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保守主義の哲学‐‐‐中学生レベルの作文内容しかない、鳩山由紀夫首相の「施政方針演説」(その1)


 鳩山由紀夫首相 「施政方針演説」のバーク保守主義(哲学)による徹底検証(その1)


 2010129日第174回国会の鳩山由紀夫首相施政方針演説は、最悪であった

 18世紀の英国下院議員であった「保守主義の父エドマンド・バークが行った、多くの議会演説と比べても、何と「低レベル」・「無味乾燥」・「ナンセンス」な施政方針演説であろうか、と私は感じた。

 これまで、私は、鳩山由紀夫内閣を痛烈に批判してきたので、これ以上、責め立てぬともいずれ総辞職に追い込まれるだろうと感じ、批判する気もなかったが、中学生の弁論大会並みの虚妄かつ幼稚な演説であったので、虚妄は正すべきがバーク保守主義者の道理と思い直し、この「施政方針演説」について嫌々ながら、“若干程度私なりの視点で、考察を加えたので興味ある方は読んで頂きたい。

 少々内容は重厚であるが、「このような物の見方・考え方もあるのか!」と読者の皆さんが茂木健一郎流の「アハ体験」をしてもらえれば幸いだと思っている。

 () 施政方針演説のキーワードいのちについて

 「いのちを、守りたい。いのちを守りたいと、願うのです。生まれくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい。」

 に始まり、むすびの

 「人のいのちを守る政治、この理念を実行に移すときです。子どもたちに幸福な社会を、未来にかけがえのない地球を引き継いでいかねばなりません」

 まで、「いのち」を連発する。

 鳩山由紀夫は「いのち)以下、生命せいめい)とする」の価値とは何か、本当に解っているのであろうか?

 いや、失礼だが、多くの日本国民が「生命」の価値について、どのような解釈をしているのであろうか?

 そこで、「施政方針演説」の中から、「生命」というキーワードについてエドマンドバーク保守主義哲学)の立場から、読者の皆さんと考えてみたいと思う。

 まず、『文部科学省の中学校学習指導要領解説 道徳編 平成207』では、「生命」について次のように述べている。

 「3章 第一節 道徳の内容 2内容構成の考え方」で、生徒の道徳性を次の四つの視点で捉えている。

 1 主として自分自身に関すること

 2 主として他の人とのかかわりに関すること

 3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること

 4 主として集団や社会とのかかわりに関すること

 そして、「3章 第二節 内容項目の指導の観点 3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」で「生命」について

 『(1生命の尊さを理解しかけがえのない自他の生命を尊重する。』

 としている。

 読者の皆さんは、上記の「生命の尊さについての命題3の(1」についてどう考えるであろうか。

 多くの読者の皆さんは、「それは当たり前のことだ、当然のことだ」と思って済ましてしまうかもしれない。

 しかし、ここで重要なことは、「自他の生命を尊重する」とは元来、次の二つに分解して考えるべきもので、一括できないし絶対にしてはならない

 ① 他人の生命を尊重すること。

 ② 自ら(自己)の生命を尊重すること。

 実はこれら①、②を同時に認めようとすれば、“道徳は論理的に崩壊してしまうのである

 以下に簡単な例題を示す。

例-1

 台風の暴風雨の中、ある子供Aが河の濁流に流され溺れているのを偶然見つけた、通りがかりの青年Bが脇目も振らずに、その河に飛び込んだとする。

 この時、結果としては、子供Aの生か死、青年Bの生か死によって4パターンが考えられるが、その結果如何によらずその光景を見た者(第三者)は皆青年Bの「勇気」、その「自己犠牲の精神に感動する

 すなわち、青年Bの「自らの生命を顧みない勇気」・「運悪ければ、自らの生命を失う覚悟」つまり、(無意識的であれ、意識的であれ)自らの生命を尊重せず(=顧みず)、逆に「自らの生命を軽んじても他者の生命を重んじた」が故に、一般の人々が皆、この青年Bに対して、美しき徳性の(=道徳・美徳の)人格を見るのである。この青年Bの精神を道徳・美徳というのである

