル・ベル曰く、社会主義は一つの限りなき夢であった。フーリエは、社会主義のもとでは、人々の身長は少なくとも十フィート(約三メートル)の高さになる、と約束した。教訓主義の化身であるカール・カウツキーは次のように宣言した。社会主義社会の一般市民は超人になるだろう、と。情熱に燃えるアントニオ・ラブリオラは彼のイタリアの随従者に、彼らの社会主義教育を受けた子弟たちはそれぞれガリレオジョルダノ・ブルーノ(イタリアの哲学者で宇宙が無限であることを主張しやコペルニクスの地動説を擁護した)のような人物になるだろう、と語った。そして、おおげさに大言壮語するトロッキーは社会主義の千年王国を、<人間が測り知れぬほどますます強力・賢明・自由になり、その身体は測り知れぬほどで、よりもっと調和がとれて釣り合い、その動作は一層律動的になり、その声は一層音楽的になり、そしてその姿態は劇的な活動力でみなぎるようになるであろう>状態として叙述した」

 このトロッキーの部分はさらに、「人間の平均タイプがアリストテレス、ゲーテ、マルクスの水準にまで高まる」と説くのである。

 このような「人間の進歩」に対する、留保無しの夢想や妄想、これが社会主義思想の原点である。そして、改造された社会あるいは革命された社会こそが、この「人間の進歩」の温床だと考える。つまるところ、社会主義者とはすべて、迷信を狂信するユートピアンである。とすれば、社会主義を、エンゲルスのように、サン=シモンらの「ユートピア社会主義」とマルクス/エンゲルスらの「科学的社会主義」に二分類することはできない(『空想より科学へ―社会主義の発展』)。社会主義とはすべて、ユートピア思想にすぎないものであって、現実には成立しないから万が一にもそれは「科学的」たりえない。宗教や狂信は、「科学」ではない。マルクス・レーニン主義の社会主義の要素の一つとなった「進歩教」の中核的な教祖たちの系譜は、前述したが、マルクス/エンゲルスまでを図示すると次のようにまとめられる。

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 「人間の進歩」を哲学的に思惟したのはコンドルセであり、この意味で、チュルゴーの影響にあるが後代への伝染力の強さにおいて、コンドルセこそは「進歩教」の教祖の一人であるし、その開祖とも言える。

 コンドルセの直系でありコントの師に当たるサン=シモンもまた、天才たちを指導者にして人類のために働かせれば人類の知識が増大し人類が無限にかつ飛躍的に進歩すると夢に見る。その発想はニュートン崇拝から生じており、「ニュートン教」というべきものであった。サン=シモンにとってニュートンの水準にある天才たちを「神」とする宗教国家をつくること、それが究極目標(理想)であった。サン=シモンは人類を三階級に差別し、進歩の信奉者を第一階級としたのであった。社会主義とは本質的に宗教上の狂信であり、社会主義社会とはこの狂信から生じた妄想上の社会システムにすぎない。

 JS・ミルもまた、このサン=シモンやコントと同様に、歴史の発展が人間の智力や意志で左右できるとの迷信を信仰していた。そのため、ミルが「英国の社会主義の父」となり、集権的管理による社会に改造することが進歩だとするあの堅い信念の核となったのである。

 ●「進歩教」の教祖・コンドルセ――人間は完成する?

 チュルゴーは、ソルボンヌ大学で、人間の進歩について講演している。このチュルゴーを下敷きにして、デカルト主義に立脚しつつ、ライプニッツに従い、フランス革命の激動の渦中にあって、「時代の子」たるコンドルセは人間の進歩を論じていく。『人間精神進歩史』(1794年、正式題名『人間精神の進歩に関する歴史的展望の素描』)である。

 コンドルセは言う、人間精神の進歩・・・・は個体(=個々の人間)における能力の発達(=幼時から大人への発達のこと)のうちに観察せられたものと同じ普遍的法則に従っている。何となればこの進歩は、相結合して社会を構成している大部分の人々のうちに同時に考察される能力の発達の結果であるからである」

 「自然は人間能力の完成に対して何らの限界を示さなかったこと、人間の完成は真に無限であること、この完成への進歩は、これを停止しようとすべての権力とは爾来全く関係なしに自然がわれわれを生んだ地球が存在する限りは限界を有せざること

