保守主義の哲学シリーズ‐‐‐外国人(=非・国民)参政権付与問題の論点整理について


外国人(=非・国民)参政権附与」問題の論点整理

 と産経新聞社の「記事内容」について

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(年月日)2010.1.11 20:28 MSN産経ニュース


 

(発言/内容)➡憲法違反の疑い、キャスチングボートの懸念…問題山積の外国人参政権

 『政府・民主党が検討する永住外国人への地方参政権(選挙権)付与法案は国民主権に反し、国益や安全保障を損なう恐れがある。

 憲法15条第1項は参政権を「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とする。地方参政権付与は国民主権の根幹をなす15条違反の疑いが強い。

 付与推進の動きは、平成7年2月28日の最高裁判決の「傍論」が、立法措置があれば地方選挙権付与は違憲でないとしたことで拍車がかかったが、「傍論」に法的拘束力がないことに目をつむっている。

 地方政治は国政と不可分だ。警察や教育行政、自衛隊や米軍の行動にかかわる有事法制、周辺事態法でも自治体の関与、協力は欠かせない。重要な役割を担う首長や地方議員、政党が外国人、外国勢力の影響下に置かれ、国益や安全保障に反する政治傾向を示すことへの防止策の議論もない。

 「外国人はわずかだから影響力はない」(推進派の民主党参院議員)との意見は間違いだ。仮に1票でも外国人票がキャスチングボートを握ることはある。日本は住民票の異動も自由だ。基地問題にかかわる沖縄県名護市の市長選のようなケースで、外国人票が結果を左右してもいいのだろうか。(1/2ページ)

 特別永住外国人だけでなく、一般永住外国人まで対象を広げたことも大きな問題をはらむ。

 中長期的に見れば、人口構成は移民政策の展開次第で大きく変動する。民主党や自民党には労働力確保のための「1000万人移民」受け入れ論者がいる。日本経団連も移民受け入れを唱えている。日本が移民受け入れに転換すれば外国人の割合が急増したり、日本国民が少数派になる地域も出てくるだろう。

 相手国との相互主義も採らないため、一般永住外国人のうち、民主国家ではない中国の国民で日本の永住権を持つ人も付与されるが、これで対象者は膨れ上がる。

 在日本大韓民国民団の幹部は20年7月8日、民主党の会合で「(地方)被選挙権も必要だ。ステップ・バイ・ステップで」と述べた。地方選挙権実現後はさらに被選挙権-と、要求がエスカレートする可能性もある。』(榊原智)(2/2ページ)

2010.1.11 20:28 MSN産経ニュース


(私のコメント)産経新聞は、主要新聞社の中でも唯一「保守色の強い」新聞社であり、「正論」を述べることを「社の基本方針」としていると、私は信じたい。

 そうであるならば、産経新聞は、「赤い進歩色」の朝日新聞に主導権を握られることなく、もう少し理論的に重武装した正論」を書いてもらいたいものである。

 上記の「外国人参政権附与」問題の記事は、バーク保守主義者私からすれば、あまりにも内容不充分であり・理論武装が軽装に過ぎて中途半端である。

 これでは、国民へのアピール力に欠けるし、「正論」の「正」が実感できない。

 真正保守主義の根本原理の一つは、“法の支配”・“立憲主義による日本国民の生命/安全私有財産自由/道徳法の下(前)の平等」を擁護/保護する義務にある。

 とすれば、「外国人参政権附与問題主要な論点二つあり、

 第一論点は「“立憲主義の遵守の問題」であり、その理論を確実に保守してはじめて、第二論点の「国民の利益国益の問題安全保障問題を含む」の議論ができるのである。

 であるのに、この記事は、第一の論点に関する主張と理論武装が極めて不十分であるまま、第二の論点に記事の多くを割いている。

 本末転倒である。

 産経新聞記者および編集部もう少し、「保守主義とは何か、日本国(政府)とは何を保守すべきか」、また、それによって「国民何が保守(擁護/保護)されるのか」などを再認識する必要があるのではないか。