例-2

 1997年のジェームズ・キャメロン監督の映画「タイタニック」には、読者の皆さんの中にも、鑑賞していて自然と涙がこみ上げてくる場面が、たくさんあったのではないか。

 あくまでも、私の場合であるが、例えば、以下のシーンで思わず涙が零れた。

 () 青年ジャック(=レオナルド・ディカプリオ)と成金の悪人ホックリー(=ビリー・ゼイン)が数時間で沈没するとわかっているタイタニック号に残り、この二人の男性が見下ろす中、ジャックの恋人であり、ホックリーの婚約者でもある、ローズ(=ケイト・ウィンスレット)が乗った救命ボートがロープで海上へ下ろされていく。その時、ローズは突然、救命ボートからタイタニック号へ飛び移り、ジャックのもとへ駆けつけるシーン。(➡愛するジャックをタイタニック号に残して自分だけ助かることなどできないという、ローズの自らの生命を顧みない恋人ジャックへの愛情からの無意識の行動に感動するのである)

 ()  今まさに、沈みゆくタイタニック号の船上で、最後まで演奏を続けたバンドメンバーたち。タイタニック号には8人のバンドメンバーが雇われていた。航海の間、彼らは、様々な地方のラグタイムやポピュラー・ソングで乗客達を楽しませた。

  沈みゆくタイタニック号の船上でバンドが演奏を続けた事は事実であり、今や伝説になっている。

 映画では、彼らは沈みゆくタイタニック号の甲板で演奏し続けていたが、一旦解散する。しかし、一人また一人と、もとの演奏場所に戻ってきてバンド演奏を再開する。(➡自分の死を覚悟し音楽仲間と自らの生命の最期を共にしたいという強い友情・絆と、混乱する乗客(=他者)及び自分たち自身の心を少しでも、落ち着かせようとする義務感・使命感に感動と尊敬の念を感じるのである

 () 遂にタイタニック号が沈没し、極寒の大海原へ投げ出されたジャックローズ。(➡ジャックは自らの生命を犠牲にしても何とかローズの命だけは助けたいと、海に浮いたタイタニック号の残骸の一部である木板の上にローズを載せ、寒さと恐怖に負けないように、ローズを励まし続けるが遂に自らが先に息絶えて凍りつき海中へと沈んでゆくローズ自分の生命を守るため海へ沈んだジャックとの約束(=必ず自分は生き抜くという約束ジャックの自己犠牲の精神を無駄にしないこと)を守るため、最後の力を振り絞って、生存の合図である笛を吹き鳴らして救命されるのである。

 このように、()から()すべてに共通するのは、「自己の生命を軽んじてもつまり犠牲にしても、「他者の生命を尊重する人間の究極の勇気ある行動自己犠牲の精神」に対して、すべての人が感動し、その人間を「美しき徳性(=道徳・美徳)ある人間である」とみなすのである。

 その結果が両者生存できれば、皆が拍手喝采するが、不遇の結果に終われば、皆が慟哭するのである。

 つまり徳性(=道徳・美徳ある人間とは、「①他人の生命を尊重し、そのためには、②自己の生命を犠牲にする覚悟の精神(=自己犠牲の精神⇒ただし、必ずしも結果が自己の生命の犠牲を伴うとは限らないを持っておりいざという時に即行動できる人間」のことである。

 ○ 道徳とは、「自らの生命の尊重よりも尊重すべき高い価値ある行為が存在すると自ら弁える精神のことである

 ○ 道徳とは自らが自己に課す義務のことであり自己犠牲の精神(⇒結果が、必ずしも自己の死というわけではないが、死の覚悟をもつ精神)のことであるが自らの生命を他者のために棄てる行為も当然含まれる。これは、古今東西の全人類に不易の道徳原理である。

 美徳virtue」の語源は、紀元前100年頃から紀元0年頃の共和制ローマの哲学者キケロがギリシャ語からつくった、戦争などで、自分の生命を棄てる“男らしい勇気”などの意味を含む「卓越した徳性」を意味するラテン語「virtus」であると言う。

 また、東洋にも次のような故事がある。

 「義を見てせざるは勇なきなり」(『論語』)

 勇気とは、自己の生命や自己の利害の犠牲を前提とする。この徳目「勇気」は、刑事がピストルを持つ凶悪犯を捕まえる時や、消防士やレスキュー隊が火事の現場で、炎に包まれた建物に残された、幼い子供兄弟を救出するために、建物に飛びこんでゆく“勇気ある行動”を想起すれば、読者の皆さんもすぐ理解できるであろう。

 「自らの生命の尊重」の教育は、しばしば「卑怯」や「卑劣」を正当化して「勇気という美徳を否定してしまうから、「勇気」と不可分の職業である警察官/消防士/軍人などになってはならない、という反道徳の教育となる。

 自他の生命を区別しない生命の尊重」や「人間の生命は地球よりも重い(➡福田赳夫〈=福田康夫の父〉は、1977年ダッカ事件でテロリスト6名を釈放し、六百万ドルを犯人に渡した)」などの単細胞的かつ包括的な似非道徳・似非美徳」は、「真の道徳・美徳」を破壊する「反道徳ウィルス」であり、「魔語」である。