 コンドルセのこの進歩の信仰が、人間は人間完成へと無限に進歩するとして、このための跳躍的な発展段階(「突然変異」)としてフランス革命を正当化したのは当然であろう。人間の進歩の障害物としての王制と教会(宗教)が消滅した状態となれば、人間の頭脳・知力(「理性」)だけで構築された新しい人類の社会が出現し、このとき人間が完成するとコンドルセは夢想していたのである。このコンドルセの夢想はまた人間の寿命すら「(不死とならなくても)絶えず無限の長さに接近していく」という妄想レベルの「進歩」信仰でもあった。

 現実の政治に対する進歩主義(進歩教)の害毒の一つは、このような人間の完成可能性の信仰であり、とりわけ、社会が技術的あるいは経済的に進歩すれば、必然的に人間は道徳(精神)的にも進歩するとの神話にある。人間は不完全であり続けるが故に、常にどの時代においても完全(理想)を目標として努力するという美徳が存在しうるのである。また、人間は生まれたままでは道徳的にあまりに未熟であるが故に道徳的に自己鍛錬すると人間的価値が輝いていくのである。儒教とは、この現実を踏まえて、人格の陶冶は各個人の意識と努力しかなく教育がその補助をなすと正しく理解する。神なき近代以降に当たって、各個人の人間として道徳的向上の方策は儒教的なものしかないようである。

 この人間の完成可能性を信仰した哲学者としては、生物進化論のウォレススペンサー、ドイツ社会主義者のデューリングらがこのグループに入る。

 人間が進化や社会の進歩によって完成へと進歩するという明らかに狂信にすぎない妄想が十八世紀後半から十九世紀全体を通じて約一世紀半も流行したことは、暴力革命を正当化し全体主義体制へと人類を導いただけではない。個々の人間が自己鍛錬によってしか向上することのできない道徳的練磨を無用なことだと短絡的に否定して、人間の道徳的退行に拍車をかけることになった。「人間の進歩」の信仰や迷信こそが「人間の退歩」の触媒となりそれを加速することになったのである。

 現代の日本人もそのような「迷信」に確実にとりつかれている。おそらく戦後の復興と高度経済成長が「人間の進歩」のイデオロギーと結びついて、社会が科学的、経済的に成長すれば、自動的に人間も進歩すると思い込んでいる。だから、日本の義務教育では「道徳教育(徳育)」を全く行わない。逆に、「人権教育」ばかりを盛んに行い、「(憲法第二十四条第二項)・・・個人の尊厳と両性の本質的平等・・・」とか「(憲法第十三条)すべて国民は、個人として尊重される」とか「自己決定の主張」とか、ばかり教えている。

 日本は、「人権教育」を放棄して「道徳教育」に切り替えるべき時が既に来ている。「道徳教育」とは、「国民の義務」を教えることであるから、それにより、必然的に他人の権利を侵害することは「悪徳である」と学ぶから、「人権教育」よりもはるかに人権(国民の権利)は擁護される社会となる。「道徳教育」の必要性は、今日の日本の社会の凶悪犯罪の数々を見れば自明であろう。

 さて、「人権教育」と上記の憲法第十三条と第二十四条についてだが、まず、第一に「個人として存在する」というだけで、なぜ「尊厳がある」とか「尊重される」のか?

 普通に冷静に考えれば、あり得ないのではないか?もちろん自由社会として、個人の生命や財産権などを尊重するのは当然の前提である。

 要は、ある個人が人間として、あるいはその人間性において「尊厳」とか「尊重」され得るのかを論じているのである。

 つまり、ある日本国民Aが単に“個人として存在しているだけ”で他の国民はその国民Aに人間としての「尊厳」を感じるだろうか?その人間を「尊重せよ」と言われても、国民Aの何を(どこを)「尊重」するのか?

 もうお分かりであろうが、国民Aが一生懸命に自己練磨して、他の人間から見ても、レベルの高い美徳や品格を持ち得る時はじめて、その人間に「尊厳」が感じられるのである。

 同様に、国民Aが自己研鑚してレベルの高い教養や知識や技術を身につけた時、はじめてその人間が「尊重」されるのである。

 社会の進歩と人間の進歩を短絡的に連動させるから、人間は自己練磨なし、自己研鑚なしの「個人の尊厳」や「個人の尊重」などがあるかのように錯覚するのである。

 この意味でも日本国憲法の第二十四条と第十三条がいかに「進歩主義」のドグマに汚染されているかわかるであろう。

 第二に、「自己決定」については、先にJ.Sミルの自由論で述べたとおり、道徳義務の伴わない自由は「虚偽の自由」であり、その「虚偽の自由」から発する「自己決定」は、女子中・高生の援助交際の例を取りあげても分かるとおり、誤った「自己決定」としかなり得ない。つまり、「道徳教育なし」の「自己決定のすすめ」とは現在の文武科学省の学校教育政策の腐敗を意味している。