 つまり、「保守的な物事の見方と記事の書き方」を勉強しなおすべきではないか。

 以下に、上記記事を私が改稿した「見本」を示すので、参考にして欲しい。


確実な憲法違反立憲主義毀損する外国人参政権附与(←表題で主たる論点を明確にする。産経ニュースの「・・・の疑い」などは、自らの記事の理論に自身がないと言っているのと同じで、国民は記事が「正論」であるか確信が持てないではないか。)

 『政府・民主党が検討する永住外国人への地方参政権(選挙権)付与法案の問題は以下の二つである。

 第一に、この法案の立法は、確実な憲法違反であり日本国の立憲主義」と日本国の国体憲法・国柄)と国民性毀損する

 日本国憲法第三章の標題は「国民の権利および義務」とされており、第三章の第十条から第四十条までは、第十条で定める国籍法による日本国籍を得た日本国民の権利(=国民権)である。日本国籍を持たない、日本に住む単なる人間と言う意味の人間の権利(=人権)」ではない

 憲法第十五条第一項は参政権を「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と、参政権を憲法十条に基づく国民固有の権利と明確に規定している。地方参政権付与は、どのように解釈しても憲法第十五条に明確に違反する

 付与推進の動きの迷走は、平成7年2月28日の最高裁判決にあり、その判決「主文」は「憲法第九十三条第二項は日本国籍を有さない在日外国人には参政権は与えられないと解するべきである

(←産経新聞の記事は肝心のこの「主文」を書かず、「傍論のみを記述している。これでは国民には何の意味かさっぱり解らない。まさしく「暴論」である)

として、外国人への地方参政権附与は憲法違反であるとしているにもかかわらず、「立法措置があれば地方選挙権付与は違憲でない」と主文と極度に齟齬をきたした「傍論(=判例としての法的拘束性を有さない、盲腸意見)」を附したしたことにある。

 この最高裁判決の「傍論」の大問題は、それが法的拘束力を持たないとはいえ、立憲主義を定めた

 憲法第九十八条この憲法は、国の最高法規であって、その条規(=今回の場合は憲法第十条および第十五条に反する法律、命令、詔勅および・・・その効力を有しない

 を無視するという最高裁の良心の欠落にある。

 「傍論」には法的拘束性はないのであって、あくまで、法的拘束力は主文にあるこのような主文と極度に齟齬をきたす傍論を附すことが必要なのだろかろうか。(←私の意見だが、新聞社であれば、これくらいの問題提起はしてもらいたい)

 また、最高裁は、平成7年2月28日最高裁判決の主文憲法第九十三条第二項は日本国籍を有さない在日外国人には参政権は与えられないと解するべきである」(=違憲判決)と同一内容の法律が国会で立法され可決された時見て見ぬふりをして傍観するのだろうか。

 それとも憲法第八十一条「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則または処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終身裁判所である」の規定に基づいて、「違憲立法審査権」(=今回の場合は「違憲であることは最高裁が結審しているので、審査ではなく廃案にするためだけの形式上の発動になる)を発動して「憲法の番人としての良識を示すのであろうか。

 日本国民は最高裁の良心の有無に重大な関心を払う必要がある。(←ここまで議論を進めればそれを読んだ国民は必ず、産経新聞の「正論」記事に反応を示すし、以後の産経新聞の関連記事を読むはずである。なぜ、ここまで書けないのか?能力がないのか?)

 第二に、外国人に参政権を与えた場合の日本国民の利益つまり、国益に関する問題である。(←外国人に参政権を与えてしまった場合の問題はいくらでも噴出てくるので、以下の通りいくらでも書くのは良いが、あくまでも外国人参政権附与への反論の理論的根拠は上記の第一の問題方にある。)

 地方政治は国政と不可分だ。警察や教育行政、自衛隊や米軍の行動にかかわる有事法制、周辺事態法でも自治体の関与、協力は欠かせない。重要な役割を担う首長や地方議員、政党が外国人、外国勢力の影響下に置かれ、国益や安全保障に反する政治傾向を示すことへの防止策の議論もない。