 このことは、「反核平和運動」・「憲法九条死守」・「非武装中立論」という概念にも簡単に応用できる。ここでは説明を省くが、これらの「魔語」が如何に「似非平和」であるかは、読者の皆さん自身で考えて頂きたい。

 ちなみに、日本の「市民」や「市民団体」や「地球市民」が「反核」や「核廃絶」を叫ぶ時、その「相手国」はいつもどこだろうか。彼らが、すぐお隣の「中国」や「ロシア(旧ソ連)」の百発から数千発の日本に向けられた核兵器に向かって、それらの「言葉」を叫んでいるのを見たこと、聞いたことがあるだろうか。それだけでも、彼らの「思想本籍」が分るであろう。

 話を東洋の故事に戻す。

 「命は義(ぎ)に縁(よ)りて軽(かろ)(=大切な命も道義のためなら軽んじても惜しくは無い)」(『後漢書』)

 「死は或(あるい)は泰山(たいざん)より重く或(あるい)は鴻毛(こうもう)より軽(かろ)(=人は場合によっては潔く死ぬべきときと、また逆に命を大切に守らねばならないときとがある)」(『司馬遷』)

 『論語』『後漢書』『司馬遷』を重ねると、普段は泰山より重い(=軽んじてはいけない)自分の生命を軽んずべき時とは、「道義や正義に基づいて行動せねばならない時」と言えるであろう。

 読者の皆さんが、「生命」と「道徳・美徳」の関係をこの辺りまで理解した上で、鳩山由紀夫の「施政方針演説」に戻ってみると、

 「いのちを、守りたい。いのちを守りたいと、願うのです。生まれくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい。」

 「世界のいのちを守りたい」

 「地球のいのちを守りたい」

 が如何に空疎で無責任かがわかるであろう。

 つまり、この場合「いのち」を守る主体は、鳩山由紀夫及びその政権(日本国政府)であるが、これらの言葉には「自己犠牲の責任感や道徳感など微塵も存在しない

 しかも、「(自分の命を犠牲にしてでも)守らなければならない」という義務感・責任感ではなく「守りたい」という単なる「願望・希望」である。

 だから、世界各国の指導者の誰一人として、自分(=自国)の生命を犠牲にしても「世界のいのち」や「地球のいのち」などを守ることができるという義務感や責任感を持てないから、このような軽率な発言はできないし絶対にしない

 鳩山由紀夫は「いのち」の価値や「いのち」守るには「自己犠牲」の精神という道徳・美徳が不可欠であるということが、全く解っていないし解ろうとする気もないようである。だから、幼児の童話の世界レベルの世界のいのち地球のいのちを守りたい」などという、無責任極まる妄言・狂言が平気で吐けるのである。

 このことは、鳩山由紀夫とは、疑いなく「精神的欠陥者」かつ「狂気の無責任人間」であることの証左であり、一国の総理どころか、国会議員としての資質にも、正常な人間としての資質にも欠ける人間である。少なくともこの演説を聞いた全世界の正常な人間はみな、そう感じたはずである。

 このような人間が一国の総理であるのは、日本国・日本国民の「恥」であり、話になっていない。日本国民は一刻も早く総理大臣及び現内閣を交代させるべきである。

 () 施政方針演説のキーワードガンジーの七つの大罪について

 私は、マハトマ・ガンジーについては、その名前と「非暴力・不服従」思想でインドを英国から解放した人物であることは良く知っていたが、さして興味ある人物でもないので、あまり深く探求したことはなかった。

 ただ、間違いなく一つ言えることは、「非暴力・不服従」思想でインドが英国の植民地支配から解放されたのは、支配国が立憲君主国の騎士道の国・英国であったという幸運があったからであって、それがなければインドの独立が成功していたとは限らない。

 なぜなら、エドマンド・バークの「フォックスのインド法案についての演説」(178312月1日)を読めばわかる。

 この英国下院での演説でエドマンド・バークはすでに、英国政府のインド統治における悪政状況を厳しく批判し英国民の名誉にかかわる問題として改善するよう強く要求しているのである18世紀後半には、英国本土の議会ですでにインド統治のあり方の是非について議論されていたのである(英国からのインド独立は1947815日)。