 第三に、憲法第二十四条第二項の「両性の本質的平等」について言えば、論外の条項である。生物学的に言っても、男性と女性が本質的に平等であるはずがなかろう。「両性が本質的に不平等」であるは「全世界の常識」である。

 両性の「社会的・制度的」な不平等はあり得るが、これとて、日本国の歴史・伝統・文化において形成され、世襲されてきた(過去の祖先は受容してきた)遺産であり、不平等にしてきた理由があるものも多いはずである。

 だから、「社会的・制度的な両性の不平等を包括的にすべて“悪”と断じて糾弾し、その伝統や制度を破壊しなければならない」と思考するのは進歩主義のイデオロギーに基づく人間の傲慢ではないか。

 「明らかに道理が立たない不平等については緩和/是正していこう」、それでよいのではないか。

 人間が進歩しないことは、「不毛にして不必要な戦争」である第一次/第二次世界大戦が勃発したり、暗黒の共産ロシアをつくったり、などの数々の二十世紀の愚行が証明した。それ以上にわれわれの社会の卑近な現実もまた、「人間の進歩」を幻想だと断じてくれている。例えば、犯罪者(窃盗、横領、詐欺、恐喝、傷害、殺人、・・・・)は、人口比にして減っている傾向はない。人口の一定数は、立件されたか否かは別として、犯罪者であり、それが人口の数パーセントを占める。これが一切改善される兆候すらないとすれば、「人間の進歩」「人間の完成」は幻想というより妄言に近い。

 ●進歩史観――終末思想と救世主思想

 ブルクハルト曰く、歴史哲学は一つの半人半馬(ケンタウルス)で、形容矛盾を犯すものと言える。なぜなら歴史とはすべての並列を許すことで、それは非哲学であり、哲学は序列をつけることで、それは非歴史だからである

 ブルクハルトが『世界史的諸考察』の冒頭で述べるヘーゲル批判である。ヘーゲルの歴史哲学はフランス革命において「理性」が神化されたように世界史が理性の摂理で支配され進行するとの「歴史」を宗教的に神化して信仰することであったが、ブルクハルトは現在の基盤をなす過去を忘れずに、「歴史を人生の教師とする」ための歴史的知識(智恵)習得の努力を本筋として、歴史を始源もない終末もない、むろん進歩もない連続性に帰着せしめた。そして連続性とは伝統の継承にあるとした。

 一方の、ヘーゲルの歴史哲学の「歴史」とは、バーク等の保守主義の“歴史”の尊重とは似ているが、全く別の異質なものである。ヘーゲルの「歴史」は、フランス革命の「自由」「平等」「共和国」などが「理性」の神々とみなされたように、民族の歴史に神的意志(=「進歩的意志」=「立法者の意志」)を見るのである。われわれの一般通念上の“歴史”ではない。

 ポパーも次のように、ヘーゲル歴史哲学への激越な批判でブルクハルトと共通する。

 ポパー曰く、「歴史哲学は歴史でもないし、歴史信仰を奉じることは、歴史理解の現れでもないし歴史感覚の現れでもない」 そしてヘーゲルの「理性が世界を支配する」「世界史においてもまた一切は理性的に行われてきた」「世界史は世界精神の理性的で、必然的な行程であった」というヘーゲル歴史哲学を非難すべく、ポパーは「歴史主義」という概念を導入した。

 ヘーゲルのごとく絶対的な世界精神の原理をもって歴史を体系的に説明できるとするとするのがいかに不可能なことかは、何もブルクハルトならずとも理解できる。「世界精神」なるものは存在しないし、われわれ人間にはそのように歴史の合理性を把握できるほどの知力も与えられていない。

 どうやら、ヘーゲルはキリスト教の摂理を「理性」に、神の意志を「世界精神」に置き直しているだけであって、だとすれば、歴史哲学でなく歴史神学であり、「神の国」を此岸において実現させねばならない世俗的神託である。あるいは歴史の行方が予測されるとするのであれば、生物進化論的な宿命論の先取りともいえよう。そしてそれがドイツ民族の民族至上主義へと、転換されていく。未開的で“野蛮な力”の支配の論理のみが、すべての行動を神格化している。ヒトラーがヘーゲルの系譜にあることはすでに明らかだろう。