 「外国人はわずかだから影響力はない」(推進派の民主党参院議員)などの意見は、“法の支配”・“立憲主義”法治主義の区別ができない「ド素人国会議員」の意見であり問題外であるが、仮に1票でも外国人票がキャスチングボートを握ることはある。日本は住民票の異動も自由だ。基地問題にかかわる沖縄県名護市の市長選のようなケースで、外国人票が結果を左右してもいいのだろうか。(1/2ページ)

 特別永住外国人だけでなく、一般永住外国人まで対象を広げたことも大きな問題をはらむ。

 中長期的に見れば、人口構成は移民政策の展開次第で大きく変動する。将来、日本国政府が移民受け入れに政策転換したりすれば、外国人の割合が急増し、日本国民が少数派になる地域も出てくる可能性がある。

 このような国益の観点からしても、「外国人参政権附与法案」を廃案にするだけではなく日本国政府は、「出生率低下による将来の亡国を防ぐためにも選択的夫婦別姓制度(=マルクス主義による上からの家族解体運動)」の導入方針や199412月末の文部・厚生・労働・建設の四省通達によるエンゼル・プラン(=マルクス主義による上からの家族解体・親子切断)」の政策内容を抜本的に見直すべきである。(←外国人参政権附与問題にからませて、このへんまで踏み込めたら、Bestなのだが・・・)

 相手国との相互主義も採らないため、一般永住外国人のうち、共産主義国家の中国の国民で日本の永住権を持つ人も付与されるが、これで対象者は膨れ上がる。

 在日本大韓民国民団の幹部は20年7月8日、民主党の会合で「(地方)被選挙権も必要だ。ステップ・バイ・ステップで」と述べた。地方選挙権実現後はさらに被選挙権-と、要求がエスカレートするのは必然である。』(バーク保守主義の記者)(2/2ページ)(2010.1.11 20:28 MSN産経ニュース

 と、このような感じになる。


(参考)「法治主義」と“法の支配”・“立憲主義”

 日本の憲法学界の特徴の一つは、戦前戦後を通して、“法の支配を理解できた憲法学者がほとんどいないことである。

 しかも知らないのであれば言及しなければ良いのに、ごく個人的な思い付きの解釈を持って、これが“法の支配”だ、とばかりの珍説奇論的な記述が憲法教科書にあふれている。 

 近代ドイツ産の「法治主義」「法治国家」をもって中世英国の(ブラクトン)/エドワード・コーク/ブラック・ストーン産の“法の支配と同一視する、信じ難いほどの誤解すら、ごく当たり前のように記述されている。

 “法の支配”とは古代ゲルマンからの法思想が、中世において英国で発展し憲法原理になったものである。

 米国憲法の起草者たる「建国の父」たちはブラック・ストーンの『英国法釈義』を座右の書として英国コモン・ローから憲法原理を発見し米国憲法に明文化し、制定した。この意味で米国憲法とは“準コモン・ロー”であり、米国は“立憲主義”国家である。

 一方、ローマ法を受容する中で、中世ゲルマンの法思想を一掃してしまった近代ドイツには、それに近似する思想すら消滅してまったく存在しない。

 「法治主義」と“法の支配”は似てもおらず、本質的に非なるものであり、根本から相違する。

 「法治主義」「法治国家」の「」は人間の意志制定された「法律」を指す。

 “法の支配”の“”とは人間の意志から超越した古来からの“神聖な真理”のことを意味する。つまり、“”は「つくり出す(制定する)」ものではなく、祖先から世襲(相続)した叡智の集積の中から“発見するもの”であったから、「つくり出す(制定する)」ものである「法律」は“法の支配”の“にはなり得ない

 つまり、“日本国憲法”=“日本国の国体”とは、本来、我々現世代の日本人が、過去二千年間の歴史を通じて祖先から世襲(相続)した叡智の集積(=日本国の“法”)の中から、“発見した”固有の原理/原則を明文化したものでなければならない