 バーク曰く

 「今や、これまで三年間にわたる議会の必至の探求が、そして過去二十年間に及ぶ我慢強いインド民衆の苦痛が、はたしてわれわれの東洋(=インドでの行政の実質的な改革を生みだし得るのか。それとも、われわれはこの(インド民衆の)苦痛を知ったことでかえってそれ(=インドでの行政)の矯正への熱意を減退させてしまったのか。そしてこの(インドでの)悪政へのわれわれの究明そのものが、人道愛=道徳や正義や正しい政策のあらゆる原則が求めるところの救済策をわれわれに回避させる口実にすぎなかったのかが決定されよう。疑いもなくこの事実(インドでの悪政に救済策を附与することができるかどうかわれわれ英国民の名声にとって大切な問題である。それ(=その行方)は、英国民全体にとって途方もない不名誉を生むか、それとも偉大な栄光を得るかのいずれかになるであろう。・・・全世界がわれわれの挙動に注目している」(『バーク政治経済論集』、法政大学出版局、2000年、458頁)

 もしも、インド統治がナチス・ドイツ共産ソ連などの無道徳国家の支配下にあったならば、ガンジーが「非暴力・不服従」思想でインドを解放できたとは到底思えない。が、この「七つの大罪」思想については、私も勉強不足であったと率直に反省している。

 ところで、「ガンジーの七つの大罪」とは、「20世紀資本主義7つの大罪」と言われているらしい。そこで、バーク保守主義者の私は、次のように思考する。

 「20世紀の資本主義否定して誕生したのが、マルクス主義共産主義)であり、共産革命を実行したのがソ連である」

 「20世紀の資本主義否定部分七つにまとめたのがガンジーの七つの大罪である」

 それならば、この「七つの大罪」と「マルクス主義およびソ連共産党の独裁政治」は重なる部分が多いのではないか?ということである。

 施政方針演説鳩山由紀夫は言う、

 『慰霊碑には、ガンジー師が、八十数年前に記した「七つの社会的大罪」が刻まれています。「理念(⇒正確には原則なき政治」「労働なき富」「良心なき快楽」「人格なき教育」「道徳なき商業」「人間性なき科学」、そして「犠牲なき宗教」です。まさに今の日本と世界が抱える諸問題を鋭く言い当てているのではないでしょうか

 ということで、ガンジーの七つの大罪」とマルクス/エンゲルスの共産党宣言・共産主義の諸原理』を対照してみると、

 ガンジーの「①原則なき政治

 ⇔共産党宣言ソ連の法律・道徳・宗教の否定。プロレタリアートによる暴力革命共産党の一党独裁自国民6,600万人の殺戮

 ガンジーの「②道徳なき商業

 ⇔共産党宣言・ソ連の法律・道徳・宗教の否定。ブルジョア的な人格・自立・自由の廃止無道徳の構図に尽きる」

 ガンジーの「③労働なき富

 ⇔共産党宣言では、「③労働なき富」は=ブルジョアによるプロレタリアからの搾取であるとし、暴力革命によるプロレタリア政権樹立を目指し、私的所有を廃止して階級なき社会を理想としたが、ソ連の実態は、「共産党員のみの超優遇=③労働なき富」と一般国民の強制収容所における「富みなき極貧の労働」「富なき労働の平等的強制」であった。

 ガンジーの「④人格なき教育

 ⇔共産党宣言・ソ連の「すべての児童の公共無料教育」=「すべての児童を彼らが母親の最初の世話からはなれうるようになった瞬間から親元から引き離し国民の施設で共産主義洗脳教育すること

 ガンジーの「⑤人間性なき科学

 ⇔ソ連の自国民を餓死させてまでの軍事拡大・原水爆の開発

 ガンジーの「⑥良心なき快楽

 ⇔共産党宣言・ソ連の家族の廃止解体と女性の共有制輪姦制

 ここで、一言。福島瑞穂夫婦別姓イデオロギーは、エンゲルスとレーニンの「事実婚主義」を基礎としている。エンゲルスの「事実婚主義」とは、「愛情が続く婚姻だけが共産主義的に妥当である」とするもので、日本の反日左翼の家族解体論の教理である

 福島瑞穂のレーニン主義の狂信ぶりは異常である。

 福島瑞穂は言う、

 「ロシア革命の後・・・一次的であれ(レーニンが家族を法律で完全に廃止して)事実婚主義がはっきり採用されたことは素晴らしいことだと思う」(『結婚と家族』、岩波新書、178頁)