 ヘーゲルは言う、「世界精神の理念のさき(=未来)の必然的契機が自然的原理として帰属している民族には、この契機を、世界精神の発展してゆく自己意識の前進のなかで完全に実現する任務がゆだねられている。この民族は世界史のなかで、この時代にとって支配的民族である」

 このヘーゲルの「神託」は、神の恩寵をうけて、選ばれたドイツ民族の未来への予言でもある。ベルジャーエフも次のように述べている。

 ベルジャーエフ曰く、「歴史哲学の予言者的性格は世俗的な形態をとりうる。そのことは十九世紀に起こった。カントは言う、哲学は(キリスト教神学と)同様にその千年王国説をもちうると。千年王国すなわちメシア理念への信仰は、見かけ上はキリスト教と断絶した十九世紀の全歴史哲学のいちじるしい特色をなしている。この歴史哲学においては、その予言的要素は、聖アウグスティヌスやボシュエの宗教的歴史哲学よりもさらにきわだったものですらある。このことは、ヘーゲルマルクスサン=シモンオーギュスト・コントにあてはまる」

 ヘーゲルの後継者であるマルクスとエンゲルスによって書かれた『共産党宣言』とは、歴史哲学のこの預言者的性格の、まさしくその予言の書のなかの抜きんでたものであった。プロレタリア階級の勝利とそのプロレタリア単独支配の「神託」の叫びは、ヒステリー症的に囁き続ける魔性の力をもつものであった。 「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。・・・・プロレタリア階級はさまざまな発展段階を経過する。・・・・発展の進行につれて、階級差別が消滅し(=ブルジョア階級が敗北し)・・・・プロレタリア階級が・・・・革命によって支配階級となる

 「人類が住んでいる惑星(=地球)の状態が、乗り越えられない障害とでもならない限り、人類は絶えず進歩する文明を築き得る

 「人間の精神は、科学や技術の発達において、最も優秀な知性の持ち主(=天才)をも超越する所定のコースをたどる

 などと熱狂的な進歩教徒のコントは、前記のヘーゲルと「双子の兄弟」かと思われるほど人類の歴史の発展法則、すなわち将来の歴史発展を予測可能とする哲学者でもある。後年のマルクスが、この「双子の兄弟」ヘーゲルとコントの両名から、強い影響を受けたことその方が重要である。(サン=シモンと)コントを読めばJS・ミルのように誰でも社会主義者になり(ルソーと)ヘーゲルを読めば誰でも全体主義者になる。同様にコントとヘーゲルを読めば誰でも「マルクス」になる。

 コントは、人間発展の全体つまり、社会進歩が哲学的な大法則に従っているとし、しかもそれが、(ニュートン力学のような)真の科学的原理の理論であると考えた。そして、この大法則とは、原始的な神学的段階過渡的な形而上学的段階究極的な実証的段階という三段階だとした。この法則を真理だと妄想するコントの根底には、「人類発展全体の必然的支配原理として真っ先に出てくるのは知性の発展である」「人類進化全体が行われたのは、常に知性の必然的指導のもとにおいてであった」と、人間の知力を神とまでみなす人間の知力への狂信があるのは明らかであろう。

 また、先述の社会進歩の大法則に従っての「知的体系の全分野にわたって、人間精神を究極的にますます実証的哲学だけの方向に引っ張っていき」、究極的な学問分野は「実証的哲学」に収斂するのだから、この「実証的哲学」が「全世界にわたって、最も広大な政治組織の堅固な基礎となるべき真の知的共同体を永続的で幅の広い土台の上に自然発生的に樹立できる」、とコントは考えた。つまり「知的共同体」が誕生してそれが新しい政治社会を建設するとコントは信仰したのである。コントのこの「実証的哲学」が「マルクス・レーニン主義」になったのである。コント⇒マルクス⇒レーニン)は直線的につながっている。進歩のルールが科学であって実証的な自然法則とみなすコントとは、ヘーゲルとともに、マルクスの「父」の一人であり、レーニンの「祖父」の一人であった。