 だから、“the Constitution”は“憲法”とも“国体(国柄)”とも訳すのであり、他国の“憲法”や「国際条約」の条文をいくら寄せ集めても日本国の“憲法”とはなり得ない。なぜならそれは、日本国の“法”の中にある国体の明文化ではないからである

 この正統な“法”と“憲法”の概念の観点からすれば、明らかに、現在の「日本国憲法」より「明治憲法(大日本帝国憲法)」の方が真の“憲法”、真の“国体”と言わざるを得ない前者の「前文」後者の“上諭”の現代語訳を比較しただけで、どちらが“日本国の国体”として正統かは、中学生以上ならすぐわかる

 さらに“法の支配”や“憲法”は、国会の「立法」という立法権力の暴走を古来からの“法”で制限をかける、枠をはめるという重要な機能も持っている

 日本の憲法学者がいかに“法の支配を知らないか、その実態を示す一例をあげる。

 「本来の<法の支配>は、個人の尊厳を最高の価値と認め、法(法律?)も国家もそれに仕えるものとみなし、それにもとづいて、個人の基本的人権を憲法で保障し、・・・裁判所の権威によって、右の保障を確保しようとする」(清宮四郎『憲法Ⅰ』、有斐閣)。 

 「個人の尊厳」を最高の価値と認めるとか、「個人の基本的人権を憲法で保障する」とかいったことは、“法の支配”と全く別次元の出鱈目である

 東京大学法学部美濃部達吉門下で宮沢俊義とともに戦後の憲法学界をリードしたと言われる、清宮四郎の教科書でさえこのザマである。

 全く何も解っていないか、故意に歪曲しているかのどちらかだが、恐らく前者であろう。

 “法の支配”は全体主義を防止するが、「法治主義」は全体主義と結合する

 “法の支配”のある自由主義国家では「法治主義」は必ず正しく機能するが、

 “法の支配”なき「法治国家」は、時には“自由”を襲う、両刃の剣となる

 「法治主義」とは19世紀末の近代ドイツで完成されたもので、法律(=国会の制定法)が国家権力の行使を厳格に定めとくに行政と司法を法律に厳格に従って行わせることを言う(=いわゆる国会制定法である法律絶対主義と言ってよい)。

 ドイツにおけるこのような「法治主義」が「人定法主義(法実証主義)」と結合するとき、ヒトラー・ナチズムが誕生したのである。

 ユダヤ人を絶滅する反倫理/反道徳の極みである1935年の「人種法令」という法律を含め、独裁者のあらゆる命令が法律として施行されれば、この法律を忠実に執行せざるを得なかった「法治主義」行政こそが、反倫理/反道徳の国家をつくり得ることを証明したのではないか

 手続きがルールに合致してさえいれば、いかなる反倫理的/反道徳的な内容のものも法律として制定できるというのが「人定法主義(法実証主義)」である

 そして、手続き上、合法的に制定された法律に従がわざるを得ない行政は、ユダヤ人大量虐殺のように、その法律が法律である限り、いかに常識において非倫理/非道徳なものであっても、この“合法”であることにおいて、その執行に何ら非はないと考えるのが「法治国家」の思想である

 しかし、確固たる“法の支配”が存在していれば、無差別殺戮を意図した、明らかに“法”に反する法律は制定することはできない。

 また、仮に制定されても、裁判(司法)において争い、それを“無効”に至らしめることができる。

 法律が“法”の支配下にあってその制限を受けて却下されるからである。

 さらに“法の支配”がなければ、「悪法」に対して司法の救済を受けることもできない。

 なぜなら、「法治主義」の本質から考えれば、裁判所はその「悪法」に従うことが義務なのであって、この「悪法」を無効にすることなど決して行えないからである

 そもそも“法の支配”が存在すれば、「人定法主義(法実証主義)」という、手続きが合法であれば、自ら(=人間)の信念と意志に従って大量殺戮を「是」とする法律を制定してもよいなどとの、神をもおそれぬ“主義”は認められず存在し得ない。

 ケルゼンらの「人定法主義(法実証主義)」とは、“法の支配”を否定し一掃した悪魔の殺人イデオロギーである


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