 このレーニンの家族解体法は、あのスターリンですら悪法と見做して1936年に廃止した。上記の事実において、福島瑞穂とは完全な精神疾患者であり、それを「選択的」と玉虫色にして日本に「選択的夫婦別姓制度」を再現しようとしている。この法律は、「夫婦別姓」のみでなく必然的に「親子別姓」となる。子供にとって両親の姓が異なることほど迷惑千万なことは無い。なぜわざわざ、このような制度を日本国に導入する必要性があるのか。親子(家族)関係が悪化することはあっても、改善することは万が一にもない悪法である。「永住外国人参政権付与法案」と同列の次元で、日本国民はこの法案の立法を阻止する必要があろう。

 なお、レーニンの事実婚主義の下での実体は次のとおり。

 () 少年によるレイプと窃盗略奪の大増加

 () 「もてる男性による手当たり次第の女性の妊娠の激増

 () 堕胎の大増加と出生率の大低下

 ガンジーの「⑦犠牲なき宗教

 ⇔共産党宣言・ソ連の無神論無宗教信教の自由の否定)」

 私の思った通りの結果であった。

 これらの「七つの大罪」に対して、鳩山由紀夫は「まさに、今の日本と世界が抱える諸問題を、鋭く言い当てているのではないでしょうか」と言うが全くの事実誤認である。

 これらの諸問題は、左翼主義者が蔓延している日本国のみに極端な悪性と腐敗性をもって顕在化している問題であって、全世界の国々が日本と同レベルの悪性と腐敗性で抱えている問題ではない。

 鳩山由紀夫には、次のような正確な表現に修正してもらいたい。

 「まさに、ガンジーは、21世紀の全世界の資本主義国の中で、今日の〈日本国のみが抱える悪性で腐敗的な〈日本国の社会主義化・共産主義化・アナーキズム化の現象〉を、鋭く言い当てているのではないでしょうか」と。

 () 施政方針演説のキーワード共同体」「市民地球市民)」「NPO」「新しい公共について

 これらの用語は、常にそうであるわけではないが、共産主義社会主義などの反日反国家主義の意味で用いられることが多いので注意を要する。

 「共同体」「コミューン」「コミュニティー」は、マルクスらが使用する危険な共産主義用語であることが多い。ルソーも契約社会のことを「共同体」と呼んでいる。決して「国家」と言わない。

 例えば、「コミューン型共同体での子育て」とは、上記で示した通り「すべての児童を彼らが母親の最初の世話からはなれうるようになった瞬間から親元から引き離し共産主義者の指導する共同体施設で洗脳教育すること」を意味する。保守主義者は、「国家」「地方自治体」「組織」「中間組織」などの用語を使用する。

 日本で用いられる「市民」「地球市民」とは、国家から独立して自分たちの「コミュニティー」「共同体」を作ろうと運動する人々のことを指す。

 欧米では、「市民citizen)」は国民と言う意味がすでに内包されている。だから、欧米の「citizen」は「(○○国民としての××)市民」と訳すのが正しいであろう。米国では、米国籍のことを「citizenship」としている(米国はUnited Statesであるから、国籍(nationality)を使用できないためである)。

 だから、法律権利歴史慣習言語風土宗教などの一切が異なる国際社会という現実社会で「国家」から独立した市民」や「世界市民などを名乗るのは空想・妄想の類である。「市民団体」や「世界市民」を名乗る人間は、マルクス・レーニン主義の「共産主義の世界輸出の幇助人のことと思って概ね間違いはないであろう。保守主義者は、日本国民国民を使用する。

 このような、「市民」や「市民からなるNPO」のような共産主義イデオロギーに傾いた人間に、教育や子育て、街づくり、介護や福祉を任せるという「新しい公共とは単なる日本共産化の幇助である極めて危険な発想である

 最後にもう一度断っておくが、私は、すべての「共同体」「市民(地球市民)」「NPO」が共産主義関係の者であると言っているのではない。

 そういった名を語る者には、共産主義イデオロギーを持つ個人や団体が多いという事実と、「その団体がどのような政治的イデオロギーを持っているのか」を国民が判断できないような民間団体に教育や子育て街づくり介護や福祉を無批判的に任せるは非常に危険ではないか、と言っているのである。

 だから、私は、「教育や子育て街づくり介護や福祉」は国家や地方自治体などのに任せる方が国民にとっても安全・安心であるし正しい政策の方向なのではないか、と言っているのである

 「新しい公共」という名の下の「共同体」と旧来の公的機関である「」とを比較して、自分の子供の教育や子育てを委ねたり、自分の介護を委ねたりするとすれば、どちらが安全で安心ですか、と問うているのである。


 鳩山由紀夫首相 「施政方針演説」のバーク保守主義(哲学)による徹底検証(その2)へ続く


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