 「進歩の宗教」はマルクスやレーニンに見られるごとく個々の人間にいささかの関心もないが、それもまたヘーゲルとともに、「人間の社会的進化が主として死(=世代交代)を基礎としている」とのコントの実証哲学の系譜にあるからである。世代交代を一定のスピードで行わずして社会進化はなく、進歩の方向の維持もできない、とのコントの思想とは、進歩そのものが、人類全体の進歩が、あるいは社会の進歩が、絶対的な価値であるとするのだから、そこには各個人への人間的配慮はなく個々人はこの価値実現の単なる手段に堕されている。マルクス・レーニン主義個々の人間の生命について一顧だにしない、大量殺戮をためらわないその非人間性は、実はコントの実証哲学を相続してそれを究極に追求したからでもあった。

 ●「進歩」の宗教と人間供犠(テロル)

 マルクス主義に代表される「進歩の宗教」が、ソ連/共産中国/北朝鮮/ポル・ポト(共産カンボジア)などでおびただしい殺戮を実行したが(総計で約二億人の殺害それは「進歩の宗教」の教理に忠実に従った残虐性のためであって、ベルジャーエフが「進歩の宗教は死の宗教」と名付けたとおりになった。

 人間の諸課題が世界歴史の未来において完全に解決して現世に「神の国」を創造しうるとの理論はまた、完全に幸福な社会の出現というこの終極の目標に対して、それに至るまでの歴史的経過とこの経過に生きている、進歩に不適合な人間(以下、「人間」と表現する)すべてを供犠すべき手段とみなす。進歩の信仰においては過去と現在の「人間」はこの進歩によって完全となる未来の人間に至るための「未進化の人間」でしかないのであるから、

 イ)  それは、文明のキリスト教徒でないという口実においてインカ帝国の人々を虐殺し尽くしたスペイン人ピサロと同じ論理において、真の人間として扱う必要のないものと非人格化される。

 ロ)  「進歩の宗教」の教理では、すべてを解決する至福をもたらす新しい完全な社会創造 とこの完全な未来の人間の誕生とは不可分な関係(社会が主体で人間が客体)にあって前者(社会)が後者(人間)より優先するのであるから、不完全な過去と現在の「人間」の存在そのものはこの新しい完全な社会の創造の(到来)の障害であると冷酷にみなす。「進歩した完全な社会」という「神の国」を待望する宗教的な熱情においてすべての障害は除かれるべきものだから、この過去と現在の「人間」についても例外たりえず、これらを抹殺することが「神の国」への道づくりにおいて正義となる。

 次のように言い直してもよいだろう。「人間の進歩」が宗教的に信仰されて、それが単に可能であるだけでなくさらには追及されるべき価値であると狂信されるとき、この人間が進歩して「完全な人間」に改造されることが絶対目標となる。そしてこの目標を達成する手段が新しい社会(社会主義社会、共産主義社会、ユートピア)の建設だとのもう一つの宗教的信仰と複合するとき、これらの狂信がそう信仰する人々(信徒)をして新しい国家づくり(社会主義革命など)運動へと駆り立てる。

 そして一旦この運動が始まると目標と手段とは入れ替わりこの新しい社会の建設(「新体制」の国家づくり)が絶対化(目標化されて、現存する「人間」は、そのための単なる手段とみなされて、モノとなり、非人格化される。これこそが、ヘーゲルマルクスデュルケーム(彼らは、自分は進歩に適合した人間だと独断している)らの狂った知性(ドグマ)であり、人類にとっての負の遺産であった。

 「人間の進歩」を信仰する思想は、現在の「人間」は不完全であるが故に“中古の機械”と同様であって消耗するまで使用して廃棄すればよいと考え、つまり現存する「人間」に対するいかなる犠牲も悲劇も同情されるべきでないと考える。これが、「人間の進歩」に潜む、「人間」に対する大量虐殺や奴隷化を実行する、冷酷で残虐な非人間性の教理である。だから、現在の「人間」は、未来の「完全な人間」に供されるべき単なる生贄となる。

 「進歩の宗教」が希求する未来は、再びベルジャーエフの言葉に従えば、「過去を喰いつくし、過去を殺害する未来」であり、「未来を神化した」宗教である。よって、その進歩とは、「永遠の生ではなく、復活でなく、永遠の死であり、未来による過去の破壊、後続の世代による先行の世代の永遠の抹殺」とならざるをえない。

 そもそもコンドルセ以降のマルクス・レーニン主義に至る進歩主義「進歩の宗教」の狂える謬説は三つの妄想に依拠している。

 イ)  歴史過程における人間の完全性への進歩という妄想が一つ。しかし現実には、未来のある世代の人類が過去のいかなる世代の人類よりもはるかに高度な人間になっていることはありえず、人間全体が完全性に進歩(進化)することもない。人類の進歩とは科学技術の技術知については、確かに進歩しているが人間の精神(倫理・道徳)は逆に退行しているのが現実ではないか。例えば、紀元前に発生した、キリスト教や仏教や儒教などの教える倫理・道徳を超越するそれを人間は生みだしたか。答えは否であり、逆にそれらは退行する一方である。

 ロ)  人間の幸福が進歩するという妄想がその二つ目。しかし、人間の幸福は個々の人間の内面的・精神の問題であって、進歩という次元のものではない。例えば経済的・物質的に豊かになっても、子供が重病を抱えて苦労したり、DVで苦しんだり、失恋等の人間関係で悩んだりする、このようなことは過去の人間も、現在の人間も、未来の人間も全く変化することのない(進歩することのない)永久普遍のものである。

 ハ)  善のみの完全な社会の創造というのが三つ目の妄想だが、善のみの社会への進歩とは悪の消失であるから、それはまた善もまた消失した(悪が全くなくなれば、善という概念も自動的に消失する)暗黒の社会への転落である。健全な人間の社会とは、悪の最小化をしつつ善の最大化を図るその努力をする社会のことである。悪のない、従って善もない社会を創ることは未来永劫できない。善のみの社会を創造できると妄想するのはそれ自体が自己矛盾であり=善のみの社会を創造しようと思考するとき、必ずその思考には善の観念と対峙する悪の観念が存在する。つまり人間の思考において悪の観念なしに善の観念のみを、思考することは決してできない。決して思考できないものを創造することなど決してできない。)努力や善を選択するときの緊張を嫌う怠惰性に通低した人間の怠慢以外の何物でもない。

 そしてまた、われわれの政治社会の現実においてわれわれの選択は善と悪のうちの善の選択ではなく、多くは二つの悪のうちひどくない悪を選ぶ余地しかないと理解すべきであろう。ジョージ・オーウェルはこの善のみが選択されるべきものとの考え方を「幼児期に属する信仰」と難じて退けるが、卓抜する見識である。

 しかしながら、進歩主義・未来主義のより深い根底的な瑕疵は、政治社会や人間の諸問題が歴史の進展(時間の経過の中)で解決できるとの宗教的な狂信にある。十八世紀におけるキリスト教神学の色褪せた没落が、その教理から解放されたはずのヨーロッパ世界の人々に世俗神学(代用宗教)を渇望せしめた(これが精神の支柱を失った人間の弱さ「不完全性」の本性である)。それが、十八世紀と十九世紀におけるユダヤ・キリスト教的な宗教にほかならぬ歴史哲学の誕生となりその隆盛の礎となった。マルクス・レーニン主義もまた、この歴史哲学の一つであった。

 歴史哲学とは、哲学という「非宗教」の衣装を着た、その実、最も宗教的な歴史神学であった。コンドルセコントヘーゲルマルクスも、みずからをメシア(救世主)あるいは預言者と自任しつつ神の御業を哲学的言葉(福音)で置換する宗教者そのものであって、今日の一般通念上の哲学者では決してない。哲学者の仮面をかぶった擬似宗教の教祖であった。

 最後に、進歩は“未知の発見”であるのに進歩主義は進歩が「既知の目標」への前進であるとしている、進歩主義のこの自己撞着を指摘するハイエクの批判を紹介する。

 ハイエク曰く、われわれが従わねばならない進化の必然的な法則を導出できると主張するならば、それは愚かなことである。人間の理性は、自らの未来を予測することも意図的に形づくることもできない。人間理性の前進はそれが誤っていたところをみいだす(過去・現在の人間理性の過ちを発見し、それを教訓として未来に活かす)ことにある

なお、「エドマンド・バーク保守主義」とバーク的観点からの「日本国憲法の問題点」および、いわゆる“東京裁判史観・自虐史観”とは異なる、バーク保守主義的観点からの「大東亜戦争観」を一気に知りたい人は、次の私のホームページへジャンプしてもらっても結構です。驚くような面白い話満載です。ぜひ一度ご来場ください。リンク先:エドマンド・バーク保守主義

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